• 慰安婦
  • 歴史を創る物語

「過去のことは聞かないことにしましょう、胸が痛いから」

zoom
  • 年度
  • 年齢
  • 内容
  • 1920年
  •  
  • 忠清南道大徳郡生まれ
    (住民登録上の年度は1922年)
  • 1934年
  • (15歳)
  • 卷番(日本帝国強占期の妓生たちの組合)に入り、踊りと歌を学ぶ
  • 1938年頃
  • (19歳頃)
  • 日本の憲兵に連行される
    満州などで日本軍「慰安婦」の生活
  • 1945年頃
  • (26歳頃)
  • 解放後に帰国
    行商、露店、巫堂などで生計を立てる
  • 1980年代
  • クォン某と同居
  • 1992年
  • (73歳)
  • 日本軍「慰安婦」登録
  • 1990年代
  •  
  • 同居人クォン某死亡
  • 2004年
  • (85歳)
  • 忠清南道保寧市の賃貸アパートで生活
儒城→満州一帯→儒城
zoom
「あぁ、胸が締めつけられるようなつらい話をどうして聞こうとするんだい。どうして。
「(胸がつまったように、みぞおちの端をなで下ろしながら)そんな話をしたら、この胸が痛くて。経験してないからわからないだろうけど、経験した人は、その時にやられたことが胸の奥に詰まって、しゃくにさわると奥で痛むんだ。
「とんでもないやつら、腐って雷に打たれるやつらめ。そんなことはなかったって言い逃れて、どうするっていうんだい。証人たちが生きているのに、生きてその苦痛を受けて、涙を流して、血が出るほどに泣いて、そうして苦痛を受けているのに。
「他人の青春を踏みにじっておいて。涙じゃなく血の涙を流すようにしておきながら。

オールドミス

どうしてなのか、怖くて、死んでも私は結婚しないって言ったんだ。

「故郷は儒城[註 091] 温泉があって、そこから少し歩いて入った所だ。
「そこは、農業をする人もいるし、しない人もいて、そんなに田舎でもないし、そんなに都会でもない、ありきたりな町なんだ。それでも、そこは豊かな村だから、貧しい人はいなかったよ。
「私の家。瓦屋根ではない、わら葺の家だったけど、それでも大きな家だったんだ。作男が二人もいたしね。
「土地も結構持ってたんだ、畑とか田んぼとか。
「親戚も町内にたくさん住んでた。私の家の本貫は交河の盧氏。そこが故郷だから。
「そこでは、女の子は外の往来も眺められないようにしたんだ。日が暮れたら、水を汲みに隠れて外出して、そのときに外の空気にあたるくらいで、だから、世間のことはなんにも知らなかったんだ。とても大切にされて。
「父さんはいつも読書をしててね。教えたりもするんだ、子供たちを。
「町内におおきな書堂があったんだ。昼間は働いて、夕方には父さんが勉強を教えてたんだよ。
「母さんはいつも家にいるから、畑仕事したり、まぁ、そんなもんだよ。
「兄が三人、弟が二人、あとは妹が一人。
「一番上の兄はもともと勉強ができたうえに、日本で結婚して、日本で子供を産んで暮らしてたんだ。その頃は、勉強さえできれば一番の先生に選ばれたんだ。そうして、日本に行って、子供たちを教えて暮らしてたんだ。
「家でも、大きく農業をしてたから、私は家事ばかりさせられて。それでも勉強するんだって、夜になると夜学堂ってのがあったんだよ、昔は。その夜学堂に通ったりしたよ。そこに行って、1時間勉強して、帰ってきて。
「私はその頃、オールドミスでね。結婚しろって言われたんだけど、私は結婚しないって言ってたんだ。私は両親に、畑仕事して農業をして一人でこうしてやっていけるから、お嫁には行かないって言ったんだ。

