• 慰安婦
  • 歴史を創る物語

「あの歴史を、初めは恥ずかしくて話をきちんとできなかったじゃないか」

zoom
  • 年度
  • 年齢
  • 内容
  • 1927年
  •  
  • 釜山生まれ
  • 1941年
  • (15歳)
  • 釜山-釜山鎮のうどん屋に売られて行く
    釜山鎮のうどん屋-蔚山(ウルサン)へ売られて行く
  • 1942年
  • (16歳)
  • 蔚山から日本軍「慰安婦」として連行
    中国図們の飛行場-近所の西市場の慰安所へ移動
  • 1945年
  • (19歳)
  • シム某と結婚
  • 1955年
  • (29歳)
  • キム某と再婚
  • 2000年
  • (74歳)
  • 永久帰国
  • 2001年
  • (75歳)
  • 韓国国籍を回復
  • 2004年
  • (78歳)
  • 京畿道広州にあるナヌム(分け合い)の家で生活
釜山→蔚山→図們→龍井→京畿道広州
zoom
「こないだ中国に行ったら隣人たちが、ハルモニ、韓国に行くなって言ったのに何度も行って、テレビを見てたらハルモニが(こぶしを上げてスローガンを叫ぶ真似をしながら)こうこう、こうやってたって言いながら、あのこぶしのデモをするために行ったのかって言われたんだ。
「慰安婦問題は、最初にここに(韓国に)来た時にも、いろんな人が来て質問するから、恥ずかしくて答えることもできなくて、その時は顔も上げられなかったよ。でも、今は韓国に来て運動もしているから、今は私の心もよく対応できるようになったんだ。で、誰に聞かれても、答えられるようになった。学生たちが来てハルモニの歴史を聞くんだ、軍人たちとどんなふうに寝て。あぁ本当に今は、あんまりにもそんなだから、恥ずかしさもなくなったよ。
「ナヌムの家には、いつも学生たちが来るし、またこうしてイ・オクソンの名前を印刷してあちこちに広めたりもするから。…今は良いよ。外に出れば外で認めてくれて、ナヌムの家にいれば家で認めてくれて、これ以上のことはない。ただ、気持ちは楽だよ。私は中国で58年間苦労したんだけど、その苦労したことを考えたら、今は本当に幸せだよ、私には。

学習熱

私がどれだけ嬉しかったことか。飛び跳ねながら、学校に行かせてくれるっていうから、行くって言ったのさ。

「釜山で生まれたんだけど、元々は両親の本来の故郷が黄海道でね。だから、1927年、10月10日、陰暦で。…釜山で生まれて、15歳まで育ったんだ。
「学校に行かせてほしいって言うと、母さんに『学校は行けない、お金がない、お前が学校に行ったら、誰が学費を出してくれるんだい…お前が弟たちの面倒をみてくれなかったら、母さんがお金を稼げないし、食べることもできないから、お前が家で弟たちの面倒をみてくれないといけない』って言われて、学校に行けなくて、そうして15歳まで泣いてたんだよ。毎年一回、学校に入る頃になるたびに泣いて、泣いて。
「ある日、母さんが『お前は学校に行けなくてそうしてるけど、ある子供がいない家で、お前を養女に迎えて、お前を学校に行かせて勉強させてあげるって言ってるんだ』…だから、私がどれだけ嬉しかったことか。飛び跳ねながら、学校に行かせてくれるっていうから、行くって言ったのさ。
「そこに行ったのは、そんなんじゃないよ。私があんまりにも学校に行きたいって言うから、母さんも苦労してるし、私のことを持て余して、ひどく生活が厳しいこともあって、だから私を他人の家に送ってしまったんだ。行ったら、小さなうどん屋だった、…釜山鎮にあった。
「私は髪の毛を(腰まで手を下ろしながら)これ位伸ばしてたんだ。そんなに長かったから、私が一人で髪の毛を結えなくて、母さんが髪をとかして結ってくれるか、父さんが結ってくれたんだけど、その髪をね。その家に行ったら、その髪の毛をバッサリと切ってしまったんだ。それで、私が泣いたんだ、髪の毛を切ったのが惜しくて。だけど私は、学校に行かせるために切ったんだ、と思ったのさ。ところが、女中としてこき使われたんだよ。
「ある日は、そこの主人がどんなまねをしたかって言うと…裏の部屋にお酒の膳を用意しておいて、私に行けって言うんだよ。…行ったら、男が一人座ってるのさ。…最近のカラオケとかに行ったらするみたいに、男たちがお酒をたくさん飲んだら、女にちょっかい出してひやかしたりして行くのさ。だから、私は払いのけて、叫んだんだよ。すると、お客さんが騒いで、主人が入ってきてね。入ってきたら、どこからこんな女を連れて来たんだって怒ったから、そうしたら店の主人の奥さんが私を(髪の毛をつかむまねをして)こうしてつかんで引きずり出したんだ。錐で刺したんだよ。(肩を指して)ここが、錐で刺された所、今も傷痕が残ってるだろ。そうして、すごく叩かれたんだ。
「お客さんの相手をしないって、お客さんに失礼だって私を叱って、引きずり出して、叩いて、悪態をついて、錐で刺したんだよ。
「その家で、私が言うことを聞かずにそうしているから、私のことを蔚山に売ってしまったんだ。
「蔚山に行ったら、そこもまた飲み屋なんだよ、その家は。こういう2階建ての家で、そこに行って女中奉公をしたのさ。夜中の1時まで仕事しなくちゃいけなくてね。夜にお客さんが来たら、水を汲んで出してあげて。それから、何かのお茶を持って来いって言われたら、またお茶を出したりもして。こういう使い走りで行ったり来たりして、そうこうしているうちに16歳になった。
「その家に何ヶ月もいられなかったよ。

