• 慰安婦
  • 日本軍慰安婦の真実

3.強制動員はなかったのか

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日本の保守的な政治指導者らは、「慰安婦」が日本軍によって強制動員されたという点を否認する発言をしてきた。
日本の安倍晋三政権(第1次)は、アメリカ下院が慰安婦決議案第121号を採択した2007年3月に自らの歴史的見解を示す発言をした。

- 「日本軍や官憲が強制連行したことを裏付ける資料はない」
- 民間業者が軍の「慰安婦」を強制動員したケースがあるにはあるが、「憲兵隊が民間人の家に侵入して女性を誘拐犯のように拉致したことはなかった」ため、「『慰安婦』狩りがあったという趣旨の証言は完全なでっち上げだ」
- 日本政府は、アメリカ下院の慰安婦決議案可決に応えて「慰安婦」被害女性たちに対する謝罪文を発表することを拒否した。

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上記のような日本政府の公式見解発表は、国内外からの激しい非難に直面した。これに伴い安倍総理は態度を変え、日本帝国の軍隊が公式に「慰安婦」問題に関わっていたばかりか、慰安婦を強制動員していたことを認め、謝罪と反省の意を表明した河野談話(1993年)を前面に押し出しながら、「総理」の資格で日本軍「慰安婦」の被害女性たちに謝罪した。しかし、安倍総理が「慰安婦」の強制動員を否認する自らの見解を撤回したわけではない。当時官房長官だった下村博文は、「軍の『慰安婦』がいたことは事実だが、日本軍がこれに関与していたことを意味しない。私は、一部の親たちが娘を売ったものと見ている」と語った。このような日本政府の「慰安婦」制度に関する一貫性のない態度のせいで日本は周辺国から信頼を得られず、続けて批判の対象になっている。『ワシントンポスト(Washington Post)』紙は、2007年3月24日付の「安倍晋三の二重発言」という社説において、「もし日本が、北朝鮮が犯した日本国民の誘拐事件に対する国際的な支持を得たいのなら、第2次世界大戦中に犯した、数千、数万の女性たちに対する誘拐、強姦および性奴隷化という過去の犯罪を率直に謝罪し、これに対する国家的責任を受け入れなければならない」と指摘した。
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日本政府が「慰安婦」強制動員における日本軍の介入を否定するのには、「慰安婦」問題の本質をぼかそうという意図があると思われる。日本軍と日本政府は女性を強制動員して輸送したばかりでなく、慰安所を運営し、この女性たちの自由と人権を剥奪したまま性奴隷化した。このような事実は、公開された公式記録と多くの国の被害女性たちの証言により裏付けられている。これにより、国連人権委員会が日本政府の行動指針に関する勧告を行うとともに、日本の地方議会を含む多くの地域や国々で慰安婦決議案が可決された。しかし、肝心の日本政府は「慰安婦」問題に対する解決策を見出そうとはせずに、韓国政府や「慰安婦」被害女性たちとの話し合いそのものを拒んでいる。

「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」


1993年8月4日
「(前略)今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。(後略)」
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「慰安婦」被害女性チョン・オクソンの証言
日本軍の性的虐待と拷問に耐えなければならなかった「慰安婦」女性たちの悲惨で苛酷な実像を伝える


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「私は1920年12月28日に朝鮮半島の北方にある咸鏡南道把撥里に生まれました。13歳になった年の6月のある日、野良仕事に出かけた両親の昼食を準備するために水を汲みにいった村の井戸端で、いきなり武装した日本軍に捕まえられ、引っ張っていかれました。両親ですら私に何が起こったのか全く知りませんでした。私はトラックに乗せられて駐在所に連行され、そこで多数の憲兵に強姦されました。私が大声を上げると、彼らは私の口に靴下を押し込んで私を強姦し続けました。駐在所長は、私が声を上げて泣いたという理由で左目を殴りました。その日から私は左目の視力を失ったのです。
10日ほど経って、恵山市にある日本軍兵舎に移されました。そこには、私を含めて約400人の朝鮮の少女たちがいて、私たちは性奴隷として毎日5,000人を超える日本の軍人を相手にしなければならなりませんせした。 - あるときは一日に40人以上の軍人を相手にしたこともありました・・・
ある日、一人の朝鮮の娘が、なぜ毎日40人を超える軍人を相手にしなければならないのかと尋ねました。この質問に対する罰として、日本軍司令官の山本は、刀でその朝鮮の娘を切り捨てるよう命令しました。日本軍人は私たちの目の前でその朝鮮の娘を裸にし、手足を縛り、釘が打ち込まれた板の上を釘が彼女の血や肉片で覆われるまで転がしたのです。
......
その当時、軍の兵舎にいた少女たちの半分以上が死んだと思います。私は二回逃亡を図ったのですが、二回とも数日後に捕まってしまいました。私たちは日が経つほど酷い拷問を受けました。私は今でも傷が残っているほど何度も頭を殴られました。また、彼らは最初から殺すつもりで私の唇の内側、胸と腹、そして体に入れ墨を入れ、山の尾根に捨てたのです。馬車に積まれてきた女性たちを日本軍が投げ捨てる様子を遠くから見ていた一人の中国人男性が、私とクッケを運び、約2ヶ月間看護してくれました。私は日本軍の性奴隷として5年を過ごした後、18歳のときに傷と不妊、そして言葉も満足に話せない状態で朝鮮に戻ってきました。

国連人権委員会特別報告官
ラディカ・クマラスワミ(Radhika Coomaraswamy)報告書から

 
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