巻番

『海の青い波に釣竿を投じて、峠の頂上に座っていると』

「私がその頃、巻番[註 092] に入ったのが15歳で入ったんだ。
「友だちが楽しそうに通ってるから。その時はそれが何なのかもわからなくて、キーセンしに行こうってね。
「歌を歌って、チャング(太鼓)を叩いて歌えば、それがキーセンだって言うんだ。
「巻番の先生が前で名前を呼ぶんだよ。誰々さん、って呼ばれたら前に出て、歌いなさいって言われたら歌って。
「歌を歌った所が今で言えば劇場だよ。踊って、歌って。
「声が良かったんだ。どんな歌でも、上手に歌ったんだよ。
「だから、アンコール、アンコールってなったら、また出て『海の青い波に釣竿を投じて、峠の頂上に座っていると』って、歌声が良いって、拍手が(笑いながら)すごかったよ。声が今よりも良かったし、澄んでいて。そうして、妓生として、今で言えば舞台をあちこち回って、上手だと言われたんだよ。
「本当に、その頃は顔もこんなじゃなくて、手もこんなにでこぼこしてなくて、顔も肉付きがあって、だから舞台に出ると(笑顔で)『アンコールだ、アンコール』、『アンコール、アンコール』って言われて。
「巻番には寝泊りする所はないんだ。
「そんなのは(お酒を注いだりするのは)、あの花柳界だよ。お給料をもらって通う花柳界だ。
「私は踊って歌だけ習ったんだよ。そうして、一番上手だって賞ももらって。
「賞はチマ・チョゴリ(韓国服の女性の上・下衣)の布地。薄紅色の花の刺繍があってきれいなやつで。
「巻番は3年で卒業したよ。
「家に行って巻番に通っているという話をしたら、何をやってるんだって、なんたることだって、町内が騒いでね。あぁ、昔は差別があったからね、良民と賤民。それで、行動を監視されて、便所に行くだけでも捕まって部屋に戻されたんだ。だから、ある時は頭にきたら、便所に座っても歌ったんだよ。そうしたら、あの女、気でも狂ったのかって言うんだ。そうしたら、私が歌をもっと大きな声で歌うんだよ、便所に座って。
「父さんが棒切れを持って追いかけてくるんだ。本当に、ものすごく叩かれて。
「私が歌を歌ってもらった賞状を持って、そしてお金も持って行って父さんにお願いしたら、『今回一回だけ行って、もう行くな。今回だけだぞ』って言われて、それで巻番に行かなくなったんだ。

屋根のない汽車

引きずり出して、つかんで叩いて、乗せて出発するんだけど。

「(震える声で)今も、あの話をすると胸が痛くて、引き裂けそうでつらいんだ。私に刀があったら、ズタズタに切り裂きたいよ。ノドが詰まって。
「だから、私があの時、17歳だったか、18歳だったかな。農村では畑作なんかもするじゃないか。何人かの小作人と畑の雑草を取っていたら、黄色い服を着たやつらが4人か5人やって来て。あいつらは、正確にまだ結婚してない処女の女の子だけをよくもまぁ見分けるんだ。畑の草取りをしていたら、突然ペラペラって何かしゃべって、(独り言で)あきれるったらないよ。あいつらが来て引きずって行くんだ。私は助けてって叫んで、『盗賊に連れて行かれる』って叫んだら、畑で草取りをしてた人たちが追いかけて来ながら、声を上げながら鎌だけ持って追いかけて来て。あんなやつらに引きずられたら何もできないよ。どうするんだ、言葉も通じないし。いくら朝鮮の言葉で悪態をついてののしっても、言葉が通じないんだから、言葉がわからないんだから、お互いに。それで、その時に連行されて行ったんだよ、私が。
「日本のやつら、だから憲兵隊、ここの刑事と同じようなもんだよ。巡査よりも階級が高いっていうやつらだよ。
「故郷でそんなふうに畑の草取りをしていて捕まって行ったから、みんな知っているのさ。後ろに座って一緒に畑の草取りをしていたおばさんたちは、あぁ、なにごとなんだって、どうして連れていくんだって叫ぶだけだったよ。いくら叫んでも、誰かが追いかけてきて助けようとする人がいるもんかい。ただ、叫ぶだけだったよ。あいつらが、乱暴に連れて行ったからね。
「連れて行かれて、屋根のない汽車、一両に乗せられて行ったんだ。
「わあわあ、ただ泣いて。泣いてもどうしようもないんだ、どうにかできるわけでもないだろう。身動きもできないから。誰が、朝鮮の人が助けてくれるかい、どうするっていうんだい。何人も、そうやって連れて行かれたんだ。ものすごく苦労もして、ものすごく泣きもして。そのことを考えると、(泣き声で)胸が痛いというより焼けるようだよ。
「その時に何日くらい行っただろうか。屋根のない汽車で、おにぎりを一つずつと、たくわん、たくわんってのが昔はあってね。それを二切れ、それをくれて、水も容器に入れて、車の中でただそうして飲んで食べて。連れて行かれる、死にに行く命だから、怖いものもないだろう。それで、ただ悪口を韓国語で、わからないから韓国語で悪口を言って。お前ら、お前らには子供もいないのか、兄弟もいないのかって叫んで、ののしって、悪口を言って、あれこれやったよ。それでもあいつらは言葉がわからないから。
「私は、ただ奴隷のようにこき使われるために連れて行かれるんだと思ったさ、他のことなんて考えられるわけないだろう。
「あれは、どこだったか。あまりに昔のことだから。汽車が止まった所は、日本のやつらの土地だったから、そこで止まったんだ。軍人はそんなに多くはいなかった。
「そこで降りたら、晩ごはんもくれないし、朝ごはんも食べなかったから、みんなお腹が空いて何も話せないし、立つこともできずに、もがいてばかりいたから、(肩を指差して)ここのところが皮膚が擦り切れてしまって。夕方になって見たら、どこに行ったのか一緒に連行されてきた女の子たちがみんないなくなったんだ。夕方に日が暮れて見たら、誰もいなくて、私一人だけ残ってたんだ。大変なことになったって。大騒ぎをして呼びながら人を探しても、みんな連れて行かれて誰もいないんだ。そうして、後で日本のやつらが私一人残ったけれど、これからどうするんだって念を押すんだよ。[註 093] そうして、少しすると誰かが来てつかんで連れて行こうとするから、あがいたりもがいたりしたら、一人が脚を片方ずつ、腕を片方ずつ、そうして持ち上げられて連れて行かれたんだよ。男たち、4~5人に持ち上げられたら、幼い私には何もできなかった。そうしてののしりながら、あそこに連れて行かれたのさ。