その日、そうして

お使いに行って帰って来る時に連れて行かれたんだ。誰かもわからない。

「無理やり連れて行こうとするのを、行かないってもがいてるうちに、少し行ったらトラックが1台あったんだ。そうして、そのトラックにこうして乗せられて、私たちは小さいから、男たちの力に抵抗できないだろう?乗せられた以上、そのまま出発して、それでそこから降ろしてくれって叫んで大騒ぎするから、口を塞がれてね。口を塞がれたからにはもう話すこともできないし、叫ぶこともできない。ところで、そのトラックの上にいた人、私みたいな女の子たちがいたんだけど、何人いたのかはわからない。女たちがいたんだけど、だいたい5~6人いたのかな。どこに行くのかもわからない。そうしてトラックに乗せられて、汽車の駅前に行ったんだ。駅から汽車に乗って行ったんだけど、どこに行くのかもわからない。
「中国に行くのか、日本に行くのか、誰も知らないのさ。中国の図們[註 057]に渡って行った後も、そこが中国だってこともわからなかった。私たちが図們に行ったのが、そこが監獄で。幼い頃は監獄ってものが何なのか、収容所ってものが何なのか、私たちはそんなことわからないさ、その時は。それで、私が直接入ってみたら…こうして少し(両手を肩幅くらいに広げて)このくらい太い鉄で、こうして格子窓があって。そんな、大きな家にコンクリートの床、そんな冷たい所に押しこまれたんだよ。そして、その時、人が何人いたのか、私の記憶では6人くらいだったと思うけど、他の人は全部一つの部屋に入れて、私一人だけ別に独房に入れられたんだ。私は、その時のことは、いくら考えても、今もよく思い出せないんだ。
「そこで一晩寝て、出て来いって言うから出たんだけど、あぁ他の人は全部そこで別れて別々になったんだ、一緒に連れて来られた人たちが。別々になって違う所に送られたんだけど、どこへ行ったのかはわからないよ。

飛行場

そこで飛行場を掃除するんだ、そこの庭を。

「そうして、そこからどこかに行ったんだけど、飛行場[註 058]に行ったんだ。…その飛行場っていうのが、日本人たちがそこを侵略した後、飛行場が小さいからって言って大きく拡大しているところだったのさ。そこで飛行場を掃除するんだ、そこの庭を。
「軍人たちがいて、そこに行くと鉄条網、こう鉄条網がしてあって。長くしてあって、そこに電気を流すんだよ。なぜ電気を流すのか、それは、私たちが逃げるから。逃げたら、そこで感電して死ぬように電気を流してあるんだ。
「私たちがここから7月に行ったんだけど、そこに着いたら肌寒かった。それで、そこで仕事をしたんだけど、私たちが仕事をきちんとやらないじゃないか。家に送ってくれってごねたり、不満を言ったりするから、叩くんだよ、やたらと。ある女の子たちは、叩かれるのが怖いから、震えながら仕事するふりしてるんだよ。それで、私も意地もあるし、気が強くてね。だから、そこでも叩かれるのを怖がらなかったんだよ。鼻血が出ても、それでも歯向かって、どうして私たちにこんな扱いするのかって、家に帰してくれないのかって。
「その時、そこの部隊の中に最初に行ったら、大きな家をくれたんだ。くれたんだけど、日本人たちって本当にそういうところを見ると汚くてひどいもんだよ。…女が10人いたら10人、20人いたら20人、自分たちで勝手に強姦するのさ。そんなの、人が多いことなんか関係ないんだ。

