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  • 独島(竹島)の真実

韓半島に対する侵略戦争であった日露戦争

· 1903年6月23日、韓国に対する日本の優先権と、満洲に対するロシアの優先権をそれぞれ認め合おうという‘満韓交換論’による対ロシア交渉をする事を決定
· 1903年7月23日、朝鮮に対する優位と清国に対する機会均等を認めよとロシアに要求したが、拒絶されるや1904年2月6日に対ロシア最後通牒を突きつける
· 1904年2月10日の宣戦布告に先立つ8日に、旅順港を奇襲攻撃、戦艦2集と巡洋戦1集を撃破し、9日に仁川港に停泊中のロシア艦隊を撃沈した後、陸軍1個旅団(追って1個師団増派)を仁川に不法上陸させ、韓国を段階的に戦争基地に変えていった。
- 強圧的に韓日議定書を締結した後、軍令の公布、駐兵、用兵権を確保し、軍制の実施、土地を軍用地として収容。徴発と労役等を行い、韓半島を兵站(へいたん)(補給·後方支援)基地として利用
(強圧的韓日議定書締結)朝鮮の高官に対する懐柔·脅迫などの根回し工作をした後、井上光中将の12師団の主力部隊がソウルに進入、王宮の周囲を包囲し、韓国を兵站基地化するための韓日議定書の調印(2.23)
(軍令公布及び脅迫)井上が‘捕虜、間諜に関する軍令’を公布(2.28)し、日本軍隊に重大なる損害をもたらしたものは無条件死刑等の法令を定め、一方伊藤博文は宮内部大臣閔丙奭に‘日本の指示に従わなければ、軍事力でもって制圧する’と脅迫した(3.17)
(駐兵·用兵権の確保)日露戦争のための軍隊の駐屯と兵舎の利用を、韓半島のいかなる地においても可能にさせる措置をとった後、全土に日本軍を配置した。
※1905年10月当時、2個師団を動員し、咸興(ハンフン)と平壌(ピョンヤン)に司令部を置き、師団兵力を咸鏡道(ハンギョンド)の東部、黃海道(ファンヘド)の平安道(ピョンアンド)北部、ソウル·京畿道(キョンギド)の南部に配置
(軍制の実施)戦争準備のために咸興等で一方的に軍制を実施
(土地·軍用地の収用)龍山(ヨンサン)·平壌(ピョンアン)·義州(ウィジュ)等で軍用地として975万坪を強制収用の要求
(縦と労役)戦争準備のための物資輸送等に10万名以上が動員され、49名の死傷者が出た(1905.6〜10月の間)

日露戦争と独島の一方的編入

· 1904年5月18日、韓露条約を強制的に全て破棄させ、ロシアの豆満江·鴨緑江地域の山林伐採権を破棄させ、鬱陵島の一部を軍用地として収用
· 1904年6月15日、ロシアのウラジオストック艦隊が大韓海峡に現れ、日本の陸軍運送船である常陸丸と和泉丸が撃沈された
· 1904年6月27日から7月22日まで蔚津郡竹辺等の戦略的拠点に無線電信說備を整えた望楼の設置
※南海(ナメ)の紅島(ホンド)、釜山の絶影島(チョリョンド)(1904.8)、鬱陵島(1904.9)等、全国の海岸の20ヶ所に望楼を設置した
· 1904年8月22日、第一次韓日議定書を締結した。日本が任命した外国人顧問が韓国の外交と財政を監督する顧問政治’を実施
- 外交顧問と財政顧問にスチーブンソン(アメリカ人)、目賀田種太郎を任命した。監督権を行使できたので、韓国の外交権と財政権は事実上剥奪された。
· 1904年9月24日、軍艦新高丸が鬱陵島の住民から独島に関する情報を得て、実地探査をした後、独島に監視所設置が可能と日本政府に幸報告した
※新高丸の航海日誌には韓人はリアンクルド島を「独島」と書き、日本の漁民達は短く「リャンコ」と呼んだと記され、文献上における一番最初の「独島」表記である
· 1904年9月29日、日本人漁夫中井養三郎が日本政府に独島島編入及び貸下請願書を提出した
· 1904年11月20日、軍艦対馬の言1麗長山中柴吉(しばきち)と軍医長の今井外美太郎が独島に上陸し、3時間に亙って調査した
※副艦長は望楼設置可能場所を調べ、軍医長は真水の有無とそれが飲料水に適するかどうかを調査した後、望楼設置の可能な場所が3ヶ所と西島に淡水が有り、と報告
· 1905年1月10日、内務大臣の芳川顕正と桂太郎首相に‘無人島所属に関する件’という秘密公文書を送り、独島編入のための閣議開催を要求
· 1905年1月28日、閣議で中井の‘独島編入及び貸下請願’を承認する事によって、独島の編入が決定された
· 1905年2月22日、島根県に閣議の決定が伝えられ、‘島根県告示第40号’として独島編入を伝えた
※大韓帝国は1900年10月25日付勅令第41号を通じて、鬱陵郡は鬱陵島以外の竹島と独島(石島)を管轄すると決定した

独島の強制編入以後の軍事的活用実態

· 1905年6月12日、海軍省は軍艦橋立に秘密裏に独島での監視所設置に関する調査を指令
· 1905年6月13日、軍艦橋立は独島を実地調査し、独島の頂上に監視所の設置が可能だと報告した
· 1905年6月24日、日本海軍省は鬱陵島の北部に無線電信と監視所を、独島には望楼を追加設置する事を指令した
· 1905年7月14日、鬱陵島で北望楼置工事を始める
· 1905年7月25日、独島で望楼設置工事を始める
· 1905年10月19日、鬱陵島の監視所を撤去/10月24日に独島の監視所を撤去
※1905年9月5日、ポーツマス条約の締結と、10月15日の日露戦争終結により、鬱陵島と独島の望楼が必要ないと判断したのである
· 1905年11月9日、独島と日本の松江の間に海底電線を敷設
※韓国の東海岸(竹辺(チュクピョン))〜鬱陵島〜独島〜松江間の海底電線の敷設が完成

 
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