アサヒ食堂

引っ張って行って自分の部屋に連れ込もうとしたり。

「大平原ともいえなくて、城を築いてあってさ。城を築いてあるから、身動きもできないのさ。城の外に出ることができないんだ。2人ずつ見張ってるし。
「部隊が見えたよ、近くではなかったけど。遠くの方に、ぼんやりと軍人たちが行ったり来たりして、洗濯物を干したり、みんなが何かしたりしてるのが見えたんだ。
「宿舎から出ると木みたいなのも見えるし、軍人同士で運動するのも見えたりして、そんな感じだったよ。
「どうなるんだろう、おかしな所でなければいいんだけど、そんなことばかり考えてたよ。
「ここで言えば紹介者みたいに、そこに私を連れて行って、食堂に、そうして紹介するんだよ。そうして、お金はあいつらが全部受け取って行って。
「慰安婦として行く人がいて、また食堂に行く人もいて。それで、私たちのグループは食堂に行って、ほかのグループは慰安婦として行ったんだよ。
「そこは、慰安所じゃなくてアサヒ食堂って言うんだ。そこへ行って、ただその人たちがずらっと(両腕を大きく広げて)こうして座っていたら、あっちこっち行ったり来たりしながらお酒を注ぐんだよ。
「徳利。この位の大きさのお酒の入った器があるんだ。そうしたら、その徳利を持って来て、回りながら空の杯があったら(両手で酒を注ぐ真似をして)こうしてお酒を注いで、そんなことをしたんだ。
「仕方ないだろう?そこに連れられて行った以上は、横でお酒を注いで、食べたりするしかないさ。
「食堂に来た日本の軍人たちが歌を歌えって言うんだ。そうしたら、私が『私は歌うできない(歌えません)』 そう言って避けるんだ。
「そうしたら『娘さん、歌うやれ(歌え)』 『私は歌うわからないですよ(歌はわかりません)』 『どうしたら歌うか(なぜ歌うんですか)』 って、こう言うんだよ。なぜ歌なんか歌うのかって、そうして頑固にしているから。そこでずる賢くも日本人の相手ができる女はかわいがられて、頑固に抵抗する人は、かわいがられなくて。
「そこには日本人たちも来て、朝鮮人も来て、関係なかったよ。
「食堂に来る朝鮮人は通訳さん。通訳軍(通訳軍人)。通訳さんって呼んでたんだ。
「食堂に来る日本人は、軍人もいるし、軍人じゃない人もいて。その人たちは、部隊について働いてる人なんだよ。[註 098] 「手首をつかもうとしたり、引っ張って行って自分の部屋に連れ込もうとしたり。それでも、私は勘が良くて『バカヤロ、グンヤロ』[註 099] 私がこう悪口を習ったんだ。私は、気が強いんだ。だから、なんて怖い女なんだって、そう言われてね。
「愚かな女たちは気も弱くて、そうしたらやつらが何人かで連れて行って、乱暴して。1~2人が乱暴かい?4~5人で乱暴するんだよ。そうしたら、女は半分死にそうになって出てくるんだ。だから病院に行ったりするんだよ。
「そうしたら、顔も元々の顔色じゃないし、体もぐったりして。何人とやったんだか-ぐったりしてしまうんだよ。女たちを2人も背負って、3人も背負って行って。それを見たら、ただ隠れて、わら束の中にでも隠れるんだよ。その中にでも入って隠れるんだ、そんなのを見たら、自然と。
「その時は、本当に気が狂いそうだったよ。言うことを聞かないで、殴られたんだから。
「私はとても頑固なんだよ。頑固で、融通もきかないし、何で私にああしろこうしろって言うんだって、抵抗するから。
「責任者が言うんだよ、言うことを聞かないって。大人しくしないって。
「頬を叩かれたり、背中も叩かれたりしたんだ。
「そこにいた女たちは、一週間に一回ずつ軍人たちの宿舎に掃除しに行くんだ。
「洗濯して、全部あの部屋、この部屋を掃除して。完全に女中だよ。女中もあんな女中はいないさ。本当に、あの部屋、この部屋、部屋が一つや二つじゃないんだから。女たち数百人が一緒に生活するのに必要なほどの部屋数だったんだから。
「本当に、うんざりするような洗濯の量なんだ。あぁ、夜寝る時間になって仕事を中断して寝て、ご飯を一匙、おにぎりを一匙もらって食べて、一日中洗濯して干して。
「ある輩はお酒を飲んでウンチをたらすやつもいるし、おかしなやつが多いんだ。本当に、そんなやつらをよくだましたよ。ウンチした臭い下着を、誰が洗うんだい?そのまま丸めて、あそこは便所の穴が深いんだよ、だからその中にパンツを投げ捨てて。そうして、服の主人が後でパンツがないと、どうしたんだって、パンツを出せって言うんだよ。そうしたら、『見たことがないんですよ』 そうしたら、『おかしいな、おかしいな』、変だなって、ただそうして免れたりして。本当にずいぶんとだましてやったよ、日本のやつらを、私が。
「洗濯物を干して乾いたら、こうして畳んで、それもきれいに上手に畳んで持って行ったら、チップをくれたりもするんだ。そうして顔色をうかがって、機嫌よくして、そうしてチップをくれるやつだけを選んで洗濯するんだ。

