• 慰安婦
  • 歴史を創る物語

「あんなたくさんの軍人たちが、私にあれほど来るとは夢にも思わなかった」

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  • 年度
  • 年齢
  • 内容
  • 1920年
  •  
  • 全羅南道務安生まれ
  • 1935年
  • (16歳)
  • 平壌の職業紹介所にだまされて行く
    海城-上海-ハルビンなどで日本軍「慰安婦」の生活
  • 1943年頃
  • (24歳頃)
  • ハルビンで宝城の男性と所帯を持つ
  • 1945年
  • (26歳)
  • 宝城の男性と全羅南道海南に帰国
  • 1947年頃
  • (28歳頃)
  • 海南でパク某と婚姻
  • 1953年
  • (34歳)
  • 息子を出産
  • 1955年頃
  • (36歳頃)
  • ムダン(巫堂、韓国のシャーマン。巫女)で生計を維持
    パク某死亡
  • 1958年
  • (39歳)
  • ムダンの男性との間に娘を出産
  • 1962年
  • (43歳)
  • 娘が死亡
  • 2004年
  • (85歳)
  • 海南で息子夫妻、孫たちと一緒に暮らしている
海南→平壌→海城→ハルビン→海南
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「いやもうな、本当に、あれこれ考えたら、あのことがはっきりと思い出されて、夜も寝付けないんよ、はぁあんな所から生きて帰れてほんとに良かったと思う。
「どこそこに行くと言って毎日のように車にばかり乗せられて、昼も夜もそうしてたら、そのうちどこなのかは知らないけれど、ほんとに遠い所に行っちゃって、よく見たら雪景色で、11月くらいだったかな、陰暦の。とにかく雪はまっ白く降ってて、昔は軍人達がきいろい軍服を着てたんだ、帽子もそんな(黄色)帽子をかぶってたんだけど。軍人たちが、もうとにかく雪の中で訓練やっちょるんだよ、すごいのなんの。その時は知らないから。軍人を相手にするところに行くって、誰かがそう話してくれるわけじゃないし、ともかく、なぁんにも言わず日本に、工場に行くって言うから、そうだとばっかり思ってついて行ったら、まっ白い雪の中で軍人たちが、めちゃくちゃ訓練を受けてるのさ。ほんとうに大勢、1ヶ所だけじゃなく、他の所に行ったらまたいて、とにかくすごくいた。
「『ひゃあ、あんなに寒いのに』って心の中でだけ、『こんなに寒いのに、雪の中はどれだけ寒いだろう』と思ってたら、なんとなんと、あんなたんさんの軍人たちが私にあれほど来るとは夢にも思わなかった。

絹工場

人がものすごく多かった、女たちが。絹を織る工場なんだからこんなに人が多いのか、と思ったんだ。

「結婚話があるたびに、いつも、未婚の若い男のところからは話が来ないで、子供を産めない家から、妾になれと誘いがきて。
「もう少し経って大きくなったら、17歳になったら結婚しようって言ってきたのさ。父と母はそうするって言ったんだけど、私は死んでも嫌なんだ、私が。私はもともと、曲がったことがきらいな性格だから、死んでも、そんな妾なんかになって、そいつが嫌がることしたり、そいつができないことさせたりなんかできないよ。
「死んでも、そんな妾にはならないって言ったら、いい結婚相手を紹介してやるって言ってたのに。
「急に知らない人たちが、男たち3人が家に入ってきて、一人は日本人で、(口ひげを真似て)ひげが少しこうあって、帽子もかっこよくかぶって、上下はまっ黒い背広でビシッと決めて、白いワイシャツに、こんな蝶ネクタイを一つ、こうしてつけてたな。あと、二人は韓国人だから、韓服(パジとチョゴリ)を着てたな、その時はまだ韓服を着てたんだ。そして言葉を通訳してくれた人一人と、里長と、そうやって来たんだよ。
「そうして、ある人たちが急に入って来て、日本に行ったら、絹を織る工場に行ったら、絹を織りながらものすごくお金もいっぱい稼げるし、楽で良いし、いろんな物が見れて良いし、お金もいっぱい稼いで両親に送ってあげたら、両親が田んぼも買って、畑も買ったりできるって言って。
「その人たちの話を聞いたら、そうかなって思わされるんだよ。私たちは貧しいから、日本に、絹を織る工場に行けば、すぐにお金を少しでも送ってあげたら、両親も少しは楽になるだろうって。
「私はそれでも、いくら考えても行けないなって思ってね。そこがどこなのかもよくわからないのに、どうしてそこに行けるっていうんだい。それに、私が日本語でもわかれば違うだろうけど。いくら考えても、行けそうにないのさ、気が乗らないし。
「『どう考えても私は自信がないから、行けません』って言ったら、父さんが(大声をあげて)『そんなの、目で見たらわかるさ。目で見れば習ってできる、生まれる前から習って生まれるヤツがいるもんか?』って言って、他の人も行くんだから行けって言われて。行って、そういう所にでも入って、そういうことでも習って、働かなきゃならないって。家にばっかりいてどうするんだって。そんなふうにまた、憎まれ口ばっかり言って。
「父さんがそんなふうに、私に働けって言って叱るから、『アイゴ-父さん、私、行きますよ、行きますから、行って死ぬんだとしても行きますって』そう言って、私がついて行ったら、一緒について来た韓国人たちがヤッタ-って感じだった。日本人は何も言わなかった。
「その時、16歳で行ったんだよ。
「日本にすぐに行くって聞いてたのに、平壌に行ったんだよ。
「人がものすごく多かったよ、女たちが。絹を織る工場だから、こんなに人が多いんだなと思ったさ。だけど、なぜか何も言われなくて、絹を織れとも言われないし、その工場とやらも見せてくれなくて。『どうして絹を織れって言わないのかな』って心配したんだよ。
「じっと見てるとな、どこからか男たちが来ると、女たちをあっちに連れて行き、こっちに連れて行き。そんでなんだか話してることが、いくら考えてみても、工場じゃないんだって思ったのさ。
「男たちが歩き回りながら、女の子たちを抱いたりして、気持ち悪いったらありゃしない。だから、工場じゃないってことを、そこで私は心の中で、感じでわかったのさ。それからは、毎日毎日涙ばっかり出て、耐えられなくて。だから、私はいっそのこと、ちょっと遠くに、他の所に、遠くに送ってほしいって。
「私は韓国人が住んでいる所、ここにはいたくないって言って。
「遠くに行きたいって言ったら、送ってくれたんだ。海城に、中国の海城っていう所に。

