• 慰安婦
  • 歴史を創る物語

「胸の奥にしまっておいたことを話そうとしたら、私の胸も張り裂けるよ」

zoom
  • 年度
  • 年齢
  • 内容
  • 1928年
  •  
  • 慶尚北道尚州生まれ
  • 1943年
  • (16歳)
  • 家から日本軍「慰安婦」として連行
    安東・新義州を経由-長春-牡丹江の慰安所へ移動
  • 1945年
  • (18歳)
  • 初夏に朝鮮人に救助され、卾倫春(オールンチュン)へ避難
    解放後に吉林市近郊の集安県で朝鮮人と初婚
  • 1946年
  • (19歳)
  • 娘を出産するもすぐに死亡
  • 1949年
  • (22歳)
  • 集安県の個人病院で看護師生活
  • 1951年
  • (24歳)
  • 吉林市第2病院で看護師生活
  • 1955年
  • (28歳)
  • 朝鮮人と再婚
    その後、息子二人娘一人を出産
  • 1988年
  • (61歳)
  • 赤十字を通して韓国を訪問
  • 1998年
  • (71歳)
  • 韓国訪問後に国籍回復を試みる
  • 2000年
  • (73歳)
  • 永久帰国および国籍回復
  • 2004年
  • (77歳)
  • 京畿道広州にあるナヌム(分け合い)の家で生活
慶尚北道尚州→ハルビン→卾倫春→集安県→吉林→京畿道広州
zoom
「私は純福音教会の教員なんだ。
「私は今は中国にいないけれど、神様が私の孫たちが勉強するのを守ってくださっているから、だから私は少し安心してるんだよ。
「やっぱり、寡婦だし、寡婦の子たちについては神様が関心を注いでくださるだろう。寡婦はたくさん同情されもするし、裕福に暮らす人たちが教会にお金をたくさん献金しても、それほどには関心をもたれない。
「私の祈りは、ちょっとよく通じる方でね。
「今もお祈りする時には、時にはこう祈るんだ。両親も一緒に、神様がいる所に行けますようにって。

末娘

『ありゃ甘えんぼだ。こんなに大きくなっても、お姉さんの背中におんぶしてもらってるなんて』

「12人兄弟の末娘って、母親から聞いたよ。
「12人兄弟の末娘なのに、母が何故かかわいいって言ってたよ、私に。
「私の父はヒゲが(手でヒゲの形を描写して)これくらいあってね。そうしたら、私の母と父はふざけながら、私に『お父さんのヒゲ、このくらいあるやつを引っ張ってあげな』って、そうしたらヒゲをつかんで引っ張るんだよ。
「すると、父さんは痛いってもう私についてくるんだ。それでも叱られなかった。私は、父からも母からも一度も叩かれたことはないよ。
「兄たちがどこかに行って帰ってくる時には、自分の息子の分は買ってこなくても、私の分は買ってきてくれた。
「私が通う学校は、山を越えた所に学校があってね。その頃は雪もたくさん降って。今みたいに、こんなに暑くなくて、雪が降って、木をつかんで山に登るから、ツルツル滑ってね。だから、その頃までお姉さんたちがおんぶしてくれたんだ。
「小学校の同級生が私のことを最初に見て、言ったんだよ。『ありゃ甘えんぼだ。こんなに大きくなっても、お姉さんの背中におんぶしてもらってるなんて』
「2年生までは朝鮮の文字を習って、その次には教えないようにして、韓国語も使えないんだよ。使うと、日本人の先生が耳元を叩くんだ。
「私は卒業できなかったよ。
「4年生で、卒業できないまま行ったんだから。

