歴史を創る物語


「やつらが来て、補償して、私たちに謝れ」


    1923年
    忠清北道永同生まれ
    1938年
    (16歳)
    永登浦で日本軍「慰安婦」として連行
    満州牡丹江の付近で日本軍「慰安婦」の生活
    1940年
    (18歳)
    一番目の子供を妊娠
    シンガポールの慰安所に移動
    1941年
    (19歳)
    一番目の子供を出産、すぐに死亡
    1942年
    (20歳)
    二番目の子供を出産、すぐに死亡
    1943年
    (21歳)
    3番目の子供を出産、すぐに死亡
    1944年
    (22歳)
    4番目の子供(娘)を出産
    1945年
    (23歳)
    解放後、娘と一緒に故郷の永同へ帰国
    1946年
    (24歳)
    浦項のヤン某の家に居住
    1948年
    (26歳)
    慶尚道や大田、ソウルなどで商売
    1960年頃
    (38歳頃)
    従姉妹の娘を養女縁組する
    1964年
    (42歳)
    ソウル市恵化洞で家政婦として働く
    慰安所で産んだ娘は渡米
    1965年
    (43歳)
    慰安所で産んだ娘が死亡
    1970年初めと推定
    中学生の孤児を養子縁組
    2001年
    (79歳)
    日本軍「慰安婦」登録
    2004年
    (82歳)
    仁川で養女夫婦と暮らしている

永同→ソウル→満州→シンガポール→永同

「ある時は、じっと横になって考えてると、ガバッと起き上がるんだよ、私が。もどかしくて。(胸を打ちながら)ここが苦しくなって、はぁ、一回ずつ深呼吸しなくちゃならないんだ。そうして、天井を見上げて、何も考えずにいたら、ようやく落ち着いて、大丈夫になって。また、頭に何かが思い浮かぶんだ。そうしたらまた、あぁ、耐えられなくなるんだ。外に出て、『あぁ、外に出て、ちょっと息をついて来ないといけない』って(ため息を長くついて)、はぁ、なんとか、すっきりと息をつかないといけないのに、無理やりに息をつくとつらくてたまらないんだ。頭にやたらと思い浮かぶと、それを思い出して。

「それをじっと考えていると、苦しいんだ。狂ったようになるんだ。はぁ、ため息をつかなきゃならない、無理やりにでもため息をつくんだよ。スーとため息がつけたら少しは楽なんだけど、無理やりに出すから、夜も眠れなくてね。

「やつらが来て補償して、それだけ私たちは、やつらのせいで未婚のままで年老いてしまった。こうして、幸せを知らずに生きている。だから、補償して、やつらが来て、私たちに謝れ。そんな話をしたいよ。


木綿工場


山の丘の上にあるんだけど、ちいさな家があって、そこに連れて行かれたんだ。

「家族は永同[註 112] 市内から10里入ったところにあるテパッマ里に住んでいたんだけど、今度はそこから永同邑に引っ越したんだ。

「学校にはその門前にも行けなかったから。…私の父さんが勉強させてくれなくて。あの娘を勉強させたら、他人の家が滅びる(女性が自己主張しだすと家庭が崩壊する、といった俗説)って、いつも本を取られて。あぁ、頭は良いんだけど、勉強をさせてもらえなくて、後悔してるんだよ、私が、父さんを恨んで。

「兄弟は、女が6人で男が2人。姉さんたちはみんな結婚して出ていって。

「永同に来てから、私は日本人の家に少しいたんだ。子守りをしてね、生きていくために。…その家からお金を盗んで、昔、あれをする人がいただろう?独立運動。盗んで、独立運動をする人たちに渡そうと思って。子守りをしに行ったから、赤ちゃんのおくるみみたいなのがあるだろう。そこに入れて行ったんだ。行ったんだけど、その日は、その家の主人がお金を探さなかったんだけど、次の日にお金を探したんだよ。それで、私のことを疑ったんだ。それで、黙って元のところに置いておいたら、『あ、隅にあるのに気付かなかった』って言って。隅っこに隠しておいたから、急いで持っていって。使わなくてよかったよ、使ってたら、その日は大変な目にあっただろうよ。そうして、その日からその家を出て来たんだよ、その家に1ヶ月いたんだけど。そう、その家の運転手、事務をしてた人が言ったんだ、『お嬢さんは、とにかく普通じゃない。ちゃんと勉強すればよかったのにな』って。