ブリキの家

慰安所が何なのか、知らないで行ったんだよ。行ったら、そんな家だったのさ。

「だから、そこで日本人たちが行こうって言うんだ。私たちがあまりにも言うことを聞かないから、行こうって言うのさ。その人たちが行こうって言うから、私たちを家に帰してくれるんだと思って、喜んでみんな集まってまた出たんだ。出たら、その西側にあるからって、西市場って言うんだけど。それで、そこに行ったら、慰安婦って、こんなに大きな家があって、ブリキの家なんだけど、看板があるんだ。そこに慰安婦として連れて行ったんだ。私たちは家に帰るんだと思って、喜んでついて来たのに。
「その時はわからないじゃないか。私たちは部隊では強姦されても、行こうっていうからついて行ったんだ、慰安婦が何なのか、慰安所が何なのか、知らないで行ったんだよ。そうして行ったら、そんな家だったのさ。その家に行ったら、みんな日本人だ。ご飯も、粟飯をくれるのさ。粟飯をくれて、おかずもキムチだといって大根の葉みたいなので作ってくれるんだけど、おいしくない。ご飯を匙でこうやってすくうと、わぁ海水浴場に行ったら、海辺に砂があるだろう、その砂を匙ですくったような感じで。あぁ本当においしくないんだ。それでも、お腹が空いてるから、それが全部おいしく感じるんだよ。大根の葉みたいなのもおいしいし、そこではそんなふうにして食べて暮らしたんだ。
「そこでお客さんたちを接待しろ、しっかり接待しないと。こんな平日には大丈夫なんだけど、日曜日は忙しいのさ。日曜日は軍人たちが、(長く列を並ぶ真似をして)こうして列に並ぶんだよ、二列に。二列にこうして列に並んで、あそこまで、こうしてね。それを全部相手しなきゃならないのさ。…軍人を一日に30人とか40人とか相手しろっていったら、どうすればいいんだい。ご飯も食べられないし。そうして軍人たちが連れて行っても、幼いから、どうするっていうのさ。思い通りにいかないから、成熟してないって言われて、その女を刀で斬るんだよ、斬って、刺して、殺すんだ。
「この戦士たちは大丈夫なんだけど、長官たちが本当に悪いんだ。避妊道具を使わなければならないんだけど、道具を使わないんだよ、実のところ。それで、私たちは使わなくちゃだめだ、使わなくちゃだめなんだって言って、私も相手も病気がうつらないからって。
「その時は名前を書いたんだ。この位の木の札に名前を書くのさ、女たちの名前を。朝鮮の名前を書かずに、日本の名前に変えたんだ。私は、その時はトミコって書いてあってね。それで、その札を挿しておくのさ。病気で相手ができないときは、その札を(札を裏返す真似をして)こうして裏返しにしとくんだ。この人は客の相手ができない。でも、たいていのことでは休めないんだ。だいたいの場合、客の相手をしろって言うのさ。病院に知られてはいけない、軍隊に知られてはいけないんだ、それを。1ヶ月に一回ずつ、月経がある時にも客の接待をするんだ。…その月経がある時は、その月経を防備するのがあるんだ、道具が。
「(性器の方を指して)こうして、そこに入るように切り取ったのがあるんだ。そんなのをくれて、中の穴を塞ぐのさ。そうして、血が出ないようにするんだ。それでも、出てくるだろう。だから、そんな時でも休めないんだよ、女たちは。それで、子供が産めない人が多いじゃないか、あんな所に行って来た人は。そうして、私は病気になって、梅毒にかかってどれだけ苦労したことか。
「サルバル(サルバルサン)って、606号のことさ。その時、傷痕があったんだけど、今はもう年をとって何十年も経ったから、こうして少しだけ残ってるんだ、今でも、これが。
「そうして、注射を打つと、ここを見てみなよ、ここに、傷痕がこれだけ。
「たくさん注射したよ。そうして、それでも治らなくて、それで私が水銀を使ったんだよ。
「それを吹き付けたから、こうして子供が産めない体になったんだ。…水銀を吹き付けるんだよ、下の部分に蒸気を吹き付けるのさ。首だけ出して、布団をこうしてかけて。

青あざ

それを外して一回ずつ叩くと、真っ青に青あざができるんだ。

「私は逃げようとしても逃げられないし、薬を飲んで死のうとしても、そうすることもできないし。お金がないから、薬を買いにも行けないだろ。行けないよ。…扉の前に木があれば、首を吊って死ねるだろうけど。ここは、韓国には家ごとに木がたくさん生えてる。でも、中国には家、人が住んでいる所には木がないから、…山にだけあるんだ。山の下に住んでいても、家の前には木がないんだ。だから、死ぬこともできないし、逃げたくても逃げられないし。
「それで、一度は考えたんだ。どうすれば逃げられるのだろうかと、そうして日曜日になったら門が開くんだよ。軍人がたくさん来るから、そのとき逃げようと思って。だから、17歳の時だった。1歳年をとったから、分別がついて逃げたのさ。それで、逃げはしたんだけど、道がわからない。道がわからないのさ、中国の道が。
「お金もないし、何もなくて、…逃げはしたんだけど、方向感覚がないから。それで、少し山の中にいたら、少しして捕まってしまってね。捕まえられて来て、またそこに戻ってきたんだよ。
「逃げ出してすぐに捕まって来たんだ。連れ戻されて蹴られ殴られるんだけど、その時に私が死なずに生き延びたことが、本当に天が助けてくれたんだよ。…蹴られて殴られたことを考えると、その場で死んでも不思議じゃないくらいだったのに、死ななかったから。あまりにも蹴られ殴られて、全体が血だらけになったんだ。靴で蹴って、軍人が、その次に警察が叩いて、私が降参しないでいるから行ってしまって、軍人がまた叩いて。軍人が叩いても、私は降参しないんだ。また逃げるつもりかって聞かれても、逃げないとは言わないんだ。ただただ歯向かうんだ。私を家に帰してくれたら、逃げはしないって。どうして私たちをこんなところに、父さんや母さんと別れさせて、こんなふうに連れて来てこんなことをさせるのかって言いながら抗議して、逃げないとは言わなかったんだ。だから、やたらと叩かれてね。叩いて、叩いてもだめだから憲兵を呼んでくるんだ。
「憲兵を呼んで来たら、靴が本当に厚い靴なんだ、軍人の靴は。それで蹴られると全身に青あざができて、その次にはこのベルト、牛の革のベルトが太くてね。だから、腰にベルトをして、そこに刀を差して、また拳銃を差して、そんなベルトだから丈夫なのさ。それを外して叩いたら、(全身を指して)ここを一回叩くと、真っ青に青あざができるんだ。それで、その次の日に起きて、軍人、他の軍人たちの接待をすると、上衣を脱がせてみたら、みんな驚いて逃げ出したもんだよ、こりゃ何だって。

