• 慰安婦
  • 歴史を創る物語

「生き残れたのがまるで夢のようだよ。でも夢にしてはあまりにひどい悪夢だった」

zoom
  • 年度
  • 年齢
  • 内容
  • 1924年
  •  
  • 慶尚南道河東生まれ
  • 1941年
  • (18歳)
  • 家から就業詐欺で連行される
    釜山-下関-台湾-中国広東-シンガポール-サイゴン-インドネシアなどへ移動
  • 1942年頃
  • (19歳頃)
  • インドネシアのスマランで日本軍「慰安婦」の生活
  • 1945年
  • (22歳)
  • 解放後にシンガポールで収容所生活
  • 1946年
  • (23歳)
  • 釜山に帰国
  • 1947年
  • (24歳)
  • チェ某と結婚
  • 1971年頃
  • (48歳頃)
  • 夫が死亡
  • 1975年頃
  • (52歳頃)
  • キム某と同居
  • 1992年
  • (69歳)
  • 日本軍「慰安婦」登録
  • 2004年2月
  • (81歳)
  • 持病のため死亡
河東→釜山→下関→スマライ→シンガポール→釜山
zoom
「少しも恥ずかしくなんてない。なぜなら、私が恥ずかしいことをしたわけじゃないんだから。故郷では私の事情をみんなが知ってるんだ、どうやって連行されたのか。私は堂々としてるよ。だから、慰安婦として行って来たことを隠すとか、恥ずかしいとか、とんでもないよ。売られて行った人は恥ずかしいと思うのかも知れないけど、私みたいな場合は恥ずかしくなんかないさ。大統領の子どもでも、何となればみんな連れて行ったんだから。
「一人でも多くの人にこの問題を知らせなきゃいけない、一人でも多く知るべきだよ。本当に、証言しに行ったときも言ったけど、『私たちは時代に恵まれなくて犠牲者になってしまったけど、今育っている子どもたちには絶対にそんな事があってはいけない』ってことを主張したのが私なんだ。いつも気持ちはそうさ。ああ、もう、あの日本のやつらのことを考えたら、本当に。


『千人針を作る工場に行って…苦労して帰って来ればいいんです』

「私は幼い頃に良い両親の下に生まれたので、苦労しなかったんだ。まったくもって、うちはあれだよ、全部、小作に農作業させてたんだ。
「私はそのたった一人の娘だったんだ。
「学校も行かなかったよ、父さんが行かせなかったから。日本のやつらから何を学ぶんだって言って。そうして、漢文の先生、その人から文字を習ったのさ。
「父さんが創氏改名、あれもしないで…そうしているうちに、日本のやつらに目をつけられて。父さんが何でけちつけられたかって言うと、真鍮の器を供出しろって言われたんだ。そうしたら、父さんが里長に文句を言ったんだよ。『田税、取るだけ取っていって、今度はご飯を食べる真鍮の器まで出せというのか。俺は死んでも渡さないぞ』って言ったもんだから、駐在所から来たんだ、真鍮の器をどうして供出しないのかって。『おまえら、ほしけりゃ俺を殺して持っていけ。俺は渡さないぞ。必需品で使うのならいざ知らず、それでもって、あの弾丸を作って戦争の道具に使おうって物を、どうして俺たちがやらないといけないんだ』そうして、父さんはうちで働いてた人たちを連れて、田んぼの中に全部埋めて隠したんだよ。夜中に、数十列に掘って、田んぼに埋めたんだ。ところが、埋めたのを、誰かがそれを密告したのさ。それで、父さんは捕まって行ったんだよ。どれほど拷問されたことか、言葉には言い尽くせない。里長と一緒に私が面会に行ったんだけど、父さんがどなってね、ここはお前が来るべき所じゃないんだから、絶対に来るなって、もしまた来ても、もう会わないから、絶対に来るなって言って。
「父さんは手に、全部包帯を巻いてたんだ。あいつらがどれだけ恐ろしい拷問をしたか知れない。そうして、(言葉が続けられず、しばらくして)数日後に里長が来て『お嬢さん、日本に千人針 [註 023] を作る工場に行って、だいたい1年、いや、2年から2年半だけ苦労して来ればいいんです』って言うのさ。そうしれば、私が出発する日に父さんは釈放されるって言うんだ。
「その言葉を信じたよ。(ため息混じりの声で)あぁ、そうして私が自ら申し出て行くことになったんだ。工場に行って、2年か2年半苦労すれば、私が苦労しさえすれば、家族が集まってまた幸せに暮らせるって、私がそれを-。
「14歳で捕まって行ったのさ、旧暦の11月に行ったんだ。[註 024]
少女を集める