慰問団

黄色い、全部軍人なんだけど、軍人の前で歌を歌ったんだ。

「食堂で慰問団[註 101]をしたんだ。
「公演が一週間に一回ずつあってね。
「食堂をなんとか飾って、舞台もなんとか装置を上手く作って。みんな、一週間はどこの部隊、一週間はどこの部隊。一週間ずつ、こうして接待して、その時に出るように言われたら出ないといけないんだよ。
「黄色いのが全部軍人たちなんだけど、軍人たちの前で歌ったんだ。扇子を二つ持って、扇子の舞いを踊って。
「その時に慰問団に行かないように、いろんなことをしたもんだよ、それに選ばれないように。それでも、仕方なく選ばれて。
「何もかもが嫌で、私が嫌だからって避けてたら、何てこと、一番に選ばれたんだ。
「慰問団、そこに行って良いことがあるかい。行って、公演する内容を習う間にはどれだけ苦労したことか。
「慰問団に日本の女たちがいないわけないだろう?
「日本人に負けたくないっていう気持ちから、がむしゃらに頑張って。その女たちに奪われないように、負けないように、がむしゃらに出てやったら、拍手がいっぱいもらえて。
「私は、朝鮮の女たちがそこに来て冷遇されているのを見ると、『全く、このバカ頭たち、どうしてできないんだい?(手で踊りの振りを見せて)ちょっと、こうしなさいよ』って。慰問団の責任者は、ただ、見物して座っていながら『コノヤロ、頭がバカ野郎』って怒鳴るから、[註 102] そう言われたら、悔しくてたまらなくて。
「公演する時は日本の服を着るだろう、着物。髪の毛は後ろに束ねて結んで。
「慰問団をするとお金はもらえなくても、えーっと、何ていうのかな?何か、食べもののオマケが出るんだよ。