シム同志

ちょうど来て、道で会ったんだけど、行こうって言ってくれて、どれだけ嬉しかったことか。

「私たちは日本の軍人たちが避難するって言うから、本当に避難するんだと思ったんだ。避難って言うから、その時は何も知らずに、もう飛行機から爆撃するのを見たら、私たちだって怖いだろう。避難するって言うから、行ったんだ。行ったんだけど、その今考えてみたら、その山があってね。
「そいつらが山に私たちを捨てたもんだから、そこで迷って、迷って、…そうして山に捨てて行ってしまったから、日は暮れてしまうし。『行こう、このまま山では生きていけないよ、行こう』って言って、みんな犬みたいに逆さまになって這って下りてきたんだ、道もないから。山の下に下りてきたら、人が通る小道があってね。そこに出て、しばらく歩いたら延吉[註 059] の市内に出てさ。
「それで、出て来たら、昼にはみんな避難してるのさ、市内の人たちが。みんな山の中に避難して、夜になったら下りてきてご飯を食べて、また明け方に避難して。どうしてそうするのかっていうと、新しい人たちがたくさん来て、人をたくさん殺すのさ。女たちを強姦して殺すんだよ。だから、女たちは昼は出て歩くこもとできないんだ。だから、私たちが来てもご飯を食べさせてもらえるはずがないだろう。人が多いから、[註 060] ある家に行ったら。ねえ、このままだと本当にみんな飢え死にしてしまう。家にも帰れないし、道もわからないし。お金も、みんなお金なんかなかったから。…私たち、このままだと死んでしまう、そこで別れたんだ、慰安婦の女たちが。バラバラになって、しばらく私一人で歩きまわっていたんだ。
「そんな時に、その男[註 061]が来て、私を軍人たちをいっぱい乗せている車だよ、それがちょうど来て、道で会ったんだけど、行こうって言ってくれて、どれだけ嬉しかったことか。
「それも、市内で。そうして会って、行こうって、俺の家に行こうって。どんなに嬉しかったことか、本当に。ご飯も食べられずに、涙を流して歩きながら生活してたから。そうして車に乗れって言うから、車に乗ったんだ。あぁ、そうしたら軍人たちがみんなそうして笑うのさ。誰かが後でシム同志、そこでは同志って呼ぶんだ、軍人たちを。シム同志の恋人みたいだって。
「19歳だよ、解放されたから。解放されて延吉で苦労して、その人が連れて行ったから。

最初の結婚

夫が義父の前で刀を口にくわえて死んでしまうって、そこまで言うのに私のことを手放すかい。放さないさ。

「結婚する時に、私たちが会った時に、両親の許しなしに私を夫の家に突然連れて行ったんだよ。連れて来た私を見たら、こんな女を連れて来て、義父、義母が何て言うんだい。私は行く所がないんだよ。だから、だめだ、お前は独身なのにどうしてこんな女を連れて暮らすっていうんだ、義母が『だめだ』って言うんだよ。私と夫は三つ違いなんだ。私が19歳で、夫は22歳で。そうして、だめだって言って。私をそのまま行かせなさいって言うんだよ。
「夫の叔母さんが3人いてね。その2番目の叔母さんの夫が韓国の方なんだよ。その叔母さんの夫が、何て言ったかわかるかい。『おい、お前はこの女とは暮らせないぞ。どうして一緒に暮らせないかって。お前がこの女を連れて一緒に暮らしても、子供を産めないんだ。…意地張るくらいなら、いっそ故郷に帰らせてあげなさい』私を故郷に送って、他の女と結婚しろって言うのさ。夫は絶対にそんなことはできないって言うし。横に座っていた義父が、それでもだめだって言うと、義父の前でお父さん、どうしてもこの女と一緒に暮らせないというならば、俺はお父さんの前で刀をくわえて死んでしまいますって、そこまで言うのに私のことを手放すと思うかい。手放さないさ。
「軍に所属しながら私を連れて行ったのさ。夫の家に連れて行ってから、また部隊に戻って行ったんだよ。部隊に行って、結婚式の日の何日か前に来たんだよ、結婚するために。…でも、その家もすごく貧しいんだ。結婚式とも言えないものだった。
「4日間いたから、私たちの結婚式の日に部隊の軍人たちがいっぱい来て、二晩祝ったんだ、二晩。
「義母は41歳だった、あ、42歳だ。でも、赤いパジチョゴリ(ズボンのような下衣と上衣)を着て、水口に座ってタバコをプカプカ吸うんだよ、あんなに貧しい家でも。行ってみたら、夫の家のお祖父さんがいて、お祖母さんがいて、義母と義父がいて、弟たちが3人いて、その家族に私が入って9人だよ。男ばかりで、女は私と義母がいて、お祖母さんがいて。女は3人で、あとは全部男なんだ。みんな何かはしてるけど、みんな遊んでるんだよ。[註 062] 男ばかりいて貧しいから、更に食べなくてね。油気があるものは食べられないから。だから、私は毎日のようにおこげばっかり食べるんだよ、おこげだけ。私にはご飯のおこげだけを準備してね、家族が多いから。
「夫が戦場に行って、負傷して家に来て何ヶ月かいたんだよ。…そうして何ヶ月か一緒にいてから離れたんだ。どうして別れたのかって。それは、夫が日本の部隊に行って、隊長みたいにしてたから、少し怖がられたっていうんだ、隊長だから。下の人が言うことを聞かないと、殴ったりもしたし、怒鳴ったりもしたんだよ。そうしたら、その被害者がいるだろう。
「解放されたら、日本帝国残滓の清算だとか言って、家に来て全部、こうして後ろに貼り付けるんだよ。今でも、お金を受け取るために、借金したらこうして紙を貼り付けられるじゃないか、そうするんだよ。何一つ、勝手に処分できないんだよ。全部持っていったのさ。新婦だから、何もないし。何も着ないで過ごすのさ、何も着ないで。

