• 慰安婦
  • 歴史を創る物語

「どうしたら、この仇を討てるだろう。」

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  • 年度
  • 年齢
  • 内容
  • 1928年
  •  
  • ソウル市麻浦生まれ
  • 1941年
  • (14歳)
  • ソウル市麻浦区ポクサゴルで連行、中国まで移動
    内モンゴルと推定される所で日本軍「慰安婦」の生活
  • 1945年
  • (18歳)
  • 解放後8ヶ月間、北京に滞留
  • 1946年
  • (19歳)
  • 仁川港を通して帰国
  • 1950年
  • (23歳)
  • 韓国戦争の際に大邱に避難
  • 1956年
  • (29歳)
  • 江原道の食堂で2年間調理補助
  • 1959年頃
  • (32歳頃)
  • 大邱の倭館で食堂を経営
  • 1992年
  • (65歳)
  • 水原に引っ越す
  • 1993年
  • (66歳)
  • 日本軍「慰安婦」登録
  • 2004年
  • (77歳)
  • 京畿道水原市で甥夫婦と暮らしている
ソウル→内モンゴル→北京→天津→仁川
zoom
「あいつらに私がされたことを考えたら、私の大事な青春を、この日まであいつらのせいで結婚もできずにいたんだから。」
「解放となって、そこから帰ってきても、まだ幼いじゃないか。結婚とか、男とか、そんなことは考えたくもなかった。一度は、近所の知り合いのおばさんが紹介してくれて、洋服店の息子とお見合いしたんだけど、その男が私のことが気に入ったのか、毎朝私の家の前で待ってるんだよ。とても、嫌だった。男という生き物にはうんざりしてたから。とにかく嫌だった、気持ち悪くて。結婚とか、男とか、そんなのは考えたくもなかった。
「そうでなくても業が深くて、こうして、こんな目にあって生きているのに、どうしてまた、これ以上罪を犯して暮らす必要があるっていうのか。それほど私が苦痛を受けて、ひどい目にあって生きてきたのに、私が結婚してどんな栄華を味わえるっていうのさ。
「それでも、他人が結婚するのを見たら、うらやましいよ。私はあんな目にあったのに、私の青春は全部過ぎ去ってしまって。

避難

兄を連れて行かれないように、娘たちはまた、あの挺身隊に送らないようにしようとして。

「父は幼い頃に、早くに亡くなったんだ。そのせいで母がとても苦労したんだよ。12歳で結婚して、17歳だったか、その時に兄を産んで、そして29歳で未亡人になったんだ。[註 049]「麻浦区ポクサゴルで母が小さなお店を経営していて。まあ、雑貨店でね。雑貨店といっても、本当に生活が厳しくて、苦労もした。
「8歳になって学校に行ったら、早すぎるからだめだって言われて、12月2日が私の誕生日だから、1年後においでって。それで、9歳になって学校に行ったら、今度は年が多すぎてだめだって言うんだよ。その時、その時に何がわかるんだい。勉強とか、そんな考えがあるかい。ただ、他人の家で働きながら、子供の面倒とかを見てあげたりしたよ。
「日帝時代に兄が徴用されそうになってね。でも、母が兄を徴用されないようにするために、兄の戸籍を別に独立させて、戸籍を作ったんだ。
「それでも、そうしておいてから、この息子をとられないようにと布団を置いて、その後ろに隠して、小便、大便もそこで用を足して、そうやってその布団の後ろに隠して。それでなのか、どうしてなのかはわからないけれど、兄は徴用には行かなかった。
「娘たちはまた、あれ、挺身隊に送らないようにって、あっちに送ってこっちに送ってってしてるうちに、仕方なくハルモニの所に送ったんだよ。[註 050]「妹が一人いて、私とは6歳違いなんだ。だから、今は70歳になったね。でも、この子は、だから、もともとの姓は「ソク」なんだけど、アン某になってるんだよ、母の姓を取って。私も本籍にいけば、アン・スンヒになってるよ。でも、住民登録を大邱で作る時に、ソク・スンヒとして登録したんだ。妹は依然としてアン某になってる。