船を待つ間に人を集めて。そうして集めてたみたいだ。

「出発の日、釜山から鉄船にまっすぐに乗ったんだ、連絡線、日本と釜山を行き来する。…ただ船に乗せられたから乗ったのさ。そして、船が到着したら、あいつら(日本の軍人)が待ってたんだ。そう、下関に到着して、大きな工場みたいな所、おっきな。そんな工場みたいな所に入れって言われて入ったら、船に一緒に乗ってきた女の子たちにも後から会って。
「それで、船を待つ間に人を集めて。そうして集めてたみたいだ。下関でそうしてるうちに、15歳になってしまって。
「あぁあぁ、のり巻き、おにぎりっていうのを、三食おにぎりばっかり…その時にあきれてしまって、私はおにぎりを食べなかったんだ、3日間食べなかった。今ものり巻きは食べない。うちには一切、のりはないんだ。今ものりは食べない。そうして、4日目になったらお腹がすいて、耐えられなくてね。だから食べたんだ。
「ある程度人が集まったから…その時はまだ工場に行くんだと思ってた。ある日、出ろって言うんだよ、もう一度みんな船に乗らなくちゃいけないって。その時、私の記憶では、幼い年だから、何百人、何千人なのかはわからない。18歳、19歳、17歳、16歳、そのくらいの女の子たちだった。

遠い国

その時になって、ここが日本じゃなく、遠い国だってことがわかったのさ。

「また船に乗って行くんだけど、(興奮した声で)最初にどこに行ったのかっていうと、台湾。
「何十人か降りろって言われて、降りて…私は心の中で『まぁ、何てこと、日本って国はこんなに大きな国だったの』
「誰かが、ここは中国人たちがバナナを担いで歩きまわってるって言うんだ、おかしな帽子をかぶってね。変だな、日本にはそんなのもあるのかって、そう思ったのさ。
「船の中にいたんだ。軍人たちは降りたけど、私たちは降りなかった。
「そうして、もう2~3日いてから、今度はどこに行ったのかっていうと、広東っていう所に行ったんだ。それで、今でも私が覚えているのはアイコンホテルだよ。
「16階建てのビルで、そのホテルがものすごく大きいから、船の中からでも見えたのさ。すごく大きいから聞いてみたら、教えてくれたんだ。そこでまた、船の中に何日かいて…今度はシンガポールに行って、次は、サイゴンに行って。
「インドネシア、そこでみんな降りたんだ。全部降りて、配置されたんだ。私はジャカルタで降りて、スマラン[註 025]という所があるんだけど。スマラン、そこで13人が降りたんだ。そうして、行った。その時になって、ここは日本じゃなく遠い国だってことがわかったんだ。
「ジャカルタで降りて、病院みたいな所に連れて行かれてね。そこに行って、子宮をどうこうしちゃったみたいなんだよ。子供が産めないようにしたんだ。最初、歩く時に痛くてね。何をどうしたのか、(お腹を指差して)ここが、ちぎれそうなくらいに痛くて、はらわたまで。そうして、軍人がトラックで来て、私たちを乗せて。

スマラン

お葬式とかあるわけないよ。そいつらは私たちを犬ころほどにも扱わなかった。

「ジャカルタの所属さ。スマランって、すごく小さな村でね。到着した日の夕方から、私が反抗したんだけど、刀で刺されて、(首と顎の傷あとを指差して)この傷痕が大きいんだ。
「最初は、夕方に将校が入ってきたんだ。お酒をいっぱい飲んで酔っ払ってた。だから、ブルブル震えるじゃないか。そこでは、とにかく私が一番幼かったんだ。みんなが18歳、17歳、19歳、その位だったから。そうして、強姦されたのさ。その話をしたら、全身が…あぁ、言葉にできないよ。それを考えると、今でも夜に夢を見るんだ。それで、私の体に傷が、全身にあるのさ、あいつらに殴られて。それであちこちに病気があるんだ、この顔にも傷一つなかったのに、この刀痕は刃で切られて、あぁ血が出てひどかった。この傷痕がこうなってるんだ、どれだけ血が流れたことか。
「あそこは逃げるなんてできないんだ。なぜなら、まずそこから出るためには船に乗って行かなきゃならないのに、どこに行けばいいんだい。そこから逃げるなんて考えることもできないさ。だから、そういう面は安心だったろうさ。逃げたって、部隊の中にいるんだよ。部隊の敷地は広かった、ものすごく大きかった、山すそを部隊がぜんぶ占領してて、言ってみれば家が大きいのさ、部隊が。
「その時は、あいつらが全部秘密だったのさ。一級秘密ってやつだよ。だから、部隊が何の部隊なのかもわからない。知ろうともしなかったし。
「全部で14人だった、韓国人女性は。その、スマライ[註 026] っていうんだけど、私たち14人しかいなかった。そのうちの二人は殴り殺されたんだ。あぁ、犬が一匹死んだから、埋めたらおしまいさ。お葬式とか、あるわけないさ。あいつらは私たちを犬ころほどにも扱わなかった。
「慰安所は一列に並んでいて、一部屋ずつあったんだ。ハコ部屋みたいな小さい部屋がずらっと-。そんなふうに建ててあって。…部屋は小さくて、野戦用の寝台一つの他は何もないんだ。ただ、私たちに合う服、ズボン、スカートなんかはくれた。私は日本語のキクコって名前を付けられた。名前をそう呼ばれたんだ。鐘が鳴ると、部隊の食堂で安南米(ベトナム米)のご飯にみそ汁で食事。それでも、それがおいしくてね、お腹がすいてたから。乾パンを軍人たちが来る時に一つずつ持って来るんだよ。私はそれをたくさん食べた。どんなに暑くても、毎日1時になると雨が降るんだ、1時間。そうしたら扉を閉めて昼寝するんだ、2時まで。その時だけは涼しいんだ。本当におかしな国だよ。どんなに暑くても、雨が降って、するとそんなに暑くなくてね。慰安所の周辺には、私たちを吊り下げても平気なくらいの太い木がずらっと生えていて、その木には猿が住んでるんだ。子猿を産んだ猿が、乳を垂れ下げて、お腹に赤ちゃんを抱いて、あの木からあっちに行ったりこっちに行ったりしてね。