故郷から来た女たち

夜通し過去の話をして、また泣いて笑って。

「私が寝る場所があるんだ。
「宿舎が別にこしらえてあって。あっちに一組がずら∼っと寝て、こっちに一組がずら∼っと寝て。頭をこうして向き合わせてね。行ったり来たりする真ん中だけ空けておいて。
「部屋の床じゃなくて、ベッドみたいに木の棒で作ってあって、その上に敷くんだ。
「ある時は、同じ故郷から来た女たちがいると、3人や4人、5人集まると、夜通し昔の話をして、また泣いて笑って、そうこうしているうちに夜が明けてしまって。
「そこの女たちの中に、親切な人がいるんだ。日本人もそうだし、朝鮮人もそうだし。そうして、後には私にお姉さんって、『姉ちゃん、姉ちゃん』って言ってね。そうしてお姉さんって呼ばれたら、『私たちはどうやって朝鮮に帰るんだろうか』って、いくら考えてもここで死ぬんじゃないかって、死ぬにしても朝鮮に帰って死ぬんだって言いながら、涙をボロボロ流して、かわいそうでたまらないんだ。その子たちも売られて来たんだ。紹介人が密かに連れて来て、お金を受け取って行くんだよ。
「お姉さんって呼んでた女の子でちょっとがめつい子がいてね。人情に悩まされてそうしたのか、とにかく。お金をかなり稼いだんだ。チップをたくさんもらったって、私に言うんだよ。誰もいない所で、こうして二人でいたら、(小さな声でささやくように)お姉さん、朝鮮に帰っても、誰がわかるもんですかって言うんだよ。どうせ、こんな汚いやつらの家に来たんだから、お金でも稼いで行くんだって、私はいくらいくら稼いだから、朝鮮に帰ったらお金にするんだって。お腹の中のこの位の小さなかばん一つにいっぱい貯め込んであったんだ。朝鮮に帰って、お金にするんだって。
「報酬はそこの責任者、お偉い人がくれたんだ。日数を計算して、一日ずつくれるんだ。

腕章

偽物の勲章を、階級が高いやつをつけると、仕事が少し楽できて。

「そうしてお使いをしてあげて、やつらに機嫌を合わせて上手くやると、そこで賞状をくれてね。賞状って言っても、何の価値もない賞状、何か食べるものがあれば、これ位の小さな箱に入れて、包装してそれ一つくれるだけなんだけど。
「私は腕章をつけてるから、少尉とか中尉くらいの位置なんだ。いろいろと気に入ってもらえたら、勲章をもらえるんだ。
「それ、勲章をもらうと、腕にこうしてつけるのがあるんだ。そうしたら、勲章をもらって、ピンをここに(腕章の端に)2~3個つけて歩いたら、それこそある程度階級があるやつらも手を額に当てて『敬礼!』ってね。腕章には、中尉なら中尉、少尉なら少尉、そんな風にしてみんなそこにあるんだ。だから、敬礼をして、そいつらも敬礼するんだ。[註 103] 「お使いを終えて、掃除も全部済ませて、そういうのが終わったら両腕の力がなくなってしまうんだ。そうして、後で疲れてぐったりとして座っていると、よくしてくれていた少し高い位置の人が『ああ、チントコさん、痛いですか?(チントコはノ・チョンジャの日本名)』 『はい、痛いですよ。頭が痛いですよ』 そうしたら、そうかって言って、自分のところに来なさいって言って、偽物の勲章を(腕を指差して)ここに階級が高いやつをつけると、仕事が少し楽できて。何日か少し楽にしていると、体の調子もまた良くなってね。
「私が監督すると、食べる物はよく食べれたよ。他の女たちがお互いに気に入られようとして、私にサービスするからね。何かしらを持って来るんだよ、隠れて。受け取らないようにするけど、最後は仕方なく受け取るんだ。受け取ったら、食べただけのことはしてあげないと。つらい仕事はさせないで、何でもまんべんなくよくしてあげてね。