体重測定

女たちを一列に並ばせて、秤で体重を量ったんだ。

「その時が大東亜戦争が起きたって言ってたよ。(小さな声で)14歳の時。その頃は何もわかんないだろ。何もわからなかったよ。
「麻浦区孔徳洞ポクサゴル、そこには、米を精米する精米所があって。
「その時が秋だったと思う、初秋の頃だったと思う。町内に放送をして、ポクサゴルの大きな精米所の前に集まれって言うんだ。何歳までの女は全部ここに集まれって放送してね。そんなふうにして出て来いって言うから、両親たちもついて来たよ、なにごとだってね。
「それで出て行ったら、町内の女たちを一列に並ばせて、米の重さを量る秤で体重を量ったんだ。そこで体重が少しある、丈夫な女たちはすぐにトラックに乗せられたんだ。
「銃を差した軍人もいて、韓国人もいた。日本の軍人は何人もいたよ、民間人もいて。そいつらが、全部車に乗れって言って、引っ張り上げてた。
「私はその時、55キロか60キロだったんだよ。今もそうだけど、体格がよかった。あ、そいつらが体重があれば、すぐにトラックに乗せるんだよ。それで、私もそのままトラックに乗せられたんだ。そうして、強制的に車に乗せるから、私の母は私の娘をどうして連れて行くんだって、ぶら下がって、泣き叫んで、罵って。だからって、やつらがそれを聞いてくれるわけないだろう。ほとんどの女の子たちは一度に、そこから10人くらいが連行されたはずだ。
「トラックの中には銃を差した軍人が一人か二人いて、前には運転手と軍人がもう一人乗っていたようだった。
「真っ暗で、テントをこうして覆っているから、どこかどこなのかわからない。
「ああ、ひどいもんだよ。胸はドキドキするし。どうしたらいいのかわからないし。何も考えられなかった。

土の家

タタミでもなく、オンドルでもなく、ただの土で床を作った、そんな家だった。

「どれだけ行ったのかわからないよ。乗るとすぐに幕を下ろして、ずっと走ったから。トラックが走って、どこかに行って、また女たちを何人か乗せて、また行って乗せて、そうしてたよ。でも、どれくらい行ったのかはわからない。しばらく進んで、列車に乗るから降りろって言った。汽車駅だったけど、漢江みたいに長い橋の上を汽車に乗って通り過ぎたんだ。でも、ただの橋も、列車の橋もすごく長くて。
「そこが韓国なのか、中国なのかわからないけど、私たちが到着した所は中国だって。
「ああ、ひどいもんだよ。山もないし、木もないし、水もなくて、砂漠みたいに黄色い砂に覆われていた。私たちはそんな砂漠の真ん中にポツリとある、ある家に連れて行かれて、その家は中国人たちが暮らしてた家だけど、追い出したそうなんだ。部屋も、タタミでもなく、オンドルでもなく、ただ土で床を作った、そんな家だった。私たちがいる家の周辺にはポツポツと家が一軒ずつあったような気がする。
「テントの中でも暮らしたし、粗末なそんな家をなんとか修理して、そんな所であれをして、過ごしたんだ。
「周りは砂漠みたいな所、何もない所、シベリアの草原みたいな、そんな所だ。また、ある所は山の方に、ただ山の中に天幕を張って、そうして。ある所に行くと、防空壕が掘ってあってね。その中でも住んでたよ。
「だから、戦時だから、戦争に突入するとまたそこに入って、そしてまた入って、そんな感じだよ。
「私たちは、だいたい10人くらいいたみたいだった。後からもやたらと入ってくるんだよ。最初は私たち、だいたい5~6人いたんだ。後には、もっと入って来て10何人かになった。もう二回くらい入ってきた。

