「日本のやつらめ、戦争じゃなかったら、私たちが行くはずないだろう」
- 年度
- 年齢
- 内容
- 1926年
-
- 慶尚北道安康生まれ
- 1942年
- (17歳)
- 家から就業詐欺により連行
台湾キゴで日本軍「慰安婦」の生活
- 1946年頃
- (21歳頃)
- 船に乗って釜山に帰国
- 1948年
- (22歳)
- 安康で妻帯者のファン某と同居。絹商売で生計を維持
- 1960年頃
- (35歳頃)
- 養子を迎える
- 1968年頃
- (43歳頃)
- ファン某死亡
- 1970年頃
- (45歳頃)
- 家政婦の仕事で生計を維持
- 1975年頃
- (50歳頃)
- レストラン、食堂などで働きながら他郷で生活
- 1999年
- (73歳)
- 大邱に定着
- 2000年
- (75歳)
- 日本軍「慰安婦」として登録
- 2004年
- (79歳)
- 大邱の永久賃貸アパートで生活
「日本のやつらが、どれだけしつこかったことか。とんでもないんだ。それなのに、どうして過ちは犯していないって言うんだ、ひどい戦争起こしておいて、ばかみたいだ。
「ああ、お前ら、お前ら、他人に罪を犯しておいて、数百人もあんな目にあわせておいて、なんともないように目開けて飯食べてられんのかね。日本のやつらめ、戦争じゃなかったら、私たちが行くはずないだろう。
「どうして認めないんだ。ほんとに悪いやつらだよ。
「汗水たらして田んぼを耕したら、供出しろとか言って全部奪っていっちゃうし、どれだけひどい目にあったことか。日本のやつらみたいにひどいやつがこの世のどこにいるっていうんだ。
「真鍮の器、全部奪っていっただろう、銃弾を作るって。…まともに生きられなかったんだ。だから正気でいられなかったよ、こんなふうに生きてどうするって気がして、すぐに死ぬだろうと思ってたよ。
「台所に土を掘って稲を少しなりとも埋めて隠しておくと、それまで調査して、掘り出して、全部持って行っちゃうんだ。
「昔は、人が人らしく暮らせなかったんだよ。
メガネの金さん
知らなかった、そこに行ってもわからなかったよ。工場で裁縫、ミシンするんだと思ったんだ。
「家族は父、母、兄弟姉妹は7人、上に姉が一人いて、私が二番目、下に弟が5人いたのさ。
「日本の名前は付けないで、姓だけ金子、金山って言ってた。 金子って人もいたし、金山って呼ばれる人もいたな。
「農業してたんだ。農業やってて、父親は日本人の精米所に通ってた。
「ずっと安康に住んでた。…私はかますを編んだりもした。供出がどれだけ厳しかったことか。かますを編んで供出しないと、踏み込んできて棒で脳天をバンって叩くんだ。
「私の姉は早くにお嫁に行った。あの時はそうだったんだ、そうしないと日本の軍人たちに連れて行かれるって。16歳でお嫁に出したんだ、結婚させて、そうして送り出して。…私もその頃に結婚させるって言われていた。危ないから結婚させるって言ってたのに、結局は捕まって行ったんだ。…それでも、あんなとこに連れて行かれるとは思わなかった。…知らなかった、そこに行ってもわからなかったよ。工場、裁縫する、ミシンするんだと思ってたから。
「かますを編んでいたら、…ちょっと用があるから来いって言うのさ。その頃は、日本人も韓国語をたくさん話せたんだ、韓国にいる人は。韓国語、たくさん使ってたよ。そうして、『良いことがあるから、話があるから、行こう、行こう』って言うからついて行ったんだ。そうして行ったら、メガネかけた人もいて。
「日本人について回る韓国人がいたんだ、日本人の手先。そんなやつがいたんだけど、そいつの姓が江原道の金とか言ってた。その、メガネの金さんって言ったら、知らない人はいなかった。安康ではみんな知ってたよ。
「支署の横に空間みたいなのがあるだろう。…事務室みたいなの、椅子もあって、出たり入ったりする所があるだろう。扉をこうして開けて入ると、椅子もあったな。そこでだいたい1時間以上いたかな、約2時間くらいだったろうか?
