• 東海の中の独島
  • 争点からみた独島
  • 独島、鬱陵島からは見える
本土と鬱陵島との関係を明確に理解することが重要である。独島に対する認識と利用は、鬱陵島の継続的な管理及び利用と不可分の関係にあるからである。鬱陵島に対する距離関係の表現は、鬱陵島に対する認識の結果であり、この認識は鬱陵島に対する利用を促進し、鬱陵島に関する具体的な知識の蓄積を誘発する。
本土から鬱陵島が見えるという事実は、本土と鬱陵島の密接な関係形成の契機となる。新羅智証王13年(512)に于山国を征伐することになったことも、鬱陵島と本土が「目に見えるほど 」近いため可能なことであった。本土と鬱陵島の間の関係形成は、本土から鬱陵島が見えるとともに鬱陵島から本土を見ることができるため、異斯夫が于山国を服属するはるか以前まで遡る必要がある。
鬱陵島までの距離の最も古い記録は、高麗時代の1281年から1283年に書かれたと推定される『三国遺事』の于山国征伐の記事に「 便風二日程」としたものである。朝鮮時代に入ると、鬱陵島との往来が頻繁になり、鬱陵島までかかる時間がより細かく出てくる。『世宗実録』世宗20年(1438)7月15日の記事に護軍南薈と司直曹敏が武陵島から戻って捕らえた男女66人と各種産物を献上し、狀啓に「船を出発して一日と一晩かかって到着(發船一日一夜乃至)」とし、一日半ほどかかることを説明している。『世宗実録』世祖13年(1457) 4月16日の記事に柳守剛が鬱陵島に邑を置くことを建議する文で鬱陵島までの距離を詳細に分けて説明している。「西風がすぐに吹いてくれれば約20時間で到達でき、微風で艪を漕ぐと一昼一夜かかり、風がなく艪を漕いでも二日一夜で到着できる(西風直吹 則丑時發船亥時到泊, 風 微用櫓 一晝一夜可到, 無風用櫓 亦二日一夜可到)」とした。
〈図 3〉李瀷(1681~1763)の『星湖僿說』は弟子たちの質問に答えた短編的なものを集めたもので、韓国の古代から朝鮮時代までの政治・社会・経済・地理・風俗・言語・歴史に関する史実と著者の見解が記録されている。
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李瀷の『星湖僿說』(1740) 「鬱陵島」には 「鬱陵島は東海の中にあり、于山国とも呼ばれている。本土からの距離が七百里乃至八百里ほどあり、江陵・三陟など高いところに上がって見ると、三つの峰がかすかに見える…… 」とされている。
李奎遠の 『鬱陵島検察日記』でも5月17日(新暦1882年7月2日) の記録に 「ここ(召公臺)に上がって遠くに鬱陵島を眺めるとまさにこの山並の一部だ」とした。初夏でも天気がよければ、召公臺から鬱陵島が見えたことを示している。
独島の争点は、独島の認識と利用が地理的な位置関係によって決定されるという点で、鬱陵島と独島の距離関係を明確に理解することが重要である。鬱陵島と独島までの距離を記録したものは多くない。それでも、鬱陵島と独島の間の距離に関する記録が残っているということは、独島を実際に認識していた重要な証拠となる。
世宗〜成宗代(1418~1494)は朝鮮王朝の統治体制が一旦完成した時期であった。そして、これに関連して全国的な地理誌が編纂され、前王朝(高麗)の歴史も整理された。『世宗実録』「地理志」[1432(世宗 14)] [註 027]·『八道地理志』[1477(成宗 8)]·『東國文獻備考 』[1486(成宗 17 撰進), 1499(燕山君 5 校正)]と 『高麗史』[1451(文宗 1)]。『高麗史節要 』[1452(文宗 2)] などがそれである。これらの官撰地理書や史書には、現在まで伝わっていない 『八道地理志』や編年体である『高麗史節要 』を別にした場合、すべて鬱陵島と独島の地誌を載せている。つまり、『世宗実録』「地理志」と『東国輿地勝覧』を増補した 『新増東国輿地勝覧』 [1530(中宗25)]は、江原道蔚珍県条で、『高麗史』「地理志」は東界蔚珍県条で、それぞれこれを扱っているのである。これらの官撰地理書や史書に鬱陵島や独島に関する地誌を載せているということは、朝鮮王朝や高麗王朝の領有であったことを闡明するものであり、現在、日韓両国間の懸案となっている独島領有権問題を判断するためにも非常に重要な意味を持つ。
しかし、三つの地理誌の鬱陵島・独島についての記事は、内容上、少しずつ差があり、解釈上の混乱を招いている。ここで、三つの地理誌の鬱陵島·独島についての記事をまとめると、次のとおりである。
① 『世宗実録』「地理志」
于山・武陵二島は県の真東の海の中にある。二島は互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができる。
② 『高麗史』「地理志」
鬱陵島がある。県の真東の海の中にある。新羅時代は于山国と称した。あるいは武陵、あるいは羽陵という。四方が百里である。 …あるいは于山と武陵は本来二つの島である。互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができるという。
③ 『新増東国與地勝覧』
于山島・鬱陵島。あるいは武陵、あるいは羽山とも呼ばれている。二つの島は、県の真東の海の中にある。 …一説では于山鬱陵は、一つの島だという。
 
