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独島(2) 日本の明治政府も‘独島は朝鮮の領土’と認める

1905年独島を侵奪した明治政府[註 005]さえ、最初は独島を朝鮮の領土として認識していた。
明治政府は徳川幕府を倒した直後、海外進出を通じて日本国内の問題を克服しようとした。1869年日本の外務省は国家最高機関である太政官の指示で、密かに外務省官吏の佐田白茅(さだはくぼう)等を釜山に派遣した。
彼らの任務は、朝鮮の門戸開放及び進出への可能性を探る事であったが、その中でも特に鬱陵島と独島が朝鮮の領土になった経緯を調查する事だった。
鬱陵島と独島が朝鮮の領土である事を明らかにした朝鮮国交際始末内探書(1870)
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1870年、朝鮮を内密に探り帰国した佐田白茅一行は、‘朝鮮国交際始末内探書’という題目の調査結果を提出した。征韓も主張した佐田白茅だったが、‘独島は鬱陵島に属す島であり、独島に関して記録された書類はない’と報告した。結局彼らの報告書は、鬱陵島と独島が朝鮮の領土であると認めた当時の外務省と太政官の認識を再確認した事になる。
日本内務省の稟議書と鬱陵島·独島は日本とは関係なしと決定した太政官の指令文(1877)
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1877年明治政府は、鬱陵島と独島が朝鮮の領土である事をより明確に認める事になる。明治維新という激動する社会変革の中で、明治政府は地籍の編纂作業に取り掛かる。
これと関連して日本の内務省は1876年10月16日、公文書を通じて‘鬱陵島と独島を島根県に含めるべきかどうか’についての質疑を島根県から求められた。内務省はおよそ5ヶ月かけて細かく検討した結果、この件は1696年にすでに決着がついており、鬱陵島と独島は‘日本とは関係なじという結論を下す。
安龍福が渡日した時、持參した地図に、鬱陵島と独島が朝鮮の江原道に表示されている事実を記録した村川家の文書(1696)
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ここでの1696年は、安龍福(アンヨンボク)事件とかかわる徳川幕府の領土確認の件を意味している。1693年安龍福など朝鮮の漁師達が、鬱陵島で不法漁労していた日本の漁師達と衝突して以来、韓日の間で鬱陵島にかかわる領有権論争が巻き起こった。1696年1月に、対馬島の新しい藩主が、徳川幕府の将軍に挨拶を兼ねて上京した際、鬱陵島が朝鮮の領土である事を確認し、日本の漁師達が鬱陵島へ渡って漁をしないよう命令した。このような徳川幕府の決定こそが、鬱陵島に下心があった対馬藩と朝鮮の間で、1693年から引きずってきた鬱陵島領有権論争に決着をつけたことになる。その当時の時点で、独島は鬱陵島に附属する島であるとの認識があった。
一方明治政府の内務省は‘版図の取捨は重大な案件’とみなし、1877年3月17日太政官の決定を仰いだ。
同年3月30日、太政官は‘審議書において鬱陵島以外の一島の件について、日本は関係がない事を心得るべし’という指令書を作成し、3月29日正式に内務省に送った。内務省はこの指令文を4月9日再び島根県に伝え、鬱陵島と独島を島根県へ含めないよう指示した。
独島を朝鮮に属する島と表示している日本海軍省の朝鮮東海岸図(1876)と朝鮮水路誌(1899)
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明治政府のこのような独島に対する認識は、日本の海軍省を通しても再び確認された。日本海軍省の水路局が1876年、1877年に刊行した‘朝鮮東海岸図’、1899年に刊行した‘朝鮮水路誌’などを見ると、独島を全て朝鮮の属島として記している。
もし日本が独島を自分達の領土であると認識していたのであれば、当然日本西·北海岸図や日本水路誌に含めて記したはずである。当時日本海軍省は1876年に、ある日本人が‘鬱陵島の開拓請願書’である‘松島(今の鬱陵島)開拓之議[註 006]’を外務省へ提出した事から、実際に鬱陵島の周辺を測量した事があるので、なおさらよく知っていたはずだ。
当時、明治政府だけではなく日本国民もみな、独島が韓国の領土であることを明確に認識していた。
独島が鬱陵島に属し、江原道所属として明記した韓海通漁指針(1903)
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1903年1月に日本の極右団体である黒龍会が発行した『韓海通漁指針』には、“晴れた日には鬱陵島の高いところから見える”という説明とともに、独島が大韓帝国の江原道に属する島として記されている。
1904年、独島侵奪のきっかけを作った中井養三郎でさえ、他の漁師達と同じように‘独島は鬱陵島に属した韓国の領土’として認識していた事は、彼が自ら書き上げた独島経営概要的(1906年)にもよく表れている。このように独島は日本が強制的に要入するまで、韓国の固有の領土として他国と争った事もなければ、我々自ら放棄したこともない。
鬱陵島と独島の両島が子山国の領土と記録した萬機要覧の軍政編(1808)
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1808年、萬機要覧の軍制編に記録されているように、はるか昔から鬱陵島と独島は全て于山国の領土であり、一身同体の島として存在してきた。
日本はまた、1905年の独島侵奪以前にも、鬱陵島を侵奪しようとしたりした。17世紀に朝鮮の状況が壬辰倭乱(文禄慶長の役)、丙子胡乱(清軍の侵略)などにより疲弊した隙に乗じて、日本人は鬱陵島に許可なしに立ち入り、日本の領土にしようとした。しかし、当時安龍福の積極的な活動と朝鮮政府の断固たる対応によって、日本の鬱陵島侵奪の企みは失敗に終わった。
独島を鬱陵島郡守の管轄下とした大韓帝国の勅令第41号(1900)