虚しい別れ

手紙の一通もなく、何の便りもなく。そうして10年間待ってたんだよ。

「私をどこに出すものか、怪我しはしないかって、町内でもみんな話すくらいに有名だったんだよ。そんな風にしていた人が、戦場に行ってから、手紙の一通もなく、何の便りもなく、そうして10年間待ってたんだよ。その夫は嫁をもらって、子供も産んで、ちゃんと暮らしてたんだ。その時まで、私は夫を待ってたんだ。
「叔父さんが延吉の市内に行ったとき、映画館で私の夫とバッタリ会ったんだよ。年をとった人は大して姿が変わらないけど、若い人は年をとると変わるだろう。それで、その叔父さんはあの人を見てもわからなかったんだ、甥と叔父の間柄だとしても。だから、夫が、あの人の方が先に気が付いたんだ。夫が『中国から来たんですか』って声をかけたら、叔父さんが『そうですが。ところで、どなたですか』って聞いて、『俺が誰なのかわからないんですか』って、誰々の叔父さんでしょうって言うと、叔父さんが『そうだ』って答えて。そうして、叔父さんが誰なんだって何度も聞くから、『俺も中国から来たんです』、『思い出せない』、俺がわかりませんかって言うから、『思い出せない』って答えたんだって。そうして夫が義父、義母の名前、シム某の息子だって言うと、『お、(手を打って)お前、どうしてここにいるんだ。ソ連に行ったって聞いたけど』、すると、夫が今はそこに来て暮らしているって答えたんだって。
「それで、見物して、夫が自分の家に行こうって言ったんだって。それでついて行ったら、女の子が3人いたって。(気が抜けたように笑い)そして、お腹の中にももう一人いて。それで、その叔父さんは、そこでもてなしを受けて、『お前、どうしてこんな暮らしをしてんだ』って言うと、夫が、叔父さん、男が異郷で長い間生活したら、10年ですよ、そんな異郷暮らしのなかで男として生きてると自然とこうなってしまったって、だから、叔父さんがこう言ったんだって。『お前は間違ってるぞ。お前の家に行ってみろ…、お前の最初の夫人もいる。お祖母さんの面倒をどう見ているのか知ってるのかい』そう言うと、膝を叩いて、『本当に俺が悪かった。俺は、今もいるとは思いもしなかった』って。
「私はそんなことも知らずにゴム工場って所に行って、履物を作る所に行って、3年いて、そこで稼いだ金で夫の家族たちの生活費にしてたんだよ、私が。とても苦労したよ、お金がないから。それで、食べる物を買って、服も全部買ってあげたのに。私がその家に入ってから、お祖父さんが亡くなって、お祖母さんが亡くなって、私が全部お葬式もやったんだよ。