「私を連れて行って、私を座らせてから、出たり入ったり、出たり入ったりしているうちに、『あのさ、兵隊さんの服を作るんだがね、ミシンも習っとけばお金の稼ぎも良いし、かますを編むよりもましだぜ』って言うのさ。それで、お金ちゃんと送ってくれるのかって聞いたのさ、私が。そうしたら、『もちろん送るとも、毎月月給をもらったら、すぐに家に送ってやる』って言うんだよ、私も『ああだったら、少しは暮らしむきも楽になるかな』って思ったのさ。そうして『そのうち連絡するから』って言われて。
「そう言うから、家で待ってたんだ。待ってたら、例のメガネが来て兵隊さんの制服を作る所、ミシンをする所に行けば良いって、『行かなければならない』って言うのさ。『行かなきゃならないなら、行かなくちゃ』私がそう言うから、母さんも『ああ、あの子は行くんだ』って思って。それで二晩を家で寝て、そうして行ったのさ。
「行くのか。じゃなく、行くか行かないかでもなく、行かなきゃならない、人が足りないから行かなきゃならない。戦争がだんだん大きくなってるから、女たちはそんなことでもして手伝わなければならないって。そう言うのに、行かないわけにはいかないだろう。命令するのに行かないではいられないさ、とんでもない。日本人が何かして人を殴り殺しても、一人くらい殺しても何も言えなかったんだ。ああとんでもない時代だった。あの頃は全部日本人の権利で、朝鮮人は安物の魚みたいなものだったのさ。
アサマ丸
韓国から日本まで行く船の中で一番大きいんだ。
「私が、学校に入れてくれないって泣いたから、とうとう学校に入学したんだ。13歳のとき入学して、3年生の時に行ったから、17歳の時に行ったんだ。
「春だったと思う、行った時が。それで、米もないのに、全部供出してないのに、蒸し餅を、(手のひらを指差して)これくらいの餅を3~4個くらい。それを蒸してくれて、母さんが『途中でお腹が空いたら食べなさい』ってくれて。とにかく、母さんが黒豆を煮て…砂糖と混ぜてくれたんだけど…袋に包んで少し食べて、二晩寝たのか、一晩寝たのか…食べようと思ったら少し傷んでたな…春なのか、昼なのか、それは思い出せないけど、その餅が少し味がおかしくなってた。これ、少し傷んでるみたいだって思ったことを覚えているよ。
「行く時は、メガネの金さんが一人で来た。安康に行って…車に乗せて送り出す時には日本人たちもいた。
「汽車に乗ったのか、トラックに乗ったのか、それは思い出せない。考えてみたら、汽車に乗って行ったような気がするし、また考えてみたらトラックに乗って行ったような気もするし。
「どこに行くのか、車に乗っていたら、イ某が途中で一緒に乗ってきたんだよ。『あんた、何で来たの』って聞いたら『私は洗濯して戻る時に、洗濯物とか放り出されて、そうして来たんだ』って言うんだ。日本の巡査が洗濯物をバンって蹴ったんだって、かごを蹴ったんだって。
「工場に、軍人たちの制服をつくる工場に行くからって、そうしてイ某も連れて来たんだと思ったのさ。
「一日で行ったんだ。寝ないで、まっすぐ釜山に。釜山に行って一晩寝たのか、二晩寝たのか、とにかくそこで寝て。
「旅館に行って、旅館なのか下宿なのか、そこで寝たんだけど、全部で6人だった。朝鮮の女の子が6人いた。
「そこに行ったら、二人がいた。二人がいるんだけど、一人はヨウコで…もう一人はハナコで。そうして、私たちがそこに行って付けられた名前が…ハナカ、ハナツル、ハナゾノ、ハナエ、ハナヨシ、私はハナギクだった、それで6人だ。全部花をつけてたのさ。
「釜山に行って、そうして何日か泊まってから船に乗ったんだ。船に乗ったんだけど、あれは船に乗ったら、少しして何だか死んだようになっちゃったんだった。 全身に響いて、ずっと行く時にご飯は口にもできずに船酔いしていた。でも、私は船酔いは絶対にしないよ。船がものすごく大きいから…私はご飯食べて出てきて、ベランダみたいな所に出て見物とかしていたら、そこでこんなことを言ってたよ。『この船が韓国から日本まで行く船の中で一番大きい、これ以上大きい船はない』船の名前がアサマ丸だってことを私は聞いたんだ。
「本当に大きかったよ、荷物もたくさん載せて。そこに、もう全部が赤い星をこうして付けて、兵隊たちがいっぱい乗っていたけど、(力を込めて言い)ひどかったよ、徴兵されていく男たち。
「何時間乗ったのか、1週間なのかわからない。船の中で寝たのは、私は数えなかった。
「引率した人は、一人いたな、韓国人が。
「釜山まで行くのに連れて行って、またその人が引率に引き渡して、二回引き渡されたのさ。
「私たちが、自分たちだけでそこへ行けるわけがないだろう。
カゲツ
暴れたら、ひどく殴られて…死ぬほどに殴られて。