犬くぐり

ただ、息もせずに逃げて、見たら。

「私は元々、お偉い人の洗濯をしてあげて、そこで会ってね。きれいにして、きちんと畳んで、そうして持って行って。『洗濯しました、はいよ』 そうして持って行って。本当にかわいがられたよ、その階級の高い人に。
「その日本人が良い人だったんだ。ただ、私のことをかわいそうだって、朝鮮を離れて出てきて、客地に来てどれだけ軍人たちの接待して苦労してるんだろうって。来たら、肩ももんでくれたんだよ。
「私がその日本の軍人に韓国に行かせてくださいって、お父さんも、お母さんも、みんな 、みんないるんだって、家では私が死んだと思っているかもしれないって、朝鮮に帰してくれないなら、私を殺してほしいって言って、ただ目をギュッと閉じているから、遠くから殺してほしいって言ったんだよ。そうしたら、目から涙が溢れるように流れるんだ。そうしたら、気が滅入ったのか、手ぬぐいを渡してくれながら、涙を拭きなさいって言うんだ。殺さないって。あぁ、私がその話をしたら、喉が詰まってね。そうして涙を拭いて、ただ一人で座っていたんだ。
「すると、『かわいそうね、もう少し待ちなさい』かわいそうだって、少しだけ我慢していなさいって。
「それで、私がその代わりに洗濯もちゃんとして、こうして持って行って、気遣ってあげて。そうしたら、その人が中尉だったんだけど、その人が野心を持ってね。言うことを聞かなければ、ここから出られないって言うんだ。黙って考えてみたら、私がそこで死んでどうなるんだい。『体を一度捨てる覚悟で、何としても朝鮮に帰らなくちゃ』そう思うようになってね。そうして、私は両親や兄弟に会ってから死ぬんだって思って、その次には何も言えずに、おとなしくしていたんだ。ふぅ、寝ようって言うんだ。それで、その人に体を奪われたんだ。そうしなければならなかったんだよ、本当に。そうして、夜にまたその人が来たら、その人にまた体を奪われて。それこそ、一回奪われたんだから、二回奪われるのは何てことはないさ。
「その男が、今晩、寝ないで12時、夜中の1時頃になったら、外に出て来いって言うんだ、そうしたら朝鮮に帰れるって。必ず帰してくれるのかって、そうしたら私がお辞儀を10回するって、私が言ったら。
「そうして出て来いって言うんだ。それで、1時頃に外に出たんだ。二人がそこで見張っているんだ。
「ここから見たら、あそこの見えるか見えないかのあたり、あの辺が鉄条網が張られている所で。鉄条網は本当に恐ろしく張られていて。
「そうして、鉄条網があそこなんだけど、その鉄条網を自分が見張ってあげるから、早く出て行けって。こうやって振ったら、赤いのが出たらやつらが出てきたってことで、何もなかったらただ無事なんだって思えって。そうしてくれて、この犬くぐりから抜け出して、早く逃げろって言うんだ。犬くぐりさえ抜け出せば、逃げるのは問題ないって言うんだ。
「ありがたかったさ。一回は奪われたとしても、それでもこの韓国に帰れるようにしてくれたんだから。その人が私のことを気に入ってくれて、ただ見つからずに送り出してくれたからありがたかったさ、命を助けてくれて。
「食堂の主人は知らないよ。ばれたら、責任を持ったお金があるじゃないか、お金も全部返さないといけないし。隠れて、ただ出てきたんだから。
「そうして逃げて行ったら、奉天[註 108]
「しばらく来て、また降りて、違うのにカワリ、乗り換えて、ただ何度も道を聞きながら来たんだよ。
「汽車で、私は一銭もないって話して、つらそうな声を出していたら、そのまま乗れって言ってね。よし。
「それで、乗って来て、降りる頃になるとまた聞いて、何度も続けて道を聞きながら、そうして。ああ、何も言うな、何も聞かないで。本当に、ものすごく苦労したよ。(泣き声で)それこそ、歩き通して、ご飯も物乞いしながら食べさせてもらって、ひどいもんさ。
「ただただお腹が空いて、涙をボロボロ流して。このままこうして朝鮮に帰って、両親や兄弟に会えるんだろうか。道を歩きながら立ったまま声を上げて泣いていたら、ある人が来てどうして泣いてるんだって、『お金がないんですよ』とにかく、言い訳でそう言うと、そうなのかって(感情が高まったように震える声で)お金をくれたりして。あぁ、苦労した話は頭が痛いよ、本当に。