無敵なやつら

ああ、怖いよ、考えただけでもうんざりする。

「故郷のこと思い出すとか]そんなこともなく、あいつらが来た時には、みんな忘れてしまうんだ。そんなことを考える余裕がどこにあるんだい。あぁ怖いよ、考えただけでもうんざりする。鳥肌が立つ。でも、私たちがいた所が一番無敵なやつらがいたんだ。私たちがいた所が一番前線で、そんな所だった。
「大きな連隊なんだ。大隊からも来るし、小隊からも来るし。1中隊、2中隊とかって中隊があって。その部隊の軍人たちがみんな来るんだから。ああ、そんなことをどこに話せるっていうんだい。私が生きて出られただけでも、幸いさ。命の綱は、私は長いはずだよ。
「9時から夜の9時までは兵卒たちが来る。そうして、夜の8時くらいになるとみんな部隊に戻っていくんだ。とにかく、9時とか10時になると将校たちが来るんだ。あぁひどいもんさ。
「本当に、言ってみればひどいやつらだよ。人を犬みたいに、人として扱わないんだ、ばかばかしい。将校ってやつら、酒を飲んで来て、あの長い刀があるだろう。それを引きずって歩くんだ。そうして、自分の言うとおりにしないと、そのときはもう狂い猛るんだよ。首でも斬り落として殺すんじゃないかって勢いだったよ、やつらは。あぁそんな話をどこに全部。あぁずっと、そいつらが一列に並ぶんだよ。そうして、服も脱がない。もう、それ(性器)だけ出してするのさ、靴をはいたまま。土曜日と日曜日は、早くから来るんだ、やつらが。昼間も来る。はぁ怖いやつらだよ。自分の要求したとおりにしてやらないと殴るし。ああ、刀をスッと抜いたりするんだ。
「軍人たちの中には、韓国人の軍人も少しいたんだ。食べる物を持って来てくれて、乾パンみたいなもの。韓国の軍人たちは、来ても相手しないで、時間だけ過ごして行くんだ。
「1週間に一回ずつ、検査しに行くんだ。その病院が野戦病院でね。下を診るんだ、下を。言ってみれば、病気がうつったりしてないか、そんなのを診るんだ。私は性病みたいなのにかかったことはなかった、みんなサック(コンドーム)を使ってたからね。日本のやつらは、自分の体を守ることだけは徹底してたな。

中毒

日本のやつらがあれ、あれのために、人の体にこうして阿片を打ったんだ。

「行って間もない頃は、私が男たちの相手をしたがらなくて、反抗して。
「仕方なく男の相手をしたんだけど、血がいっぱい流れて、便所にも行けなかった。助けてって頼んだら、じゃ、助けてやろうってその時から阿片を打ってくれたんだ、それが阿片だったんだ。その後、阿片を打ってもらうと痛いのも平気になるんだよ、相手をしても。そうして、日曜日や土曜日は5本ずつ阿片を打ってもらった。
「気分が良くなるとかはわからないけど、痛くなくなるんだよ。最初は一日に一本打って、後になると一本じゃ足りなくてね、だから2本打ってもらい。日曜日、土曜日は5本打ってもらい。
「毎日打ってくれたよ。その時は、元締めが打ってくれたんだ。
「知らないさ、あの時は、それが阿片注射だなんてこと。私が中毒になってしまった時に知ったんだ。一日に一回打ってたのが、朝打って、夕方にまた打って。そして、もう注射を打たないと、ああ、注射を打ってほしいって気持ちになるんだ。それが、中毒の初期なんだ。
「阿片注射はなくならないんだ、患者がいるから。言ってみれば、負傷して耐えられない時に打つ注射だろう。だから、それがなくなったらどうするんだい。その注射はなくならないのさ。
「故郷を14歳のときに離れて、船の中で歳月が過ぎて、15歳のときから軍人の相手をして、15歳、16歳、17歳、18歳、19歳、20歳、21歳、22歳になって解放されたんだ。何てこと、その間ずっと阿片を打ってたんだよ。
「(ため息混じりの声で)あぁ、ひどいもんだよ、私は。日本のやつらがあれ、あれのために、人の体にこうして阿片を打ったんだ。[註 027]
クムゲラク