「初めての客」

一度も男と寝たこともないのに、入りもしないあそこに、初めての客を7人も相手にしたんだ。

「ある日、許可が出たっていうのさ、許可が出たって。『何の許可が出たんですか?』って聞いたら、父さんと母さんに、私の故郷に、全羅道の故郷に電話して、警察から全部連絡して、父さんの承諾をもらったから、署から許可が出て、客の相手をすることになったって言うのさ。
「私は、軍人たちがあんなにたくさん来ても、女の子たちが何人もいるから、一人の女の子があんなに何人もの人を接待するとは思わなかった。(あきれたという表情で)他の人のところに行きたくないから、行かないで、私のところにあれほど来たのか、初めてだから、他の人のところに行かないで、あれほどやって来たのか。何がなんだか、わかんないんだよ、とにかく。ただ、時間もなくて、そうやって一人終わって、出て行ったらまた一人が扉の前で、扉をコンコンってノックして、早く出て来いって言ったり、何やかや言ったりしてるし。また、ある人は私に洗ってくれって言うんだよ、その性器を。(壁を叩いて)それでなくてもそれでなくてもつらいのに、そこをまた洗ってやらないと出て行かないって言うのさ。扉の前では、扉を叩いて早く出て来いって言ってるのに、まったく、何で洗えっていうんだって朝鮮語で、私はそういうことをしたことがないから、できないって言ったら、洗えないのかって、またブツブツと文句を言われて。
「陰暦の11月っていったら、もんのすごく雪がたくさん降って、一番に寒い時なんだ。雪はまっ白に降って、本当にすごいんだ、それなのに、それでもまた、どうしても洗って来いって言われれば、洗って、薬を塗ってくるのさ。どうしても涙が出てたまらないと、軍人がまたどうして泣くんだ、不愉快だって。
「寂しくて、言葉もできないし、通じないし、朝鮮人だったら、あれこれするって言えるし、ああでこうでって言えるのに、それもできないし。
「その時に初めて行って、年も若い私に、恋愛とかして、あれこれしたことがあるならまだしも、そんな経験もない私が、どんなにたくさんの客の相手をさせられたことか、ただ私が死にそうになって、病院にまで行ったこともあった。
「一日に、なんと、初めての客を、一度も男と寝たことがない私が、入りもしないあそこに、初めての客を7人も相手にしたんだ、初めての客を。
「まったく、いっそのこと、ヤツの妾にでも行けばよかったのに。もう少ししたら、若い男にも会うことができただろうし、どうしてもダメなら、妾にでも行ってたら、こんな目にはあわなかっただろうに。

