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紆余曲折の末に出て来るキル・ウォンオクの物語

【※キル・ウォンオクの口述を聞いて録音記録をする作業は、ナ・ジュヒョン(成均館大史学科修士課程)、オ・ヨンジュと共に行った。】
キル・ウォンオクの物語は、多くの紆余曲折の末にこの本に載せることができた。2002年5月、初めて研究チームが構成された時、キル・ウォンオクの口述作業も一緒に始まった。私たちは最初にチームを組んで、日本軍「慰安婦」問題についての学習とインタビューの要領、録音記録作成の原則を話し合った後、全国に散らばって日本軍「慰安婦」だった女性たちから話を聞いて、再びソウルに集まり、各自が担当した口述作業の進行状況を討論し合う方式でチームを運営していた。その草創期の作業の時、キル・ウォンオクをインタビューしてきたチーム員が、キル・ウォンオクが慰安所に二回も行ったという報告をした時、私たちは少なからず衝撃を受け、キル・ウォンオクの過去の人生がとても気になった。しかし、私たちはその後、録音記録を読んで討論する過程で、慰安所に二回も行ったという衝撃がしらけるほどに、キル・ウォンオクの記憶はとても貧弱だと判断した。私たちは、キル・ウォンオクをインタビューしたチーム員に、キル・ウォンオクが60年あまり前の記憶をより多く現在に呼び起こせるよう、もう少し積極的にインタビューすることを求め、3回目のインタビューには私がインタビューを支援するために同行したりもした。しかし、キル・ウォンオクはなかなか過去の記憶を引き出すことができず、『それを全部記憶していたら、きっと生きていられなかったはず』という答えだけを繰り返した。私たちは、キル・ウォンオクの物語を読者に伝えるために、あるいは60年あまり前には確かに存在していたけれど、記録されていない日本軍「慰安婦」問題に対する「証拠」を探すために、もう少し多くの情報が必要だと考え、キル・ウォンオクをインタビューしたチーム員に継続的な追加インタビューと、細心の録音記録作業を要求した。しかし、キル・ウォンオクの記憶は依然としてあまりに貧弱で、沈黙している口述者と、口述者の記憶をもっと引き出そうとするチーム員たちの要求の間で、キル・ウォンオクをインタビューしたチーム員は次第に疲れていった。結局、この本の作業が始まってから1年半が過ぎた頃、キル・ウォンオクをインタビューしたチーム員は、キル・ウォンオクのインタビューを本に載せることをあきらめてしまった。
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私がキル・ウォンオクのインタビューを再び補充することになったのは、その後5ヶ月が過ぎた2004年2月末のことだった。2004年2月といえば、インタビュー作業はもちろん、本に載せられる編集本、参加後記などが全て完成され、総論の議論の最終段階に至った頃だった。こうして遅くキル・ウォンオクのインタビューを補充し、彼女の物語を本に載せることにしたのは、他でもなくキル・ウォンオクに対するチーム員たちの道徳的な責任感のためだった。
キル・ウォンオクは、最初にインタビューを始めた2002年6月の頃はまだ、自分が日本軍「慰安婦」だったという事実が周囲の人にばれるのではないかと心配していた。インタビューが行われている間、外で何か音がすると、言葉を止めて外の様子に気を使ったりした。そんな彼女が、今回の口述作業を通して韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)と連絡がとれ、挺対協で行う行事に参加しながら、少しずつ変わり始めた。最初は人権キャンプのような親睦会を通して他の日本軍「慰安婦」の生存者と出会いを重ねながら心を開き始め、次第に水曜デモに参加するために早朝から急いで仁川からソウルまでやって来る積極性を見せ、2003年8月にはKBS放送局の『これが人生だ』という番組の撮影までこなした。彼女は「挺対協でどこかに行こうっていう時ほど幸せな時はない」と言いながら、自分が日本軍「慰安婦」だったことを公にすること、他の「慰安婦」の生存者たちに会うことをためらうことなく、「慰安婦」問題の解決のために積極的に闘争する「運動圏」の義士となっていった。