刀を差した巡査

怖いし、犬が震えるみたいに震えてたから、何がなんだかわからないし。

「里長が、もうそれを噂にして流してたんだ。
「慰安婦とは呼ばないで、供出って言ってね。乙女供出に行くって。
「最初は、私は他の所に行って隠れてたんだよ。私の母親の友人の家に行って、少しいたんだ。
「末っ子だから、母親と一緒に毎日、お母さんに抱きついて寝て、胸を触って、そうしてたんだよ。だから、耐えられなくて。
「そうして離れて行ったから、母が恋しくなって、泣いたりするから、その家で連絡したんだよ。そうしたら、帰って来いって言うだろう。だから帰って来たんだ。
「来たら、母に会うこともできなかった。
「大人たちは家にいなくて。私の家は少し離れた所にあってね。
「日本人が一人来て、韓国人が一人来て。
「そうして、刀を差したやつ(巡査)が一人来て、また黄色い服を着た人(軍人)が一人来て、そうだったよ。
「怖くて、あぁ刀を差した人を見ただけで、怖くてブルブル震えて、隠れたりしたんだよ、その時は。巡査が怖くてね。
「文字を一つ書いて、家の中に投げ入れて行ったんだよ。[註 033] そうしたら、甥が止めようとするから、甥をつかんで後ろに倒して。…大人もいないのに。
「それで、家に帰って来た日に、その日にそうなったんだよ。
「兄たちは、一人は私の母が追い出したも同然なんだけど、上の兄は軍隊じゃなくて、他のそれ(徴用)があったんだけど。そこに送ろうとして。下の兄は軍隊に行けっていうのを逃げ出して、日本に行ってたんだ。だから仕方ない。だから、二人の男たちが行くはずだったのが、その次に私が捕まって行ったんだよ。[註 034]「どこに行くとか、最初はその人たちは何も言わないで、里長が言うには、麻布を織ったりする所に行くって言うんだよ、布を織る所、そういう所に行くって。…私たちは何をするのかもわからないし。その頃は幼いから、年も幼いから。
「16歳になる、16歳のときに行ったんだ。
「尚州市内から乗って行かなくちゃならないんだけど、その頃も尚州市内だったんだ。
「車に、何だっけ、荷物を載せる所、そんな所に乗せられて行ったんだ。
「そうしたら、ある女の人は体の調子が悪くなったのか、何なのか、とにかく倒れちゃってね。具合いが悪いのか、驚いたからなのか、とにかくわからないけれど。
「そうして、金泉に行って汽車に乗ることになったんだ。
「それも、座席もなくて、荷物を載せる所、そんな所に乗せられて。私たちは逃げてただろう、どこかに隠れてて。だから、待遇が悪かったんだ。だから、外を、何か見ようとしても本当に難しかったな。
「おにぎりみたいなのをこうして、あと、日本人の大根みたいなの、そんなのを受け取って、あまり食べられなくてね。
「怖いし、ガタガタ震えてるから、何がどうなってるのかわからないし。お腹がすくのも知らず、お互いに見つめては泣いてばかりいてね、どこに行くのか。
「そうあの、北朝鮮に、新義州に、安東に行って。どこに行ったのかもわからなかった。どうにかなって、気が気でないまま、何とかして少し見てみたら、中国人がいて、私たち韓国人じゃなく、ペラペラ話していて。

長春

そこでは何もすることなくいるわけじゃなく、洗濯してあげるんだ。

「最初、ずっと行くうちに、長春に着いて少しいたんだ。だいたい、20日ちょっといたな。
「その時、私たち、私のほかに6人がいたんだ。
「その中には軍隊がこうして立っててね。両側に立ってるんだけど、幼くて言葉もわからないから、どこかに出て行くこともできないし。言葉でもわかればまだしも。それに、長くいたなら出て行くって何とかしたかもしれないけれど、[註 035] 私たちはもう怖くて怖くて、その人たちの顔見るだけでも驚いて卒倒しそうだったから、仕方なくそうして過ごしたんだ。
「食事も、あれは何だっけ、とうもろこしの餅を作って。そんなのをくれて。私たちは初めて食べたとき、とうもろこしの餅がおいしいわけないだろ。あの白米で、お米で炊いたのがおいしいんだ。だから、それを食べても食べたような気がしないし、汁なんかもうすいやつ出されて、とうもろこし餅とかとね。でなければキビ飯をくれて。もちもちってしないんだよ、中国のは。中国のは、これ、粳キビなんだって。餅にしたら、全然もちっとしないんだ。
「そこでは何をするのかというと、洗濯してあげるんだ、軍隊の。そこで、また洗濯も一緒に少し残ってる人たちと一緒に洗ってあげたりして。
「軍服みたいなもの、靴下みたいなのとか、そんなものを。私は干す作業ばかりしたよ。洗濯はおばさんたちがするんだ。おばさんたちがだいたい10人くらいいたかな。