恐ろしい日曜日

日曜日が近づくと、その前から胸がドキドキするのさ。

「客を一人ずつ相手すると、性器にサック(コンドーム)をはめて、ゴム手袋みたいにサックをはめてするから、それが破れなかったら、洗浄室に行って、湯船に行って洗浄だけして、薬を、白いヌルヌルしたジェルみたいな薬を塗って戻ってきて。それが破れたら、行ってまた温かいお湯に消毒水を入れて洗浄して、その薬を塗って、戻ってきて。そうしないと、その次の客が気を悪くするからって言うんだ。洗わないで、すぐに次の客を迎えたら、客が気を悪くして、お金を返してもらって帰ってしまうんだとさ。はぁだから、子どもに言うこと聞かせるようにしてさ。だから、その人たちの言うとおりにしなきゃ、どうするっていうんだ。もう死ぬことも生きることもできないのに。仕方なくそうして、元締めの言うとおりにしたのさ。
「日曜日が近づくと、その前から胸がドキドキするのさ。どうしようって、そのことを考えたらね。
「日曜日になったら、あれまあ、数十万人が部隊から出てくるんだから、何をか言わんだ、女の子たちはたくさんいたけどさ。一軒だけで足りるかい?何軒もあるんだよ、そんな家が。なんとか館、なんとか館って、何軒もあったよ。それでも、その軍人たちはとにかくたくさん来るから、だからほんとに多くの相手をさせられたんだ。私は、一日に27人まで相手したよ、30人に少し足りないぐらいだった。
「ほんとにそんな時は、(まるで今、外に軍人たちが並んでいるのが見えるかのように驚いて)うわ、ぐるぐると一列にずらっと並んで、靴も脱がずに、ただサックだけはめて入って来ては、やることやって、出て行って。ああ、とっとと終わらせてすぐに出て行く人が一番いいのに、どこぞでお酒とかいっぱい飲んで来て、すぐにはできなかったりして、イライラさせる人に出会うとな。あの扉の前で、始終扉をドンドン叩いて、早く出て来い、早く出て来いってうるさいし。ただ 一列に並んで立っていて、一人が出ると、一人が入り、一人がまた服を着ながら出ていくと、脱ぎながら入ってきて。その時、そういう時が一番つらかった。
「ああ、ほんとうに。私は、ものすごく苦労したよ。生き残ったからこうして話もできるけど、はあ生き残ったこと思うと、夢みたいでもあるし。ある日、17人の相手をしたら、とにかく目まいがして、フラフラしてうなされていたら、酒でも飲んだのかって言うのさ、客が来て。私は、お酒は飲めないんだ。その頃はまだ、お酒は一口も飲めなかった。お酒を飲んでないのに、すごくここ(頭)が痛いんだって言ったのさ。
「もうすぐにでも息が止まりそうになっても、お酒に酔ったみたいに息が止まりそうでも、自分がやりたいまま、自分の性欲のままにして、そんな目にあった時は、とにかくつらかった。
「客をたくさん相手したら、腰は腰で痛いし、お腹はひりひりして。(下腹部を指差して)子宮、ここが、下腹がすごく腫れて痛いんだ、すごく腫れて痛いんだよ。それでも、短い人は大丈夫さ。短くて丸々した人は大丈夫なんだけど、細くて長い人はもう大変さ。それで、またどれだけ氷湿布をしたことか、性器の長い人が来て、ほんとに痛くって。
「どれだけ痛かったことか、一週間が経つ前に治さなきゃならないんで、今度はそこに(性器に)氷湿布をするんだけど、うわあ、氷をひと塊、それ一つを赤ちゃんの蚊帳があるだろう。そんな器具があってね。そこに吊るしておくと、時間が経つとそれが全部溶けるんだ。溶けたら、ここが(性器が)冷たくなって、痛いのかどうかもわからなくなるのさ。そうやって、またやって、その大きな塊一つを一日のうちに全部溶かさないとならないのさ。そうしておけば、何日かは少し痛くないんだけど、また少し長い人が来たら、またそこに当たったら、またそんなふうに痛くなるんだ。

同じ穴の狢

元締めは、病院ともつるんでるし、軍人たち、お偉いさんたちともつるんでて、警察ともつるんでる。

「元締めが食事の度にご飯の準備してくれて、洗濯もしないし、仕事もしなかったけど、そこの風習を学んで、そこの風習に従おうとしたから、少し疲れたんだ。
「大勢いる所は女たちが20人いて、そうでなければ17人とか15人とか。少ない所では13人とか、それくらいだった。日本の遊郭もあって。日本の遊郭には全部日本の女ばかりいた。韓国の店は韓国の女ばかりいた。また、中国料理の店もあった。
「昼間は軍のお偉いさんたちが来たり、一人で暮らす一般人たちがよく来たりしたけど、昼間はそんなにたくさんは来ないんだ。
「私たちみたいな人のことをカクシ(花嫁)って呼んでいたんだ。カクシってだけ呼ぶんじゃなくて、名前が全部書かれてたんだよ。おっきな看板に全部書いてあったんだ。そうすると、自分たちが知ってる名前があったら、その誰々を探すんだ。サダコならサダコ、定子なら定子、そんなふうに名前を探すんだ。
「私はミョンオクっていってて、日本の名前はサダコだった。私の名前は、コン・ジョムヨプさ、今はね。コン・ジョムヨプだけど、その頃はミョンオクって名前をつけてたんだよ、そこで。
「客の相手をしている時は、客の相手をしてるから、少しだけ待ってくださいって言うと、そこに立って待つんだよ。それで、そうやって一列に並んで待ってるんだよ。他のカクシに行けばいいのに、いったん決めて私を訪ねて来た客なら、いつまでもそこに立って待ってるんだ。
「軍人たちを送り出す時も、その人(日本軍将校)が全部、そういうのを準備してくれるんだよ。(性器を指差して)ここにはめるサックと、あの票紙[註 002]と、そのお金、ちょっと30分なら30分、50分なら50分、あれをしろっていう票紙と全部くれるのさ。だから、持って出たり入ったりするのさ。
「今のお金にしたら、約5千ウォンずつはするだろう、軍人は安いから。ただの個人客は1万ウォンくらいだとしたら、軍人たちは半分くらいしかしないから、5千ウォンくらいじゃなかろうか。紙切れ、それ一枚さえ持って来れば、あとは何も言わないのさ。チョバ [註 003]も元締めも。
「それが(紙切れが)お金なのさ。それを持って行って、取り換えてくる所があるんだ、元締めが行って。
「ここで言えば銀行とか、何とか組合とか、そんな所で換えてくれるらしいんだ。行ったことはないよ。元締めが全部、そういうことをするから、私たちが持って行って、そんなふうに取り換えるようなことはなかったよ。
「軍人たちが出てくる時は、軍人たちがたくさん来るから、その日は軍人の日だって言ってた、私たちは。個人の客がたくさん来ると、気を悪くするのさ、軍人たちが。だから、軍人たちがいる時は、絶対に個人の客は受けないんだ。軍人たちが来る日、日曜日はね。だから、軍人たちだけそうやってたくさん相手するから、お金がかなりあったよ。安いといえばひどく安いけど、一般の人の半分だったけどね。
「元締めに隠れては軍人たちを送れないから、元締めが全部連絡し合ってたよ、元締め同士が。どの館でも、どの館の元締めでも、全部知ってる。(小さな声で)そして、警察に隠れてはできないから、警察も仲間にしてやるのさ。客に仮に不幸なことがあったりしたら、連絡するとお巡りさんが来て、全部処理して行ったもんだ。元締めは、病院ともつるんでるし、軍人たち、お偉いさんたちともつるんでて、警察ともつるんでる。だから、全部警察で許可出して、客を送るようにしていた。
「梅毒になった女たちは、みんなにうつってしまったら大変だから、仕方がなく客の相手ができなくなると、客の相手をしたら大変なことになるからね、病院に連絡して、病院から連れに来るのさ。連れに来て、病院に行ったら、3日でも4日でも治るまではそこで治療してくれる。お互いに連絡してなければ、どうしてそんなことわかるんだい。

