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1. 発見の国際法的意味

1928年パルマス(Palmas)島事件でマックス·フーバー(Max Huber)仲裁裁判官は、国際法上の発見(discovery)を次のように定義した。発見とは「占有取得に関するいかなる行為も、象徴的な行為もせずに、陸地を見たという純然たる事実(the mere fact of seeing land, without any act, even symbolical, of taking possession)」だとした。[註 060]発見をこのように定義すると、果たして単純に見るということだけで領土を取得したといえるだろうか?
発見が領土獲得の方法として議論された時期があった。15世紀と16世紀の大航海時代である。この時期は、占領されていない土地、すなわち無主地が多かったので可能であった議論ではないかと思う。15世紀、16世紀にビトリア(Vitoria)、フライタス(Freitas)、スアレス(Suarez)などの学者たちが発見を領土取得の一つの方法として提示した。しかし、フーゴ・グロチウス(Hugo Grotius)やプフェンドルフ(Pufendorf)などの学者たちはこれに同意しなかった。[註 061]実際に20世紀初めの国際裁判で発見を領土取得の一つの方法としてみるのかという問題が議論されたが、それが1928年の米国とオランダ間のパルマス島事件である。
この事件で米国は発見による領土の取得を主張した。スペインが16世紀にパルマス島を発見したことで、島の領土主権を取得し、米国がスペインの承継国として島を譲渡されたというのである。また、領土取得に関しては、領土を取得した当時の法(これを時制法という)によって判断する必要があるが、16世紀当時は発見が領土取得の一つの方法として有効であった。[註 062]これに対し、オランダはスペインがその島を発見したということは証明されておらず、他の形態の領土取得も証明されていないため、仮にスペインがある時点で権原を持っていたとしても、その権原は喪失していると主張した。これに関連して、マックス·フーバー仲裁裁判官は、発見が果たして領土取得の根拠として有効かという問題について検討した。
マックス·フーバー仲裁裁判官は、後続の行為なしに発見だけで主権の存在を認めることは難しいとしながらも、単なる発見も不完全な権原(inchoate title)になるとした。[註 063]権原(title)とは、領土主権を有効に設定して行使するための原因または根拠となる事実をいうが、発見が不完全な権原というのは、単なる発見だけでは領土を完全に取得したとはいえないことを指す。発見してから合理的な期間内に実効的占有のような他の行為があって初めて領土主権に対する完全な権原を取得することになる。[註 064]結局、マックス·フーバー仲裁裁判官は、発見が領土に対する継続的かつ平和的な国家機能の行使については優先することはできないとしながら、発見をしたとしても後に他の国家の実効的占有があれば、不完全な権原という地位を失う可能性があるとした。[註 065]これに関連して、ホール(Hall)という学者は16世紀には発見が不完全な権原ではなく、完全な権原であったと主張したが、ケルゼン(Kelsen)やウォルドック(Waldock)などの学者たちは、マックス·フーバー仲裁裁判官のように単純な発見だけでは完全な権原を取得することができないとした。[註 066]しかし、彼らもマックス·フーバー仲裁裁判官が発見を不完全な権原としたように、発見を全く無意味な行為とはみていなかった。領有権関連裁判では時際法(intertemporal law)が考慮されるが、先に述べたように、有効に領土を取得したかどうかは領土を取得した当時の法律に基づいて判断をする必要がある。16世紀には発見が領土主権の権原として議論されるほど重要な意味を持っていた。したがって、発見はその後に続く占有行為によって完全な権原に発展する一連の領土取得過程において一つの出発点という意味を持っているといえる。[註 067]
2. 独島の最初の発見