つまり、『世宗実録』「地理志」では于山・武陵二島が蔚珍県の真東の海の中にあるとし、続いて、互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができると付け加えている。しかし、『高麗史』「地理志」には蔚珍県の真東の海の中に鬱陵島があるとし、続いて于山·武陵は二島で互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができると付け加えている。また『新増東国與地勝覧』では于山島・鬱陵島が蔚珍県の真東の海の中にあるとし、続いて一説には二島は本来一つの島だと付け加えている。
つまり、編纂年代が一番先の 『世宗実録』「地理志」では、于山・武陵二島の存在を確認しているのに対し、これより編纂年代が約20年遅い『高麗史』「地理志」では鬱陵一島を掲げながらも于山・武陵二島説を付け加えており、『東国與地勝覧』の記事をそのまま転載した『新増東国與地勝覧』は于山・武陵二島を掲げながらも一島説を付け加えているのである。
ここでまず提起される疑問は、『世宗実録』「地理志」で于山・武陵二島の存在を認識していながら、なぜ『高麗史』「地理志」は鬱陵一島を掲げながらも二島説を付け加えるところまで後退するのかということである。しかし、この疑問は『高麗史』「地理志」が高麗時代の地理に限って叙述している点を勘案すれば容易に解明することができ、鬱陵島と共に于山島があるという説もある高麗時代の于山島に対する知見を反映しているといえる。
このようにみると、鬱陵島・独島に関する三つの地理誌の記事はそれなりに大きな無理なしにつながるわけである。つまり、『高麗史』「地理志」で鬱陵一島説を掲げながらも、于山·武陵二島説を付け加えたところ、『世宗実録』「地理志」の于山・武陵二島説に発展し、『新増東国與地勝覧』は 『世宗実録』「地理志」の于山・武陵二島説を継承しながらも一島説を付け加えるところまで後退しているのである。
1454年に編纂された 『世宗実録』「地理志」江原道蔚珍県条で「 于山・武陵二島は県の真東の海の中にある」とし、その注記で 「二島は互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができる」としたのはまさに二島に対する朝鮮初期の認識を反映するものといえるだろう。編纂年代が遅いにもかかわらず、高麗後期の地理的知識を反映する 『高麗史』「地理志」についていた 「あるいは」という但し書きが、二島の地理的知見が拡大するにつれ『世宗実録』「地理志」に至って初めて削除されるに至ったのである。
蔚珍県の真東の海の中に于山・武陵二島があるという認識は世祖代までも続いている。前中枢院副使柳守剛の上書にあるような于山·武陵二島に村を置こうという建議[1457(世祖3)]は、このような認識に基づいて出てきたものといえるだろう。そして、このような認識は年代がそれほど離れていない成宗・燕山君の代までも続いたのだ。
しかし一方で15世紀初め以来、鬱陵島の刷還政策が継続的に実施されて住民を刷還し、彼らに対して「本国に反した罪 」を適用、処罰した結果、沿海民の往来はなくなり、于山島や武陵島は徐々に忘れられて行く島々となってしまった。そして、その代わりに東海に蓼島や三峰島という島があるという、つまりは独島と鬱陵島を指すものと見なすべき新島說が世宗・成宗代に特に永安道沿海民の間に出回るようになったのである。
『東国輿地勝覧』の于山島・鬱陵島の記録をそのまま移した 『新増東国與地勝覧』江原道蔚珍県条の「二つの島(于山島·鬱陵島)が蔚珍県の真東の海の中にある」として『世宗実録』「地理志」の記録を継承しながらも、その注記に「一説には于山・武陵は本来一つの島だという」と但し書きをつけているのもこのような事情を反映するものだろう。[註 028]特に、『世宗実録』「地理志」と 『高麗史』「地理志」では、鬱陵島と独島の距離を数値で説明せずに文章で表現していた。しかし、このような文章の表現は鬱陵島と独島の間の距離を簡潔ながらも非常に正確に示している。