「船に乗り続けて、台湾に行って降りたんだ。
「引率した人がその時、とにかく30ウォン払ったか、20ウォン払ったかな、船賃としてね。それに乗って行ったら、そこでは台湾人が櫓をこいでいたんだ。…それに乗って、私たちが降りたら、タカオって言ってた、台湾のタカオ。韓国語のテマン(台湾)をタイワンって言ってたな。
「そこの町の名前がタカオだった。そこからまた伝馬
に乗って行ったら、キゴさ。
「私たちが過ごす所、キゴっていう所に行ったんだ。…その家はカゲツ。私は全然忘れてないよ、それは。それも、看板をこうして カゲツって玄関に掲げていて、初めて行った時は、そんな目にあってここはもう、何を言っても答えは返ってこないし、何を言ってもどうにもならないし…言うことをきかないと、お前が出て行けって言われるから。船があるわけでもないし、どこに行くっていうんだ、出て行ったら、また変なやつらに捕まって、殴り殺されるかも知れないんだから。死ぬことも生きることもできないからそこにいるのさ、どうしようもないさ、(泣き声で)そんな目にあって。
「何師団って言っても、私たちは聞いても忘れてしまって、夢の外のことだし。そんなの、私たちと関係ないことは聞かないよ。あいつらがどこから来ようと、私たちは私たちがやることだけやってればいいんだから。
「カゲツのような所が他の所にもあった、もう1ヶ所。
「キゴっていう所には2ヶ所。そしてタカオという所にもあるんだ。そこにも、私たちの所みたいな所が何ヶ所もあった。
「部屋はタタミ、畳だった。木でこうこう、こうしてあったな。
「2階には部屋が二つしかなかった。
「一つには、あの、あのイ某がいて…(少し考えてから)もう一つの部屋にはハナエがいたんだったかな?そう、そうだったと思う。私たちは下の階にいて。
「1階にも部屋がいくつかあって、一つの部屋だったか、広い部屋が、二つかな、残ってて、あとは全部入ってて。だから、部屋が6、8部屋、2階まで8部屋だった。
「部屋は脇にあって、この縁側のようにこういうのがずっとあって、またこっちにずっ-とあって、L字型になってるんだけど、軍人たちが部屋に入ったら、中にいたんだよ。そして、洗濯とかしなきゃいけないから…庭に空間があった。
「部屋は全部一つずつくれるんだ。…畳がだいたい4枚半だったか、5枚だったか、とにかく、そのくらいの広さしかなかった。布団を一組敷いたら、空間がこれくらいしか残らないのさ。それほど狭かった。小さい部屋にすれば、部屋をたくさん作れるからね。
「壁があるだろう、その時は木の壁だよ。隣りの人に聞こえたらどうする。…そんなとこでやることやるんだから、全く。
「その家の年寄りは全羅道で、じいさんは慶尚道で。 年寄りが『ハルモニ、ハルモニ』って言ってた、姓はチャンでね。年寄りもチャンさんで弟も姓がチャンだから、姉弟が一緒に来てたようだった。
「じいさんは、私たちに『おとうさんって呼べ』って言ったから、お父さんて呼んだんだ。アボジっていうのが、日本語でおとうさんなんだ。そうとしか呼ばなかったから、じいさんの姓が何なのか知らないのさ、私たちは。
「また、チョバ(管理人、帳場)っていう人は、その年寄りの弟だった。
「[帳場は]年とってたな。だいたい、40~50歳くらいだと思う、その頃の歳で。
「帳場が全部担当してたんだ、だから帳場が必要なのさ。それを整理して、軍票を受け取る人の名前が帳場なのさ。ハリモト帳場さんって呼んでたから、だからわかったのさ。
「お金はもらえなくても、殴られなければ幸いだよ。私たちはその頃、世間知らずだったから、言うとおりにするだけだよ、何がわかるっていうんだい。食べる物くれて、殴られなければ幸いだよ…とんでもない話だろ。
「少しでも気に入らないと、やたらに蹴って、靴はいた足で蹴って…袋叩きにされるんだから。
「病気もせず痛いところもなくて、客や軍人たちの相手をよくやってれば満足そうにして、ちょっとでも体の調子が悪くてフラフラすると、ダメなやつだって言うんだから。
「少ししかやらないと殴られて、客の相手が少ないと、少ないって殴られて。
「みんな殴られたよ、殴られなかった人なんていないさ。
「『どうして嘘つくんだ』って言ったら、帳場が『そんなの俺たちは知らん。お前らがそうやって手伝ってくれないなら、軍人たちは戦争できないだろう』って言われたら、何て言い返すんだい。『だったら、お前ら、ここよりもっと遠いシンガポールに送ってやろうか。』って言うんだから。…まったくあいつが暴れると、ひどく殴られて…死ぬほどに殴られてさ、仕方なく軍人たちが来たら相手しなきゃならなかったんだ。
おかしなやつら
他の異常はなくて、子宮に出血があった。