猫いらず

どんだけつらかったことか、私は猫いらずも飲んでみたし、首を吊ったこともあるんだ。

「どこそこが痛いって言うと、あのアヘン注射、あのきいろい小さなビン、その注射を一本打ってくれて、それから薬、飲み薬をくれて。…それを打たれると、ほんとに楽で気持ちが良くなるんだ。
「私は梅毒、梅毒が下の性器に行かないで、すぐに塊になって出てしまったんだ。
「お腹の中で、塊になって。それで、塊がこれくらい(こぶしの大きさほど)だったかな、これくらい。
「ちょうど脇腹にできたんだ。ここ、(両側の股間の手術の痕を見せながら)ここ、こっちにもこうしてあるでしょう、ここ、こっちにもこうしてあって。こうして残ってるんだ、今でも、両方に。[註 004] 「それで、その塊が痛くて、いくら痛み止めの注射を打ってもらっても、薬を飲んでも効かないんだ。…606号、いっちばん昔はそれが強かった、強くて高かったんだけど。
「そうして、一度切ると、病院でこうして切るんだ。そうして、その強い薬をそこに塗って、この穴[註 005]に入れるんだけど、そりゃもう痛いのなんの、本当にすぐにでも死んでしまいそうだった。まっさおになってそこがすっごく痛くて、消毒したら、そこがブクブクと泡立つのさ。
「一緒にいた女たちが、手術を受けて治るのが、私には良いことだって言って。でも、そうしない人は、梅毒にもかかりやすいんだよ、その性器に。それで、このくらいずつ切っちゃうんだ、イイダコの足の穴みたいに小さく。赤くなって、その中に何か米粒みたいのがあって。だから、つらかったよ。そんなんで、客は受けられないよ、痛いから。
「手術した部分がきれいに治らないと、客を受けられないんだ、新しく肉がついてこないと、受けられないよ。1ヶ月と少しかかって、それがやっと治ったんだ。だから、それまで営業できなかった分、ぜんぶ、書きとめておいて、それも借金だからね。ものすっごく、病院でもものすごく泣いて。だれかが来て、誰かが来て看護してくれるわけじゃないだろ。
「逃げ出そうとして、殴られた人もたくさんいたよ、塀を越えようとして。ああ、そんなことしたらダメだって言っても、なんとしても逃げ出そうとする人がいたな、何人もね。どんだけつらかったことか、私は猫いらずも飲んでみたし、首を吊ったこともあるんだ。私もそうしたんだ。ほんとにつらかった、ほんとに。
「私もあんまりつらくて、死のうとして猫いらずの小さいのを一つ買って、フタを取ってギュッと押したら、まっかなやつが出てきて、歯磨き粉みたいのが出てきて、それを、シクシクそれを飲もうとして、手に持ったまま限りなく泣いたよ。
「これまで苦労して、約2年間元締めにお金をたっぷり稼がせてやっても、うちの父さんにはお金を1銭も送ってくれず、借金を返すにはまだまだだって、昼も夜も客の相手をする身の上、あまりにつらくて死にたいほどだった。日曜日が1ヶ月に一回ならまだしも、1ヶ月に3回も4回もやって来るから、耐えられなくてつらいから、死んでやるって猫いらずを飲んで死のうとしたんだけど。
「朦朧として、猫いらずが体内に入ったから、つらくてつらくて。それで、バタッと倒れる音をまだ寝てなかった人が聞いたんだと思う。同じ慰安所の女たちが気付いて、便所に来てみたら、私が倒れて死にかけているから、あれまあ、元締めにすぐに灯りをつけろって言って、こうやって死ぬほど、こんなに素直で良い人間をこうやって死なせたって元締めに食ってかかって、病院に電話して車を呼んで、乗せられて行った。それから、そのひどい薬を全部吐き出させて、注射を打って、だから死なずに生き返って、その家にまた来て、まだ借金残ってるから、期限がまだ残ってるから、また営業をすることになって。
「ああ、その時、寝ないでいた人が気付かなかったら、病院に行かないで間違いなくその時間さえ過ぎてれば、死んでいたって、内臓が焼けちゃって。