8万から20万人と推定される日本軍「慰安婦」の女性たちのうち、2004年4月現在で政府に公式に届出をした女性は212人であり、そのうち出版された5冊の証言集を通して証言をした女性は66人だけである。私たちは現在を生きている「慰安婦」生存者たちの物語が、単に一人の人間の個人史にとどまるのではなく、他国で名もなく死んでいった数十万の「慰安婦」の女性たちの声を代弁していると考えている。だからこそ私たちは、彼女たちが拒否さえしなければ、生存している全ての「慰安婦」の女性たちの物語を記録し、歴史化しようとしている。キル・ウォンオクはこうした私たちの作業の意義を充分に理解していて、「証言」を拒否することもなく、むしろ本がいつ頃出るのかと待っていた。もしも「証言集」第6巻となる今回の本にキル・ウォンオクの話が載せられなければ、「証言集」第7巻の作業をしながら、また誰かがキル・ウォンオクの話を記録するために、マイクとカメラを向けるだろうし、キル・ウォンオクはまた『記憶していたら、生きて来られなかった』というほどにむごたらしい記憶を引き出す苦痛を受けなければならないだろう。私たちは、キル・ウォンオクの物語を記録する作業が、最初にキル・ウォンオクをインタビューしたチーム員の全的な責任の下で成されたとは思わない。それよりは、むしろ私たちチーム員全体が共同責任の下で、この本に載る全ての日本軍「慰安婦」の女性たちを共同して再現していると考えている。私たちは、口述者を選定すること、口述者に会ってきて討論すること、録音記録を読むこと、編集本を作ること、参加後記を作成することなど、数十回の公式な集まりで一緒に仕事を進め、お互いの再現物を校正し合いながら共同で完成させてきた。だから、キル・ウォンオクをインタビューしたチーム員がこの作業をあきらめたからといって、私たちまでキル・ウォンオクをあきらめてはならないと考えた。それは、つらい思いをして沈黙を破って出てきた「慰安婦」生存者の勇気を無駄なものにしてしまうからだ。
このような理由から、私はチーム員たちとの合意の下、2004年2月、遅ればせながらキル・ウォンオクの追加インタビューを進めた。追加インタビューは、仁川に住んでいるキル・ウォンオクが、水曜デモに参加するためにソウルに来た時、水曜デモが終わった後に挺対協の憩いの場で行われた。インタビューは、主にどのようにして満州、中国に行くことになったのか、そこでどんなことがあったのかに集中した。キル・ウォンオクは13歳という幼い年に慰安所に行ったせいか、「元締めのハルモニを見ると、軍人を見て震える以上に怖かった」と言いながら、自分を統制する大人たちと、両親がいないという環境そのものが恐怖となる、幼い子供の視線で当時の苦痛を記憶していた。キル・ウォンオクの記憶は、激しく損なわれていて、依然として私たちが満足するだけの「情報」を提供してはくれなかったが、私はそれでも、私たちが暗黙のうちに本の出版のために必要だとして立てた基準にはある程度達したと考えた。編集本は、最初からキル・ウォンオクをインタビューしたチーム員が作った基本の枠を中心とし、足りない部分を埋めていく方法で再編集した。私は、キル・ウォンオクの物語が歴史の一つの場面として記録されることを信じて疑わなかった。
しかし、再編集されたキル・ウォンオクの編集本をチーム員と議論する過程で、紆余曲折がまた始まった。キル・ウォンオクが二度目に慰安所に行く時、少なくとも「お酒を売り、歌う所」だと認識して行ったという証言が、私たちがこれまで知っていた知識、すなわち日本軍「慰安婦」の動員過程は強制連行や就業詐欺だったということと食い違うということである。再び、過去約2年間に渡る編集会議の度に議論した、日本軍「慰安婦」というものの範疇をどこまでとするべきなのかという問題にぶつかった。私たちは、今でも時々攻撃してくる日本の右翼の舌鋒を無視することはできなかったし、攻撃の原因を与えることにもなりかねないキル・ウォンオクの物語を本に載せることに懐疑的だった。私たちは「キル・ウォンオクは、果たして日本軍「慰安婦」という範疇に含まれるのだろうか?」という問題について、再び混乱に陥った。