「昔、田舎で映画を上映したりしただろう。それを見物に行こうとすると、父さんが怖くて、黙って逃げたんだけど、旅館で働く男が一人いたんだ。その人が、やたらと私を追っかけるんだよ。私の父さんが知ったら、死ぬほどに叩かれるさ。それで、他の家に入る振りをして、私の家に帰ったから、二度とは訪ねて来れないじゃないか。そうやって知恵を使ったのさ。なのに、どうしてあんなところに連れて行かれたのかはわからない。

「家で、暮らしが厳しいから…叔母さんがソウルで息子二人と住んでたんだけど。家が大きいから、下宿屋をしながら暮らしてたんだけど、そこにおいでって言うんだよ。

「その時は15歳か、16歳か、記憶がはっきりしてないよ。永登浦に木綿工場っていうのがあったんだ、日本人たちがやっていたようだ。

「両親には工場に行くって話して、叔母さんの家に行ったんだ。

「永登浦の駅前に降りたら、ある男が私にどこに行くのかって聞くんだよ。それで、工場に行くんだって言ったら。そうしたら、工場に行くんだったら、自分が工場で働いてる人間だから、ちょうど良かったって、工場に行こうって言うんだ。そうして連れて行かれたら、山の丘の上にあるんだけど、ちいさな家があって、そこに連れて行かれたんだよ。『どうして工場に行くって言ったのに、ここに連れて来たの』って言ったら、夜だから日が明けたら行こうって。それで、そうなってしまったんだよ。

「その人が日本人なのか、韓服を着ていたからわからないよ。後で見たら、軍属、軍人じゃなくて軍属っているだろう。それだと思うよ、着ていたのを見たら。まあ、韓国人のようでもあったし、話しぶりを聞くと日本人だったようでもあるし、わからないな。


逃亡


『私が逃げたら、お前も一緒に逃げるかい?』

「日が明けたら、ご飯を、おにぎりみたいのをくれてさ。それを食べていたら、行こうって言うんだ。それで行ったら、汽車に、その頃は汽車が走ってただろう。汽車に乗って満州の牡丹江って所に降りたんだけど。

「満州の平原に、小さな家があったんだ。部屋がこうしていくつもあるんだ、ちいさいのが。…人が住んでいる場所とは離れてたよ、とても離れてた。

「一人が寝られるくらいに部屋を分けてあって、女の子たちを入れておいて、軍人たちの相手をするんだよ。…軍人たちがかける毛布が一枚あったんだけど…毛布一枚をかけて、あんな寒い所でどうやって、あんなに寒かったのに、どうやって過ごしていたんだろうと思うよ。

「軍人も多くはなくて、遠くに離れているから、一人ずつ来て、多くは来なかったよ。

「韓国人はいなかったよ。日本人の下士官、軍属、そんな人が来たさ。下士官は星が3つだ。

「何日かいたんだけど、これはいくら考えてもおかしいって、部屋もそうだし、やってる行動が。それで、女の人、少し年をとった人が一人いて、その女の人が言うんだよ。『私が逃げたら、あんたも一緒に逃げるかい?』、『お姉さんが逃げるなら、私も一緒に行きますよ』、そうして、機会を見て逃げ出したんだけど、そいつらがどこかに隠れて見ているとは思わなかったよ。銃を空に向けて撃つんだ。だから、逃げられずにいたんだよ。また捕まって来て、あの人はたくさん殴られたよ。私は口数が少ないし、おとなしいから少しだけ殴られて、あの女の人は『お前が誘って連れて行ったんだろう。』って言われて、そうしてたくさん殴られたんだ。鼻に水を注いで。日本人たちは、昔から水にとうがらしの粉を混ぜて、鼻に注ぎ入れるじゃないか。ひどいやつらだよ、やることを見てたら。

「その時に捕まりさえしなかったら、上手く逃げられただろうに、捕まってしまって。私は耳のところを叩かれて、それで電話を取れないんだ、よく聞こえないんだよ。


シンガポール


妊娠して、それも知らずに、シンガポールまで連れて行かれたんだ。

「釜山に行くって言うんだよ、釜山。釜山に行けば、姉さんもいるから会えるって思って。[註 113] …姉さんたちの家に逃げていけばいいって思ってついて行ったんだ、ついて行くしかなかったし。そうしてついて行ったら、旅館で寝たのか、どこで寝たのか、とにかく寝たんだよ。そしたら、船に乗れって言われてね。船に乗れば、あそこ、良い所に行くから船に乗れって。それで、船に乗って、1ヶ月かかったよ。水の中を移動するのがあるだろう、中で動くやつ。[註 114] それを避けて行くために1ヶ月かかってね、シンガポールに行くのに。1ヶ月間もご飯を食べられなかったんだから、どうなると思う。人が、みんな死ぬんだよ。子供は中に、お腹にいるし。あぁ、言い尽くせないよ。