初恋

本当に、どれだけ好きだったことか、とても、とても。

「親しい人がいたんだよ。
「その男も頭がいいから、山の中で秘密工事をして、銃刀そんなのを作る所に入ったのさ、その男が。私と同い年で、[全羅南道]宝城の人で。
「その男はどれ-だけ決心がある男なのかっていうろ、そこに(遊郭に)いる時は、寝ないって言うんだよ。時々来ても、寝ていかないんだよ、寝ない。だから、あの男は不能か何かかと思ったら、そうでもないって。そういう所にいる人は、ともすれば病気をうつす人が多いから、ダメだ、大変なことになるって。だから、一緒に暮らす人でなければ、寝てもいいけど、将来、一緒に暮らすかもしれないと思ったら、注意しなきゃいけないって。そうして、寝ないで3年間を、時々来ても気持ちでだけ想っていたんだ。
「その人がハルビンの大きな会社に通ってるっていうから、その人がいる所に行こうと、ハルビンに行ったんだ。親しい友だちが、ハルビンに行ったら客も多いし、お金もたくさんあるし、大きな所で、広くて良いし、カクシたちもたくさんいるって言うから、そこに行ったんだよ。だからハルビンに行ったのさ、友だちのためにも。
「『所かまわず行くわけじゃない。だから、私を行かせてください』って言ったら、もしも私がお金をたくさん稼いでいなかったなら、行かせてくれなかったかもしれないけど、私があんなにお金をたくさん稼いであげたからなのか、行かせてくれたんだよ。だから、元締めの承諾をもらって、他の所に移って行っても、許可をすぐにもらって、さっそく客を受けたんだ。
「海城という所で、そこに2年いて、またハルビンに行って1年いて。あの上海に行って、また半年いて。何年もいた。
「そこ(ハルビン)に行って、その男が少しあった借金を返してくれて、連れ出してくれて、それからはその男と一緒に暮らしたんだ。
「客の相手をしてた時は肉体関係を持たずに3年、そこから出てからまた3年間。6年間一緒だったんだ。
「本当に、どれだけ好きだったことか、とても、とても。
「でも、子供は授かれないみたいで。当時、子供は難しかったろうよ、漢方薬とか飲んだわけでもなかったし。いくら努力してもできなかった。
「その男が、いつになったら、お金をたくさん稼いで、おまえに補薬を飲ませてあげられるだろうって。本当に、苦労に苦労を重ねたんだよ。だから、気持ち的に、本当に激しく愛してたんだ。ほんとうに貴い愛だった。その男みたいな人はいない。
「初恋だよ、その人が。
「本当に、忘れられないんだ、あの人のことが。あの人が忘れられない。そんで、あの人も初恋だって言ったんだ。女と付き合ったことがないって。

別れ

もっと良い所に行って良い暮らしをしてって言ったら、あの人、一人で逃げて行ったんだ。

「男と暮らして、だいたい2年くらい暮らしたかな、そしたら解放(終戦)を迎えて出てきて。
「中国から出てきて…家財道具を車にたくさん乗せて来る途中、中国の馬賊に、一つも残さず全部奪われてしまって、人は生かしてくれたらいいのに、その上、人を刀で刺し殺すんだって。そいつにビックリ驚いて、お金も奪われたから怒りがこみ上げて、一晩中ずうっと眠れなくて、目が(両こぶしを目に当てて)こんなに腫れてしまったのさ。怒りがいっぱい、こうして目に出てきて、本当にものすごく腫れちゃって、何にも見えない。だから、初恋の男がベルトに紐をつないで私の(腰の辺りを指差して)ここに巻いて、自分が行くとおりに私について来いって言って。そうして、私は腰を紐でつないで、あの38度線[註 006]を越えて来たんだよ。
「ここ、朝鮮に来る時、そうやって全部なくしてしまったから、乞食も同じだろう。二人とも、もう何もないんだよ。
「実家は間違いなく、どこかに引っ越しばかりしていたから、どこに行って暮らしてるのかもわからないし、知ってる人もいないし。それで、馬山面の[註 007] 実家の叔父さんが暮らす場所は前から知ってたから。だから、訪ねて行ったのさ。
「そうして、稲一俵なり麦を一俵なりくれたら、それをお金にして、どうにもならなければ塩辛の商売でもして少しでも稼いだら、貯めて叔父さんに元金はお返しして、残ったお金で二人でお粥をすすってでも、なんとか稼いで暮らしたいって頼んだら、少しくれたらいいのに、くれないのさ。元手も何もない人に、そんなものをあげたら、どうやって返してもらうんだって。
「そんなふうに叔父さんが厳しくつっぱねるから、そうしたらあの人が、こっそり持って行こうって言ったんだ。夜、こっそり稲一俵を、後ろの山に運んで、それを持って行って二人でどこかに行って、何かの商売でもして、それで稼いでから、叔父さんに申し訳ないって謝って返そうって。そうするべきだったよ。そうするべきだったよ。そうするべきだったのに、私は生まれてからその日まで、盗みなんてできないし、嘘も全然言わない、そんな人間だったんだ。だから、死んでもそれはできないよ、するとあの人が、だったら二人が離れ離れになってもできないのか、やらないのかって。私は二人がたとえ離れ離れになるんだとしても、泥棒だけはできない、どうしてもそうするなら、あなたが一人でやってどこへなりとも行きなさいって。
「どこへでも行って、あなた一人で行って、どこかで稼いで暮らしてくださいって。私のことは忘れて、行ってしまいなさいって。私はどうしても子供も産めないから、私と暮らしたらあなたの身の上がダメになるから、あなた一人でどこへでも行って、暮らしてくださいって言ったんだよ。どこか良い所に行って、暮らしなさいって。そうしたら、あの人、一人で逃げて行ってしまったんだ。