駆け足

私はやらなかったことがないよ、これ以上聞かないで。

「中国から出てきて、帰ってきてから父さん、母さんがいる所(儒城)に戻ったんだ。
「言うまでもないさ。涙だらけになってね。町内のあちこちで、みんな泣いて。
「そうして、そこで母さんが亡くなって、その家を売って、私が京畿道に来たんだ。京畿道に来て過ごして、その次には大川に引っ越したんだ。大川みたいに物価が安くて、良い所はないよ。大川が一番いい。
「本当に、一人で駆け足して、これ位のたらいに色々な物を入れて歩きながら売って。
「全部、食べもの商売だよ。食べる物の商売がお金を稼げるんだ。
「手当たり次第、売って歩いたんだ。その時が良かったよ。お金も稼げて。一日に3回と決めて、とにかくあれこれ、一生懸命に売って回ると、夜になると(前にあるビニール袋を指差して)こんな袋にぎっしり詰め込んだお金を持って来たんだから。
「ただただ、あれもしたり、様子を見ながら、これもしたりして。一人で暮らしながら、(面接者のかばんを指差して)そんなかばんをいつも持って歩いたんだ。そうして、こんなふうにお金が(かばんの上の部分を指差して)ここからはみ出してくると、そうしたら面白くなって、疲れも感じずに、死に物狂いで商売をして、そこに楽しさを感じてたんだよ。
「私は口が達者で、親切だから、客がたくさんつくんだよ。
「店も出してたんだ、金貸し業もやってた。でも、お金を返してくれなかったり、なくしたり、ま、そんなもんなんだよ、人間ってのは。
「喫茶店もしてたんだ、日本で。そこで7~8年はしたよ。
「そこで友だちがおいでって言うから、友だちが私を連れに韓国にまで出て来て、それでついて行ったんだ。私の町で、同じ建物の1階と2階に住んでた友だちが、こういう時にお金を稼がないで、いつ稼ぐんだい。何のつもりで一人でいるんだって、子供がいなければお金で、お金がなければ子供だって、何のつもりでそうしているんだって、こんな愚か者がどこにいるんだってひっ捕まえるから、仕方なくパスポートを作って、その友だちについて一緒に日本に行ったんだ。
「日本に行くと、お客さんが満員だったんだ、お金をよく稼いだよ。
「上手くいってる時には、お金を稼いだよ。はぁ、稼いだんだけど、朝鮮に帰ってきてから病気にかかってなくなったよ、手術してなくなったんだ。
「ここ(股の部分)を手術したんだ。ここに、(こぶしを握って見せて)これ位なのがあって、全部切り取る手術をしたんだよ。(手術の傷痕を見せながら)ここにまだ傷痕があるんだ。悪いやつが出てきて、傷口があってね。[註 110] 「あぁ、私が苦労した話をしたら、お嬢さんたち(面接者)も泣くよ。私の苦労話をしたら、たいしたことを話さなくても、ものすごい量になるんだよ。それを、どこに全部話すっていうんだ。
「兄弟たちは生きている人もいるし、死んだ人もいるし。兄弟とは、私は避けて暮らしてたんだ、やたらと何かを持って行くから。そうしないと、食べたい物を食べて、心配なく楽に暮らせないからね。
「あぁ、何千万ウォン取られたかわからないよ。私が今は怒って、電話で悪態をついたりするけど、ものすごく。私は、もう二度と同情もしない、しないから相手にするな、って言うんだ。『私は死んでも、息が止まってもお前たちとは会わないつもりだ』って言ってるんだよ。

やさしい人

死んでなければ、もっと一緒に暮らしてたはずなのに。

「恋愛?私の時代には恋愛なんかなかったよ。あの頃は、昔だから、ただ、お互いに近所の知り合い同士で遊びに出て、話したり、ただ遊んだりしていて。私が笑い話をよく言うんだよ。その男もまた、笑い話をよくしてね。やりとりしているうちに、お互いに一緒に暮らそうって言って。
「その男がよくしてくれたよ。こうしようって言ったら(うなずいて)うん、ああしようって言ったら、そうして。少しも気に入らないところはなかったんだ。とても優しくしてくれて、門とかに座っていて、私が商売をして、こんな箱に売っていた物を入れて持って来ると、迎えに来て持ってくれて、座ってこうして(足をマッサージする真似をして)もんでくれたりもして。
「あの人が炊事ができるから、ご飯を炊いてくれて、おかずを買って、そうして準備しておいて、私がお金を稼いで一緒に来て。あぁ、そんなふうに過ごしていたのに、死んでいなくなってしまったから、虚しくてたまらないし、寂しくてたまらないし、頼る所がないから。あぁ、本当にたくさん苦労したよ。
「やさしい人で、ただ私の後ろをついてまわりながら、陰で支えてくれて。落ち着いていて、本当に言葉にも品があって。
「子供が二人も死んだんだ。男の子が二人、本当に賢かったのに、本当に。あっけなく、麻疹で死んでしまった。不思議だよ、子供を持てない運命だからなのか、何をやっても、努力しても死んでしまうんだから。

悲しい気持ち

こうして座っていても、脚を伸ばそうとしたら、これも死んで腐る脚なのに-。

「日本が私に過ちを犯したのは、連れて行って、あんな花柳界の生活をさせて、あの営業の者みたいにお酒を注いで、お酒を売らせたことだよ。
「日本に補償しろって言って当たり前だろう。あいつらのせいで苦労したんだから。
「前に調査した時に、慰安婦の届出をしたから、毎月お金もいくらかずつ出て、それで生活して暮らしたんだ。誰か稼いでくれる人がいるわけでもないし。

