朝鮮初期に編纂された『世宗実録』「地理志」、『高麗史』「地理志」、『新増東国與地勝覧』江原道もしくは蔚珍県条には、鬱陵島と独島の地誌を載せている。これは、朝鮮王朝や高麗王朝の鬱陵島や独島に対する領有意志を示すものであり、非常に注目されている。しかし、内容上、少しずつ差は見られ、解釈上の混乱を生じさせる。
このため、日本は『世宗実録』「地理志」の記事に「新羅時代は于山国と呼ばれた。鬱陵島ともいう 」という一節があり、『新増東国與地勝覧』に「一説に于山と鬱陵は本来一つの島 」という一節があることから、二島説を否定してきた。これに対して韓国は「これは前者(『世宗実録』「地理志」)は新羅時代からの于山国を指したもので于山島(輿地志 に于山島を于山国の一部と表示)を指すのではない。また、後者(『新増東国與地勝覧』)は、漠然とした 「一説」に過ぎない。したがって、この引用文は『世宗実録』「地理志」と『新増東国與地勝覧』が編纂された当時、二島異名と確認された事実に決して影響を及ばない」と反論した。そうすると日本は 「韓国側のように一つの文献の一節のみをとり、思い通りに解釈するのは適切ではない。この問題を正しく理解するためには、前述の二つの文献だけでなく、于山島と鬱陵島について記述した同じ種類の古文献を広く比較対照し、その間の推移を検討する必要がある」と反論した。また日本は、韓国が『新増東国與地勝覧』や『増補文献備考』などのように二島説をとりながらも、一島異名の疑問を残しており、二島説をとっていても全文が鬱陵島についての説明に一貫し、于山島についてはいかなる具体的な説明もしていない点を指摘している。
このような日本の観点は川上健三によってそのまま示されている。川上健三 『竹島の歴史地理学的研究』は独島問題が日韓両国間の懸案として浮上して以来、最初に刊行された独島に関する本格的な研究書である。この本は、膨大な資料と史料を緻密に分析しており、一見、歴史的観点から見た独島の地位に関して説得力のある叙述を展開しているようにみえる。そして、独島の領有権に関する日本側の法的主張は、その事実的論拠をこの本に大きく依存している。また、この本が刊行されてから30年後の1996年に復刻版として再出版された事実は、この本が独島をめぐる歴史的事実について日本の学者、官僚や一般人の認識を形成するのにも大きな影響を及ぼしていることを暗示している。川上健三は『世宗実録』「地理志」、『新増東国與地勝覧』、『高麗史』「地理志」、『三国史記』などの記録を比較分析し、于山島は独島ではなく鬱陵島の別名で、単に国名に于山、島名に鬱陵または武陵と記しただけであるとしている。彼が鬱陵島と独島が本来は一つの島であるという主張の根拠としている韓国側の古文献は『高麗史』「地理志」である。彼は、鬱陵島と于山島が異なる二つの島として記述されている『世宗実録』「地理志」、『新増東国與地勝覧』は、 『高麗史』「地理志」の記述を分解して順序を変えたもので、 『高麗史』「地理志」では、注記に過ぎなかった 「二島説」を本文に移したものだとしている。しかし、鬱陵島と独島に関する三文献の成立順序をそのように見ることは明らかに事実に反している。そして、中村栄孝、田村清三郞、植田捷雄、太寿堂鼎も同様の記録を引用しながら、地理的知識の不足に起因する一島二名の記録に過ぎないとしており、さらに下條正男は「二つの島が互いに距離が遠くない」という解釈について「二つの島が本土から遠くない」と解釈すべきだと主張している。彼は 『慶尚道地理志』と『慶尚道続撰地理志』の規式に基づいてみると「相去不遠」は本土からの距離を表現しているとみなすべきだと主張した。下條正男は、この内容をより具体化して「相去不遠」が本土からの距離であることを示すために『慶尚道地理志』の晉州牧興善島「陸地相去 水路十里 人民來往耕作」の例を挙げ、『世宗実録』「地理志」では「陸地相去」を削除して記録されたと強弁した。
これに対してキム・ビョンリョルは、当時の地理誌を編纂する際の規式は、該当の島が本土から遠くないときは本土からの位置や距離を記したが、距離が遠い場合や主島に所属する属島である場合には主島との関係を記しており、例えば珍島に付属する茅島は「珍島の南にある」と記し、楸子島に付属する淸路島は 「楸子島南にある」と記していることを挙げて反論した。しかし、『世宗実録』「地理志」で島と本土との距離を表現するときは下條がいう形式だけではないということは、先にキム・ビョンリョルが指摘していた。『世宗実録』「地理志」の京畿道水原都護府所属南陽都護府に関する記事では島との距離を表現しているが、本土との距離ではない事例が多数みられる。仙甘彌島は 「花之梁西水路十里」、大部島は「花之島の西二里」、小牛島は 「大部島の西五里」、靈興島は「小牛島の西七里」、召忽島は 「靈興島の西三十里」 、徳積島は「召忽島の南六十里 」、牛音島は「府の北水路三里 」などと表示していた。つまり、『世宗実録』「地理志」の島に対する距離表示は、本土からの距離だけを表示したものではないことは明らかである。