年老いた男

20歳は年上だった。だから、おじいさんって感じで。

「隣村のおばあさんが、息子の父親のことを話してくれて。他人の家に住んでるけど、仕事しか知らない人だって。年はとってても仕事しか知らないから、そのじいさんと暮らしたらいいって。それで、おじいさんの歳を数えてみたら、私より20歳も上なんだよ、20歳年上。だから、おじいさん(ハラボジ)って感じで。
「紹介してくれたそのおばあさんが、釜を一つ、お茶碗二つ、匙と箸を二つ、布団を一組、そうやってくれて暮らしたんだけど。おじいさんは人夫として暮らしてるから、そこで1年なら田んぼを600坪くれるって言うんだ、年俸として。それで、その年俸で二人が暮らすには何だから、食料としてそこで一俵くれたんだよ。米を一俵くれて、木はそこで車で間伐した木を一本載せて、くれたんだよ。それで、ちいさい、他人の家の小屋の小さい部屋一つ、そこで暮らしたんだ。
「結婚式もせずに。
「そこで生きるための生活を続けていたら、前に一緒に国境を越えて来た、あの人がまた訪ねて来たんだ。
「訪ねてきて、一緒に暮らそうって言うんだけど、年老いたおじいさんでも、ちょうど一緒に暮らし始めてからそんなに経ってもいないのに、あの人にまたついて行ったりはできないだろう。
「あの時は(中国で一緒に暮らした時は)、仕方なくそんなことを、汚いことでもしてたけど、今はゆっくりと考えてみたら、家庭の主婦と同じなんだし、まだそんなに期間は経ってないとしても。
「『あなたは、どう過ごしたんですか。結婚してないなら、結婚して子供を産んで家族をつくらなきゃならないでしょう。私は子供を産めないから、どうしても子供を産めないんだから』他人の人生を台無しにしてはいけないだろう。私が事情を全部説明したんだ。いつも、中国で暮らしてるときも言ってたんだ。『情だけで暮らせるものじゃない』って。本当に、情だけで暮らせるもんなら、生きている間は絶対に別れないほど好きだったけど、私には自信がなくて、私が。それに、いっつも病気ばっかりして。全身の節々が痛いし、胸は痛いし、もうひどくって。あのときの生活で、性器もまっ黒くなって、いつも氷湿布をしても大して治らなかったし。だから、あの人にぜんぶ説明した。心を鬼にして、情を断ち切ろうと、とにかく他の人、良い人に出会って暮らしてくださいって、結婚して暮らしてくださいって。
「あの人は、どうしても、死んでもぜったいに別れられないって言った。
「家に何もなくてもいい、孫も何も産まなくってもいいからって。何なら老後にどこかから他人の子供でも養子にもらって育ててもいいから、そうしてでもいいから一緒に暮らそうって、泣きわめいて別れられないって言ってたけど、仕方なく別れて以来、こうして年が過ぎて、私も歳をとってしまった。
「一緒に腰に紐を結んで、あの国境を越えて来た時、1ヶ月以上を歩いてきながら苦労したことを考えると、なんとしても一緒に暮らしたかったけれど、あの人とどうしても一緒に暮らしたかったけれど、仕方なくその情を断ち切って別れたんだよ。
「それでよかったと思っても、そうしなければよかったという思いもあるから、苦労する度にあの人のことが思い出されるんだ。
「後で聞いた話では、幸せに暮らしてるっていうから、うれしかったよ、私はつらかったけど。うれしかったけど、私に子供がいなかったら、本当に身の上を嘆いて昼も夜も泣いて過ごしたかもしれない、それでも良くも悪くも、あの子を産めたからね。
「あの子を産めたから、母さんって呼んでもらえるし。あの子も産んでなかったとしたら。誰が。

巫堂

祈る人さ、私は祈る人なのさ。

「子供を産めないと思ってたから、ぜったいに産めないと思ってたのに、韓国に来てあの子の父親に出会って、仔羊を5匹、薬にして飲んだんだ。肥えた仔羊を。だから、体もよくなって、こんなに元気になったし-。
「目もよく見えるようになったし、節々が痛かったのも治って、生理痛も治った。だから、あの子が生まれたんだよ。そうさそうしてなかったら、生まれなかっただろうよ。
「それでも子供はずい分後になってできたんだ、34歳だったんだけど。
「子供を産んでから、子供が3歳になって、夫はその時、55歳だったか56歳だったかで亡くなってね。
「亡くなった時が還暦前だったよ。大病ばかり患って、毎日毎日仕事ばかりして、重い病気ばかり患ってたから、全然元気がなくて、死ぬまでまともな仕事はできなかったのさ。仕方なく、私は日雇いの仕事もできないし、物乞いにも行けないし、どうにもできなければ、どこかに行って女中奉公でもできればいいのに、そんなこともできない、やったことがないから。今まで生きてきたけど、他の仕事はしたことがなかったんだ、あれほど貧しかったのに。そこで、仕方なくこれ(巫堂)を習ったのさ。そして、父さん、母さんが巫堂をやってたから、私もまるっきり知らないというわけじゃなかったから。それで、私が習ってそれをやりながら、今までこうしているってわけさ。
「約5ヶ月は習ったかな。
「こういうことを習うには、何年も習わないと全部できないんだ。頭にコッカルという山形の帽子をかぶって、寺の僧侶みたいにコッカルをかぶって、道服を着て。そして経文もいろんな経文をぜんぶ読まなきゃならないし。山に行っても読み、家でも子供たちの誕生日の時に読んで、そんなことも全部習わなければならないし、ものすっごく勉強することが多いのさ。そういったものを、全部習えなかったとしても、お布施を高く払ってくれて、ある夫婦のところに連れて行って、毎日のように酒飯(米に酒、しょう油、砂糖を混ぜて炊いた飯)でご飯を食べさせてくれて、本を置いて、そうこうして書いて習って…本当にまんべんなく全部習ったんだ。
「占いをする人じゃない、私は。巫堂だよ。本で習った巫堂なんだ。グッ(韓国の巫俗儀礼のこと)ばかりして回る巫堂さ。そんな私だから、この町内で私を知らない人はいないよ。もちろん。私がここに来てから、だいたい20年が過ぎた。私が巫堂になった頃は、田んぼで何俵、何戸、そうやって村で私を買うんだ、売ったり買ったりしたのさ。そうして、ここに私の息子が2歳になってから連れて来て、これ(巫堂)をやってるから、今でも誕生日の願掛けに行ったり、100歳になった老人に呼ばれて行ったり。…私は占いはしない。占いをする人は霊に取り憑かれたとか、そんなことを言われているが、私はそんな人じゃない。霊に取り憑かれた人は、私の家族の中にはいない。みんな巫堂さ。私の父さん、母さん、叔父夫婦、叔母夫婦。
「祈る人なのさ、私は祈る人だよ。