「慰安」生活

そう、裂けたりして痛くて。裂けるから痛いだろう。

「そうして、そこに20日くらいいてから、その次にはハルビンに、牡丹江に行ったんだ。
「着いた頃には、ここは8月、9月でも、あっちは雪が降るんだよ。
「その頃は背も高くなかったから、学生だったから、その何だっけ、あの目が見えない人がいるじゃないか、3人を私が面倒見たんだ。[註 036] 3人を見てたんだけど、もう一人、またもう一人が来て。だから、4人だから、私が看護するのが大変でね、私が。だから、女の人も一人送ってくれて。そうして二人で看護してたんだけど、また目が見えない人が一人、少し先に出て行って。…だから3人が残ったから、私一人で看護しろって。
「だから、全員ご飯も食べさせて、便所に行くのも連れて行って、全部そうしないといけないんだよ。だから、服も全部着せてあげて、ご飯もそれはご飯も食べさせてあげないといけなくて。
「目が見えない患者たちを日本に送ってから、慰安婦として入ったんだよ。
「解放されてから、私はあれ(月経)があったんだ。その前にはなかったから、知らなかった。男と同じで、知らなかったそんなことは。その頃は年が幼かったし、それにその頃の人は幼いだろう。
「大人になったんだよ、その時。まだ大人になってないのに、何がわかるっていうんだ、何も知らなかったんだ。だから、悔しいじゃないか。
「そうして性器が入らなければ、だからそこ、下がうまくいかないから、痛いんだよ。
「そう、裂けて痛くてね。裂けたら、痛いだろう。
「そう、性病がうつるかもしれないからって注射を打たれて。…ク-ニョンって言ってたな、606号のことを。
「また、洗うやつもくれたよ、あらかじめ。それ、しなかったら(薬水で洗わなかったら)腐ってしまって治らないんだ。
「薬の色が、紫色だったかな。赤紫みたいな色。
「また、年が幼くて、行って間もないから、少しお偉い人が入って来るんだ。
「長くいる人たちは、病気がうつるかもしれないからって、あまり行かないんだよ、お偉い人たちは。…そんな病気がうつったら、なかなか治らないからね。
「長くいる、そんな人たち、そんな人たちのところには上の方の人たちは行かないんだよ。男たちってみんな、若い女の子と結婚しようとするだろう、お嫁に行った人なんかとは嫌がるじゃないか。若い女の子と結婚したがるだろう、二度目の結婚も、三度目だとしても、そうだろう。お金がある人は、それだけだ。階級が高ければ、自分の思い通りにできるじゃないか。
「自分の男と一緒に暮らしてても、なにするのが嫌な時ってあるだろう。それが一番つらいんだよ、つらいんだよ。
「私は、ここ(頭頂部)を殴られて、ほんとうに長い間、傷が治らなかったんだ。今も鼻血が出るんだ。…このまま死ぬのかって思った。顔に血の気がなくなって。
「それで、部屋がすごく小さくて。その小さい部屋に、そこに押し入れられて。
「何の理由があるんだい。ちょっとでもあいつらの言うことを聞かなければ、こうやって殴られるんだよ。
「あだから、ここから血がどっと出て、すごく腫れて、顔も腫れてね。
「治療しに病院に行くと、その人が[階級が]来るんだよ、その長官だから。(肩を指差して)ここに星がある人だよ。星が3つの人で、その人に殴られたから、その人が来るんだよ。
「だから、大きな病院には連れて行かないで、看護師と医者だけが来るんだ。

「兵士たちも、票の紙切れを持って来ないと、接待しないんだ。持ってこなければ、接待しないんだよ、それは。票をそこで買わないと、入って来れないんだ。その軍隊がある所でそれを売っててね、軍隊が。こうして列に並んでいた人も、票がなければ他の部屋に入れないんだ。
「たくさんは来なかったよ。一番多く来た時は…年とった人が8人くらいずつ、そのくらい来たかな、一日に。
「お金みたいなのは、朝鮮の人が少しずつくれて。…日本人たちは私を殴った人が少しくれたよ。
「まあ、10ウォンもあったし…5ウォンもあって、穴が(角銭の形を手で真似て)こうあるやつ。
「その時は、10ウォンでも大きなお金だったから。
「また、ある時には何かおいしいもの、それをちょっと買って来てくれたり。
「誰もお金を使えないんだ。どこかに出かけることもできない。
「そこには鉄条網が張り巡らされていて、それに年も幼いし、長くいたわけでもないから、出させてもくれないし。年をとった日本人なら、長官(将校)たちと一緒に出かけたりしたけれど、私たちは出ることも考えられなかったんだよ。

キムさん

いつであっても必ず会うはずで、私の気持ちの中ではいつか必ず会うような気がして。

「また、腸チフスにかかったんだ。
「その病気になって、それに頭にも傷があったりしたから、私が熱を出したんだよ。熱が出るから水が飲みたくて。…目を閉じて、正気でもないし。正気を失って、少し意識が戻ると水が飲みたくてたまらないんだよ。水を飲んだら、少しは良くなるような気がして。
「腸チフスだから、人にうつるんだよ、伝染病で。昔、韓国でもその病気になったら、町内の人がみんな死んでしまうんだよ、死んでしまう。そんな病気だよ。
「本当に熱が出て。だから、髪が抜ける病気だって。その人たち何人か、8人くらいだったか、車に横になってる人もいるし、座らされてる人もいた。人を燃やしに行くんだよ。
「燃やすんだよ。火で燃やすんだ。
「そうして、穴を掘って、薪を入れて、ガソリンをかけて火をつけるんだ。そういう所に放り投げるんだよ。…私は、投げられたのが一番遅かったから、一番上にいたんだ。[註 037]「病気にかかった人たちを燃やしに4人が行ってね、朝鮮人一人と日本人3人が。
「上の人二人は死んじゃった。
「そこに軍隊の人が一人、朝鮮人が一人いて[註 038]
「その慰安所にいた男がキムさんで、その人が独立軍と連絡する人だったんだよ。
「もう少しで解放になる、こいつら(日本軍)が今はこうでああでって言って。
「それで、その人(キムさん)が、日本人二人を殴り殺したんだ。殴り殺して、一人は死んだのか、生き残ったのか。…足で蹴ったんだけれど、死んだのかどうかはわからないよ。下の方に、落ちるのを見たんだ。何か、銃で撃って、そんな感じ。でも、私たちはよくわからないから。あちこちが痛くて、熱が40度とかあるから。
「だから、その人(キムさん)が他の独立軍たちに連絡してたんだよ。だから、連絡を受けて来た独立軍たちが山に、山の洞窟に私たちを背負って連れて行って。…私の頭からは血が出てたんだって、銃で撃たれたみたいに。
「そうして、私が少し治ってから聞いてみると、何て言ってたっけ。キムさんは、あの、白頭山に行ったって。長白山だよ、白頭山が。
「長白山に行ったけど、何日かしたら来る、面倒をみてくれた独立軍が私にそう言ってくれて。
「その人が言ったんだよ。解放されたら、私の家に来て、私が住んでいる所、尚州に来て暮らそうって言ったんだ。その人が私のことを考えくれてね。
「キムさんが、こいつらを、俺がいつか報復してやるって言ってたんだ。報復するって言ってたんだけど、その時はわからなかった。何を、どうやって報復するのか。今はわかる。
「その人、そうやって長白山に行って、それからは会えなかったんだ。さあ、いつであっても必ず会うはずで。私の気持ちの中ではいつか必ず会うような気がして。