「タカオに最初に行って、そこにいながら子宮の検査を受けるんだよ。検査を受ける間はまったく相手をしなくてもよくて、その次の日から軍人の相手をさせられるんだ。
「初めてあれをした時は歳も満16歳になるかならないかだっただろう。…下が裂けたか、どうしたか知らないけど、出血したんだ。他の異常はなくて、子宮に出血があった、そんな目にあったから、初めてそんな目にあったから。幼くして初めてそんな目にあうと、歩き方も風が吹き込んでくるみたいにふうっとして、そんな感じだよ、他に何があるのさ。歩けないとか、そんなんじゃなくて、少し股が痛かった。
「9時になったら朝飯を食べるんだ。
「私たちの時間でとにかく朝10時になったら、軍人たちが押し寄せて来るのさ。
「皿洗い済ませて、掃除も全部して、そうして仕事が始まるのさ。そうしたら、夜には時間もないよ、夜は遅くまでやるんだ。
「軍人たちも、だいたい3時間なら3時間、交替で休暇に出てくるんだ。だから、軍人たちが押し寄せて来るのさ。
「一日に、だいたい20人ぐらい通って行ったな、夜まで。また、票をたくさん持って来て、夜もう一度やりにくるヤツもいたな。
「夜は、軍人が時間票をたくさん持って来たら、朝まで寝ていく人もいたよ。…たくさんいたよ、たまには一人で寝るときもあった。どうしてかって言うと、時間票を集めておいて、何枚も持って来たら、朝まで寝ていけるのさ。
「ひっきりなしにずっと来るんだよ、一人が出て行ったら。そうして、ある人は座りこんで長すぎるぞって大声で叫んで。(笑いながら) おかしなヤツがいるもんだよ。(大きく笑って)もうとんでもないとしか言いようがないんだ。
「日曜日はいつも多かった。なぜかというと、日曜日にはもっと外出の許可が出るから。
「その時には、仕方ないさ。だいたい30人以上だったと思う。入るとすぐに出て行くって、そんな感じだった。
「20分もいたら、大変なことになるんだ。外が騒ぐのなんの。
「だいたい、長くて15分。
「時間ないんだ。客を送ってお腹が空いたら、ご飯を持ってきておいたやつ、芋ご飯とかでもひと口食べて、また軍人たちの時間、相手をして、そんな毎日さ。それでも(力のない声で)その時はどうしてそうしたかって言うと、帳場に少しでも殴られないために、さっさと急がなきゃならなかったんだ。少しでももたもたしてると、頭とか殴られたり、耳元とか殴られたり、殴られないってことはないから。
「洗濯もご飯食べる時間にさっさとやって。…自分の洗濯とか、自分のことをするからって、軍人の相手をしなかったら、そりゃ殴り殺されるさ。
「だから、死ぬほどにつらかったんだ。
「他に何をやることがあるっていうんだい?どこかに外出なんか絶対させてくれない。…出られなかったよ。検査する時に外に出たくらいかな?それ以外には出入りできなかった。
「私はその家で仕事ばっかりさせられて、遊んでる時間なんか別になかった。もう軍人がひっきりなしに来るから。
「酒に酔って来ようものなら、刀を抜いてさ、人に突きつけるんだよ。
「下っ端の兵卒たちは、どうせ戦場に行ったら死ぬんだと思って…まあ偉ぶって酒を飲んで酔っ払って…勝手放題に行動したりするんだよ。
「ああ、そんなこと、思い出したくないよ、頭が痛くて。(しばし沈黙)
「食事は私たちが交替で準備して食べたんだ。食事の支度をしてくれる人なんていないんだから。そう、おかずはどうしたか知ってるかい。手当たりしだい、何でも食べるのさ。
「本当に、ご飯だけでもまともに、米だけでもくれたら幸いさ。さつまいも入れて、お米を少し入れて、そうして混ぜたら芋ご飯だよ、芋ご飯。
「石けんは全部使ってなくなったら、またくれたよ。…顔を洗う石けんも、洗濯石けんもくれて、洗面場に置いておけば、共同で使って。良いやつをくれると思うかい。良くないやつだよ。
「服は6ヶ月に1着ずつくれたんだったかな?くれたよ。月給をくれないのに、どうやって服を買って着るっていうのさ。お金をくれないから、あいつらが服でも着せてくれないと、軍人たちのお相手もできないだろう。
「服は、その頃、台湾が暑いんだ。ハソデ(半袖)のワンピースで(半袖を表現しながら)こんなふうになってるやつ。そんなのを用意してくれた。
「着物? そんな大げさなもの着て、どうやって客の相手をするのさ。そのワンピースってやつは、それは、まあ-(スカートを膝上までまくるしぐさをして)こうしてまくると、すっと脚が出るんだな。
「チップを少しばかりくれたりもするんだ。すると、それを貯めて私たちは…変な臭いがするクリーム、それ一つ買って塗れたら最高だった。…あと、私たちの洗顔用の石けん、そんなの一つ買ったら、少しずつ大切に使って、長持ちさせるのさ。買いたくてもお金がないからね。