軍人たち

あいつらが私たちを獣のように扱ったんだ。人間として扱わなかった。

「だから、行ってすぐに気違いじみたことをやったんだ。その、何がわかるんだい。
「昼間、星を二個つけた将校が来たんだ。その将校が来て、私のことを見て行ったら、夜にながい刀を差して来たんだ。…要求することをきかないって、刀を抜いては殺すって騒いで。あぁ逃げながら、ある穴の中に入って、また何か、その、そこは家がこうあるけれど、オンドル石だけあって、火をつけるかまどがないんだ。ただ、入って出て来る、それだけの穴だけがあった。そうして、その中に入って隠れては出て来て、あぁこの。
「私がやつらに処女を渡さないと、奪われないようにしようと。…たぶん、その日の夜にその将校に捕まってたら、殺されたはずだ。
「あるお姉さんが来て、そのお姉さんは私が行く前から先にいた女性だった。そのお姉さんが来て、その人たちの言うとおりにしないといけないって言うんだよ。そうしないと死ぬって。自分を投げ出すのが本当に嫌で、反抗もして、逃げたりもして。
「私のことをヤシダさん、ヤシダさんって、そう呼んだよ。
「軍人たちがいつも横にいたわけではなく、戦争で闘いに行って、また来たりしてた。
「将校たちは、時々来て寝て行った。
「朝は少し余裕があって、あとは昼も夜もなかった。朝ごはんを食べるとすぐに、押し寄せてきて。そいつらの子孫たちが、その罪を全部どうやって受けるだろう。その当時にいたやつらは、全部死んだはずだ。
「土曜日、日曜日にはもっとひどかった。そう、休みの日だから。…平日にはだいたい、10人だったり、10人以上だったり。
「サック(コンドーム)、そんなのは見たこともなかった。それに、そんなのをする時間がどこにあるんだい。
「時間が決まってるから、そいつらも忙しいのさ。時間あたり何人までって、こう決まってるから忙しいんだよ。服を脱ぐ余裕がどこにあるっての。性器だけ、それだけ出して気が違ったみたいにやって、終わったら出て行って、みんなやつらも忙しいから。片方では銃声が聞こえて、大砲の音が聞こえて、飛行機の音がしてるっていうそんな騒ぎなのに、いつそんなことをしてられるんだ。
「良い日本の軍人もいたよ、今は名前も忘れたけど。ある日本の軍人は、入って来ては手だけ握って、背中をなでながら、かわいそうだって、背中を軽く叩きながら、カワイソそう言いながらそのまま出て行く軍人がいたよ。寝もしないで、そのまま出て行くんだ。
「月経がそこに行って始まったんだ。16歳の時だったか、そうだったよ。その日でも来た。あいつらは、生理中なのかどうか何がわかるんだ。正気じゃないから、気違いみたいになって。
「こぶしで少し叩くくらいはあったけど、乱暴とかはなかった。乱暴とかして誰かにやられたくないだろ。将校たちが外でみんな見張っていて、いつもうようよと人がいたよ。言うことを聞かないって、自分たちの望むとおりに、言うとおりにしないって怒るんだ。
「妊娠した女を二人くらい見たと思う。でも、子供を産んだという話は聞いたことがないし、見たこともない。多分、そういうときは病院でどうにかするって言ってたな、確か。
「軍人たちが来ない時には、ただ、うつ伏せになっていたり、座ってあふれ出す涙で歳月を送るんだよ、つらくて大変だから。だから、まだ涙が乾いてないから、今もこうして涙が出るんだろうな。

阿片

私も、その女のせいで阿片をやったよ。

「洗顔もなにもないよ、洗顔も何日かに一回するぐらいさ。体を洗うのはひどかったよ。時々、やつらが水道水をタンクみたいなのに乗せてくると、器があるかい、何があるっていうんだ、とにかくたらいみたいなのに入れて体を洗ったりしたよ。
「パンツなんてどこにあるんだよ、パンツが。ただズボンみたいなもの、半ズボンみたいなもの、そんなのを一枚はいてるだけで。服はどうしたことか、服は着てたよ。だから、着物みたいに前がはだけてて、ワンピースみたいな、そんな形の服をくれたよ。
「ご飯はおにぎりをくれてな。おかずなんてあるもんかい、ただのおにぎりをくれたらそれを食べて、どんな味だったか全く覚えていない。
「民間人は全然いなかった。韓国人は全然。
「お金はなんかない。どんなお金があるんだい。
「私たち同士は呼び合うこともなく、年が近いと『チング(友だち)や』って呼んで、年が少し離れていたら『オンニ(お姉さん)』って言ってたよ。
「あるオンニは、私よりその当時に5年か、そのくらい年上で。言葉は忠清道の言葉に似ていて、顔はよく覚えてる。今はもう死んだだろうさ、阿片中毒がひどかったから。私もその女のせいで阿片をやったんだ。
「やることがね、もう私たちより先に来た人みたいで。そして、下っ端の兵卒、そんなやつらが悪口を言ったりすると、前に出て行って一緒に対抗もしたりしてた。
「毎日のように私がひどく泣いたりしてると、これを一回吸ってみなって、これ吸ったら雑念がなくなるって言って。それで、阿片を少し吸ったんだ。タバコに入れて吸ったんだ。それで私が、このタバコを止められないんだ。タバコをトントンってこう叩くと、タバコが少し中に落ち込んで、紙が少し出るだろ。そうすると、そこに白い粉を入れてくれるんだ。そうやって吸ったのさ。
「その阿片を吸うと、なんにも感覚がなくなるんだ。とろんとして、いいとか悪いとかの考えもなくなって、ただ、ぼうっとして、何か半分おかしくなったような感じで、不思議だった、薬に酔ってたからなのかな。だから、それをスーっと吸って鼻や口からフーって吐き出すと、だめだ、飲み込みなさいって教えてくれてね、煙を。でも、煙を飲み込んだら、後で吐き気がして、体から力が抜けて、倒れて死にそうになったんだ、初めは。怖かったよ。それで、何回か吸って、これはまずいと思って止めたんだ。