「妊娠して、それも知らずに、シンガポールまで連れて行かれたんだ。

「オキナグサの根を食べると子供を堕ろせるって聞いて、それを食べたら、私の方がつらくてね。ものすごく強いんだよ、そのオキナグサの根が。また、アイロンを(お腹をさすりながら)ここにかけたら、お腹にゆっくりと当てたら堕ろせるっていうんだけど、それでもだめでね。

「子供を数ヵ月後に産んだんだけど、病院にも行けなくて、逆子で出て来て、私は死ぬんだと思ったよ。力を入れろって友だちが、赤ちゃんが逆さまに出てきたって、力を入れろって言うから、ふんばって、私が生きようとして産んだんだよ。

「そうやって死にそうになりながら、産んだんだ。でも、赤ちゃんは死んだよ。よかったさ、私にとっては。

「神様が私に、便宜を図ってくださったんだよ。その子を育てたくても、育てられないからね。

「赤ちゃんは死んで、体の回復もできないし。産褥のためのわかめ汁があるわけでもないし、何があるっていうんだ。冷たい水に、ただご飯を食べるから、歯が全部だめになってね。その赤ちゃんを産んでから、1ヶ月位経ったかな。そしたら、また客の相手をしろって言われて。


日本のやつら


『あいつら、どうしてやたらと来るんだよ』

「シンガポール市内から、約5里行った所に、おかしな所に家があってね。…家だけ一軒、おおきくあるんだ。

「女たちがだいたい、20人はいたと思う。二階と一階があったから。

「大きな所にいてから、別の所に移動したんだ、私たちが。家も這って入って、這って出てくるようなそんな所に移動したんだ。もっと奥に入っていったんだよ。言ってみれば、前線に行く所だよ。…そこは夜になると、地面を掘っておいて入る所があるだろう。防空壕。それを掘ってあるんだけど、飛行機がブーン、ブーンって飛んでるんだ。そうして、その中に入ったんだよ。水が(腰のあたりを指差して)この位まで上がってきて、虫もくっついてきたりするんだ。

「私たちがいた所をシンマチって言ったんだ。シンマチがいくつもあったんじゃなくて、私がいた所だけだった。

「それでも良かったのは、シンガポールの方が良かったな。そこでは、人があまり来なかったから。一週間に二人または3人、4人来るぐらいだから。私は、台所で働いたりして、私が来ないって他の女たちが言うと『私、ご飯炊いてるの。行けない』って言うと、自分たちで決めて客の相手をしてやってたんだ。

「ご飯ももらえないんだよ。毎日、自分たちで準備しないといけないんだけど、なす、なすを油で炒めたやつ、はぁ、飽き飽きするよ。それと、ご飯を食べるんだけど、ご飯が、お米がきちんとしたもんかい。安南米みたいなやつだよ。

「お米、軍人たちが持って来てくれたら、虫に食われたご飯を食べたんだ。虫がプカプカと浮いててさ。

「服は着るものがなくて、お金がないから、買えないんだよ。言うまでもないさ。そこに何年もいて出てきても、着の身着のままで出てきたくらいなんだから。

「あぁ。軍人たちが来たら、お金をくれると思うかい?くれないよ、日本のやつらは。たまに良い人に会うと、少しずつくれて、韓国人がちょっとくれて、あとはないよ。普通、お金をくれたりすることはないんだ。私は、化粧はしなかった。他の人は化粧品を買ってどうこうしても、私は化粧品は絶対に買わなかった。化粧してどうするんだい?やつらにきれいに見えてどうするんだ。髪の毛も、ただ平凡にして。顔は洗ったかな。洗いもしないで、素顔ままで出て行くと、軍人がこうして見て、そのまま出て行って。他の女を連れて入るんだ。(笑いながら)私は悪知恵が働いたから。

「そいつらが来たら、オソオセヨ、日本語でいらっしゃいませなんて、そんな風には絶対に日本語は使わなかったよ。韓国語を使うのさ、私たちだけでいる時は。チュンジャ、日本語でヨシコ、そんな風に名前をつけられるだろう。でも私たちは、ただ名前を、チュンジャならチュンジャ、ファジャならファジャ、ヨンジャならヨンジャ、そう呼んで、ぜったいに日本語では呼ばなかったんだ。

「日本の女たちも、そこに来て体を売りに来た女たちがいたんだ。お金をもらって売りに来た女たちがいたよ。…私と一緒にいた女の子が体つきがちいさくてね、とても。そんな子が日本語が上手で。その子は、日本の女の子たちが何か間違いを犯すと叩くんだ。そうして、お風呂に行って、日本の女たちがいたら、私たちが石けんで体を洗った後に、水で流さないでそのままお湯に入っちゃうんだよ。すると、日本の女たちが朝鮮人、汚いって、朝鮮人は汚いって言って、みんな逃げてしまうんだ。だから、私たちだけでお風呂に入ってくるんだよ。そんな意地悪したんだよ、みんなで。