「それに、チップがなかなかもらえないんだ。もらえないんだよ。新兵みたいな兵隊は、お金なんかないだろう。長い刀を差して、少しお偉い人をよく相手する人は、チップも少しずつもらってたけどね。運よくそんな人でも一度相手したら、一回訪ねてきて、二回訪ねてきたら、かわいそうだって、少しでもくれていくのさ。
白い薬
あれは絶対に妊娠しないようにってくれる薬なのさ。
「冷病(下半身を冷たくして起きる病気)に一度かかって、全治2週の診察を受けてな、2週間病院に通ったんだ。
「子宮に分泌物がひどくて、悪いものが出てきてね。
「冷たい水でずっと洗ってるから、子宮が冷たくなるだろう。…冷病になったら、検査しに行くと『冷気がある』って言われて、何日か治療を受けなさいって言われるんだ。他の病気は別になかったさ。
「一人相手したら洗浄する所があってな。あそこを洗う所があって、赤い薬を水に入れてあってね。
「冷病がひどい、または淋病みたいのにかかったとなると、その部屋は客の相手はできないって貼り紙しとくんだ。貼っておいて、2週間なら2週間、3週間なら3週間、ずっと病院に通うんだよ。一日に一回ずつ、ずっと通うのさ、一日に一回ずつ。
「早く治らないと、それは嫌がられて帳場にちょっとしたことで殴られるし。
「病気にはならないよ。サック(コンドーム)を使うからね、サック。…それを使わなかったら、私たちが日本の軍人たちを追い払っちゃうんだよ。それはイヤだって言って、追っ払うんだ。
「私たちが『子供を産めっていうの、出て行って』って言うと、そうしたら、そいつらも追い出されても仕方ないのさ。それは、規定にそう決まってるみたいなんだ。
「サックは、その家でくれるんだよ、全部くれるのさ、使えってくれるんだよ。私たちが、軍人たちが来たらあげていたんだ。
「何人も相手をするから、それを使わないと女に病気がうつるんだ。
「下が裂けたりすることはなかった。それなしで相手をしたら、痛くてできないんだ。あれって、塗るクリームがあってな、それを塗ったらヌルヌルするんだ。全部くれるんだよ、クリームを。…毎回すぐに洗浄してきて、また相手をして、また相手をするっていうのに、塗らないではやってられるわけないだろ?
「塗らないで、洗ったばかりの状態でサックのゴムがあそこに当たったら、本当に肉が裂けちまうよ。
「だから、私たち女は、男と愛し合って暮らす世界は知らないよ。(静かな声で)ひっきりなしに出て行って、また次の人が入って来ても、軍人たちは自分だけよがって、そして終わったら行ってしまうだけから。
「性病検診は、キゴからタカオに行って、1週間に一回検査を受けるんだよ、軍医がいる所で。
「606号は時々、一本ずつ打ってくれるんだ。それが、1号、2号、3号、4号、5号、6号まであってな。だから、606号って言ってたのさ。606号はものすごく強いやつで、3号みたいなのは、あれは私たちが検査しに行ったら、検査して出てくる時に病気などなくても一本ずつ打ってくれた。
「1週間に一本ずつ。1週間打たれたら、もう打ってくれない。1週間経ってから一本ずつ打ってくれるか、または3週間に一回ずつ打ってくれたりとか。それが、ものすごく強くて、人には毒になるんだって。
「それは血管注射でな、結構臭いがするんだ。…体に悪いものを寄せ付けないようにって打つんだよ。あと、ボタンぐらいの大きさの白い薬を一日に一個ずつ、ずっとくれた。それを飲んだら、子宮が縮んで…、それって絶対に妊娠しないようにってくれる薬なんだ、その当時の。
「副作用は別にないのは知らなかった。
「病院の施設はよくなかった。…今考えてみたら、バラック小屋と似た感じだよ。良い施設に作る必要はないだろう。…私たちが行って、検査だけ受けて来るだけだし。…ただ、名前を呼ばれたら入って、検査受けて出てくれば終わりなんだから。誰がそこに行って、軍医官が何人いるのかって質問するんだい、聞く必要もないさ。
自殺未遂
水に溺れて死ぬのも、霊に取り憑かれでもしない限り死ねないのさ。溺死なんてできないよ。
「仲良く過ごした子は、私よりもまだ分別がつかない子だったんだ。…掃除するのも、私が一つでも多く掃除してあげてね、幼すぎるから。
「その子は幼い歳で来て、少しのことでもよく泣くから、『あんたはどうしてここに来たの。』って聞いたら、『私はお金を稼ごうと思って来たんです。工場に行って、軍人の制服を作るっていうから来たんです』って言うのさ。その子もまた、制服を作るって言われて連れて来られたようなんだ。
「嘘ついて、みんな連れて来られたんだ。本当のことを言ってみな、誰が来るっていうんだ。
「私もそこに行って、はあ(深いため息をついて)水に溺れて死のうと思ってみたけど、水に溺れて死ぬのも、霊に取り憑かれでもしない限り死ねないのさ、溺死なんてできないよ。