梅毒

下が傷んで、開いて、血が流れたんだ。あぁ、考えただけでも、あぁ

「はぁ下が傷んで、傷ついて、血が流れて、歩くのもぎくしゃくして、そうしたら病院に連れて行くんだよ。治療を受けたって、その当時にどんな薬があるというんだい。赤チンキなんかを少し、こう塗ってくれたら、スカートの、こんな所に色が染みて赤くつくんだよ。(ため息をついて)だから私は誰にも会いたくないんだよ、こんなこと、思い出したくないから。そうさ、こんな、良い思い出でもないものを。
「そこに行った次の年、15歳頃だったと思う、半年くらい過ぎた後だったと思う。性病にかかって606号をたくさん打たれたよ。バイドク(梅毒)って言ってた。あそこにな、下にゴマ粒みたいな、いぼみたいのができて。いくつもできるんだよ。(指で性器の方を指差して)ここにびっしり、すごくたくさんできるんだ。病院に治療に行って来たら、痛くて、触ってみると糸みたいのが結んであったよ、糸みたいなの。それで、それが自然に落ちたりするんだ。
「この(脛を見せながら)ここ、ここ。[註 051] そこで病気になって、本当に苦労したよ、このせいで。ここが腐って、これ見てみなよ、スッとへこんでるだろう。骨まで腐ってるって言われたよ。死にそうになった。
「病院には一、二人程度、女性の看護婦がいたようで、あとは全部男だった。病院は天幕みたいなもので覆われていた。
「ただ赤チンキを塗って、そうして黄色い粉薬をまいてくれて。どうしてそんなのができたのかわからない。[註 052]「あぁ解放となって出て来てからも、大邱にいた頃だけどね、すごく調子が良くなかったんだ、下が。なんだかこう、かゆくて、塩水で洗っても、そのまま良くならないし。それで、病院に行ったら、606号を打たなきゃならないって。それで、病院で打ちなさいって言うから、打ってもらったんだよ。

解放

韓国人だと誰かが横で通訳してくれたから助かったのさ、私たちも死にそうになったんだから。

「そこで解放となっても、解放されたのかどうなのか、そんなことがわかるものかい。その谷ではそんなことも知らずに、草原みたいな所、人を見ることも、日本のやつら以外には人を見ることもないほどで、軍人以外にはね。
「あ、あいつらが暴れるんだよ。あいつらが刀を持って、目を真っ赤にして暴れるんだ。
「後で外国人たちが来たんだ。中国人たちが入ってきて、それからヤンキーみたいな人も来たようだったよ。気持ち悪いよ。そのことを考えるだけでも鳥肌が立つ。日本の軍人たちが、中国人たちからもたくさん殴られて死ぬのを見たんだ。
「私たちも死にそうになったんだから。手に棒を持って、デモ隊みたいに追いかけて来て、問答無用で人々を囲い込んで、あぁ。でも、誰かが、あの女たちは日本人じゃなくて韓国人だって通訳をしてくれたおかげで、中国人に殴り殺されるのを私たちは免れたんだよ。最初は死ぬかと思った。そうして、中国人たちが私たちを助けてくれて、隠してくれたりしたんだ。
「そのお姉さんっていう女性と何人かで、夜逃げするような感じだった。とにかく、車があるわけじゃないし、夜通しでどこか、中国の人について出て来て。…また出て来て、どこにでも倒れて眠って、それからまた限りなく昼も夜も歩いて。…食堂があったら、そういう所に入ってご飯を恵んでもらいながら、北京まで出て来たんだよ。
「昼も夜も歩いたら、足が腫れて裂けて、靴もはけずにそのまま裸足で歩いたから、ものすごく痛くて。1週間以上歩き続けたと思う。
「あぁ-その苦労したことを考えたら、あいつらめ-。この仇を討たなければならないのに。どうやってこの仇を討ったらいいだろうか。
「女たちと一緒に途中までは来たんだけど、その後はどうなったのかはわからない。バラバラに離れてしまって、私はその途中で偶然にも光復軍に出会って。その夫妻が家はどこなのかって聞いてくれて、良くしてくれてね、すがりついて泣いて、そうしたんだよ。北京にいる間は、どこにも行かずに私たちと一緒に暮らそうって言ってくれて。
「家は中国式の家、中国人の大家さんがそこに住んでて。そう言えば、その大家の中国人の息子が自分の嫁になれって私に哀願するんだよ。それで、その光復軍のおじさんがだめだって、この子はもう少ししたら中国から出なきゃならないんだって言ってくれて。そう、今考えてみたらその時に中国人と結婚してたら、私はいまだに韓国に帰れずに中国に住んでいただろうな。そうだと思う。
「ところで、光復軍ってとても多くてね。大勢が行き来して。軍服着ていて。その帽子も、ただ軍人たちの将校がかぶる、そんな帽子をかぶって行き来してた。何をしてたのか、ただ、軍人なんだなって思って見てた。何か話が漏れるかもしれないと思ったのか、話しても自分たち同士で秘密にしててね。
「私はそこで、ただ家の掃除をしたり、ご飯も炊いて食べたりして。その光復軍の婦人が、私のことをかわいそうだって、よくしてくれて。