実のところ、日本軍「慰安婦」の範疇に対する混乱は、私たちの作業の間中、中心的な話題だった。「慰安婦」の境界はどこからどこまでなのだろうか?その境界は誰が作ったのだろうか?日本の政府が「慰安婦」犯罪を認めていない現実にあって、「慰安婦」の境界は、生存者の証言と植民地期の資料を基に、歴史研究者たちが作ったと見なすことができる。それならば、初期に証言を行った生存者たちと、現在の生存者たちがお互いに異なる種類の「慰安婦」ではないはずなのに、どうして私たちの作業に参加した口述者たちは、既存の「慰安婦」の枠の中になかなかはまらないのだろうか。このような質問と向かい合い、答えを探しながら、私たちは、私たちが見逃している重要なあることを発見したのだが、それはほかならぬ口述者たちの声だった。私たちが最初にこの作業を始める時は、「慰安婦」というある範疇や枠を決めておいて、口述者たちにそれを証明できる「証人」になってもらうことを要請したわけではなかった。私たちの作業は、口述者たちに声を与え、その声が一般の人々に聞こえるようにすることだった。キル・ウォンオクは「今も、そのことを聞いたから知っているけど、その頃は慰安婦が何なのか、挺身隊が何なのか、そんなことは聞いたこともなかったよ。そんなことも知らずに、ただ獣以下だった」と言っていたのが、テレビで「慰安婦」の補償問題が報道され、支給されるお金の額が多い少ないということが問題になっていた時、「実際にお金を受け取るべき人たちは、そのことを隠して、恥ずかしく思って、顔を上げることもできないのに、ああして関係ない人が騒いでるんだから」と言いながら、自らの経験を放送に出演している「慰安婦」経験者と同じ線上に置いた。キル・ウォンオクは、韓国社会では強制連行や就業詐欺で連行されて行った女性たちにだけ「慰安婦」という名前を与えるという事実を知らない。彼女は、自分の経験を「獣以下」のものだと説明すること以外に、他の言葉を持っていなかった。しかし彼女は、韓国社会の性談論の地形内で「慰安婦」の経験を恥ずかしがったとしても、強制的に連行されたのかどうかとは関係なく、その「獣以下」の経験が明確に「慰安婦」の経験であったと規定している。これは、私たちが日本軍「慰安婦」を見つめる時、「慰安婦」になる前には、どれだけ純潔な処女だったのか、連行過程がどれだけ強制的だったのかの問題に焦点を置くのではなく、慰安所という所が徹底して世の中と断絶され統制された所だということ、毎日数多くの男たちに持続的に強姦され続けなければならないということに対する情報を、当時の女性たちがとれだけ持っていたのかという問題に焦点を置かなければならないということを示している。キル・ウォンオクが、たとえ「お酒を売り、歌を歌う所」ということを知っていて行ったとしても、それが「獣以下」の経験をしなければならない所だということについては、誰からも聞くことはできなかったのだろう。そのように情報が徹底的に遮断された状態で、「お酒を売り、歌を歌う所」だと思って行ったことに、いかなる意味があるのだろうか。キル・ウォンオクの声は「強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦」という公式談論を解体しなければ、到底聞こえては来ないものなのだろう。
口述者の声が、口述者の物語が、個人の経験と異なる方式で構成されてきた公式談論を根底から覆す力を持っていると、私たちは信じている。私たちの作業は、口述者の声を一般にまで聞こえるようにすることを超えて、口述者の声を支持する次元にまで広がった。キル・ウォンオクの声は、私たちに「強制的に連行された朝鮮人軍慰安婦たち」という範疇を解体させ、あらゆる情報から遮断された状態で持続的な監禁、暴行、強姦など、獣以下の経験を強いられた全ての女性たちを含む新たな範疇として構成されなければならないということを物語っている。すなわち、何の情報もなかった当時の女性たちにとって、「強制」と「自発的」という概念の差は何の意味もないということを語っているのである。このようなキル・ウォンオクの声を支持しながら、私たちはキル・ウォンオクの物語をこの本にともに掲載する。

 
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