「ああこうやって苦労しても、生きて帰って一目親の顔を見てからでないと死ねないって考えたら、死ねないよ。死ねるもんじゃないんだ。
「水にでも飛び込んで死のうか、どうしようかと考えもしたけど、少しずつ忘れて、慰めて。…これも一生、あれもまた一生、そうこうするうちに人生終わって、死んでしまえばおしまいなんだし、故郷に生きて帰って一度でも両親に会えたらそれこそ幸いだって、そう考えながら過ごしたんだ、特別なこと考えて過ごしたわけじゃないさ。希望なんてほとんどなかったからね。私たちがそこから出て、結婚相手とか探せるわけでもないし。私たち、どうせみんな-汚れた体なんだから…故郷に帰って、どこぞで、女中にでも使ってくれるなら、そこに行ってご飯でも食べさせてもらって生きて、死んだらそれまで。…ここから出て楽に暮らしたい、結婚したい、そんな考えはもとよりないんだよ。そこにいた人は、みんな同じ。私だけじゃなくてみんなそうだった。
ひそひそ
解放されたのは、それと聞いたんじゃなくて、何というか日本人に元気がないんだよ。
「元気がなくて、全然来ないんだ。…解放されたのは、それと聞いたんじゃなくて、何というか日本人に元気がないんだよ。
「私たちまでひそひそ話してたら、そうしたら台湾の人たちが来て、日本が負けた、降参したんだって言いながら、何日かいたんだ。
「原子爆弾が落ちて、降参したんだって言ってたね。だから8月15日解放って知ったのさ。そうして、日本人、日本の軍人たちもあれをやりに全然来ないから、全く来なくなったから。私たちは、最初は混乱して、ああ、これからどうしたらいいんだろう、このままじゃ私たちもここから出られずに死んでしまうんじゃなかろうかって、その時のこと考えたら。ああ日本人が勝ったなら故郷にでも行けたのにって思ったよ、そのときは分別ない考えだったから。
「私たちが解放されてから、だいたい10ヶ月、1年くらいそのままいたんだ。どうして台湾にそのままいたのかっていうと、船もないし、船賃があるわけでもないから、仕方がない。
「商売したのさ。…帳場が鶏卵を仕入れて来て、私たちに行って売って来いって言うのさ。
「そうするしかないだろう。食べる物もないし、何か買うにもお金がないし。…『お前はあれを持って行って売ってこい、これを持って行って売ってこい』少しずつでも売れたら、そのお金で米を少し買って、サツマイモを買って、米の上に乗せて芋ご飯にして、そうしたんだ。
「私は売れなかった。売れなくて、殴られたもんだ。
「同じ家の家族 がみんなで力を合わせて、そうしているうちに、船に乗ってな、みんなを乗せてくれる船があってな、乗せてくれる船があったから台湾から出て来られた。ただで船に乗せてくれたんだ。…釜山にそうして着いたんだ。
「台湾、そこから出て来る人が、その頃はどれだけ多かったことか、もうメチャクチャで、そこから(釜山港から)紙切れ一つももらえなかったら、運賃がないからどこにも行けない。列に並んで正確にいれば、紙切れをもらえて、出られるのさ。
「それ、紙のお金、こんなのを一枚、こうしてくれるんだよ、紙のお金。
「青年団 、青年団って言ってたよ。そこでみんなくれたのさ。
「釜山に着いて、どれだけ嬉しかったことか。ああ、生きて私の母さんにも会って、弟にも会えると思って。
「私が、夜も昼も、そんなに人に後ろ指さされることも知らずに。帰ったら、母さんをつかんで泣いて泣いて、大変だったよ。
運命
この苦労は持って生まれた運命なのか、何をしても苦労ばかりって感じで。
「私が家にいたら、だいたい1年、2年が経って、奥さんがいる人と出会ってね。
「安康で出会ったのさ。
「私が20代のいくつかだった、30歳未満の。
「その時は、結婚した人しかいなかった。全部戦争に行って死んじまって、人がいなかったんだよ。
「どんないきさつで、その人と出会ったのかは覚えてないよ、…とにかく誰かが紹介してくれたんだと思う、その頃。
「姓はファンだ。ファン氏の家はみんな 良い暮らしをしてた、両班(ヤンバン)だって。
「同居人として肩身の狭い暮らしをしたよ、本妻がいるんだから。
「10歳くらい年上だったかな、結婚した人だから。そうやって会って、絹商売して、20年くらい過ごしたんだけど、暮らし向きが厳しくて…苦労したのは言い尽くせないくらいだよ。
「このごろは、暮らしも、全く裕福になった。 大変だったよ、食べていくために苦労して。
「ものすごく苦労した。大変だった。ああ苦労は、もう、いっつもこの苦労は持って生まれた運命なのか、何をしても苦労ばかりって感じで。