また、『世宗実録』「地理志」の表現に影響を与えた『高麗史』「地理志」蔚珍県の内容は蔚珍県と二つの島の関係を表現したものではなく、鬱陵島に関する説明の最後に一つの説として、于山と武陵、二つの島だけの関係を叙述したものである。そして、『高麗史』「地理志」は、本土と島の間の距離を収録していなかった。ただ、蔚珍県の鬱陵島記事の最後に于山武陵が二つの島であることを説明し、二つの島の間の距離に言及している。
したがって、「二島相去不遠」は、 「二島は互いに距離が遠くない」と解釈するのが正しい。「二島が互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができる」という内容は、鬱陵島と于山島の地理的関係を明瞭に説明しているので 「于山島=独島」という事実を明らかにする重要な証拠となる。日本側で歴史的事実を歪曲するために様々な試みをしているが、関連する歴史的事実まで変えることはできないということを改めて確認することができる。しかし、川上は「本一島説」の主張と共にこれに関連する文献解析によって、独島を島として認識できる可視距離圏の問題を提起している。韓国で『世宗実録』「地理志」の「 二島相去不遠」、『高麗史』「地理志」の「二島相距不遠」などの一節を鬱陵島から独島が見えると解釈するのに対して、日本はこれを否定して本土から鬱陵島が見えると解釈している。特に川上は、D=2.09( H+ h )という公式まで動員し、鬱陵島は海抜200m以上登らない場合、独島を見ることができないが、200m以上を登っても、当時は密林におおわれて独島を見ることができなかったと主張している。しかし、川上は上記の式によって、少なくとも鬱陵島の標高130m地点からは独島の頂上を見ることができ、約200mの地点からは、独島を島として認識できることを認めている。さらに、川上は独島の西島の最高峰の157mとして計算しているが、実際の西島の高さは168.5mであるため、鬱陵島の約120mの高さの地点からは十分に独島の頂上を見ることができる。また、鬱陵島の海抜約284mの地点からは独島の海抜50m以上の部分を面として視覚的に認識することができ、海抜200mの地点から見ると、独島の約96m以上の部分が見られ、少なくとも独島の西島頂上部が三角形に見えるようになる。 これらの厳然とした事実にもかかわらず、鬱陵島から独島を認識することができなかったと主張するために彼が掲げている論拠は「昔は鬱陵島は密林におおわれていたので高所に登ること自体が非常に困難であったと考えられ、たとえ高所に登ることができたとしても、独島が見られるような視界が開けていたか疑問である」ということである。しかし、これらの論拠は、漠然とした推測に過ぎない。推測としてはむしろ 「鬱陵島がどんなにうっそうとした密林地帯であったとしても、120m程度の高地に登るくらいは不可能ではなかったとみる」方が蓋然性が高い。川上が朝鮮初期の地理誌の比較から 『世宗実録』「地理志」内容の事実性を否定しようとした試みは、下條の主張につながる。しかし、下條は韓国政府が『新増東国與地勝覧』の内容中「はっきり見える」という内容を掲げ、鬱陵島から独島がはっきり見えると主張したとしている。しかし、実際には『世宗実録』「地理志」の内容を引用し、『新増東国與地勝覧』の場合は于山島と鬱陵島の地名だけに言及した。また、下條は朝鮮時代の安龍福事件の時に領議政南九萬が本土から鬱陵島がよく見えるという意味で、『新増東国與地勝覧』の内容を引用して 「はっきり見える」としていたことを韓国政府が鬱陵島と独島の間の関係を説明する際にも引用していると錯覚している。
『新増東国與地勝覧』の記録と『世宗実録』「地理志」の記録は、似ているようにみえるが、内容には大きな違いがある。
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時に武陵、あるいは芋陵とも呼ばれている。二島は県の真東の海中に在る。三つの峰が真直ぐに伸びて空を支え、南の峰はやや低い。天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の海岸を歴々見ることができる。風が良ければ二日で到達できる。一説に于山と鬱陵は本来一つの島で百里四方ある。