「あいつら(日本軍)すごかったよ。独立軍が日本のやつらを殺したんだから。だから、日本軍を避けて国境まで行ったんだよ、卾倫春[註 039]という所、そこに。
「こうして、手を、足を、靴もはかないで歩いて。これ、あの木の皮をはいで、こうして服みたいにして着て、そんな所にまで行ったんだ。そこのある所は、その時に出てみたら、谷間があって、魚が飛び跳ねててね。だから、その人たち(独立軍たち)が…魚を釣って持ってきて。
「そのうちすこしずつ治ってきたから、あれ、あれだ、あれも少し運んでね。
「メモを私の体に隠して、私の体に隠し込んで、そうしてあの離れた家に父親と子供と住んでいるんだけど、その家に持って行くと、またそこから他の所に持って行くんだ。私たちが、だいたい3~4ヶ月くらいだったかな、そうして持って行ったりしたんだ。
「そんでな、それをどうやって置いてくるのかっていうと、手鍬の柄の部分があるじゃないか。手鍬が、鍬の少し大きいのがあって、こうして、こうしてへこんだところ。その中に入れるんだよ。
「そうして、その家に行って、鶏をつかまえて行くと、食べて、またそこに薬草みたいのを入れて、薬にするみたいに。
「そうして手ぬぐいをかぶって、男と薬草を採りに行くみたいに、そうやって行ったり来たりしたんだ。
「3ヶ月そうしていたら、その後には解放されたって便りが来て。だから、韓国に帰るっていうから、その人たち(独立軍)を、その上の人たちを探さなくちゃならないじゃないか。探したのか、探せなかったのかは知らないよ。…韓国に来る途中に吉林まで来たら、韓国人が多いじゃないか。それで、そこで少し止まって(手間取って)、それから集安県という所に来たら、川を渡ったらあの北朝鮮だから。…そうしてそこまで来て、また厳しくなって、集安県のチルグっていう所にまた戻ったんだよ。そうなったんだ。