「その妻子持ちの男が、またどこかでやらかして、また男の子を一人産ませて、1歳にもなってない赤子を連れて来たんだよ。連れて来た子を誰かに養子にやろうとするのを『私が育てる』って、他にやるなって言ったのさ。
「戸籍には載せられないさ…あの子は、私があの子を育てても、私の子にはなってなくて、あの人(本妻)の子になってるのさ。
「35歳で連れて来たんだっけ。34歳で連れて来たんだっけ。連れて来たのさ。…幼い頃から育てた情があるから、私が手放せないから、私が産んだも同然だよ…、少しも、あの子は私が産んだんじゃないって気が全然しないんだ。
「私が産んだんだと思ってるんだ。知らない。養子は女の子と男の子を産んだから孫が二人いるんだ。
「じいさんはやがて死んで…女中の仕事を長くして暮らしたよ。レストランでも何年か働いて…苦労したよ。レストランがどれだけ疲れるか知ってるかい。入れ物とか全部洗わなきゃならないし、冷たい水に洗剤をいっぱい、強いやつで洗うから、主婦湿疹になって、つらかったよ。そんなこと全部言うことはできないさ。それから、甘浦 に行って、他人の食堂で働いたり、あと、家庭に女中として入るのが一番ひどかったな。
「パンツまで全部洗わなきゃならないし、部屋の掃除も一日中掃いたり拭いたりしないといけないし。食堂では、疲れても私がやる仕事だけやれば終わるけれど、家庭の女中は、自分たちは出勤してしまって。…だから遅く帰ってくるまでの間、寝ないでドアを開けてやらなきゃならないから。
「家庭の女中も、だいたい3年やって、50歳を超えてからは、ずっとあちこちで働いた。他にできることはないし。
「ずうっとレストランで働いて、食堂に行けば、7~8年はまた働いて。レストランに行ったら、1年から2年はいるんだ。また別の食堂に行って、そのくらいいて。
「やれやれ、私が大邱に来てからは仕事をしてないけど、ずっと働き続けたんだ。ここに来て住んでからは3年しか経ってないさ。
「こうやって暮らして死んだら終わるさ、それだけだよ、他のこと考える余裕なんかない。そんなの、楽な人でなければ、ああだこうだいろんなこと考えてる暇なんかないよ。朝になったら仕事に行って、つらい仕事が終わって帰ったら寝て、ものを考える余裕なんかないさ。…だから昔から、この布団の下では夫のことが思い出されても、ねんねこの下では夫のことは思い出さない、ってそういうことなのさ。…知らないうちに時間が過ぎて、月日が過ぎていった。(細くため息をついて)どこに行って、何をどうしよう、また今月はお金をもらったら、またあれしてこれして、そんなことだけ考えて、それ以外のことは考えられないのさ。
「そうこうしているうちに年をとって、そんなもんだよ。
「60歳になって、65歳になって、そうして70歳になって。でも、あるお金持ちの家でおばあさんが亡くなって、再婚したらって誘われたけど、行きたくなかった、そこに行ってどうするのさ。
「子供のこと考えたら行きたくなかったんだ、行ったって大して変わらないだろ。…ただご飯食べて暮らすだけって考えて過ごしたのさ、他に方法もないし。
仮名
一人でも多くの人に知らせる必要なんかないだろ。
「最初にどうして私が届出をしなかったのかっていうと…故郷じゃない土地で女中奉公してた時だったから。兄嫁がいるんだけど、届出したらって言うんだよ。だけどなぁ今になって改めて思い出してどうするのさ。運のない私は、他人の家を転々としながら暮らしてるっていうのに、その時、何千万ウォンかでもくれるっていうんだったらしたさ。お金、数百万とか数十万ウォンとか、そんなんでどうするんだって思って『いやだよ、何を改めて恥さらす必要が』そうして忘れてたんだけど。…母方の従姉妹がいるだろう。『姉さん、姉さんが、川を越えて行って来たこと、届出したの。』って聞くのさ。『届出してどうするのさ、あの時は結局、やんなかったよ』、『どうして、今でもいいから届出しなさいよ』って言うからしたのさ、私が。
「細かいところまで思い出したんだよ。船の名前もアサマ丸ってことも思い出したし。…記憶を細かく辿ったら、すぐに思い出せたよ。あの時のこと、生々しくて忘れてないさ。どうしたことか、知らないうちにそれが頭の中に入って、それで忘れなかったんだな。
「そんなことをどう話すんだよ。母さんに話したって、父さんや母さんがもっと胸を痛めるだけだろう。ただ、知ってるなら知ってて、知らないなら知らないまま、聞きもしないし、私も教えたりしないで、そんな感じだよ。
「その人(妻帯者)は知らないさ。話してどうするんだい。知らないよ。親戚も、ほとんどの人は外国に行ったって聞いてたからどこかに行ってきたんだなって程度に思ってるのさ。