帰国

母が、私が無事に帰ってこられますようにって、お祈りして帰る途中だったみたいで。

「だから、8月に解放されただろう。8月に解放されたんだけど、北京で旧正月を一回過ごして、その翌年の4月に出て来たんだよ。天津まで行って、船に乗って帰って来たんだ。天津から船に第1陣、第2陣、そうやって分けて乗ったんだけど、私は第3陣の船に乗って来て、わぁ、ものすごく大きかったな、船が。たしかその時、ふと聞いたのは、3000人が乗ったとかって言ってた。
「仁川の海に到着して、1週間は船の中にいたんだ。そこで1週間いてから、全員降りろって言われて。降りたら、アメリカ軍がこんな大きさの機械でディーディーティー(DDT)を撒きかけて騒がしくしてて、中に、服の中にまでディーディーティーを全部撒いて。
「その時は、この韓国に伝染病が流行ってたみたいなんだ。そうして撒いて出てきて立っていると、行かないで立っていなさいって、韓国語で、韓国人がマイクで話して。それで、子供たちは500ウォンずつくれたのかな、そして大人たちは千ウォンずつかな、くれて、私は800ウォンか700ウォンか、それくらいもらった。韓国人がくれたんだ。そうしてから、光復軍のおじさんと別れたんだ。
「私はソウルの麻浦に来たんだ。どう行けばいいのかわからなくてね。それで、人に聞きながら歩いてから、その時は電車があっただろう。電車に乗って麻浦の終点で降りて、ポクサゴルまで帰って来たんだ。ポクサゴルに戻ったら、母が餅を蒸す蒸篭を頭に乗せて、私が無事に帰ってこられますようにって、お祈りして帰ってくる途中だったみたいで。
「船の中でも吐いたりしたし、あそこでも体が悪かったんだけど、家に帰ったら安心したせいか、3ヶ月も患ってしまってね。マラリアだか何だか、あれ、一日痛くて、一日は大丈夫でっていう病気。あぁあの時は死ぬかと思ったよ。
「1ヶ月はそうしてたら、その次の月はまた続けて震えがきて。その当時に、どんな薬があるんだい。薬といえば、薬草みたいなの、そんなのを母が手に入れてきて、飲ませてくれたんだ。母が心を尽くして介抱してくれてね。
「母は雑貨店を止めて、息子と行商をしていたんだ。そうして、母のお陰で何とか治ったんだけど、お金を稼がなくちゃならないから、…兄もその当時に脚気にかかって、体がパンパンに腫れていたから。…他人の家にも住み込んで子供の面倒を見たり、お金持ちの家で女中もしたりして、やったことのない仕事はないくらいだよ。