「軍人たちが来たら、朝鮮語で『あの馬鹿やろうども、どうしてやたらと来やがるんだよ』って。あの馬鹿やろうども、どうしてやたらと来やがるんだって、どれだけののしったことか、座ってね。韓国語を知ってるやつなんかいるもんかい?あぁ、罵詈雑言の嵐さ、私たちは吐いた。あの犬野郎、亀野郎、銃に撃たれて死んじまえってね。ハハ。


よくしてくれた男たち


私の父さんが日本のやつに嫁に行かせるかい?

「私に、一緒に暮らそうって、ある日本人がどれだけいろんな物を持って来てくれたことか、食べる物を。だけど、私が嫌だって、そうしないって言ったんだ。日本のやつとどうして私が暮らすんだよ、嫌だって言ったんだ。いつも来たら、私の体を大切にしてくれて、寝たりなんかしないで、食べる物をいつも持って来てくれるんだよ。あの頃、日本人たちのお菓子、ものすごくおいしい物があったんだ。それを全部持って来てくれたんだ。一緒に暮らそうって、そうして自分の家に手紙を送るからって、服も作って送ってもらって、結婚もしようって、何だかんだって言われても、私がその時は言うことをきかなかったんだ。その人のことは覚えてるよ、顔を。顔は、今見てもわかる。どれだけ熱心だったことか。

「私の父さんが怖い人なんだよ。ケンカをしていても、私の父さんの咳払いが聞こえたら、みんな逃げて行ったもんだよ、永同で。それに、相手が日本人なら、本当に。白い服を着ていたら、絵の具を溶いた水をかけちゃうじゃないか、日本人が。色を染めてから着ろって。そうしたら、その日本のやつを殴るわ蹴るわ、うちの父さんが。それほど怖かったんだ。そんな父が私のことを日本のやつに嫁に行かせると思うかい?行かせてくれないよ。

「韓国人は、船乗り、捕虜を監督する人、軍属として入って来た人たち、こんな人たちが時々二人、3人と来るんだ。

「ヤン某って…韓国人なんだけど、浦項に住んでる人で、その人も軍人なんだ。…軍属。その男がまた、本当によくしてくれたんだよ。自分が来るまで他の客の相手をしないで、自分が来たら、終わる時間まで他の客の相手をしないようにって、少しいてくれて。

「解放されたら自分の家に行って、一緒に暮らそうって言ってくれたんだ。それで、うん、一緒に暮らそうって答えたのさ。今までよくしてくれたから仕方ないのさ、そのときは一緒に暮らそうって答えたんだ。その頃は、私はずるかったから。


梅毒


痛いのはともかく、よかったって思ったよ。

「消毒薬をくれるんだよ。それで消毒すると、虫、ほそ-い虫、頭が黒くて、うようよしてるんだ。水に出てきて、うようよしてるんだ。サック(コンドーム)があるだろう。それをはめてやるやつ、サック。それをはめようとしない人が多いんだよ。…消毒薬で洗ってたけど、洗っても何の意味があるんだい。また妊娠したんだよ。

「また赤ちゃんを妊娠したんだ。また妊娠して、あの当時には堕ろす所なんかないんだから。それで、また産んで、また死んで、死んじゃってね。

「ふぅ-どうして死んだのかっていうと、私の考えではこうなんだ。薬をたくさん使うだろう。消毒薬。薬もたくさん使うし、注射も打たれるし。だから、赤ちゃんも弱いし、病気にもなるんだよ。

「梅毒、りん病にかかって、死にそうになったんだ。…ものすごくつらいんだ。あぁ、私が満州で病気にかかって…満州では検査しに行く暇がなかったんだ。一年間いたけれど、検査をしなかったんだ。…その時は知らなかったんだよ、病気にかかったことを。時間が経つにつれて、ものすごく痛いんだよ。タコの足の吸盤みたいなのができて、ひどかったよ。あぁ-その話をすると今でも身の毛がよだつよ。

「シンガポールで検査したら、606号を打ってくれたんだ。病気の検査をしに、一週間に一回ずつ、必ず行くんだよ。そうしたら、病気だってわかって。そうしたら、貼り紙をするんだ、お客さんをとれませんって。扉の前に、私の部屋の扉の前にさ。貼り紙をしたら、検査をしに何度も行かなければならないから。