「私の弟の奥さん一人と、弟二人はみんな-知ってる、弟は。(小さな声で)その下の甥の奥さんは知らないよ。だから、この本をもしも私が渡したりしたら『あ、夫の父方の伯母さんがそうだったのか』って思うかもしれないからね。
「私が死んだ後なら、知ろうと、知るまいと。…一人でも多くの人にわざわざ知らせる必要があるのかい。ただそうして、このまま過ぎたらいいなって思うんだ。…知らないまま過ごす歳月が良いのさ、知ってて過ごすのは何も良いことないだろ。
重病
考えたら火病で耐えられなくなって、顔が赤くなって。
「帳場が靴をはいたまま蹴ったんで、膝が傷ついたんだよ、それを薬も塗らずにそのままにしておいたから、菌が入って化膿しちゃったんだ。それで、しばらく苦労したよ。
「これ、ここ見てみな。 ずい分時間が経ったから、何十年も経ったからこの位になったけど。(指で大きな円を描いて)最初はこれ位に大きかったんだ。でも、段々と小さくなってね。普通は、殴ったり蹴ったり、暴力をふるうときは、人間扱いなんかするもんか。…言うことを聞かなかったら『こいつら全部海に投げ込んで殺してやれ』って…だから、すなおに言うこと聞いて、なんとか死なずに生きて国に帰らなくちゃって、そのことを心の中に持って。それでも私たちは生きて韓国に帰れるって思えなかった。その頃はものすごく戦争も激しくなってたから、ここにいて他の所に連れて行かれたらどうしようって思ってたんだ。
「だからそういうこと考えたら火病で耐えられなくなって、顔が赤くなって、怒りが抑えられなかったよ。このごろはそれでもかなり落ち着いたさ。救心(心臓薬)を買ってあるんだよ。ずっと飲んでる。あそこに行って来た人の中で、心臓が悪くない人はあまりいないよ。飲まないと、心臓が激しく動悸して耐えられなくて、そのせいで性格も悪くなったし、きつくなってな。…やたらと体も弱くなって、心臓も良くないし、だから薬もたくさん飲んだよ。
「帳場に殴られて脊椎が少し、こうして曲がっちまってね。若い頃には別に何ともなかったんだけど、このごろは年をとったからか腰が痛いよ。歩くと、こうしてひん曲がっちゃうんだよ。若い頃に少し悪くした所が、年をとると出てくるって言うしね。
補償
死ぬ前に補償金でも少し受け取って、もう少し楽に暮らせたら。
「それしかないだろう…もう生きてるうちは悪い病気にかからず、自分でご飯が食べれて、他人に下の世話を頼まず、そうやって暮らして、眠るように死ぬのが一番だよ。…死ぬ前に、私たちが死ぬ前に補償金でも少し受け取って、もう少し楽に暮らせたら、そうして死ねたらいいなってことさ、他に何があるんだい。
「それしか願うことはないよ。どうしてかって言うと、こうして考えてみたら、まぁ賠償とか何とかって言っても、それでも少し出たら、苦労して暮らしてるあの子(養子)に少しでも足しになるだろうし、私の気持ちも楽になるだろう。…人の気持ちってみんな同じだよ、それだけさ。
「カトリックの教会に通って、気持ちがかなり落ち着いたし、性格も直したつもりだよ。
「このごろはお祈りをするとき、まぁ『日本人が私たち韓国を見て、とにかく謝罪するようにさせてください』って祈るんだ。一人で祈るときはそう祈ったよ。『世界が平和になりますように』って3回祈った後は『とにかく、日本の首相が韓国に、韓国に向けて、謝罪するように導いてください、神様』って、そう祈るんだ、私は。ハハハハおかしいだろ。」
- [註 011]
- 慶尚北道慶州市安康邑。
- [註 012]
- イ某はキム・ファジャの故郷の友だちで、一緒に連行された。
- [註 013]
- 友だちのイ某が船酔いが激しくて寝込んでしまった状況を表現した言葉。
- [註 014]
- 伝馬船の略語で、荷物を運ぶ小さな船。
- [註 015]
- 廊下を中心に、片側には女たちの部屋が並んでいて、L字型の内側には軍人たちが寝る部屋があり、建物の中間には庭があったという意味。
- [註 016]
- キム・ファジャはカゲツを運営していた夫妻を年寄りとじいさんと呼んだ。
- [註 017]
- キム・ファジャは軍人たちについて語る時、逆説的に笑う姿をよく見せた。
- [註 018]
-
カゲツに一緒にいた女性たちを指す。
- [註 019]
- キム・ファジャが釜山港に到着した時、運賃の名目で少しばかりの紙のお金を配ってくれた人たちのことを青年団と記憶している。
- [註 020]
- 最近は昔に比べて不自由なくぜい沢に暮らしているという意味だと思われる。
- [註 021]
- 慶尚北道慶州市甘浦邑
- [註 022]
- キム・ファジャには、軍人たちに蹴られてできた傷が長い歳月が過ぎ、今は多少のシミのような痕として残っている。傷の部位は膝と足首の間にあり、大きさは2cmほどである。