アメリカ軍部隊

そこのアメリカ軍部隊で、母さんと私がアメリカ軍の洗濯の仕事をしてたんだ。

「そんななか戦争が始まったんだ。戦争を避けて大邱の倭館に避難したんだけど、…少ししたらアメリカ軍部隊が入って来て、その時は洛東江戦闘の時だった。…その洛東江の水全体が赤い血で、人民軍も死んで、韓国軍も死んで、血が、血に染まった洛東江の水が、ああ、ひどいもんだったよ。
「そこのアメリカ軍部隊で、母さんと私がアメリカ軍の洗濯の仕事をしてたんだけど、あれまぁいろんなものをくれてね。
「その時、アメリカ軍部隊には食べ物がたくさんあったんだよ。チョコレートとか、そんなものが箱ごと置いてあったりしたんだ。それを開いてみると、その中にはほんとに色んなものが入ってた。パンやら、ガムやら、いろんな飴なんかもあって。そんなのも、もらって食べて。
「今にして思うと、そこは何かというと補給倉庫なのさ、補給部隊。お米みたいなのも積んで来るし、布団も積んで来るし、前線の方に食糧を輸送するやつさ。
「その軍人たちのお陰で、食べるものに困らず、そこで本当によく過ごしたよ。…器もくれて、私たちには器なんか何もなかったからね。そのアメリカ軍たち、今考えてみると器が本当に良いステンレスの器なんだよ、…そんなものをくれてね。拳銃みたいなのもくれたな。そんなのが出たらしまっておいて、そうして市場に持って行って売れって言ってね。拳銃は刑事たちにあげたんだ、私たちがそんなもん持って何をするっていうんだ。
「でもさ、私が馬鹿だったよ。そんなのを売ってお金を貯めればよかったのに、そこまで考えられなくてね。何も考えないで、ただ誰かが欲しいって言えばただであげて、くれる物があればそれを食べて。
「洛東江の戦闘がある程度終わったら、軍人たちはもう行ってしまって。行ってしまってから、家にあるものを売りに出して、そうしてお金を作って、小さな店を出したんだ。ただ、小さな雑貨店みたいにして、何でも売るお店。

食べて暮らす

一日に豆を、大豆を二升ずつひくんだ。

「私は母さんの死に目にも会えなかったんだ。母さんは大邱で亡くなって、私はその時、江原道にいたから。だから、私が29歳だったか、その時に亡くなったんだよ。
「江原道に友だちがいてね。その友だちに呼ばれて行ったんだ、29歳の時に。そこに行って、間もなくして亡くなったんだ。そこに行って、友だちが食堂みたいなのをしてたんだけども、そこで働いたんだ。仕事も手伝ってあげて。飯も、酒も売って、言ってみれば飲み屋みたいな所だよ。2年位いたと思う。
「倭館にアメリカ軍部隊があってね。その部隊の従業員たちを相手に、私の兄が、その時、朝鮮戦争の当時に米8軍の食堂があって、知り合いの人たち、友だちがいて。それで、米8軍で働いてて、倭館から出てきた人たちと一緒になって、そうして食堂を出したんだ。
「うちにこの位の大きさの臼があってね、(指で屋上を指して)あそこに。一日に豆をと大豆を二升ずつひくんだ。それで、この腕が未だにこんなにうずいて痛くて。おからで、おから鍋を作って…そうして、夕方の退勤時間、4時半から5時半になると、店の前に自転車が30台、20台ってこう止めてあったんだ。…おからを食べに来て、そうして一緒にお金を稼いだんだよ。
「あぁでも、結局は私のお金じゃなかったんだな。家を買おうとして、契約までしようとして行ったんだけど、そこの人たちが畑に出てていないのさ。それで、しかたなく家まで戻ってきたよ。そうしたら、あるばくち打ちに引っかかってしまって、その当時には肉屋をしてたんだけど。
「私がいつも、おから鍋に入れるために豚の背骨を買っていたから、親しくなってね。店に豚の骨とかを売ったりしてたから親しくなったんだけど、でもばくち打ちだとは思わなかったから。そのお金を少し貸してほしいって言うのさ。その当時に家を買おうとして、その当時70万ウォンの家といえば、結構良くてね。70万ウォン、それを全部渡したんだよ。30歳だったか、その位だったと思う。32歳だな。32歳の時にここ、倭館に来たから。そうして、お金を貸してほしいって言いながら、牛を買って、いろんな物も仕入れなきゃならないって、貸してほしいって言うのさ。その頃、牛一頭に20万ウォン出したら、ものすごく大きかったからね。そいつが、実はばくち打ちの中でもひどい中毒者だったのさ。そうして、そのお金を全部取られたよ、返してもらえなかった。そのお金を全部、取られて。
「だから、私は飲み屋をその当時に10年位続けたよ。10年して、年もとって、体も良くないから、店を開けたり閉めたりするから、上手くいかなくて。
「この子(上の甥っ子)の弟が、伯母さん、そんなふうに一人でいないで、一緒に暮らしましょうって言ってくれて、そうして水原にやって来たのさ。[註 053] 来て、この子の弟と、そうして約3年、一緒に暮らしたんだ。その頃、部屋が二つしかないのに、子供二人に甥っ子夫婦がいて。私は孫娘を二人つれて居間で寝て、男の孫には部屋を一つあげて、勉強部屋。その時、二番目の甥っ子の息子が高2、高3だったから。私に、大きな部屋を使うようにって言うんだ。それで、どう考えてもその甥っ子の家では暮らせないと考えて、1千万ウォンで部屋を一つ借りて、その家から出てきたんだ。
「水原に初めて来た時は就労事業に通ったよ。一日に1万5千ウォンか、それ位稼げてね。役所に行って、私は一人暮らしで、何か仕事でもしないと暮らしていけないから、助けてほしいって言ったら、ハルモニ、わかりましたって言って、就労事業を薦めてくれたんだ。その時、足の具合が悪くて足をズルズル引きずって歩きながら、杖をつきながら就労事業をしたのさ。