最初の夫

道さえ開けたら、私を連れて故郷に来て暮らすって言ってね。いい人でね。

「その時はカバンとかもないし、何もなかったんだ。風呂敷に(周囲の服を指さして)こんなのを少し包んできて。お金もいくらもなかった。それで、その時もどこにも入れる所ないから、スカートをはいて、そうして進むんだけど、そこにお金も少し…布切れみたいなものに包んで…こんなふうにその布切れを枕にして寝たんだ。いつ盗ってったのか、起きたら私の風呂敷に包んできた服とか、全部なくなってしまって。お金も、1銭もないんだ。だから、一緒に来た人が私をまた、私をまた売ったんだよ、また。
「あの、ノさん、ノさんっていう人のところに。その家のおばあさん、北朝鮮の人だ。北朝鮮の人って言っても、その家は日本帝国おばあさんの時から中国に渡って、故郷には親戚もいないし、わからないんだって。そう言ってたけど、人はみんな北朝鮮の人でね。その家でお金を払って私を買ったっていうんだ。…その家で農業をしながら3年、その家でご飯を食べさせてもらってたよ。
「その家に息子が一人いてね、その家に。日本の時に中学校の学生で、日本学校の。
「その人は背も高くて、男前でね。そうして、私はその人が好きになって、その人がよくて、道さえ開けたら、私を連れて故郷に来て暮らすって言ってね。いい人でね。
「その家で結婚したんだよ。[註 040]「夫は私によくしてくれたんだよ。義母が私に冷たくしたら、そりゃもう嫌がって、義母と息子がケンカして、そんなだった。
「ご飯を炊いている時には、人を呼びに行けないじゃないか。なのに、義父がお酒を飲みながら戸を開けて、『おい、オマニ(お母さん)を連れて来い』、義母のことをオマニって言うんだよ、あの平安道の人は。『おい、オマニを連れて来ないのか、連れて来ないのか』って。あれだよ、あれ、日本人の靴(軍靴)、それを持って、家の隅でご飯を炊いてる、火を焚きつけてる私に、その軍靴を持って、呼びに行かないって私を叩いて、その時にこの歯が、これが折れたんだよ。そうして、口が(唇を前に突き出して)こうなったんだ。そのとき、夫が帰って来たんだよ。どこかから戻ってきて、『お前、その歯はどうしたんだ、どうして口がそんな風になったんだ』って聞いて。それで、お義母さんを連れて来いって言うのに早く行かないからって叩かれた、ご飯を炊いている時に、火の具合を見てなければならないのに、火元を離れられないのに、だからすぐには行けないのに、呼んで来ないからって叩かれた、って言ったら、夫が言うんだ、『伯父さんの家に行っていなさい、早く』って、伯父さんの家が側にあったんだよ、行ってなさいって。それで、ご飯も、お膳も準備しないで、行けって言うから行ったんだ。そうしたら、あの義母が自分の息子をおぶって、その時は義母も30代だったんだ。若いから、そうして息子をおぶって来て、『人をあの靴であんな風にして、見てくださいよ、町内の人たちが何て言うと思うんですか、親の役目を果たすなら正しく果たすべきでしょう。この人はここに親戚も誰もいないのに。』自分の子供よりももっとよくしてあげなくちゃいけないのに、そうしてこそ家が発展するのに、どうしてこんな風にしたんだって言いながら義父に言うから、義母が『こいつめ』、こいつめ、お酒飲んだ人に何を言ってるんだって。耳の下の、この血が乾いてない。…年も幼いあの子にあんなことするなんてって。
「秋になる前ごろに、その人が7月に軍隊に行くことになってね。行かないわけにはいかないんだ、そこでは。蒋介石と共産党と闘ったんだよ。[註 041]「解放されて、こうしてまた中国で共産党とあの、あの台湾と闘うことになったじゃないか。その時に行って死んだんだ。
「子供、最初の夫との間に生まれた子が病気になって、その時にうちの子に、注射を一本か、3~4本だけでも打ってりゃ肺炎で死んだりしなかっただろうよ。麻疹にかかって、肺炎に発展したんだ。
「それで死んだんだよ。子供が病気なのに、病院にも行かせてくれなくて、お金もくれないし。だから、子供が…死ぬ時には、アイスクリーム一つも買ってあげられなくて、私がお金がないから。死ぬ時も、子供が死ぬのか、死なないのか、私も幼かったからわからなくて。義母は実家に、同じ町内に住んでて、実家に行って、暗くなっても帰って来ないんだ。私も、ご飯の支度もしなかった。子供が苦しそうにしてるから。
「歯ぎしりをするんだよ、子供が。そうして、目をスッと閉じて。死んだのを、私が布団をこうしてかぶせてあげたんだ。そうして、義母が自分の息子を背負って帰って来ながら、『子供はどうなった』って、私は何も言わなかった。義父もその時に一緒に帰って来て。

看護師

中国人の大きな病院に私が入って、目を診る所にいたんだ。

「里長が『お前、この家にいたら死んでしまう。仕事ばっかりして、夏は裸足で歩いて』って言うほどに、私はとても苦労したんだ。
「そうして、ここで言うと、何だろう。ええ田舎の…里長が『俺がどこか、紹介してやる。吉林市に自分の親戚が働いてるんだが、小さな病院なんだ』
「そこに行って、働いたんだけど、注射も打ったり、はじめてのことだけど、私が全部したんだよ。例の人(牡丹江の慰安所で目が見えない人たちを治療していた医者)がやるのを見てたから。
「個人病院に少しいて、病院の仕事を見て習ってるうちに、大きな病院に、その頃人が足りなくて、大きな病院に行くことになったんだ。
「中国人のその大きな病院に私が入って、目を診る所にいたんだ。眼科にいてから、その次にはまた歯科に、その大きな病院だけど歯科に、眼科も歯科も両方ある病院でね。たしか、その病院は第2病院だった、中国の吉林市の。
「医者たちが来なければ、私が病気を診たよ。眼科の主任…目を診る主任、それから耳を診る主任、それから歯科の主任が一人ずついて。その主任が歯科に来て、歯を抜くこともできないし、治療もできないし。それで、見よう見まねで覚えたやり方で、私が歯を抜いてやったり、痛いといえば某の薬を塗ってやったりして、全部してあげたよ。
「卒業したばかりの人が、私と一年いながら、歯を抜こうとして、虫歯を抜こうとしたら、痛くない方の歯を抜いてしまったって。で、主任もこれを処理できないのを、主任に隠れて私が処理したんだ。
「患者に『私の顔に免じて、我慢してください。この人は若くて将来がある人なんだから、善行を積めば、子孫にもその徳がいきますよ』って。それで、その患者が黙っていてくれて、お金はあげなかったよ。私の顔に免じて、自分のことのように考えてほしいって。私にはやさしかったよ、その医者。
「看護長だからね、だからほかの人よりも高いんだから、階級的に。内科に医者、主任医師がまたいて。その人たちよりももっとお金をもらってたから、私。大学生が、あの内科の主任になるんだから。上には院長がいて、主任がいて、それから看護長が病室にまたいて。看護長は一人だけじゃないから、何人もいて。
「いろいろと気が利いて、このまあ、注射を打つのとかも他の人より上手いと、そうなれる。まあ、能力が高くなきゃならないんだよ。仕事ができるというだけではだめでね。話も上手くできないとだめなんだよ。
「子供をおぶって通って、二人手をつないで通って、[註 042] 凍りついた道に滑ったり、転んだりしながら、またこれが、遠いんだ。車も、3台、4台、上れなくて。車はこれくらいのが一台で。たくさんの男たちが、人ごみをかきわけながら上っていく。
「だから、私は他の人よりも少し大変だった。他の人が5時半に行けば、私は5時にはそこに到着していなければならなくて。
「それから、薬剤みたいなの、山に行くときも、私には子供たちがいて、乳をやる時間ってのがあるじゃないか。乳をやるために、子供をおぶってつれて行くんだ。また、小さな子を連れて行くから、(一緒に働いていた看護師たちが)子供の面倒を見てくれて、私は薬剤を探して。
「私が病院にいて、娘が私の代わりに就職したんだよ。
「娘の年が19歳だっただろうか。[註 043]「幹部たちは子供が親の代わりに入ることはできないって言うから、体の具合もよくないって説明して、娘を病院に就職させようとして辞めたんだよ。そうでなかったら、あと3~4年は働かなければならなくて。
「子供のためには仕方ないから、私が辞めたんだ。仕事もなくて、あちこち歩き回って悪い男にでも出会ったらどうするんだ。だから、私の職場を渡したんだよ。
「そうでなければ、私はお金の級数が多くて、たくさん稼げたんだから。