飽き飽きする男たち

年とったのも若いのも、見境もなく、一緒に暮らそうって。どれだけしつこいことか。

「娘が一人生まれたんだ。だけど、5歳になって、他の家の子供たちが川に水浴びする所について行って、水に溺れて死んでしまった。助けることができなくて、死んでしまったよ。
「息子が6歳の時に娘が生まれた。
「夫は息子が3歳の時に亡くなったけど、他の男と出会ったから、その娘が生まれたのさ、そうでないと、生まれてこないだろう。
「その子は違う父親から生まれただろう、夫が亡くなったから、巫堂はしなければならないし、(儀式をする)荷物は運んでくれる人もいないし。前は(旧暦の)正月が過ぎたら、厄除けの祈願をどの家でもみんなやってたんだ。その厄除けをする時が、一番一番につらいんだ。荷物も荷物だよ。一晩に7軒、8軒、それをぜんぶしないとならないんだから。今日の昼から始めたら、昼に何軒かやって、夜に何軒かやって、次の日の朝、夜が明けるまでやって終わるんだから。そうして、また夜になると出かけるんだ。だから、男がいないとできないのさ。
「その男も(娘の父親も)、未亡人と出会って子供が4人もいたのさ。ところが、その子たちがうちの息子を昼であろうが夜であろうが引っ叩くんだ。うちの息子が幼いから。大人たちは巫堂しに行って、子供たち同士で置いていくと、私の子を死ぬほど叩くんだ。娘の父親が、死んでやるって、薬を買っておいて枕元に置いて、俺が死んだら葬式を終えてから出て行けって、絶対に別れられないようにするのさ。そんなんで飽き飽きしたけど、仕方なくあの子を生かすためにも連れて出てきたのさ。その子は(娘は)育ててあげるって。そうやって連れて出てきて、家に来るな、探したりもするなって。そうして別れて、娘を5歳まで育てたのさ。なのに、他の家の子供たちが水浴びする所について行ったら、死んじゃったって子供たちが来て言うんだよ。行って水から取り上げて、生き返ってくれることを願ったけど、生き返りはしなかったのさ。
「そうして、また新しい男ができたのさ、その後に。その男は、自分には女が二人いて、また子供もいるって言うから、私はぜったいに一緒には暮らさないって言ったのに。その男は借金が多くて、金もない。私には稲がたくさんあったから、お金と。だから、そいつが匂いをかいで、町内の人たちに当たったんだよ。[註 008] 幼い頃から妾はぜったいに嫌で、幼い頃から男の妾だった人は人じゃないと見下して、ぜったいに妾にはならないって言ってたのに、その男が一緒に暮らしたがってさ、その男が。
「どうしても、借金を返してくれっていうのか。男が来てから3日も経たないうちに、借金取りたちが押しかけてきた。
「仕方ないから、その男にあんなにたくさん集めておいた稲、あんなにたくさん貯めておいたお金を全部そうやってかき集めて借金を返してやったら、その男が出ていくって言葉もなしに、出ていっちまいやがった。わぁ、私はそんなに呆れた目にあってきたんだよ、本当に今までいろんな目にあってきた。でも、その男が出ていってからは、またまた、年老いた男やら若い男やらが、見境もなく一緒に暮らそうって言い寄ってきた。なんとまあ呆れた男たちか、その後は一切拒否したから、いつの間にかこんなに年老いちゃって、年老いたから本当に楽だよ。そんな男たちがもう来ないから。
「だけど、一人っていうのもつらくてね。
「子供を持つ時期になると、腰が痛くて、お腹が痛いんだよ。夜寝てると、タバコの匂いがして、どこかから匂いがするんだ。(部屋の戸に穴を開けて、そこにタバコの煙を吐きつけている様子を真似て)誰かが、ふぅこんな感じでな。それで、目が覚めると腰が曲がって、下腹がものすごく痛いのさ。陣痛がきたときうつ伏して這うようにして。『ああ、痛くて死にそう、死にそうだよ。ああ、お腹が痛い、腰が痛い』って這いまわってさ。そんな時期を3年間過ごしても、私は他の男とはしなかったよ。本当に嫌なんだ、まったく男ってしつこくて。