独島は誰がいつ最初に発見したのか?独島が生成されたのは460万年前から250万年前の間とされている。古い生成時期に比して、人が常住し始めたのはごく最近のことである。それ以前には一時的にまたは季節的に独島を利用しており、人が常住したのは1950年代初めである。したがって、独島の最初の発見者は独島に長い間継続的に人が住んでいなかったため、歴史、地理的状況を考慮して判断しなければならない。
〈図 2〉民家の屋根越しに見える独島(道東カクキドゥン、2009.3.4)
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独島について記述している現存する最古の文献は、1451年 『高麗史』「地理志」と1454年『世宗実録』「地理志」である。しかし、1454年に出版された『世宗実録』「地理志」の内容は、1432年 『新撰八道地理志』を移したものである。『高麗史』「地理志」と『世宗実録』「地理志」江原道蔚珍県条には 「二島は互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができる(二島相去不遠 風日清明 則可望見)」と記録されている。二つの本が刊行された15世紀は、朝鮮政府が鬱陵島の住民を本土に移住させる刷還政策を行っていた時期であった。この時期にも鬱陵島から独島が見えるという事実を記録していたのは、すでにそれ以前から鬱陵島から独島が見えるという事実を認知していたということである。したがって、独島が発見されたのは、鬱陵島に人が居住し始めた頃からであり、その時期は三国史記の于山国関連記録をみると512年、それ以前からといえる。
それ以後、韓国が独島を発見した記録は朝鮮粛宗時代以後、搜討政策が実施されるとともに、より明確になっている。一例として、鬱陵島搜討官である張漢相が 「鬱陵島東南に島がかすかに見える」と彼の著書『鬱陵島事蹟』に記録し、彼が独島を見たことを記録している。[註 068]また、2005年に日本の隠岐島で安龍福に関する調査報告書である「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が発見されたが、その文書は安龍福が独島を明確に認知していたことを示している。この調査報告書は、1696年5月に安龍福が二度目に日本に渡った時に日本人が作成した文献である。この報告書には、安龍福が独島を子山島と呼び、子山島つまり独島の地理的な位置が概ね詳細に表示されている。[註 069]
安龍福が言うには、竹島[鬱陵島]を竹ノ島というが、朝鮮国江原道東莱府の中に鬱陵島という島があり、これを竹ノ島というからだと言っています。それで八道ノ図に記しこれを所持しています。
松島[独島]は右の江原道のうち子山という島であり、これを松島[独島]と言っています。これも八道ノ図に記しています。 (中略)
竹島[鬱陵島]と朝鮮の間は30里で、竹島[鬱陵島]と松島[独島]の間は、50里だと言っています。
 
過去に独島の名前が于山、子山などと呼ばれていたが、独島を昔の于山国の領土と認知していた。したがって、韓国が20世紀初めに独島を認知するようになったという日本の主張は説得力がない。
では、日本はいつ独島を発見したのか?川上は、これについて次のように説明している。[註 070]
日本は11世紀初頭からうるまの島として鬱陵島の存在を知っていた。高麗末期から朝鮮時代初期まで竹島または磯竹島として知られていた鬱陵島に渡った人がいたということは朝鮮側の史料にもある。(中略)当時、松島という名前で知られていた今の竹島(独島)はこの鬱陵島への渡航の要所にあったので、行き来する途中で島に寄港してアワビやアシカを獲った。
 
川上の主張は、日本人が11世紀初めから鬱陵島の存在を知っており、鬱陵島と行き来する途中で独島を認知したというものである。11世紀初めに鬱陵島を発見したという一つの主張と17世紀半ばに日本の漁師たちが鬱陵島へ漁をしに行く途中に独島が中間停泊地として使用されたというもう一つの主張があいまいに混在している。しかし、文の全体内容を見て、日本側が独島を初めて認知したのは11世紀初めだと主張している。しかし、11世紀初めの日本側の文書に独島を指す地名を見つけることはできない。また、隠岐の島から独島を見るためには、少なくとも107km以上、船に乗って進む必要があるので、隠岐の島現地からは独島が見えない。[註 071]
〈図 3〉隠岐の島から見た独島側の夕日
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1592年九鬼嘉隆などが制作した 「朝鮮国地理図」に含まれている「八道総図」と 「江原道別図」に鬱陵島と独島が鬱陵島と于山島と表記されている。[註 072]これは『新増東国與地勝覧』の「東覧図」など朝鮮の地図を模して描いた形態で、于山島と鬱陵島の位置が変わっており、鬱陵島と独島がほぼ同じ大きさで描かれている。日本の地図と文献のうち、独島が初めて登場するものとみられる。
日本政府が日本側の文献の中で独島が最初に記録したのは、1667年に編纂された 『隠州視聴合紀』である。[註 073]この本に独島と関連した内容があるが、以下のとおりである。[註 074]
北西方向に2日1夜を行くと松島(独島)がある。そこからまた1日程度で竹島(鬱陵島)がある[戊亥間行二日一夜有松嶋又一日程有竹嶋]。
 