『私は死ぬべきだ』と思ったよ。

「私はそこで、一度死にそうになったんだ。
「クムゲラク、…マラリアにかかった時に飲むやつ。その薬を私が40錠集めておいて、一度に飲んで死のうと思って。でも、それも、死ぬのも私の思い通りには死ねないんだよ。
「韓国人がそこにいたんだ、軍医として。その人にお願いしたんだ。一回に3錠もらって、4錠もらって、そうして40錠を集めたんだよ、それで一度に飲んだんだ。その時は、そんな風に暮らしていくのが嫌だった。後で知ったんだけど、下から、鼻から、口から、血があふれ出たっていってた。二日ぶりに意識を取り戻したんだけど、人の声が聞こえるんだ。かわいそうだって泣いて、軍医たちが行ったり来たりして。女の子たちが、『ああ、生き返ったのね』って泣くんだよ。それで、私が気を取り戻したってわかったんだ。二日ぶりに目覚めたんだ。あぁ-それで、ホースでもって胃洗浄したんだ。洗い流しても、強い薬だから手足を動かすこともできず、朦朧として、正気を取り戻すことも難しいんだ。死のうとしたのに死ぬこともできず、そうして生き返ったんだよ。今も胃が悪いのも、そのせいだと思う。
「後になってからは、時間が経つにつれて、とにかく命だけは無事でいよう、そのつもりでなんとしても生き抜こう、そうしてこそ生きて出られる、私の肉体はお前らが持っていっても、私の心は持っていけない。私はそう決心したんだよ。なにがあっても生き延びよう、生きて故郷に帰るんだ、その一念で過ごしたんだ。

捕虜収容所

船がなくて出てくることができずに、約一年近く残留した。

「逃げられないさ、逃げる所がないんだ。地理がわからないから、逃げられないのさ。だから、もし解放されてなかったら、私たちは今でもそこで暮らしてたさ、手紙一通を伝えることもできないんだ。大東亜戦争が起こったんだ。大東亜戦争が起こってなくても、故郷と手紙のやりとりなんかできないんだ。牢屋に監禁された人と同じようなもんだ。
「慰安所から故郷に帰る時には、軍票をくれるっていつも言ってたんだ。なのに、突然日本のやつらが降参して、そうして放り出されたんだから。
「日本のやつらが降参したってことも、私たちは知らなかったんだけど、何故か軍人たちが来ないんだよ。それで、後になって考えてみたら、降参したのさ。
「13人が行って、そこで3人が死んで、残りの10人は防空壕一つに全員が入りきれなかったんだ。だから、何人かだけ連れて防空壕に入ったんだ。後でわかったんだけど、そこに埋めてしまおうとしたらしいんだよ。私たちを送り帰したら、後で問題になるかもしれないって考えたのか、全部殺せってことだったらしいんだ、日本のやつらめ、悪いやつらめ。その中で、私は生き残ったんだ。
「慰安所に来た韓国人の軍人が解放された後に、連合軍に手紙を書いて送ったんだ。将校の洗濯物を取りに来る人がいて、インドネシア人なんだけど、その人に韓国人の軍人が手紙を書いて手渡したのさ、早く連合軍に伝えてくれって。それで連絡できたんだよ。連合軍がさっそく攻め込んできたんだ。だから、少しでも遅く来てたら、私たちは死んでたんだ、防空壕で。
「それで、連合軍が劇場に入る時みたいに二列に並んで出てくるようにさせて、書くのさ。日本の軍人は日本軍人、韓国の軍人は韓国軍人、慰安婦の女たちは女たち、こっちに送って、韓国人はこっちに送って。こっちに送ると連合軍に連れて行かれるのさ。そうして、全員出てきたんだ、死んだ人もいただろうけど。
「そう、『助かった』って思ったよ。でも最初は、イギリス人たちが来たから怖くてね、怖いし、言葉はわからないし。韓国人の軍人たちが、早くあの人たちについて行かなきゃならないって、行こうって言うんだよ。
「解放されてから、だいたい一年間は捕虜収容所にいたんだ。シンガポール収容所から、船がなくて出られなくて、約一年近くいたんだ。
「ある日は放送をしてね、看護婦をするつもりがある人は出てきてほしいって。それで、私が出て行ったんだ。私が出て行って、何人かも出てきたよ。そこで、包帯を巻くのを習い、注射を打つことも習った。そう、今も私、包帯は上手く巻けるよ。
「阿片中毒になったことを軍医が知ってるんだ、私が話したから。それで、私に阿片を打ってくれたんだ。
「それで打ってもらってたんだけど、そのうち船に乗れって国連軍から連絡が来たのさ。船が何日に出発するって。その時、軍医が私に阿片をくれたんだ。あの注射薬を斤の単位でくれたんだ。
「そこには収容所の劇団のステージがあるんだ。ステージを準備しておいて、音楽をする人たちがいてね。堤川の人だったんだけど、その人がソン・ナクチョンっていって『水音は物寂しい』っていうあの歌を歌った人なんだ。その人が軍属として連れて来られてね。それで、その人が指揮をとって、歌を歌いたい人たちでのど自慢みたいなことをして。…その人が私のことを好いてくれたんだ。収容所で、韓国に帰ったら自分と結婚してくれないかってね。だめだって断ったよ。はぁ私がどうしてあんな人と。