① 風日靑明

『世宗実録』「地理志」と 『高麗史』「地理志」では、鬱陵島と独島の存在について記録しており、二つの島の存在を確認できる内容に「天気がよい日」見ることができる位置関係を記録している。
「于山と武陵二島は県の真東の海の中にある。
(二島は互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができる…)
 
「…一説では于山と武陵は本来二島である。二島は互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができる」とある。
 
『高麗史』「地理志」では二つの島の存在を一つの説としているのに対し、『世宗実録』「地理志」では二つの島の存在を事実として記録している。
今日、鬱陵島から独島を見ることができる日はただ晴れた日ではなく、 「独島付近に海霧がない晴れた日」である。鬱陵島周辺の島のうち、晴れた日にのみ見られるという条件を満たしている島は独島しかない。鬱陵島周辺の島のうち観音島は鬱陵島との距離が100mにも満たず、竹嶼は約2km離れている。つまり、鬱陵島の周囲の島々は、海霧が非常に濃く深い日を除き、1年中ほとんど見ることができる。しかし、独島は「独島の周りに海霧がない晴れた日」にのみ見えるくらい離れている。

②二島相去不遠

「二島は互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができる」というのは、鬱陵島と独島の地理的関係を最も簡潔かつ明確に示している。目で見ることができる場所であって、近い所ではないが、かといって遠い場所でもない。鬱陵島と独島が視覚的に一つの空間として把握されるため、遠くないのである。「二島相去不遠 風日清明 則可望見」の条件を満たしている島は鬱陵島と独島しかない。したがって、これは独島に対する具体的な地理的知識に基づいて作成された記録であることがわかる。「二島は互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができる」という内容は、鬱陵島と于山島の地理的な関係を明瞭に説明しているので「于山島=独島」という事実を明らかにする重要な証拠である。[註 029]鬱陵島と独島の間の距離を数値で表示した最初の文献は、張漢相の 『蔚陵島事蹟』である。張漢相は天気がよければ見えるレベルから進み、さらに三百余里と距離を判断している。張漢相が鬱陵島の中峰に登ったことを記録した文は次のとおりである。
東に五里ほどに一つの小さな島があるが、高くも大きくもなく、女竹が一面に生えている。雨上がりの霧が晴れた日に山に入って中峰に登ると、南北両峰が高く相対しているが、これを三峰という。西を望めば大関嶺がうねうねとしているのが見え、東を望めば、海の中に一つの島が見えるが、遥か辰方に位置し、その大きさは蔚岛の三分の一未満で、距離は三百余里に過ぎない。[註 030]
 
