渤海は中国の地方政権かそれとも独立国か
- ▶ 渤海国王が唐から冊封を受けていたのだから渤海は唐の地方政権である。
- ▶ 渤海は冊封とは関わりなく王位の継承が行われた独立国である。
中国の学者らは、唐が渤海に忽汗州を置き、渤海国王を渤海郡王忽汗州都督に冊封したことを挙げて、渤海が唐に隷属していた地方政権であったとする。
渤海の国王が唐の冊封を受けたという事実は、渤海が唐の地方政権であることを立証する根拠とはなり得ない。渤海と同じく新羅や日本も唐の冊封を受け、使節を派遣して朝貢していた。中国の学会の論理によれば、新羅や日本も唐の地方政権であったと見なければならない。しかし、中国の学者らはこの件については口を閉ざしている。事実かどうかは別にして、論理的に矛盾があるということを認知しているためである。
渤海は国王のことを「皇上」と呼び、独自の年号を使用してその帝国ぶりを内外に示す独立国であった。また、唐に留学した渤海人は賓貢科(外国人のための科挙試験)を受けることができた。
徐熙と柳得恭
993年(高麗成宗12)に契丹の蕭遜寧が高麗に侵入するや、高麗の内史侍郎である徐熙が談判を通して逆に江東6州を取り戻す外交的成果を挙げた。その際、蕭遜寧は契丹が高句麗の旧跡を占領しているとし、高麗がその地の一部を占拠していると抗議した。これに対して徐熙は、国号を高麗として平壌に都を置いたという事実こそ高麗が高句麗を継承したという事実を立証していると反駁した。
柳得恭はその代表的な歴史書である『渤海考』において、百済が滅亡して高句麗も滅ぶや、新羅が南方を領有してその北方を渤海が領有したのだから、まさに南北国であるとした。したがって南北国史があってしかるべきなのに高麗がこれを編纂しないのは誤りであると指摘し、大氏(大祚栄)は高句麗人であり、その領有するところの土地は高句麗の地であるとして、渤海が高句麗を継承したことを強調した。