アリコンの匂い

歯を食いしばって耐えるんだ。柱をつかんで、気を失うまでそうしていたのさ。


「大きな船に乗って来たんだ。そうして釜山に到着したんだけど、また1ヶ月くらい(声を大きくしながら)船の上にいたんだ、降りることができなくてね。韓国にマラリアが発生したから。船の上で1ヶ月間いたんだ。
「船から降りたら、そこで切符みたいのをくれてね。故郷までみんな帰るのさ。
「そうして家に帰ってみると、父さんも母さんも死んじゃって、お化け屋敷みたいになってたんだよ。そして、下人たちも全部バラバラになって。
「私が出て行った後でこうなったの。小作人たち、うちの田んぼで働いてた人たちに田んぼの権利がそっちに移ってしまって。そうさせてしまったんだよ、日本のやつらが。家だけ残ったのさ。
「家も日本のやつら、幹部たちが占領して、事務所を作って別荘にして使ってたらしく、話を聞いたら降伏する前にその家の骨董品とかを全部日本に送ってしまったんだって。
「私の父さんを生き埋めにして。だから父さんは、駐在所で死んだんだ。
「父さんがそんなふうに死んだから、それが気にかかって、父さんのお墓参りに行ってきた日は、何日かは病気になって起きられないんだ、過去のことが思い出されるから。
「過去にいろいろ苦労したこと、そんなことが。私の心の中に、いつも申し訳ないっていう気持ちがあって、努力しながら生きているけど、墓参りに行って来ると胸が痛くて、どんなにつらかったことか、そんな気持ちから病気になるんだ。
「父さんが母さんよりも優しかったとかっていうわけじゃなくて、亡くなった時、あんなひどい目にあって亡くなったって思うと、父さんのことが思い出されてね。
「家に帰ってきて、私、『やっと故郷まで帰って来たのに、阿片を体に入れてちゃだめじゃないか』って決心したんだ。それで、あそこから持ってきた注射器を全部割って、もう注射をやめようって決心したんだ。ああ、打つ時間になると、全身にケイレンが起きて、かゆくなるし、震えてくるし。
「歯を食いしばって耐えるんだ。柱をつかんで、気を失うまでそうしていたんだ。あぁ、そのつらさと言ったら表現のしようがない。
「あの時のことは死んでも忘れられないだろうよ。そうして、それを断つのに約4ヶ月かかった。私一人で断ったんだ。あのアリコンの匂い[註 028] それ、阿片を断つ時、どれだけつらかったことか、もううんざりして、病院の門の前にも行きたくなかった。
「里長が全部話したんだ、どんなふうに私が連行されて、そして、戻ってきたのか。故郷の人たちはみんな知ってる。だから、私を無視する人は誰もいないよ。
「状況が違うだろう。何故なら、とにかく強引に連れて行かれたのでもなく、私は父さんを助けるために行ったんだから、行っても供養になるって。人々はその当時を知ってるから、私が日本に行った時を。
「私の故郷では、みんな私のこと知ってるから。私の家もよく知ってるし、噂の家だったから。それに、どんなふうに行って来たのかを知ってるから、他の普通の慰安婦よりも差があるさ。