〈図 4〉『鬱陵島事蹟』
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張漢相の記録の中で、独島に関連する部分は「西には大関嶺がうねうねとしているのが見え、東に海を見ると南東に島一つがかすかにあるが、大きさは鬱陵島の三分の一もなく、距離は三百余里に過ぎない 」とした部分である。
張漢相が言及している 「東南にかすかに見える島」がつまり鬱陵島から天気がよければ眺めることができる独島なのである。この事実について、日本は根拠が弱いとして否認し、これを独島ではなく竹嶼(大島)だと強弁してきたが、このような日本側の主張は、張漢相自身が 「鬱陵島東五里ほどのところにある小さな島」があると日本側が主張する竹嶼に直接言及している事実からすると、竹嶼でないことは明らかである。[註 031]張漢相は鬱陵島から見える独島を東南の 「かすかな」島として 「于山島」という言葉に直接言及しなかったが、張漢相と同時代の人物、朴世堂は、かすかな島がすなわち于山島だと次のようにはっきりと言及している。
「概ね二島がここからあまり遠くなく、一度大きな風が吹くと達することができる程度である。于山島は、地勢が低く海気があまり澄んでいない場合や、一番高い頂上に登らない場合は見えない。鬱陵が(于山島より)少し高い。 」[註 032]
 
この朴世堂の言及では、鬱陵島と于山島両島を呼称上も明確に区別しており、二つの島の距離と位置関係を明らかにして 「于山島は地勢が低く海気があまり澄んでいない場合や、一番高い頂上に登らない場合は見えない」とし、鬱陵島が少し高いところにあるので天気が非常によい場合や、高い所に登ってみると鬱陵島から于山島は厳として見えるという点を話しているといえる。
〈図 5〉観音島(左)と竹嶼(右)
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張漢相と朴世堂の記録は鬱陵島から独島が見えるという事実だけでなく、鬱陵島から「見えるその島」が竹嶼や観音島を指しているのではないという事実も証明している。朴世堂は、于山島は天気があまりよくない場合や、高いところに登らない場合は鬱陵島から見えないとした。このため、于山島は少なくとも鬱陵島の隣にある竹嶼ではない。竹嶼や観音島などの鬱陵島周辺の島嶼は鬱陵島と非常に近い距離にあるため、高いところに登らなくても、天気が少し曇っていても、容易に見ることができるからである。つまり、朴世堂の言う「 于山島」は、竹嶼や観音島よりも遠く離れている島でなければならず、それならば、これは現在の独島以外には存在しないのである。これにより、両国はこれまで張り合ってきた論争、つまり于山島が独島か否か、そして于山島即ち独島は鬱陵島から見えるか見えないかをめぐる議論は、韓国の主張が正しいものであると証明された。[註 033]朴世堂が于山島について具体的に言及しているという事実は、それ以前にすでに于山島に対する認知が確立されていたことを物語っている。韓国で于山島に対する認知が大昔からしっかりとされていたとするのは難しいが、少なくとも観念的二島説は朝鮮中期に入ってから具体化されたのである。文献で于山と鬱陵(武陵)が常に共に議論されてきたことだけ見ても、鬱陵島以外に于山島が存在するという認識があったことは間違いないが、具体的な記述がなかった。于山と鬱陵を一つの島として見る一節があったことは、于山島に対する具体的な知見が確立されていなかった事実を指しているだけで、于山島の存在を認識できずにいたことを指しているわけではない。しかし、朴世堂と張漢相の記録が発見されたことで、于山島に対する知見が朝鮮中期を過ぎて確立されてきたことがわかる。また、張漢相と朴世堂は二人とも粛宗の時代、いわゆる 「安龍福事件」を経験した人物である点から、これらの記録は経験的かつ事実的である。これらの記録によって、最終的に私たちは于山島が独島だという事実を証明できるようになった。天気がよいか、または高いところに登って行かなければならないという但し書きはあるが、とにかく 「見える」という事実は、韓国人が早くから独島を認知してきたことを証明するのに有利な証拠でもある。
このように、鬱陵島と独島の可視距離圏に関する記録を史料で確認した結果、これらの記録は鬱陵島と独島に対する実際的な知識を基礎としていることがわかった。鬱陵島と独島は視覚的に認知された一つの地理的空間を構成し、鬱陵島と独島は海流を介してつながっており、また、朝鮮後期の鬱陵島の積極的な利用によって、実質的な海洋生活圏を成した。[註 034]鬱陵島と独島を見ることができる地理的な位置と南海から鬱陵島に向かって流れる卓越した海流の存在は、鬱陵島の利用を促進するきっかけとなり、これをもとに形成された航海の経験と知識は、再び独島に対する認識と利用を促進する役割を果たしたのである。