裏切り

そうやって私のことを裏切って、そんなことは私は許せない。

「その病院で、あの、薬局にいた女が紹介したんだ。
「二人目の夫は韓国人。その人も両親がいなくて、他人の家で育ったんだって。
「うちの夫は、本当に素敵な人だった。金日成の画像、見たことあるかね。それよりも歯がきれいで、ニッコリと笑うとみんな格好いいって言うんだよ、見る人がみんな素敵だって言うんだ。でも、この人は遊び人でね。
「狂った女と狂った男だって、みんなそう言って。
「お金を稼いでも家には持って来てくれず、どこぞに行って全部、自分たちで外食して、遊び歩いてたんだよ。私は、それについてはとても残念だった。
「お酒ばかり飲んで、友だちとばかりつるんで、どこに行っても、私よりましな人ならまだしも、背も小さくて顔も黒い人と、そんな人と出会って、遊び回って。
「『女と会うのはかまわない、お金だけ入れてくれればかまわない、そこに行って暮らせばいい、私は子供が3人いるから、その子たちを勉強させなければならない、出て行って』そう言っても、行かないで、相手のところに行って寝て、5時、6時になると家に帰ってくるんだよ。
「結婚して、子供がお腹にいたし。約一年半でまた弟を妊娠したんだよ、弟。そうしたら、その女の子供がまたうちの子と同い年で、うちの子は7月に生まれて、その女の子供は11月に生まれたんだ。男の子二人を一年のうちに授かったわけさ、あの人。だから、どんだけって話だよ。
「それでも、息子が生まれて少しは直るかと思ったら、直らないんだよ。そうこうして、最後には離婚したんだ。あの人が、離婚してほしいって言うから、離婚してやったんだ。
「あの人のことは、私は今も、夢にすら見たくない。そうやって私のことを裏切って、そんなことは私は許せない。
「私は、男のそういう行為を乗り越えたんだ。また、その最初に結婚した家で、あんな目にあったことも、それも私が克服して、自分で生きる道を見つけたんだ。だから、一人でいる時の方が楽なんだよ。