婚約

結婚はしたけど、その人も私のことを忘れられなかったんだ。

「私は韓国に帰って来て、結婚した人、その人のことしか頭の中になかったんだ。
「どうやって会ったのかというと、その人の父親と私の父さんとが友だちなんだ。その人の父親が『君の娘は、うちの嫁にもらわなければ』って言うと、私の父さんはその人に『じゃ、うちの婿にしなくちゃな』って言ってた間柄なんだ。
「戻ってきて、約一年くらい、私は一人で阿片を断つために、一人で家にいたんだ。私は岳陽[註 029]っていう所にいて、その人は河東邑に住んでいたんだ。それで、まいにちオートバイに乗ってやって来るんだよ。オートバイに乗って、まいにち来て、夜になったら帰るって感じだったんだ。その人は奥さんがいたんだ。私は24歳、25歳になって戻ってきたんだけど…だから、その人はもう結婚をしてたんだけど、その人も私のことが忘れられなかったんだ。そうして、私が帰ってきたもんだから、その結婚した人と離婚してしまったのさ。
「どれだけ私が結婚に反対しても、頑としてきかないし、後にはその人の母親もやって来たんだ。私に『嫁いでおいで。だまされるなら、知ってる人にだまされた方がいいだろう』って。そうして、結婚したんだよ。私は、あんな所(慰安所)に行って来た人間だって、そういうこと言われないように、洗濯物にアイロンかけるのも、夜中の2~3時までかかってもちゃんとアイロンかけたんだ。それでも、家庭の主婦として、私がしっかりと家庭を守ったよ。でも、何だか私を見下げているようで、周りがおかしかった。知ってる人は知ってるけど、知らない人は売られて行って出戻ったって思ってるからね、私に直接は言わなくても。そんな侮辱を私は受けながら、暮らしてきたんだ。

二人の息子

『どうして叩くんですか、ぼくを産んだ本当の母さんだったら叩かないでしょ?』

「上の子は18歳、下の子は11歳。[註 030] それを、子供を私が育てたんだ。私が育てた。育てる時は、ちゃんと育てたよ。いつも人に会ったら、あいさつをちゃんとして、いつも自分より弱い人を助けてあげなさい、そういう教育をしたんだ。
「夫が中風にかかって、子供を大学に入れることもできなくて、私が上の子をつれてソウルに上京したんだ。ソウル大学に合格したんだけど、入学金がなくてね。夫の友人が制服代にってお金をくれてね。あと、河東の国会議員が入学金を出してくれたんだ。あぁそうして、息子を学校に入学させて、制服代としてもらったそのお金で、西大門区の霊泉に小さなお店を借りて、1年生の時から3年生まで、私が菊花パンを売って勉強させたんだ。
「あまりにも悔しくて。…店の大家の姪っ子とうちの息子が恋仲になって、学校にも行かずに、交通費をあげたらその子を連れて遊びに行って。女にはまってしまったのさ。ある日、その女の子に何時に会おうって手紙を書いてるんだよ。全く、私があの子を勉強させるためにこうして苦労してるっていうのに…だから『お前、何してるんだ』って叱って頬を一発引っ叩いてやったんだよ。そしたら『どうして叩くんですか、ぼくを産んだ本当の母さんだったら叩かないでしょ?』って言うんだ。
「わぁ、もうこれ以上生きててどうするんだって気がしてね。もう、その足で薬局に行ってクムゲラクをいっぱい買ったんだ。そして家に帰ってきて、『これからはお前一人の力で学校に通いな。私はもうこの世からおさらばしてやるから。私はもう生きていたくない』、『勝手にすれば』ってそう言うから、その薬を飲んだんだ。それで、病院に行って洗浄したんだよ。洗浄しても、もはや胃がやられてしまってる、胃を傷めてる上に、また胃を傷めたからさんざんなものさ。その時も、耳から、鼻から、口から、下、下からあふれ出してね、血が。そうなるとさすがにあの子が『ああ、お母さん、オンマ、オンマ』って言うんだ。もう遅いってんだ。そうして、河東に戻ってきたんだ。上の子は学校に通えなくなってね、一年ももたなかったよ。
「私の体の方も回復し、菊花パンの商売をして手元に残ってたお金があってね。それで、密輸を始めたんだ。密輸を始めて、最初は少しずつ、少しずつやってたけど、後には大きくやった。
「日本製の密輸で入って来るもの、その時は服や化粧品、何でもあったよ。晋州(慶尚南道の都市)の卸売に売るのさ。だから、私が若い頃は頭が良かったんだってことさ。それをしながら、晋州駅の駅長に頼んで、汽車に積まれてる箱を一籠ずつ持ち出したんだ、全部私がもらうのさ。それ一箱でいくらってね。駅長に少し払って、そうすると、運が良ければその中に値のはる物がたくさん入ってることがあるんだ。鹿茸(漢方の薬剤。鹿の袋角を乾燥したもの)みたいなのが入ってたり。
「そうやって私がお金をかせいで、長男をソウルに上京させたんだよ。その時は下宿させて、そうして卒業させたんだ。でも、その後の人生はうまくいかなかった。頭はいいんだ。だけどアルコール中毒になってしまって。かなり経ったよ。お酒が本当に好きでね。今は連絡が途絶えてから、20年近くになるのかな。
「次男は勉強したがらなくって、高校しか出てないんだ。それでも、今はしっかりと暮らしてるよ。
「私はそんな風に暮らしながらも、楽をせず、ただ飯を食べることもなく、そうやって苦労しながら暮らしたよ。あんな所に行って来たって言われないように、そう努力して、みんな仲良く暮らしたんだ。
「タバコはそこでも吸わなかった、韓国に戻ってからも吸わなかったし。
「慰安所で苦労したこと、少しでも思い出したら怒りが込み上げてくるんだ。夫は中風にかかって話すこともできないし、手足も使えないでいるのに、気持ちは楽じゃないさ。そうして夫が逝ってしまってね。そんなこんなで、気持ちが落ち着かなくてね。その時から、私はタバコを吸い始めたんだ。