二番目の夫

苦労といえば、この家に来て本当に苦労したよ。首を吊って死ぬって言ったくらいだから、どれだけ苦労したことか。

「夫の叔母さんが、以前に山の奥深くにいたんだ。[註 063] そうして、私を夫の叔母さんの家に連れて行ったんだけど、行ったら、私に白菜をきれいに手入れしてほしいって言うからそうしたら、今度はそれを洗ってほしいって言って、次は塩漬けしてほしいって次から次へと言うんだよ。それは何のためだと思う?私を結婚させようと、男たちが見に来るんだ。私を見に来るんだよ、…門の前で仕事してるから。ところが、そこにいた私の二番目の夫が中国の共産党員だったんだ。社会の指導主任といって、法を司る工作をする人なんだ、農村で。
「履物を全部隠して、くれないんだよ、叔母さんが。『甥はもう帰ってこない。もう10年経ったのに、来られるわけがない、死んだんだよ』、そういって帰ってこないって言って、他の人と再婚しなさいって。なにも苦労して稼いで夫の実家を、貧しい夫の実家をそこまでして面倒みる必要はないって。お前がいくら面倒をみてあげても、何の成果があるのかって、再婚しろって言うのさ。あまりにも私を説得し、そうして何日も離さないで。あまりにもそう言われるから、私が…『では、叔母さん、本当に私が苦労しててかわいそうだと思うなら、その人と会ってみます、どんな人なのか』、そうしてその人を呼んで、その人が来たんだけど、見た目も普通だし、体格も良くて、話してみたら賢い人なんだよ。それで、私が過去の話をしたんだ。そうしたら、それは問題ない、家には母親がいない子供が二人いる、その子供たちさえちゃんと育ててくれれば自分は同意する、その男がそう言ったんだ。女の子は9歳で、男の子は4歳で。その男が気に入ったから、再婚することにしたんだ。
「夫のせいで、心を痛めたよ。お酒を飲んでね。あぁ、どうして私は私の父みたいな人と一緒に暮らすんだろうって。賭博をするんだ、お酒を飲んで。あぁそれで家を売り払って、牛も売り払って、あきれるんだよ。お米も全部渡して。それも、はじめは私たちは知らなかったんだけど、後になってそれを知ったんだよ、私が。それを知って、息子と嫁が血と汗を流して稼いで、父親の借金を全部返したんだ。そして、家もないし、牛もないし、もう牛も失ってしまって。父親から譲り受けた財産は全然ないんだ。
「あぁ、ひどいもんだよ。清算[註 064] を受けたから、上衣もないんだ。夫のせいで清算を受けてね。清算を受けたら、何もないんだよ。
「苦労といえば、この家に来て本当に苦労したよ。首を吊って死ぬって言ったくらいだから、どれだけ苦労したことか。最初の夫の家よりも、もっと苦労したよ。食べられないことも、もっと苦労したんだ。着られないことも、その家に行って、夫とそうして50年暮らして、借金も全部返して暮らして。でも、夫が死んでから、町内の男たちが『じいさんの上着をください、一緒に入れるもの』って言われてね。入れて送るものを出そうと思ったら、家のタンスにも、こうしてたくさんあってね、あぁその時、パジ(ズボンのような下衣)も一枚を二人で着ていたのに、今は上着がこんなに多くて、少し余裕ができたら死んでしまったって、私がそう言ったんだよ。

かわいそうな息子

4歳のとき私が来て、51歳まで一緒に暮らしたから、私の情の方が多いさ。

「その家に行ってもあまりに苦労して、死んだ夫人が借金をたくさん負って死んだんだ。…行ってからあの子(息子)が4歳だけど、三日で私にくっついて、母さんって言って離れようともしないんだよ。それで、その子を育てて。育てながら、○○が大きくなったら、私が本当の母親じゃないって話してあげようと心に決めて。…その子は育てる時に私を困らせるようなことはなかったんだけど、娘のことでは心を痛めてね。女の子だから、女同士は少し違うだろう。それで、下の子は母さんって呼ぶんだけど、上の子は9歳だったからわかるじゃないか。でも、その子が私と10年過ごして、北朝鮮に行ったんだ。[註 065] その時が64年だったか、63年だったか、その時だよ、その時。
「それで、その娘を送って、息子一人を育てながらそのまま暮らして、息子が20歳になる前に、私はお前の本当の母親じゃない、お前を産んだ母親は死んで山にお墓がある、これからはお前が山に通ってお前を産んでくれた母親のお墓に行って、草も刈ってあげなさい、…お前を産んでくれた母親の実家に行きなさい、お前の叔父さんが、お前と一緒に山に行くのを待っている、私がお酒を買って持たせてあげるから、持っていきなさい、そう説得して、20何歳かになってから産んでくれた母親のお墓に行ったんだ。そうして通い始めて、今は母親のお墓に行くんだよ。この子は、私が本当の母親じゃないって知ってるけど、そこにいる時間は少なくて、私と一緒にいる時間は長いから。だから、その母親との情がないじゃないか。4歳のとき私が来て、51歳まで一緒に暮らしたから、私の情の方が多いさ。だから、この母親しかいないっていうのさ。息子も嫁も、本当に良いよ。
「私は息子がかわいそうでね、他の子に比べたら。…耳、耳を患って手術したんだよ。そうして鼓膜を片方取ってしまったから、聞くこともできないんだ。もう片側の耳の鼓膜はあるんだけど、それはまた 病気[註 066] になってね。だから、大きな声で話さないと、聞こえないんだよ。だから、それで息子がかわいそうでね。
「離婚しようとして、息子を座らせて見つめるんだ。どうせ、私が産んだ子ではないんだから、何も関係ないじゃないか。私がこのまま置いていったら、どんなお母さんが来て、お前を育ててくれるんだろうってつぶやいたら、(泣き声になって)涙がとても溢れて、耐えられないんだよ。それで、私が出て行けなかったんだ、離婚できなかったんだよ、うちのじいさんと。
「またある時は、私が首を吊って死のうとして、牛の皮一枚とこれ位の木の棒を持って、山に登ったんだ。しばらくして高い所まで登ったら、こんな、一抱えを越すほどの木があって、高い木があったんだ。あ、あそこに首を吊れば死ねるなって思ってね。それで、その木の下に脚を伸ばしたまま座り込んで、棒をそこに置いて、地面を引っかきながら、死ぬべきか、生きるべきかって考えながら泣いたんだよ、そこに座って。そうしたら、山の下の方から声が、人の声が聞こえるんだよ。息子、嫁、孫、じいさんがみんなが探してるんだよ、私がいないって。息子が『母さん、ここにもいない、母さんはここにもいない』って騒いでるから、ああ、お前たちが私を探して回ってるんだな。座って、泣いて泣いて。その次に、私はまだ死んではいけない、息子がああして私のことを探して回っているのに。それで、涙を拭いて、棒を隠して、山から下りて来たんだ。下りて来て、あの子たちに見つからないように遠回りして、家に戻って来て、泣きながら棒を袋から取り出して、そのまま放り出して、うつ伏せになって泣いたんだ。でも、息子が駆け寄ってきて、『父さん、母さんが帰って来た』って言って入って来て、母さん、どうしてなんですかって言いながら棒をしまっちゃうんだよ。そうして棒をしまってから、母さん、どうして、『母さん、止めてください』って言うから、それでまた泣いてね。