「『あぁ、よかった』痛いのはともかく、よかったって思ったんだよ、心の中では。

「日本のやつが一人入って来て、やろうとするんだよ。『貼り紙は見てないんですか』って聞いたら、サックをはめたら大丈夫だろうって言うんだ。『今はとても痛くでできない』って言ったら、日本のやつが大騒ぎして出て行ってね、そんなこともあった。

「そうして、貼り紙をしておいて、注射を打ってもらいに行くんだよ。

「治ったら、また相手をしろって言われて、扉の前の貼り紙をはがすんだ。


死んだ友だち


『私がこんな所にいたのに、家に帰ったとしても何の望みがあるんだろう』

「友だちの一人は、薬を飲んで自殺したんだ。かなり年上だったんだけど、全羅道の人でね。

「『私がこんな所にいたのに、家に帰ったとしても何の望みがあるんだろう』そう書き残して死んだんだ。朝食を食べようって部屋に入ったら、死んでいたんだ。アピン、アピンってあるだろう。指を切って、自分の血を吸ってアピンを一緒に飲んだら死んでしまうんだよ。寝たまま死んでしまうんだよ。そうやって、死んでしまった。

「死んだあの女の人、もったいない。おとなしくて、本当に良い人だったのに、情も深くて。その女の人が死んでから、私たちが座って撮った写真があったんだけどさ。ずらっと座って、ここに花をつけて、みんな座って。その前は、看護婦たちが着る服があるだろう?それをみんなで揃えて着て。みんなで白い服を着て撮った写真もあったんだけどね。写真は日本のやつら、軍人たちが来て撮ってくれたんだよ。一枚ずつ、みんな持っていたんだけど…戦争で焼けてしまってなくなったよ、家が焼けてしまったから。

「そこにとどまった女がいるはずだよ、まれにね。こんな体で韓国に帰っても歓迎されるはずがないって、とどまった女もいたはずだよ。韓国に戻って来なかった女たちもまれにいたはずだ。

「解放されたことを、私たちが一番最初に知ったんだ。来て、連絡してくれたんだ、軍人として来ていた韓国人が。日本のやつらは知らなかったんだ。後になって知ったっていうんだから。

「縁側の大きなのがあってね。そこにみんな集まっていたんだ、私たちは。韓国人がみんな集まっていて、日本の軍人たちは韓国人に何かあるのかと思って、黙ってながめてから行ったりしたんだ。

「韓国人たちが20人から30人、こうして集っていたんだ。男たちも混ざっていた。軍属で入った人たち、その人たちも何人か混ざっていたんだよ。

「あぁ、解放されてもすぐには戻って来られなかったよ。そこで戦争が起こって、お互いに独立するって銃で戦っているのに、そんなんだったから、すぐに戻って来れるかい。そこに数ヶ月はいたんだ。その数ヶ月の間、ご飯食べて、何人かでただ寝て過ごしたんだ。無職の人みたいに。ハハ。


故郷へ


恥ずかしいんだよ、やたらと見られているようで。

「赤ちゃんをそこで3人産んだんだけど、みんな死んで、最後に娘を一人産んだんだ。産んで、その子は解放されてから連れて来たんだ。

「私と二人だけ、一人は男の子を産んで、私は娘を産んで。子供を産んで帰って来た人は二人だけだった。

「その赤ちゃんは、そこで一歳の誕生日を迎えて、お餅を作って食べたんだよ。道具箱でお餅をついて、餅を作って食べて、少ししてから帰ってきたんだ。帰ってきたけど、釜山に到着して、夜になって着いたからなかったんだろう、車が。みんな故郷に行かなければならないんだけど、お金がなくて、道端で寝たんだよ。寝て朝になったら、手にはんこを押してくれて、汽車に乗って家に、故郷に戻ったんだ。

「恥ずかしかったよ。汽車に乗って行くのも恥ずかしくて、やたらと見られているようで。知ってる人はみんな知ってるさ。子供たちは知らなくても、若い人は本を見て勉強した人はみんな知ってるんだよ。そうやって連行されて行ったこと。恥ずかしかったよ。

「故郷に帰ったら、母さん、父さんがいないんだ。それで叔父さんの家に行ったんだ。母さん、父さんはどこに行ったんですかって聞いたら、『お前のことをどれだけ探したことか』、お前が帰って来たら、とにかく面倒をよくみてくれって頼んで遠くに行ったんだって言うんだ。

「家族がいないから、そこで大声で泣いたよ。

「家族は、兄が満州に行って、家族をみんな連れて行って、満州で苦労して暮らしてるって。私がいなくなってから両親が満州に行ったから、私は知らなかったさ。話を聞いて、だいたいのことを知っただけで。