帰国

ここに来て、故郷の土を持って中国に帰ったんだ。私は、いつもその土を持って歩いてんだ。

「旧正月、名節の時は、8月の旧盆と旧正月は、子供たちが見ていない所で、私はよく涙を流したんだ。子供たちがいる所では泣けないから。そのときはいつもそうして涙が出るんだよ。そうして、私が12人兄弟の末っ子だから、可愛がられて育ったから、その時は服を、絹商売の人が来たりしたんだ。そうすると、黄色いチョゴリに真っ赤な、あれなんだっけ、端が真っ赤なのと、そうしてチョゴリを新しくまた作ってくれて、旧正月にそうしてまた作ってくれて、そんなだった。そして、私の母が、私はもう子どもじゃないから全部覚えてるんだ、私をおぶって、私の兄や姉のものはみんな縫い物をして、月が明るくて。…満月の日には丸いじゃないか、その時。そのことを考えたら、私一人でいる時にもそれですごく涙が出るんだよ。
「1988年にも一度来たんだ。その時は香港を経由して来てね、こっちに(韓国に)直接来ることもできなくて。赤十字から来いって言われて。[註 044] 私の戸籍があるじゃないか。
「赤十字がこうして離散家族みたいに助けてくれて、それで来られるようになったんだよ。
「それで、どこに来たのかというと、中国のクァンジョっていう所と深圳[註 045]っていう所と、その向こう側があの香港だったっけ。香港経由で、こうして迂回して来たんだよ、その時も。…甥がソウルにいるんだ。甥が出迎えに来て。
「あの時、来た時にも、兄もいないし、甥の両親二人とも死んだから、どれだけ泣いたことか、空港で初めて、あんなに泣いたのを見たよ。
「そうしてここに来ても、私のこと中国人だって、中国に行けって言われて。…そのことを考えたら、私は胸が痛くなる。[註 046]「韓国に来て、故郷の土を持って中国に帰ったんだ。いつもその土を持って歩いてたんだよ、私は。
「98年度だったか、その時に韓国に来てから、また中国に行ったんだ、私も中国でもご飯は食べて暮らせるから。そうして、また中国に戻ったんだけど、そのとき新聞に出たんだ。
「私がしたんじゃなく、同級生が話してくれたんだ。私と同じ組だった同級生が。[註 047]「そうして韓国まで来たんだから、知らせたほうがいいって言われて。『もう年もとったし、知られてもかまわないし、今さら結婚するわけでもなかろう』って言うんだよ。
「放送局に慰安婦として捕まって行った、そう言ったら、新聞社から来たんだよ。そして人が一人来て、新聞に出たんだ、これ。
「土地を、3千万ウォンの保証がなければ、この戸籍に載せられないんだ。
「それで、私の甥にしてそうしてほしいって言ったら、叔父の家ではわかったって言ってくれたそうなんだけど、伯父の家ではだめだって言うんだ。
「叔母さん、私がやりますから、心配しないでください。この(甥)と私と、二人でやるからって、言いながら。
「そのとき涙がどっと雨が降るようにあふれてきて。どうしてかって言うと、私の上の兄が自分でお金を稼いで買った土地なら何も言えないよ。私はそんなあつかましい人間じゃないから。けど、全部両親が苦労して稼いで、この家に、カン家に嫁いで来た頃には、母がそれこそ器の一つもなくてひさごに入れてご飯を食べたそんな家なのに、兄がそんな風に言ったっていうから、私はそんな母のことが思い出されて、泣けてきたんだよ。

願い

韓国政府は、どうしてこうなのかわからない、あぁ。

「従軍って言ってはいけないんだ。従軍慰安婦って言ったら、間違いなんだ、それは。ただの慰安婦って言うべきなんだよ。従軍慰安婦は自らが希望して行った人なんだ。お金を稼ぎに行った人。私たちは強制的に連行されて行ったから。…これは、強制的に連行されたのは、それは、ただの慰安婦なんだ。だから、そう言ってはいけない。
「私に力がある限りがんばって、この問題を私たちが生きている間に正しく解決して、死んだら、私は死ぬけど…国のことを考えなければ。私たちが苦労して、本当に火の中に入ってきた人が、私の子孫たちには絶対にあんなことさせてはならない。
「私は話上手ではないけれども、一言、二言でもこうして実際に経験した言葉は言えるから。だから、私は、私の家なんかはなくてもいいんだけど、韓国、私たちの両親が埋められている、私たちの先祖が埋められている国を、外国人にまた奪われるようなことがあってはならないから。一言でいって、だから私は来たんだ。…私がどうしてでも、この国を、たとえ一言でも私が種となって、日本や外国が二度と侵略できないようにしようと、私は来たんだよ、本当に。
「韓国を永遠に私たちの後世が守っていくべきだ。私のこの一言を、たった一人でも胸に刻んで聞いてくれるなら、私はそれは、神様にも本当に感謝して。この国を守る人が一人でもいれば、もっと嬉しい。私も、私の子供たちに本当に会いたい。本当に電話で話したりすると、胸が痛くて、眠れなくなるんだよ。それでも、それは私の小さな家庭のことで、国がなければ私もいない。国がなければ、この世に生まれて何が楽しいだろうか。

「私が、来月[註 048]には中国に行こうと思って。…韓国に来てから、初めて。初めて行くんだよ。
「ドキドキはしないよ、家に行くんだから、私の家に行くんだからね。そこは、息子の家ではなく、私の家なんだから。
「私は、功勲が多いんだ。30年も働いたから。だから、家を一つもらったんだよ、私が。…吉林市の良い所にあるんだ。…吉林市で一番大きな道があるんだけど、私の家の前なんだ…解放路っていう。
「だけど、息子と娘も私が住んでる所まで来て、一緒に側にいてほしいよ。
「私が生きている間だけでもいいから、一緒にいられたら、死ぬ時にも安心して目を閉じられる。…生涯、同じ血をわけた家族とは、死ぬとき一緒にいられないのが、それが本当に心残りになるんだ、私は。…私の娘もお金が少しあってね。だから、上の息子は私が少し助けてあげて、自分で何とかすれば、政府に生活が大変だとは言わないだろうし。
「この政府のために、息子、娘を置いて、私も韓国に来てるんだ。それなのに、韓国政府は、どうしてこうなのかわからない、あぁ。
「そう、この問題をどうしたら、あの国会、女性部でどうにかできないんだろうか。」