産婆

今でも、誰か赤ちゃんを産めない人がいたら、私を呼んでみなさいよ。

「1955年にあの人(二番目の夫)と再婚したんだけど、その年の冬から、そこで産婆の仕事をするようになったんだ。
「そこにはできる人がいなかったんだよ。大きな病院の院長が、どうしてそこに行く人がいないんだ、その何主任だったか、あ、キム主任の夫人、その人にさせなさいってことで。そんな人を置いてできないのかってね。私もその時に病院から指名されて、その技術を習ったんだよ。それで、15年間。
「産婆ならいくらでもできるよ。今でも、誰か赤ちゃんを産みたい人がいたら、私を呼んでみなさいよ。15年間、一度のミスも失敗もしなかったんだ。
「そこに行って(再婚して)、私が衛生事業を担当したんだ。衛生員としてその事業を担当して、その次にそこに産婆を兼ねて、衛生を兼ねて、福利を兼ねて、う-ん、生産職の会長を兼ねて、4つを兼ねたんだ。中国では、そんなふうにたくさん兼ねてやる人が多いんだよ。そうして、そこに行って解放を迎えて、小組の婦女隊長として私が最初に行ってすぐに任命されて、責任を持って働いたんだ。そこから、順に隊長から始まって、青年の党小組に、小組長から党支部にも責任を負ってね。私が婦女主任を、婦女主任といえば、ここでは婦女委員だ。

帰国を試みる

私が20年を過ごしたんだ、家族を探そうとして。

「私は文字を書けないから、どれだけ難しいことか。それでも、KBS放送局[註 067]に手紙を出したんだよ、私が。…それなのに、便りがなかった。
「私が韓国に初めて手紙を送ったのが、今から20年も経ってない、20年にはなってない、10年以上だよ、10年は過ぎたよ。
「手紙を送ってからもしばらくいたよ、何年かいた。そうして、韓国から家族を見つけたという連絡が来たんだ。
「ところがそれが、複雑なんだ。私が知っている人の姪っ子がいるんだけど、韓国人なんだよ。私がその家に行くことがあって。その姪っ子の従姉妹がいるんだけど。その従姉妹がお姉さん、あの誰々のお母さん、どれだけかわいそうなことか、その家から賢くもない息子が訪ねてきて、それを嫌がりもせずにかわいそうだって育ててあげて。その貧しい家に来て、そうして苦労して暮らしたんだから、少しは楽にしてあげてって。…ソウルの人なんだ、パクさん[註 068]っていう。ところで、その人がその家で下宿をしていたので、私の歴史を知っているのさ。
「パク処長が私のことを知っているという家に下宿をしているから、その家で話を聞いて私のところに来たんだ。
「パク処長が私に、『ハルモニが慰安婦だったって話は、本当ですか。』って聞くから、『そうだ』って答えたよ、その歴史は最初は恥ずかしくて、話をきちんとできなかったんだよ、それで、そういう所にいたっていうことだけは話して。そうしたら、パク処長が自分が下宿している家のおばさんに、ハルモニがああして話しても、韓国に行って慰安婦だったっていう証拠にはならないって言うんだ。その時は恥ずかしいから、そんな話をしなかったんだよ。でも、慰安所にいたっていうことだけは証言したんだ。
「その人が最初に韓国に来たときは、私の家を探しだせなかったんだ。
「私を釜山の駅前に連れて行ってくれるだけでいい、そうしたら目を閉じてでも行けるって。その時が、私が中国で暮らして55年目だったんだよ。パク処長が『ハルモニ、本当に』、本当だって、だから本当に帰れるのかって言うから、私が、本当に私をそこに連れて行ってくれって、目を閉じてでも訪ねて行けるって言ったんだ。
「そうして、私が家の地図を描いたんだ、町内を。こうして描きながら、(略図から家を指差す真似をしながら)ここが私の家なんだけど、この家の裏に洗濯をする大きな川があって橋があった、その橋を渡って行くと普通学校があったんだけど-。でも、その川があったんだけど、調べてみたらそれが今ではなくなってしまったんだ。それに、私がいる頃には家は宝水町って呼んでたんだけど、今では宝水洞って、町の字が洞の字に変わったんだ。(照れ笑いをして)それで、またそれが違っててね。それで、汽車駅の前で降りて、バスに乗って下りて路地を入ってきたら、ここが私の家でって、そう教えたんだ。…釜山の甥をそうやって探し出して、私の兄や妹がみんないることを確認して、そこの一番上の甥が招請状を送ってくれたんだよ。
「釜山に行って、二番目の妹と一緒に行ったんだけど、二番目の妹が『お姉さん、目を閉じても探して行けるって言ってたけど、そろそろ到着よ』、『うん、じゃあ降ろしてちょうだい』、そうして、私が住んでいた家の門の前に行って、車から降りたんだけど。…目を閉じて探して行けるかって。目を開いてても探せないよ、時代が変わったからね。目を閉じて探せないよ。
「2000年の6月1日に、韓国に到着したんだ。…1年半の間、私はナヌムの家のこの部屋にじっ-として過ごしていたんだよ、…国籍がないから。…私の家で死亡届を出してしまってたんだ。そうして法廷に行き来したんだけど、死んだ人が生きてるわけだからね。
「甥が、叔母さんから何の便りもないから、死亡届を出したんだけど、叔母さんがどこに行ったのかもわからないし。…誰もどこに行ったのか知らないから、行った人もわからないくらいなのに、そんなだからどうやって探せるっていうんだい。だから、甥が死亡届を出したんだよ。町内の人たちは、私が帰ってきたら、みんな話してくれたんだよ。母さんが甕の上に冷水を鉢に汲んで、毎日お祈りしたっていうんだ。神様、オクソンがどこかに行って死なずに生きているなら、健康に幸せに暮らせますようにって、亡くなる時までそうして祈ってたんだって。だから、韓国に帰ってきたら、町内の妹の友だちが、『あんたのお母さんがあれほどお祈りしてたから、そのお陰で来れたんだ、あんたのお姉さんがああして生きて帰って来たのは』
「結局は、兄弟姉妹が韓国に帰って来れたから、また一日を生きても、今は幸せに暮らしてるから、大丈夫だよ」