実家の家族

この世に生まれて、これだけの量の奉仕をしろって生まれついたんだと思う。

「これが初めて放送に出た時に、うちの一番下の姪っ子がそれを聞いたんだって。[註 054] 私は倭館に閉じこもっていたから、知らなかったんだ。そうして、うちの一番下の姪っ子が、その子たちが知ったんだよ。それで、父親に、私の兄に聞いたみたいでね。それで、その子が届け出たんだよ。
「私は、実家とは縁が途切れることはないようだよ。
「兄はああして仕事もしないでいるのさ、何もしなかったよ。ただ、何もしないで遊んでるんだ、今も。あぁフゥ。
「昔、大邱にいた頃、兄の家族と一緒に同じ家でしばらく暮らして、それから別々に、私は私で商売するって離れて暮らして、そうしてまた一緒に暮らしたりもしたし。でも、私が家を出ても私のことを探し出すんだよ、兄が。手紙を送って金を送ってほしいって言ってきたり、家を借りてほしいって言ってきたり、全く-。
「甥たちの勉強も、私がさせてあげたようなもんだ。仕事なんて、そんなもの知らずに生きてきた人だよ。今、79歳だけど、自分が若くして稼いでおいたお金もないから、だから年老いてもああして苦労してる。だから、うちの妹も遂にどこかに隠れてしまったんだ。[註 055] 酒飲みにもほどがあるから、兄があまりにもひどいから。だから、今は子供とは一緒に暮らさないで、老夫婦が二人して暮らしてるよ。
「私みたいに仕事を、あぁどうしてこういう星の下に生まれたのかわからないよ。この世に生まれて、これだけの量の奉仕をしろって生まれついたんだと思う。実家の家族たち、5人の兄妹たち、道を歩いてても、どこかで子供の泣き声が聞こえてくると家族の誰かの泣き声みたいで気になってね、本当に不思議なもんだよ。
「あぁ私がこの家族にそこまでしてやったのだから、家族も私の側で、私によくしてくれるのさ。それでも、若かったから働きに働いて、お金を稼いで、少しでも稼いで家族を食べさせ、勉強もさせてやったんだから。そうでなかったら、自分の親の面倒もみない世の中なのに、何が良くて私と暮らすっていうんだい。
「だから、上の甥っ子が幼い頃から、昼も夜も『僕は後で大きくなったら、叔母さんと一緒に暮らすんだ、叔母さんと一緒に暮らすんだ』って言ってたんだ。それで、今こうなってるんだろうね。本当に幼い頃からそう言ってた。
「今は上の甥っ子とここで一緒に暮らしてるんだ。私が数年前に糖尿病のせいで死にかけたことがあってね。それで、この子たちが一緒に暮らそうって言ってきて、一緒に暮らしてるんだ。
「甥は事業をしてたんだけど、あの国際通貨危機の時に不渡りを出しちまって、98年からはこれといった職場がないんだ。それで、嫁がああして飲食店に働きに行ってる。借金さえ無ければそれほど心配はしないんだけど、どこかに就職でもできたらどんなに良いことか。