おじいさん

死ぬ人は死んでいくけど、かわいそうで、この世に置いたまま死ねないよ。

「私は再婚はしないつもりだったけど、子供たちは結婚したら、変わっちゃったんだよ。河東でも噂になって有名だったよ、母親と子供の仲がほんとにむつまじいって。他人の子を育てる気苦労は、言葉には尽くせないよ。そんな子が、結婚したらさっと変わってしまってね。その時になって、あぁ他人の子はそんなもんなんだって思ったよ。やれやれ、自分のお腹を痛めて産んだ子ですら両親を見捨てるっていう世の中なのに、他人が産んだ子なんだから仕方がないって、全部理解しようとした。
「それで、ああ私も決心したんだ。みんなも、私に再婚しろって、あんな子供たちを信じてどう暮らしていくんだって、再婚しろって言われても私は聞き流してたんだけど、あの子たちの態度を見たら、気持ちが変わってね。
「河東で私が通ってる教会の牧師さんがあのじいさんと私をお見合いさせたんだ。私も寂しいし、そのじいさんも寂しいし。あのじいさんに会って、今は30年近くになるけれど。そうして、私があのじいさんと縁を結んだのさ。
「あのじいさんも被害者だよ。日本で育ったんだ。ここで生まれて、日本に行ったんだ。日本で中学校、高校に通って、大学もそこで通って。そうして、卒業してすぐに徴用されたんだって。
「じいさんは子供はいなかったけど、結婚はしたんだ。
「私は、あのじいさんに出会って、じいさんには苦労かけたよ。
「じいさんにしてあげたことが何もないんだ。じいさんは生活力がある方なんだよ。自分が若かった頃に釜山で病院を経営して、医者をしてたのに、過去のことは全然問わないんだよ、過去のことは全部必要ないことだって。
「よくしてくれるよ。じいさんは、女房を大切にして、お酒は飲まないし、タバコも吸わないし、私はタバコを吸うけどね。お互いに子供がいないから寂しいじゃないか。それで、二人きり、じいさんしかいないのさ。夜中でも、私が『あ、や』って言うと、じいさんがガバッと起き上がるんだよ。そうして、私が体の調子が悪い、そんな時には『あぁ、あのじいさんを置いて、どうして先に逝けるんだ』って思うと涙が出るよ。
「私はお祈りの仕方もわからない。それでも毎日、私たち二人、一緒に呼んでくださいって、体がこうだから、少し治るようにしてくださいって、そう祈るんだよ、お互いがかわいそうで。死ぬ人は死んでいくけど、かわいそうで、この世に置いたまま死ねないよ。じいさんもそうだし、私もそうだし。