「従兄弟の家にかれこれ約半年はいたんだ、何ヶ月かはいたよ。いたら、嫌がられているように感じてね。それで今度は姉さんたちの家に行って。

「赤ちゃんをおぶって行ったから、誰が喜ぶんだい。自分たちも充分に食べられないのに。



行きたくても、噂が立つから行けないんだよ。

「ヤン某が手紙を書いてくれたんだ。私は文字の勉強してないんだ。目は開いてても読めないんだ、何が書いてあるかわかるもんか。ただそれを持って、その人の家に訪ねて行ったんだ。浦項の九龍浦だよ、九龍浦。そこに行って手紙を渡したら、あぁ、私の息子が生きて、こうして手紙まで送ってきてくれたんだ、ありがとうって、私に、息子が来るまでその家にいなさいって言うんだ。私はいられないって、行かなくちゃならないって言ったんだけど、はぁ、その男が何か手紙に書いたようなんだ。実家の家族がいないんだったら、どこに行っても苦労するだけだから、ここで暮らしなさいって言うんだよ。それで、部屋を一つくれて、そこで過ごしたんだ。

「一年過ぎたら、ヤン某が来たんだけど、会っても嬉しいとかってのは感じなかったよ。『帰って来たな、俺は野の野菜採りに行くよ』って野菜を採りに行って、そうしたら、自分の母親にこう言ったんだって。[註 115] 自分が来たのに、嬉しそうにしないって。それで、お寺に来なさいって人伝に言われたんだ、話を聞きたいって。聞くことなんて、何があるんだい。話すこともないから、私は行かなかったよ。行かなかったら、ヤン某が町内に私がどこそこにいたんだって言いふらしたんだ。だから、そいつも悪いやつさ。そういう話は、墓場まで持っていくべきだろ、よりによって町内にその噂を流すなんて。だから、町に出ると、私がそういう所にいたってことをみんな知ってしまった。知っているから、恥ずかしくて誰かを訪ねようとしても、もう行けないじゃないか。それで、こいつめ、お前も悪いやつだ、そんなことを考えていたのなら、どうしてあのときそんな話をしたんだって言ってね。あんたと一緒に暮らさないからって、人の話を言いふらして平気なのかって。

「浦項には行きたくても、噂が立ってしまったから行けないんだ、恥ずかしくて。自尊心が高いんだ、私は。


飯屋の商売


この娘さえいなかったら、他人の家に住み込みにでも入ったさ。

「人に面倒見てもらうために、あちこち苦労して出歩く必要なんかあるもんか。自分で稼がなくちゃいけないと思って、働き始めたんだよ。

「この娘さえいなかったら、他人の家に住み込みにでも入ったさ。他人の家には入れないから、田舎に行ったんだ、慶尚道に。慶尚道に行って、家を買って、飯屋の商売をしたんだ。

「娘を学校に入れなくちゃいけないんだけど、戸籍がないだろう。それで、校長先生に話して、何とか入学させたんだよ、学校に。国民学校に通わせたんだけど、私がそこで、田舎ではとうてい暮らしが成り立たないんだ。それで、商売でもしようと思って出て来たんだけど、田舎で家を売ってもいくらにもならないんだ。それでも、その頃には大金さ。それを売って、この子を連れて。

「飯屋の商売を大田でもして、永登浦でもして。… 青松[註 116] 保護院、そこに入って食堂をしたんだけど、そこではお客さんがたくさん来てね。

「そうして過ごして、そこで少し稼ぐうちに、娘が死んだんだよ。それで、ソウルに上京したんだ。


後遺症


この影響がなくならないんだよ。子供にも害になるって。

「結婚してどうするんだ。下もかゆいし、気が狂いそうになるんだ、私は。下がかゆくて、血が出るほどに掻いても、これが耐えられないんだ。どこか道を歩いていても、どこかの路地に入って掻かなくちゃいけなくて、たまらないんだ。それが本当に大変なことなんだ。あぁ、本当に、こんな話をどこにできるんだい。

血が出るほどに掻いても、たまらないんだ。そして、掻いてから小便をすると、しみて痛いし。薬も飲めなかったよ、薬を。恥ずかしくて病院に行って話すこともできないし、だから薬を飲むこともできないし。それで、銭湯によく行って、塩水で洗って、他の人に隠れて洗ってさ、銭湯に行って。秋と春になると、必ず死ぬほどかゆいんだよ。あの病気は秋と春に出てくるんだ、梅毒ってやつは。それでも、病院には恥ずかしくて行けなかったんだ。