「私が生きてきて一番良かった時は35、36歳?
「その頃が一番良くて、思い通りにできて、本当に良かったよ。私に少しばかり財産があって、金貸し業もして。
「一番心が痛い時は、私が病気の時。
「病気の時が一番つらくて悲しい、他でもなく。元気な時は大丈夫なんだけど。なかなか体の調子が悪くなることはないんだけど、それでも一度調子を崩すと、ものすごく患うんだよ。鼻血が出たりして、つらいんだ。
「精神的に元気だから、心配はないんだけど。痴呆の気がこの頃はよくあって、以前とは違ってね。
「腰が痛くて、2時間位するともう座ってられないんだ。それで、いつもベッドに横になったり、起きたりしてるんだ。
「いつ死ぬかもしれないってこと。あぁ、簡単に死んでしまいそうだ、おかしいよ、気持ちが。
「全く、悲しい気持ちになるし。前はそんなことなかったんだけど、気持ちが悲しくなるんだ。こうして座っていても、脚を伸ばそうとしたら、はぁ、これも死んで腐る脚なのに。
「前に、知り合いの人が、死んだ夫が夢に出て来たんだって。そうして、『たくさん食べて、たくさん楽しんで元気出しなさい、もう残りわずかだから』って言ったんだって。
「死んだ人が夢に出て来て、行こうって言う時は、もう少しで私は逝くんだなって思うんだ。
「ただ私一人死んだら、誰かが私の財産を相続するなら相続して、私一人、どこかに埋めてくれたらそれだけでいいって、そんなことを願ってるんだよ、今は。私をよく面倒みてくれる、おとなしい娘が一人、いたら良いな、なんて思うんだ。他にはないよ。何も願い事はない。私の運命がこんななんだから。
「あぁ、過去のことは聞かないでよ、胸が痛いから。」

 
[註 091]
忠清南道大田市儒城区。
[註 092]
巻番は日本帝国強占期の妓生組合のことである。これは妓生学校としての性格も持ち合わせていて、主に踊り、歌、楽器などを教えた。
[註 093]
朝鮮から動員された女性たちを現地で配置させた人たちが、ノ・チョンジャに他の女たちのようにどこかに配置されなければならないということを周知させたという意味。
[註 098]
食堂に来る人たちの中で、軍人ではない人たちはほとんどが軍属だという説明である。
[註 099]
「バカみたいなやつ」という意味。
[註 101]
1937年に日中戦争が勃発して以来、日本帝国は巻番の妓生たちを集めて日本軍を「慰問」する文化宣伝団を組織した。これを「慰問団」と呼んだのだが、この「慰問団」は朝鮮と満州各地で日本軍の部隊について回り、活動をした。
[註 102]
「この石頭め」という意味。
[註 103]
食堂の管理者が一種の階級章である腕章を食堂の酌婦たちにつけてやると、日本軍の下級兵士たちも自分より高い階級章をつけている酌婦にむやみに接することができなかったという意味だと思われる。
[註 108]
満州国奉天省奉天県。奉天は今の瀋陽である。
[註 110]
ノ・チョンジャは梅毒のせいで太ももの上の部分にこぶし大の大きさの塊ができて、それを取り除く手術を受けた。
[註 091]
忠清南道大田市儒城区。
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[註 092]
巻番は日本帝国強占期の妓生組合のことである。これは妓生学校としての性格も持ち合わせていて、主に踊り、歌、楽器などを教えた。
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[註 093]
朝鮮から動員された女性たちを現地で配置させた人たちが、ノ・チョンジャに他の女たちのようにどこかに配置されなければならないということを周知させたという意味。
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[註 098]
食堂に来る人たちの中で、軍人ではない人たちはほとんどが軍属だという説明である。
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[註 099]
「バカみたいなやつ」という意味。
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[註 101]
1937年に日中戦争が勃発して以来、日本帝国は巻番の妓生たちを集めて日本軍を「慰問」する文化宣伝団を組織した。これを「慰問団」と呼んだのだが、この「慰問団」は朝鮮と満州各地で日本軍の部隊について回り、活動をした。
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[註 102]
「この石頭め」という意味。
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[註 103]
食堂の管理者が一種の階級章である腕章を食堂の酌婦たちにつけてやると、日本軍の下級兵士たちも自分より高い階級章をつけている酌婦にむやみに接することができなかったという意味だと思われる。
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[註 108]
満州国奉天省奉天県。奉天は今の瀋陽である。
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[註 110]
ノ・チョンジャは梅毒のせいで太ももの上の部分にこぶし大の大きさの塊ができて、それを取り除く手術を受けた。
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