願い事

私の歴史を本にするには、紙が足りないくらいだ。かいつまんで話してるから簡単なだけだ。

「今はタバコが夫であり、子供だよ。今までもそうだった。タバコがなければ楽しみがない。あの時、16歳の時から、あのお姉さんにタバコを教えてもらってから、こうしてタバコを止められずにいるんだ。
「ものすごく泣いたし、家のせいで悔しい思いもしたし、いつも涙の枯れる日はなかったんだ。それでも、『つらいこと?人が生きるってことは、みんなそんなもんだろう』って、そう考えて耐えてきたのさ。
「ああ、毎朝、念仏の声を聞くと、本当に気持ちが楽になる。私はエセ信者だよ。1ヶ月に一回くらいしかお寺に行かないから。あそこ、南門の八達山[註 056] の下の。
「この頃は午前中にはテレビを見て、午後には老人会館に行って10ウォン賭けて花札も打ったりするんだ。また、ある時は病院にも行ったり、大家の家にも行って、そこの女主人と10ウォン賭けて花札打ったり。
「何と言っても、体の調子が悪い時が一番悲しいよ。今は薬で生きてるのさ。ご飯も子供たちよりも少ししか食べられない、一匙くらいしか食べないんだ。それなのに消化が悪くて、毎日のように消化剤を飲まないと胃がもたれて。時々サイダーを飲んで消化させたりもしてね。子供たちは何だかんだって言うけど、私はそれを飲むとゲップが出て消化できるから飲むんだ。
「糖尿病があるから、薬は飲まないといけなくてね。最近は合併症がきて、足がしびれるんだ。(足の甲をつねって)こうしてつねっても、自分の足じゃないみたいだし、力が入らない。あちこち、腕や脚が痛いし、腰も痛い。数年前に大きな手術を受けてね。大腸の手術だったんだけど、大腸にポリープがあるっていってたな。それで、亜州大学病院で手術を受けたんだ。
「私の願いは、ただただ、健康でいることだけだよ。死ぬその日まで、迷惑をかけないで生きること。あの子たちの荷物にはならないように。生きて、健康に生きて、安楽に死ぬことだ。
「それでも、今は世の中が本当に良くなった。こんな良い日が来るとは思わなかった。こうして苦労してくれて、本当にありがとう。あの当時には、誰かが率先して何かを言ってくれる人もいなかった。本当に悪い時代に生まれてしまって、戦場を何回も経験し、その度にたくさん苦労もして、私たちは本当に。
「はぁ、あいつらが自ら反省しなきゃならないのに、ああして突っ張り続けてるし…この仇をどうやって討てばいいのか。早く解決されなければならないのに-」

 
[註 049]
ソク・スンヒの家族は、父、母、兄(1924年生まれ)、本人、妹(1934年生まれ)だったが、父親は1936年に死亡した。
[註 050]
母とソク・スンヒ、妹の戸籍を、本家の戸籍から実家の戸籍へと移転させたということ。
[註 051]
インタビュー当時にソク・スンヒは、脛のへこんだ傷痕3ヶ所を見せてくれた。
[註 052]
梅毒にかかると、脚に腫瘍が生じたりもする。
[註 053]
ソク・スンヒは現在、上の甥っ子と一緒に住んでいるが、水原に初めて来た当時は二番目の甥家族と一緒に暮らした。
[註 054]
韓国政府は1992年1月、外務部亜州局長を班長とし、17部署の関連課長で構成された挺身隊問題実務対策班を設けた。そして1992年2月25日から6月25日まで、各区庁や面事務所などにおいて日本軍「慰安婦」被害者届の受付を行った。このような内容が新聞や放送を通して報道され、それをソク・スンヒの末の姪っ子が見たということである。
[註 055]
妹は韓国戦争の時に大邱で失踪した。
[註 056]
水原市内の中央に位置する山。
[註 049]
ソク・スンヒの家族は、父、母、兄(1924年生まれ)、本人、妹(1934年生まれ)だったが、父親は1936年に死亡した。
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[註 050]
母とソク・スンヒ、妹の戸籍を、本家の戸籍から実家の戸籍へと移転させたということ。
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[註 051]
インタビュー当時にソク・スンヒは、脛のへこんだ傷痕3ヶ所を見せてくれた。
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[註 052]
梅毒にかかると、脚に腫瘍が生じたりもする。
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[註 053]
ソク・スンヒは現在、上の甥っ子と一緒に住んでいるが、水原に初めて来た当時は二番目の甥家族と一緒に暮らした。
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[註 054]
韓国政府は1992年1月、外務部亜州局長を班長とし、17部署の関連課長で構成された挺身隊問題実務対策班を設けた。そして1992年2月25日から6月25日まで、各区庁や面事務所などにおいて日本軍「慰安婦」被害者届の受付を行った。このような内容が新聞や放送を通して報道され、それをソク・スンヒの末の姪っ子が見たということである。
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[註 055]
妹は韓国戦争の時に大邱で失踪した。
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[註 056]
水原市内の中央に位置する山。
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