「シンガポールにいた時は、薬を注射を打ってもらって、消毒してたから少しは良かったんだ。ここに来てからは気が狂いそうになるくらいなんだから。熱いお湯に浸かれば、少し寝ることができるんだ。そのことを考えたら、ぞっとするよ。それで、私はこの影響がなくならないんだよ、絶対になくならないんだ。子供にも害があるんだって、子供を産んだら。だから、結婚しなかったんだよ、私は。

「娘もそのせいで体が悪くて、心臓病にかかったんだと思う。歩くのも、ここからあそこ位しか歩けなかったんだ。成長する時は大丈夫だったんだ。成長してから、20歳だったか、19歳だったか。それが、段々とひどくなったようだった。

「アメリカに行けば治せるけど、ここでは治せないじゃないか、昔は。

「娘が、お母さん、私はここではどうしても生きられないから、アメリカに行けば治るって言うから、私を治してほしいって言うんだ。

「『お前の病気を治せるなら、なんでもしてあげるさ』そうして、商売して、食堂して、他人の家で女中みたいなのをして稼いだお金、1300万ウォンか、1500万ウォンだったかを娘にあげたんだ。

「恵化洞の金持ちの家でね。…お金を50万ウォン、現金でもらって。もらって、娘に送ったんだ、お金が少なくて。…その頃は給料をたくさんもらっても2万ウォン、1万8千ウォン、その位もらってた時代なんだ。

「そこで50万ウォンもらって、私はその家で住み込みで働いたんだ。

「そうして娘はアメリカに行って、そこで病気になって働くこともできずに、私が稼いだお金を使って過ごして、誰かに会えたら死なずに済んだだろうに、一人でいて人に会えなくて死んでしまったんだよ。…行ってから一年も経たずに死んだんだ。…そうしてアメリカから家財道具とか、全部送ってくれるって言うんだ。送ってくれたとしても、税金がいくらになると思う?送ってくれる必要はないって、送らなくていいって言ったんだ。


男の子


私は子供がいないから、他の人が子供と手をつないで歩いているのを見ると、うらやましくてね-。

「尚州[註 117] に住んでた時、援護庁、知ってるだろう?軍人たちを取り扱う所。援護庁で食事の世話をする仕事をしてたんだ。

「中学校に通う男の子が一人、その母親が死んで、父親まで死んでしまったから、行く所がなくなったんだ。

「私も子供がいないからその子を連れてきて、人のために良いことをしようと思って、連れてきて育てたんだよ。

「ところが、その子がやたらと暴力をふるうんだよ。飲み屋に行ってお酒は飲むし。高校では、何ヶ月も学校に行かないから、結局退学になってしまってね。それで、私が行ってお願いして、また通い始めて、卒業して、航空大学に入学したんだ。航空大学ってあるだろう?無線を習ったりする所。飛行機を習う人はそれを習って、無線を習った人はどんな職場でもすぐに就職できるんだ。それで、水原の職場に就職したんだよ。無線、それをする所に就職したんだけど、お金をものすごく稼いだんだ。

「その頃は私がお金がなくて。アメリカに行った娘に全部あげたから、お金がなかったんだ。『私にお金を15万ウォンだけおくれ、町外れに家を借りるから、伝貰(チョンセ、保証金を預けて家を借りる韓国の独特な賃貸制度)。貸してくれたら、後で返すから、稼いで』、すると、こいつがくれないんだな。くれないから、仕方ないから私が一ヶ月働いて、月給をもらって部屋を借りたんだよ、町外れに。

「息子の嫁が逃げたんだよ、娘を二人置いて。逃げる前には、全部売り払って逃げたんだ。だから、一文もないんだ。それで、息子が子供二人を連れていたら会社に通えないから。私に子供を二人預けに来たんだ。『お前は、犬にも劣る人間だ。お前、私がお金がない時、部屋を借りるお金をくれてたら、この子たちを育てて、全部やってあげたのに。何てことだ、お前、家が何軒もありながら、たった15万ウォンのお金をくれって言ってもくれなかったくせに。要らない、要らない。お前みたいな人間は、私は相手にしないよ』。でもそれからまた二回も来たんだ。また来て頼むんだよ、なんとか子供たちを面倒みてくれって。

「私が水商売、食堂で働きながら、どれだけつらい思いをして生きてきたと思ってるんだ。それも理解できないくせに、お前、私に子供がいないから、他の人たちが子供と手をつないで歩いてるのを見たらうらやましくて、それでお前を育ててやったのに、お前は私に恩返しするどころか、あんなにお金を稼いでたのに貸してもくれなかったじゃないか。悪いやつめ、二度と見たくもない。そう言って追い払ったんだ。