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その後、静まっていたが1876年江華島条約を契機に日本人の不法侵入が増え、鬱陵島はまたもや争いの火種となったのである。日本の鬱陵島侵入が露骨化すると、朝鮮政府は1882年鬱陵島開拓令[註 007]を出し、住民を移住させる政策を積極的に実施した。そして1900年10月勅令第41号を公布し、独島を含めた鬱陵島全域を鬱陵郡守の管轄に置く、などの近代的行政区域として整えていく事を命じた。
一方、1905年1月28日独島の編入を一方的に決定した日本政府は、ある一定期間その事実を公開しなかった。しかし1年余り経った1906年3月28日に島根県の官吏が鬱陵島を訪問したことによって、明らかとなった。
鬱陵島を訪れ、独島編入を知らせた島根県の日本人官吏達(1906)
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独島を経て、鬱陵島を訪れた島根県官吏の神田由太郎などの日本人が、鬱陵郡守沈興澤(シムフンテク)に対して、独島が日本に編入された事を知らせたのである。
独島が日本の領土になったという知らせに驚いた沈興澤は、その翌日すぐこの事実を江原道観察使の李明來(イミョンネ)に報告した。李明來もこの報告が緊急にして重大である事を認識して、即刻議政府賛政(総理)大臣の朴斉純(パクチェスン)に報告した。
日本の独島編入に関する鬱陵島郡守の報告内容を伝える江原観察使の李明来の報告書(1906)
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議政府賛政大臣の朴斉純(パクチェスン)は、1906年5月20日付の指令第3号を通じ‘独島が日本の領土になったという事は全くの事実無根であり、今の状況と日本人がどのような行動をとっているのかを、もう一度調査して報告すること’、と指示した。当時の政府が、独島を我々の領土として絶対的に確信していた事がよくわかる。
しかし報告書を出した沈興澤郡守は、その後鬱陵郡守の座から退いた。彼がそのまま鬱陵島郡守の任務を果たしたとしても、韓日通信機関委託協定(1905.4)で日本が朝鮮の郵便·電信·電話等を全て統制していた状況であったので、この指示が徹底して下達されたかどうかは定かではない。
乙巳勒約の締結を祝賀し、記念撮影をする伊藤博文、及び政府関係者(1905)
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乙巳勒約[註 008]締結(1905·11)以降、韓国は外交部が廃止され(1906·1)同年2月、日本の統監部が統制し、行政全般がその支配を受けていた。このような状況の中で、韓国政府が独島編入に対して抗議したところで、悲しき事ではあるが受け入れられるはずもなかった。
それにもかかわらず、日本は当時の大韓帝国政府が日本の独島編入に対して、何らの抗議もなかったという理由で、独島の編入を正当化しようとしている。

 
[註 005]
明治天皇の時に幕府を倒した後、王政復古を成し遂げ維新革命の真っ只中にあった明治政府は、富国強兵をスロ一ガンに、欧米列強をモデルとした資本主義の発展と軍事力強化に努めた。又、世界においては帝国主義国家として欧米列強には従属的態度をとりながら、アジア諸国には強権的·侵略的政策を取り続けた。
[註 006]
1876年、武藤平学という日本人がロシアのウラジオストックを往来している途中に、自然資源が豊富な新しい島(松島:今の鬱陵島)を発見した、として提出した請願書。これに対し日本海軍省が軍艦を派遣し、1880年9月に実測調査をした結果、松島が他でもなく鬱陵島であることがわかった。
[註 007]
日本人が鬱陵島に不法に侵入する事件が頻繁に起こるや、朝鮮政府が鬱陵島を詳しく調査した後、鬱陵島への移住をすすめる鬱陵島開拓令を公布した。政府は鬱陵島に移住する同胞には5年間の税金を免除し、嶺南·湖南の運搬船を鬱陵島にて造るよう、行政的に許可する事など、鬱陵島開拓を積極的に推し進めた。
[註 008]
日本が韓国の外交権を剥奪するなど、植民地化するため韓国政府を威嚇して締結した条約。乙巳条約が締結された後、日本は統監部を新たに置き、韓国の施政全般を監督し、いかなる政策においても日本の要求が貫徹される権利と兵力動員権等を持つに至った。
[註 005] 明治政府
明治天皇の時に幕府を倒した後、王政復古を成し遂げ維新革命の真っ只中にあった明治政府は、富国強兵をスロ一ガンに、欧米列強をモデルとした資本主義の発展と軍事力強化に努めた。又、世界においては帝国主義国家として欧米列強には従属的態度をとりながら、アジア諸国には強権的·侵略的政策を取り続けた。
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[註 006] 松島開拓之議
1876年、武藤平学という日本人がロシアのウラジオストックを往来している途中に、自然資源が豊富な新しい島(松島:今の鬱陵島)を発見した、として提出した請願書。これに対し日本海軍省が軍艦を派遣し、1880年9月に実測調査をした結果、松島が他でもなく鬱陵島であることがわかった。
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[註 007] 鬱陵島開拓令
日本人が鬱陵島に不法に侵入する事件が頻繁に起こるや、朝鮮政府が鬱陵島を詳しく調査した後、鬱陵島への移住をすすめる鬱陵島開拓令を公布した。政府は鬱陵島に移住する同胞には5年間の税金を免除し、嶺南·湖南の運搬船を鬱陵島にて造るよう、行政的に許可する事など、鬱陵島開拓を積極的に推し進めた。
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[註 008] 乙巳勒約
日本が韓国の外交権を剥奪するなど、植民地化するため韓国政府を威嚇して締結した条約。乙巳条約が締結された後、日本は統監部を新たに置き、韓国の施政全般を監督し、いかなる政策においても日本の要求が貫徹される権利と兵力動員権等を持つに至った。
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