 
[註 057]
中国吉林省の東側、延辺朝鮮族自治州にある都市。
[註 058]
図們から延吉まで再び汽車に乗って行った場所は、延吉の東飛行場があった日本軍部隊(現在の延吉社会精神病院前)の中に土で建てた兵舎だった。(慶尚南道挺身隊問題対策のための市民連帯ホームページ、証言資料室から引用、)
[註 059]
中国吉林省にある延辺朝鮮族自治州の州都。
[註 060]
慰安所から一緒に出て来た女性は約10人ほどだった。
[註 061]
イ・オクソンの最初の夫のシム某のこと。
[註 062]
イ・オクソンを含む9人家族が何かしていることはあっても、経済的な能力はないという表現である。
[註 063]
最初の夫の実家と同じ地域の吉林省龍井市の八道鎮。イ・オクソンは韓国へ永久帰国する時まで、ここで居住していた。
[註 064]
イ・オクソンの二番目の夫であるキム某は、中国共産党員で、町内を担当していた。彼がお酒に酔った状態での失言が中央に知られるところとなり、自己批判の形の罰を受けた。
[註 065]
イ・オクソンの口述によると、1963-1964年頃に北朝鮮の移住奨励政策により、19歳だった娘が北朝鮮に行ったという。
[註 066]
耳の病気で、聴力が減退する病気と推定される。
[註 067]
イ・オクソンはKBSが自らの帰国を助けてくれたのだと思っているが、実はSBSの『事件と人たち』(1997年1月4日放映分)の「中国に残っている日本軍慰安婦ハルモニの故郷探し」を通して帰国することができた。
[註 068]
イ・オクソンを韓国に帰国できるように助けてくれたパク・サンジェ処長は、中国延辺科学技術大学に勤務する人である。
[註 057]
中国吉林省の東側、延辺朝鮮族自治州にある都市。
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[註 058]
図們から延吉まで再び汽車に乗って行った場所は、延吉の東飛行場があった日本軍部隊(現在の延吉社会精神病院前)の中に土で建てた兵舎だった。(慶尚南道挺身隊問題対策のための市民連帯ホームページ、証言資料室から引用、)
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[註 059]
中国吉林省にある延辺朝鮮族自治州の州都。
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[註 060]
慰安所から一緒に出て来た女性は約10人ほどだった。
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[註 061]
イ・オクソンの最初の夫のシム某のこと。
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[註 062]
イ・オクソンを含む9人家族が何かしていることはあっても、経済的な能力はないという表現である。
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[註 063]
最初の夫の実家と同じ地域の吉林省龍井市の八道鎮。イ・オクソンは韓国へ永久帰国する時まで、ここで居住していた。
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[註 064]
イ・オクソンの二番目の夫であるキム某は、中国共産党員で、町内を担当していた。彼がお酒に酔った状態での失言が中央に知られるところとなり、自己批判の形の罰を受けた。
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[註 065]
イ・オクソンの口述によると、1963-1964年頃に北朝鮮の移住奨励政策により、19歳だった娘が北朝鮮に行ったという。
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[註 066]
耳の病気で、聴力が減退する病気と推定される。
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[註 067]
イ・オクソンはKBSが自らの帰国を助けてくれたのだと思っているが、実はSBSの『事件と人たち』(1997年1月4日放映分)の「中国に残っている日本軍慰安婦ハルモニの故郷探し」を通して帰国することができた。
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[註 068]
イ・オクソンを韓国に帰国できるように助けてくれたパク・サンジェ処長は、中国延辺科学技術大学に勤務する人である。
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