「もう来なくなった。そうやって追い出してしまったから。二度と見たくもないからね。


届出


『もう年をとったから、恥ずかしいことを隠してどうなるんだい』

「今、ここに一緒に住んでいる子が…(小さな声で)私の従姉妹の娘なんだよ。

「あの子が3歳だったか、4歳だったか、その頃から育てたんだ。

「両親が病魔、今はガンって言うけど、その頃は何がなんだかわからずに死んだんだよ、髪の毛もみんな抜けて。

「この子が戸籍がなくて婚姻届を出すことができなかったんだよ。それで私がやってあげたんだよ、私の戸籍に入れてあげて。それで、娘がいるってことでお金の支援が受けられないんだとさ。娘がいたら支援を受けられないって言うんだ、婿がいるからだめだって。それで、私が恥ずかしいのを我慢して慰安婦の届出をしたんだ。[註 118]

「友だちの前で、このお金をもらってなかった時、本当にその時は悲しかったよ。何が悲しかったかっていうと、人に馬鹿にされて悲しいんじゃなくて、私自身の自尊心のせいで。友だちが服も買って持って来てくれたし、この上着も買って持って来てくれたものなんだよ、私にお金がないから。8万ウォンでは、食べて暮らすにも精一杯だ。だから、どうすることもできないんだよ。『いい加減、年もとったんだから、恥ずかしいとかなんとか隠す必要があるもんか』って、それで登録したんだよ。



私は、泣いたことがないんだ。

「私は、泣いたことがないんだ。涙が出てこないんだよ。…私の生涯で涙ってものが、どうしてなのか。それも恨めしいんだ。私の叔父さんが亡くなった時も、涙が出ないから、他の人たちからお前はどうして泣かないんだって言われたよ。それから、私の義兄が亡くなったんだけど、義兄が亡くなったのにあの子は泣きもしないって言われたし。涙が出ないのに、どうやって泣くんだよ、うん?

「あの、テレビのドラマ、あるだろう?子供を残したまま結婚する女の人がいるだろう?そうしたら、継母が来て、いじめ抜いて叩いたりするのを見ると、涙があふれるんだ。涙があふれるのはそれしかないんだ、私も生涯、あんなことはしてはいけない、こんな気持ちになったときだけ、涙が私も知らないうちにあふれ出るんだよ。だけど、誰かが死んだっていうときは涙が出ないんだ。あぁ、出てこない涙をどうしろっていうんだ。唾をこうしてつけて、ハハハハ。あぁ今も、誰かが死んだって聞いても、涙は出ないよ。

「胸は痛いさ。でも、涙がボロボロとは出てこない。おいおい泣くなんて、そんなことはないんだ。

「私の友だちに言ったんだよ。『ねえ、私はどうして涙が出ないんだろう。』、友だちが、お前はものすごくつらい思いをして生きてきたからじゃないかって、悲しい思いもして。

「それだけ、私が歯をくいしばって生きてきたんだよ、怖ろしく生きてきたってことだ、涙さえ出ないんだから。

「娘が死んだって聞いた時も、他の人だったら気絶するだろう。娘の死を伝えてくれた人が『はぁおばさんが気絶でもするんじゃないかって思って、このことを伝えられなかったのに』って言うんだ。『気絶することはないだろう、死んだ者は仕方ない』って、それで終わったんだよ。

「涙は出なかったんだ。私が嘘をついているとでも思うのかい?涙どころか、鼻水も出なかったんだから。出てこないからしかたがないんだよ。

「慰安所で友だちが死んだ時も、他の人はえ∼んって泣いてたけど、私はただ『死んでよかったんだよ、お姉さん、死んでよかった。もう気苦労しなくてもいいんだから、よく死んだよ』って言っておしまいだった。泣くことがない。誰か、嬉しい人に会って、シンガポールで一緒にいた人に会って、私たちが過ごしていた頃の思い出、私が赤ちゃんを産んで苦労した思い出、産後に冷たい水を飲んで、歯が全部抜けるような、そんな話をしながらなら、涙が出るかもしれないけど。はぁ-。










[註 112]
忠清北道永同郡。
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[註 113]
結婚した姉が釜山に住んでいた。
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[註 114]
潜水艦。
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[註 115]
ヤン某の母親は山の中の寺で暮らしていた。
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[註 116]
慶尚北道青松郡。
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[註 117]
慶尚北道尚州市。
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[註 118]
チャン・ジョムドルは生活保護対象者として月30万ウォンずつ支援金を受け取って生計を維持していたが、2001年に国民基礎生活保障法が制定され、戸籍謄本に養女と婿がいるという理由から、支援金額が8万ウォンに減った。そのせいで日本軍「慰安婦」の登録をしたんだよ。
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コン・ジョムヨプ
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戦争と女性人権

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