調査

ああ、言い寄る男たちにたくさんの客の相手をしたって、どうやって言うのさ、本当に。

「調査を何度もしたんだ。面から来て、郡から来て、新聞記者が来て。[註 009] 「中国であちこち移動しながら、少しずつ、少しずつ、5~6年間はいたんだ。
「5~6年間いたけど、恥ずかしくてしつこいから、調査に来た人に、
ただ、4年しかしなかったって言ってやったのさ。嘘のつけない性分だけれど、恥ずかしいから2年間は隠したんだ。
「4年だって言う時には顔が火照って、つらかったよ。でも、同じ女同士だと、少しは大丈夫だった。男たちが来て、記録しながら調査する時は、その時がいちばん、一番に顔が火照って、すごく恥ずかしくてたまらなかった。
「ああ調査にもう来てほしくないんだけどね。それでも、今回は女性の方だから少しはましだよ、そういう話をするのも、活発にできるし。顔が火照って、私の心で鏡を見たら、鏡が真っ赤になるかもしれないよ。
「ああ、男たちに客をたくさん相手したって話をどうやってするんだ、本当に。

恨み

父さんがあんなことを言わなかったら、私がどうしてそこに。

「中国から出てきて、親戚の叔父の家に訪ねて行ったんだよ。
「訪ねて行ったら、少しは驚いて喜んでくれてね。『いや、死んだって聞いてたから、今まで死んだものとばかり思ってたら、どこにいたんだい。』
「あの話は知ってるよ。(小さな声で)あそこに行ったのは知ってる。
「あれまあ、ここで父さんが許可を出したって言うんだよ。
「許可を出したら、その許可のせいで隠したりできないって。父さんがまた、親戚たちにも話したんだって。だから、叔父も慰安婦に入ってたことを知ってたんだ。
「叔父が、両親は、あっちの務安、黒山[註 010]で暮らしてるって。だから、そこまで訪ねて行ったさ。そこまで訪ねて行ったら、他人の家で小さな部屋を借りて暮らしてた。
「『その歳まで家もなく、一軒の家すら持てないで、こうして間借りして暮らしてるの。』
「『お前、もう死んだって聞いたけど、本当に生きて帰ってきたのか、死んで魂が帰ってきたのか。』
「『私が何だって、死んだ魂がここに来るっていうのよ。生きてるから、ここに訪ねてきたのよ。父さんだから、娘だから訪ねてきたのよ、他人だったら訪ねて来るわけないでしょ。中国からここまで。中国からとっくに帰ってきてたんだよ、とっくに出てきたの』
「『父親のことをどれだけ恨んだかわかる。』
「父がそうしなかったら、私がどうしてあんなとこに。(しばし沈黙)一番客をたくさん相手にした時が、一番父が恨めしかった。私は、もう亡くなったんだと思ってた。私をあんなにつらい目にあわせたんだから、父さんは福運もなにもなくなって、その時まで生きてるはずがないって思ってたら、死なないで元気でいた。(声が大きくなって)『私に、死んだと思ってたって言うけど、父さんこそもう死んでいると思ってたら、今までこうして死なずに生きてたの。私、ものすごく苦労してきたのよ。』」

 
[註 002]
コン・ジョムヨプによると、お金の代わりに使われていた票紙を、当時はメンジョウとも呼んだという。
[註 003]
慰安所で女性たちを管理する仕事をする人を指す。帳場。
[註 004]
梅毒菌が股間に出る場合があるが、それを当時の日本軍「慰安婦」の女性たちは ヨコネと呼んだ。実際、現代の梅毒に関する医学書籍にも横根という病名が記録されている。コン・ジョムヨプはこのヨコネの手術を2回受けたものと思われ、両側の股間に鮮明な手術痕が見うけられた。
[註 005]
手術するためにナイフで切った部分。
[註 006]
朝鮮と満州の間の国境を越えてきたという意味。
[註 007]
全羅南道海南郡馬山面。
[註 008]
その男がコン・ジョムヨプにお金があるという事実を知って、町内の人々にコン・ジョムヨプと一緒に暮らせるよう、うまく話してほしいとお願いして回ったという意味。
[註 009]
政府に日本軍「慰安婦」だったことを届け出ると、確認のためにあちこちから調査に来たという意味。
[註 010]
全羅南道務安郡黒山面。現在は新安郡。
[註 002]
コン・ジョムヨプによると、お金の代わりに使われていた票紙を、当時はメンジョウとも呼んだという。
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[註 003]
慰安所で女性たちを管理する仕事をする人を指す。帳場。
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[註 004]
梅毒菌が股間に出る場合があるが、それを当時の日本軍「慰安婦」の女性たちは ヨコネと呼んだ。実際、現代の梅毒に関する医学書籍にも横根という病名が記録されている。コン・ジョムヨプはこのヨコネの手術を2回受けたものと思われ、両側の股間に鮮明な手術痕が見うけられた。
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[註 005]
手術するためにナイフで切った部分。
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[註 006]
朝鮮と満州の間の国境を越えてきたという意味。
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[註 007]
全羅南道海南郡馬山面。
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[註 008]
その男がコン・ジョムヨプにお金があるという事実を知って、町内の人々にコン・ジョムヨプと一緒に暮らせるよう、うまく話してほしいとお願いして回ったという意味。
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[註 009]
政府に日本軍「慰安婦」だったことを届け出ると、確認のためにあちこちから調査に来たという意味。
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[註 010]
全羅南道務安郡黒山面。現在は新安郡。
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