しかし、名古屋大学の池内敏教授は、これに先立つ記録を提示している。日本の文献上初めて独島を意味する松島という単語が登場する史料は、1650年代初めと推定されている石井宗悦の文献とした。内容は次のとおりである。[註 075]
松島[独島]に七、八十石の大きさの小さな船を送って鉄砲でオットセイを撃つと、小さな島であるため(隠れる場所がないため)竹島[鬱陵島]にオットセイが逃げ、竹島[鬱陵島]で多く獲れるので、そのようにしたいと市兵衛が言った。
 
一方、記録上、独島を最初に発見した西洋船は米国の捕鯨船チェロキー(Cherokee)号である。チェロキー号は1848年4月17日、独島を発見し、その事実を航海日誌に記録した。[註 076]次に1849年1月27日、フランスの捕鯨船リアンクール(Liancourt)号が独島を発見し、その船の名前にちなんでリアンクール岩(Liancourt Rocks)と命名した。
要するに、鬱陵島から独島が見えるという地理的な位置や文献を考慮すると、独島を最初に発見したのは韓国人で、その中でも6世紀以前の于山国時代鬱陵島の住民だろう。

3.独島の発見と領土権原

〈図 4〉家の庭の柿の木を背景に見た独島(沙洞セガクダンのパク·ヨンス家から、2008. 11. 22)
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前述したように、発見それ自体は不完全な権原であり、韓国側が独島を先に発見したこと、それ自体は独島領有権の完全な権原を取得したとは考えにくい。[註 077]しかし、最初の発見以来、鬱陵島住民たちが可視距離内で継続的に認知していた点と、それが 『世宗実録』「地理志」など官文書に継続的に記録されていた点に注目する必要がある。これは鬱陵島住民が6世紀以前に鬱陵島の可視距離内にある独島を最初に発見したことで、それ自体がたとえ不完全な権原を形成するとしても、鬱陵島の住民たちが独島を常時見ながら生活したことと、鬱陵島と独島の地理的距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができることを官文書に記録したのは、韓国側が独島を韓国の領土として認識し、それに対する領有意思を重ねて確認して示したものとみるべきである。
一方、日本の場合、1905年島根県のいわゆる独島領土編入措置以前は、どの時期に韓国の独島発見と、その後の官撰文書記録などの歴史的事実を覆すほど相対的に強い競争行為をしたのかということである。しかし、そうではない。日本の場合、1905年以前は鬱陵島と独島は日本とは関係がないとした1877年の太政官指令が示すとおり、むしろ独島に対する領有意思を断念する措置を取った。[註 078]