 
[註 033]
連行の際、巡査と軍人がカン・インチュルの名前が書かれた紙を部屋に投げ入れて行ったという。
[註 034]
カン・イルチュルは、二人の兄が家にいなかったため、本人が代わりに連行されたのだと思っている。
[註 035]
長春にある軍部隊の中には10日から20日ほどいたが、そこで長い間洗濯の仕事をした女性たちは外に出ることができたという。
[註 036]
カン・イルチュルは牡丹江の慰安所に到着して、日本軍「慰安婦」として生活する前に、視力を失った日本軍人たちを看護した。
[註 037]
1945年当時、牡丹江の慰安所内では腸チフスが流行ったが、日本軍は感染者を燃やすためにトラックに乗せて山に移送して行ったという。カン・イルチュルは、日本軍が移送して行った人々を薪の上に放り投げる過程で、自分を一番最後に放り投げたために生き残ることができたと言う。
[註 038]
カン・イルチュルは慰安所内にキムという姓の軍人が、独立軍であることを隠したまま、慰安所の幹部として偽装していたと記憶している。
[註 039]
中国の東北の黒龍江付近の山林地域に位置している。
[註 040]
カン・イルチュルはノ家で農業の仕事をして過ごし、ノ家の長男と結婚した。
[註 041]
1946年から1949年に渡って起きた中国の国共内戦を指す。
[註 042]
カン・イルチュルは看護師として在職している間に再婚し、娘を一人、息子を二人産んだ。
[註 043]
カン・イルチュルは、1949年から娘が19歳になった年の1980年まで病院に勤務したものと推定され、娘を代わりに就職させるために意図的に退職を申し込んだ。
[註 044]
1992年の中国との修交前には旅行が自由化されておらず、中国から韓国への訪問が制限されていた。このため、カン・イルチュルは大韓赤十字が実施する海外同胞母国訪問事業の一環として、1988年に甥・姪たちの要請により韓国を訪問した。
[註 045]
クァンジョと深圳は香港との国境に位置する地域で、行政区域上広東省に属する。
[註 046]
カン・イルチュルは1988年の韓国訪問当時に国籍が回復せず、3ヶ月の滞留期間しか韓国にいられなかった。
[註 047]
1998年の韓国訪問当時、カン・イルチュルは小学校の時の同級生と会ったのだが、その同級生が情報を提供したことから、朝鮮日報(韓国の新聞社)に国籍回復に関する願いが記事が載った。(「中国居住のキム・マルスンハルモニ、慰安婦の過去告白」、『朝鮮日報』、1998年4月9日付参照)
[註 048]
カン・イルチュルは2002年12月に中国に行って、2ヶ月ほど滞在した。
[註 033]
連行の際、巡査と軍人がカン・インチュルの名前が書かれた紙を部屋に投げ入れて行ったという。
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[註 034]
カン・イルチュルは、二人の兄が家にいなかったため、本人が代わりに連行されたのだと思っている。
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[註 035]
長春にある軍部隊の中には10日から20日ほどいたが、そこで長い間洗濯の仕事をした女性たちは外に出ることができたという。
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[註 036]
カン・イルチュルは牡丹江の慰安所に到着して、日本軍「慰安婦」として生活する前に、視力を失った日本軍人たちを看護した。
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[註 037]
1945年当時、牡丹江の慰安所内では腸チフスが流行ったが、日本軍は感染者を燃やすためにトラックに乗せて山に移送して行ったという。カン・イルチュルは、日本軍が移送して行った人々を薪の上に放り投げる過程で、自分を一番最後に放り投げたために生き残ることができたと言う。
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[註 038]
カン・イルチュルは慰安所内にキムという姓の軍人が、独立軍であることを隠したまま、慰安所の幹部として偽装していたと記憶している。
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[註 039]
中国の東北の黒龍江付近の山林地域に位置している。
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[註 040]
カン・イルチュルはノ家で農業の仕事をして過ごし、ノ家の長男と結婚した。
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[註 041]
1946年から1949年に渡って起きた中国の国共内戦を指す。
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[註 042]
カン・イルチュルは看護師として在職している間に再婚し、娘を一人、息子を二人産んだ。
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[註 043]
カン・イルチュルは、1949年から娘が19歳になった年の1980年まで病院に勤務したものと推定され、娘を代わりに就職させるために意図的に退職を申し込んだ。
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[註 044]
1992年の中国との修交前には旅行が自由化されておらず、中国から韓国への訪問が制限されていた。このため、カン・イルチュルは大韓赤十字が実施する海外同胞母国訪問事業の一環として、1988年に甥・姪たちの要請により韓国を訪問した。
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[註 045]
クァンジョと深圳は香港との国境に位置する地域で、行政区域上広東省に属する。
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[註 046]
カン・イルチュルは1988年の韓国訪問当時に国籍が回復せず、3ヶ月の滞留期間しか韓国にいられなかった。
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[註 047]
1998年の韓国訪問当時、カン・イルチュルは小学校の時の同級生と会ったのだが、その同級生が情報を提供したことから、朝鮮日報(韓国の新聞社)に国籍回復に関する願いが記事が載った。(「中国居住のキム・マルスンハルモニ、慰安婦の過去告白」、『朝鮮日報』、1998年4月9日付参照)
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[註 048]
カン・イルチュルは2002年12月に中国に行って、2ヶ月ほど滞在した。
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