この資料に示された于山島と鬱陵島の記事は、 主に鬱陵島の説明をしている。これは以前の 『世宗実録』「地理志」が二つの島の関係を強調したものとは異なっている。同じような表現のため、内容も『世宗実録』「地理志」を拡大し、敷延したような印象を与える。しかし、内容をよくみると、鬱陵島から見た于山島というよりは、本土から見た鬱陵島の様子を叙述しているものと理解すべきである。「山頂の樹木及び山麓の海岸を歴々見ることができる」としたのは、現在樹木のない独島の姿と比較すると、鬱陵島を指していることがわかる。
次に「風が良ければ二日で到達できる」という表現も 『三国遺事』の蔚珍から鬱陵島に行く距離を表現した『便風二日程』と同じ意味として見ると、鬱陵島から独島への距離の表現とみるのは難しい。そして、鬱陵島と独島の間の距離はだいたい1日程であるので、実際にも当てはまらない。したがって、鬱陵島と独島の間の距離関係に対する敷延説明とみるのは難しい。『世宗実録』「地理志」の「二島想去不遠」や『高麗史』「地理志」「本二島想去不遠」と比較して、「風便則 二日可到」の表現は本土と鬱陵島の間の距離であるか、鬱陵島と独島の間の距離であるかははっきりせず、『三国遺事』に基づいて本土と鬱陵島の間の距離と解釈するのが正しいと考えられる。このように『新増東国與地勝覧』の鬱陵島と独島に関する記録は鬱陵島と独島の関係を表現しているというよりは鬱陵島の内容を表現したものと考えられる。また、この記録にある「歴々と見ることができる」という文章は、三つの峰を含む「ある島」が、天気がよければ「ある地点 」から歴々と見ることができるということを言っている。しかし、ここでいう「ある地点」は島ではなく本土と考えるのが自然である。その後で「二日で到達できる」としたことからみても、本土のある地点を基準に言っているからである。また、この場合の「ある島」は、本土から近い島と推定される。これは『世宗実録』に 「新羅時稱于山國一云鬱陵島地方百里:新羅時代には于山国と呼ばれたが、鬱陵島とも呼ばれ、土地の周囲は四方百里である」としたことから推測すると、于山島というよりは本土に近い鬱陵島のことと思われる。土地は四方百里とした状況からみても、三つの峰を持った島は鬱陵島以外にないからである。したがって 『新増東国與地勝覧』に「歴々と見ることができる」とした意味は、本土から鬱陵島の樹木が歴々と見ることができるという意味で、鬱陵島から于山島の樹木が歴々と見ることができるという意味ではない。「風便則二日可到:風が良ければ二日で到達できる」としたのも、鬱陵島を基準にしている。つまり、本土から鬱陵島まで到達するのに風が良ければ二日あればよいということである。このように『新増東国與地勝覧』の于山島と鬱陵島の記事は、 主に鬱陵島の説明をしている。これは以前の 『世宗実録』「地理志」が二つの島の関係を強調したものとは異なっている。同じような表現(于山島·鬱陵島、二島在縣正東海中, 風日清明、そして歷歷可見)のため、内容も 『世宗実録』「地理志」を拡大し、敷延したような印象を与える。しかし、内容をよくみると、鬱陵島から見た于山島というよりは、本土から見た鬱陵島の様子を叙述しているのである。
- [註 013]
- ユ·ミリム(2008)、」「「于山島=独島」説を証明するための論考 」、『韓国政治外交史論叢 』29-2、75 〜76頁。
- [註 014]
- 川上健三(1966), 『竹島の歴史地理学的研究』, 東京 : 古今書院。
- [註 015]
- パク・ベグン(2001)、「『竹島の歴史地理学的研究』に対する批判的検討』、『法学研究』42-1、122〜123頁。
- [註 016]
- パク・ベグン(2001)、前掲文、131〜132頁。
- [註 017]
- キム・ビョンリョル(2002)、「独島領有権に対する日本側の主張整理」、『独島領有権研究論集』、209頁参照。
- [註 018]
- キム・ビョンリョル(1996)、『独島か竹島か』、タダメディア、339〜340頁参照。
- [註 019]
- ペク·インギ、シム・ムンボ(2006)、前掲書、44〜47頁。
- [註 020]
- D: 視達距離、H:物体の海面上の高さ、h:目の高さ
- [註 021]
- 川上健三(1966)、前掲書、281〜282頁。
- [註 022]
- パク・ベグン、前掲文、133頁。
- [註 023]
- パク・ベグン(2001)、前掲文、133〜134頁
- [註 024]
- 『新增東國輿地勝覽』 巻 45, 蔚珍県条: “于山島·鬱陵島:一云武陵 一云羽陵 二島在縣 正東海中 三峰岌嶪撑空 南峰稍卑 風日清明 則峰頭樹木及山根沙渚 歷歷可見 風便則二 日可到 一說于山·鬱陵本一島 地方百里.”
- [註 025]
- ペク·インギ、シム・ムンボ(2006)、前掲書、48〜52頁
- [註 026]
- ユ·ミリム(2008)、前掲文、78〜79頁。