怒りからくる火病

だから、私は死んでも目を閉じて楽には死ねないよ。

「私は北京[註 031] に行って、日本の大臣と喧嘩したんだ。そいつ、私に会わせてほしいって言って、夜の8時に会う約束をしたのさ、その大臣が泊まっているホテルで。それで、行ったんだ。クォン牧師[註 032] と一緒に行ったんだ。そこで、どうして私が落ち着いていられるんだい。その日の夜、私は言いたいことを言ってやったんだけど、その話をしたら、気持ちがスッキリしたよ、用件だけ話したんだから。どうしてあんたたちの政府は口を開けば妄言、また口を開けば妄言を吐いて、ここですぐに『はい、そうします』って言っておきながら、日本に戻れば違うことを言って。
「日本の政府だけが悪いわけじゃない。韓国の政府も、この問題にもう少し力を注いで早く決着をつけなければいけないのに、私たち韓国人はみんな地位争いばっかりして、私たちの問題は見向きもしない。それが全部、あきれるんだよ。あいつらは、お金を3千万ウォン払ったって、全部終わったって考えるんだろう、ひどいやつらめ。あいつらが一ヶ所に座ってタバコ代にもならない…はぁ、私が死ぬ前に、この問題に決着をつけてほしいよ。でないと、安心して目を閉じて死ねないじゃないか。私が死ぬ前に、あいつらが謝罪して、たった1ウォンでもいいから補償しろ、私はそれしか願うことはないよ。私が死んだら、一握りの灰になって土に返るのに、だから、私は死んでも目を閉じて楽には死ねないよ。
「怒りからくる火病っていうのがあって、何日か前にも病院に夜に行ってね。ウッと込み上げてきたら、目の前がくらくらってきて、耐えられないんだよ。不安になって、動悸がして、そういうのがあるんだ。
「私の生きてきた歳月が、そう、苦労ばっかりだったから、体も悪くなって苦労してるんだよ、あぁ。
「私は、病気が一つや二つだけじゃないんだ。この心臓も良くないし、それから糖尿もあるし、骨粗しょう症があって全身が痛いし。写真を撮ったら、骨が全部ボコボコ穴が開いている。
「去年、栄養注射を打ってもらったんだけど、きっと病院で間違えたんだよ。看護師が注射を間違えて打ったのか、良くない注射を使ったのか。その時、鼻から、口から血があふれ出してね。その時のことは私は覚えてないよ、全部忘れてしまった。医者が、もうだめだと思って、心の準備をしてくださいって。
「じいさんは私を連れて大きな病院に行って、救急治療室に連れて行って…そうして霊安室まで、全部そこで準備して。でも、意識が戻ったんだ。じいさんが私を生き返らせたんだよ。私がこうして体の調子が悪い時は、むしろあの時に死んでしまったら、こうやって苦労することもなかったのに。
「もう一度生まれ変わったら何になりたいかって、そんなこと考えたことはない。この世に生きることがとても虚しくて、とても険しい道のりを歩いてきて、そうやって生きてきたから、私が後でもう一度生まれ変わったってどうするっていうのさ。私が生き残れたのは、考えてみればまるで夢のようだよ。でも夢にしては、あまりにひどい悪夢だった」

 
[註 023]
腹帯のように使われるもので、戦争の際に敵軍の銃弾から保護するための手段として使われ、武運長久(日本軍の運よ永遠なれ)という単語をよく使ったという。
[註 024]
チョン・ソウンは1995年のインタビューでは、18歳の時に連行されたと話した。日本軍のインドネシア占領が1941年12月であることを考え合わせれば、1995年に口述した内容の方が信憑性があると判断されるため、年代記表には18歳(1941年)と連行の時期を表記した。
[註 025]
Semarang。インドネシアの島のうち最も中央にあるジャワ島内にある都市。
[註 026]
チョン・ソウンは慰安所があった場所の地名を、スマライとスマランを混用して使った。
[註 027]
チョン・ソウンの右腕には阿片を打った痕で多少腫れあがっている部分があり、血がにじんだ痕が石のように固まっている。
[註 028]
チョン・ソウンは病院の消毒薬の匂いをアリコンの匂いと表現した。
[註 029]
慶尚南道河東郡岳陽面
[註 030]
チョン・ソウンが結婚した当時、夫には二人の子供がいた。
[註 031]
チョン・ソウンは1995年に北京で開かれた世界女性大会に日本軍「慰安婦」生存者の韓国代表として参加した。
[註 032]
当時、韓国挺身隊問題対策協議会の委員長だったクォン・ヒスン牧師。
[註 023]
腹帯のように使われるもので、戦争の際に敵軍の銃弾から保護するための手段として使われ、武運長久(日本軍の運よ永遠なれ)という単語をよく使ったという。
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[註 024]
チョン・ソウンは1995年のインタビューでは、18歳の時に連行されたと話した。日本軍のインドネシア占領が1941年12月であることを考え合わせれば、1995年に口述した内容の方が信憑性があると判断されるため、年代記表には18歳(1941年)と連行の時期を表記した。
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[註 025]
Semarang。インドネシアの島のうち最も中央にあるジャワ島内にある都市。
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[註 026]
チョン・ソウンは慰安所があった場所の地名を、スマライとスマランを混用して使った。
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[註 027]
チョン・ソウンの右腕には阿片を打った痕で多少腫れあがっている部分があり、血がにじんだ痕が石のように固まっている。
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[註 028]
チョン・ソウンは病院の消毒薬の匂いをアリコンの匂いと表現した。
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[註 029]
慶尚南道河東郡岳陽面
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[註 030]
チョン・ソウンが結婚した当時、夫には二人の子供がいた。
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[註 031]
チョン・ソウンは1995年に北京で開かれた世界女性大会に日本軍「慰安婦」生存者の韓国代表として参加した。
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[註 032]
当時、韓国挺身隊問題対策協議会の委員長だったクォン・ヒスン牧師。
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