 
[註 027]
『世宗実録』が撰進されたのは1454年(端宗2)であるが、同書地理志は、1430年(世宗12年)を基準年度として1432年(世宗14年)に編纂されたとしている。鄭杜熙(1976), 「朝鮮初期 地理志の編纂」, 『歴史学報』, 69~74頁参照。
[註 028]
ソン・ビョンギ(2004)、 『独島領有権資料選』、翰林大学校出版部、204〜208頁。
[註 029]
ペク·インギ、シム・ムンボ(2006)、前掲書、44〜47頁。
[註 030]
張漢相(1694)、『鬱陵島事蹟』: “東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽雨 馬捲之日 入山登中峰 則南北兩峯 岌崇相面 此所謂三峰也 西望大關嶺逶之狀 東望海中 有一島 杳在辰方 而其大未滿蔚島三分之一 不過三百餘里.”
[註 031]
張漢相の 「かすかな島」が竹嶼(大島)ではないという事実は、ユ・ミリム、前掲論文、91〜92頁で詳しく論及されている。
[註 032]
朴世堂、『鬱陵島 』:「盖二岛去此不甚远一飘風可至于山岛势卑不因海极淸朗不登最高顶则不可见郁陵稍崚 」
[註 033]
ユ・ミリム、前掲論文、93〜94頁。
[註 034]
ペク·インギ、シム・ムンボ、前掲書、104頁。
[註 027]
『世宗実録』が撰進されたのは1454年(端宗2)であるが、同書地理志は、1430年(世宗12年)を基準年度として1432年(世宗14年)に編纂されたとしている。鄭杜熙(1976), 「朝鮮初期 地理志の編纂」, 『歴史学報』, 69~74頁参照。
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[註 028]
ソン・ビョンギ(2004)、 『独島領有権資料選』、翰林大学校出版部、204〜208頁。
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[註 029]
ペク·インギ、シム・ムンボ(2006)、前掲書、44〜47頁。
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[註 030]
張漢相(1694)、『鬱陵島事蹟』: “東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽雨 馬捲之日 入山登中峰 則南北兩峯 岌崇相面 此所謂三峰也 西望大關嶺逶之狀 東望海中 有一島 杳在辰方 而其大未滿蔚島三分之一 不過三百餘里.”
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[註 031]
張漢相の 「かすかな島」が竹嶼(大島)ではないという事実は、ユ・ミリム、前掲論文、91〜92頁で詳しく論及されている。
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[註 032]
朴世堂、『鬱陵島 』:「盖二岛去此不甚远一飘風可至于山岛势卑不因海极淸朗不登最高顶则不可见郁陵稍崚 」
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[註 033]
ユ・ミリム、前掲論文、93〜94頁。
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[註 034]
ペク·インギ、シム・ムンボ、前掲書、104頁。
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