 
[註 060]
The Island of Palmas Case (or Miangas)(United States of America v.The Netherlands), PCA Award of the Tribunal(1928), p.14(www.pca-cpa.org).
[註 061]
Surya P. Sharma(1997), Territorial Acquisition, Disputes and International Law, Hague:Martinus Nijhoff Publishers, p.40.
[註 062]
The Island of Palmas Case(1928), p.7.
[註 063]
The Island of Palmas Case(1928), pp.14〜15
[註 064]
he Island of Palmas Case(1928), p.15 ; Peter Malanczuk(1997), Akehurst’s Modern Introduction to International Law, 7th ed., London :Routledge, p.149; Encyclopedia of Public International Law, Vol.4(2000), Amsterdam:North-Holland, 「Territory, Discovery」, p.840.
[註 065]
The Island of Palmas Case(1928), p.15.
[註 066]
これについては、S. P.Sharma(1997), pp.44~45 参照。
[註 067]
S. P.Sharma(1997), p.46.
[註 068]
詳細については、ユ·ミリム(2008)、 「「于山島=独島」説を証明するための論考 」、『韓国政治外交史論叢 』29-2、73〜102頁参照。
[註 069]
以下の安龍福調査報告書の内容の翻訳はキム·ジョンウォン(2005)、 「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」、『独島研究 』創刊号、292〜294頁を引用、参照し、同本(『独島研究 』、 233〜310頁)には、安龍福調査報告書の影印本、活字本、国訳本及び解説が一緒に載っている。
[註 070]
川上健三(1966)、前掲書、277頁。
[註 071]
チョン・テマン(2008)、前掲文、180頁;川上健三、前掲書、208頁。
[註 072]
独島博物館(2005)、 『美しい島、独島そして鬱陵島』、68頁。
[註 073]
外務部(1977)、 「日本政府見解(2)」 、『独島関係資料集(I) : 往復外交文書(1952~1976)、執務資料77〜134(北一)』、53頁。1954年2月10日付日本側口述書参参照。
[註 074]
『隠州視聴合紀』の内容は、洪聖根(2009)、「日本の独島領土排除措置の性格と意味 」、『独島と韓日関係:法的・歴史的アプローチ 』、東北亜歴史財団、95〜99頁参照。
[註 075]
池内敏(2001)(2001), 「17~19世紀 鬱陵島海域の生業と交流」, 『歴史学研究』756、26頁。
[註 076]
イ·スンジン(2000)、「日本の水路と米国捕鯨船の航海日誌検討」、『鬱陵文化』第5号、39〜56頁参照。独島博物館(2007)、『美しい島、独島そして鬱陵島』、82〜87頁に西洋人の独島発見について詳細に記録している。
[註 077]
これは鬱陵島から独島が見えることと国際法上の発見の関係のみを対象に論じるもので、独島に対する韓国の地位が長い間不完全な権原として残っていたことを意味するものではない。
[註 078]
洪聖根(2009)、前掲文、93〜126頁参照。
[註 060]
The Island of Palmas Case (or Miangas)(United States of America v.The Netherlands), PCA Award of the Tribunal(1928), p.14(www.pca-cpa.org).
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[註 061]
Surya P. Sharma(1997), Territorial Acquisition, Disputes and International Law, Hague:Martinus Nijhoff Publishers, p.40.
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[註 062]
The Island of Palmas Case(1928), p.7.
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[註 063]
The Island of Palmas Case(1928), pp.14〜15
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[註 064]
he Island of Palmas Case(1928), p.15 ; Peter Malanczuk(1997), Akehurst’s Modern Introduction to International Law, 7th ed., London :Routledge, p.149; Encyclopedia of Public International Law, Vol.4(2000), Amsterdam:North-Holland, 「Territory, Discovery」, p.840.
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[註 065]
The Island of Palmas Case(1928), p.15.
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[註 066]
これについては、S. P.Sharma(1997), pp.44~45 参照。
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[註 067]
S. P.Sharma(1997), p.46.
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[註 068]
詳細については、ユ·ミリム(2008)、 「「于山島=独島」説を証明するための論考 」、『韓国政治外交史論叢 』29-2、73〜102頁参照。
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[註 069]
以下の安龍福調査報告書の内容の翻訳はキム·ジョンウォン(2005)、 「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」、『独島研究 』創刊号、292〜294頁を引用、参照し、同本(『独島研究 』、 233〜310頁)には、安龍福調査報告書の影印本、活字本、国訳本及び解説が一緒に載っている。
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[註 070]
川上健三(1966)、前掲書、277頁。
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[註 071]
チョン・テマン(2008)、前掲文、180頁;川上健三、前掲書、208頁。
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[註 072]
独島博物館(2005)、 『美しい島、独島そして鬱陵島』、68頁。
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[註 073]
外務部(1977)、 「日本政府見解(2)」 、『独島関係資料集(I) : 往復外交文書(1952~1976)、執務資料77〜134(北一)』、53頁。1954年2月10日付日本側口述書参参照。
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[註 074]
『隠州視聴合紀』の内容は、洪聖根(2009)、「日本の独島領土排除措置の性格と意味 」、『独島と韓日関係:法的・歴史的アプローチ 』、東北亜歴史財団、95〜99頁参照。
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[註 075]
池内敏(2001)(2001), 「17~19世紀 鬱陵島海域の生業と交流」, 『歴史学研究』756、26頁。
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[註 076]
イ·スンジン(2000)、「日本の水路と米国捕鯨船の航海日誌検討」、『鬱陵文化』第5号、39〜56頁参照。独島博物館(2007)、『美しい島、独島そして鬱陵島』、82〜87頁に西洋人の独島発見について詳細に記録している。
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[註 077]
これは鬱陵島から独島が見えることと国際法上の発見の関係のみを対象に論じるもので、独島に対する韓国の地位が長い間不完全な権原として残っていたことを意味するものではない。
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[註 078]
洪聖根(2009)、前掲文、93〜126頁参照。
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