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「鬱陵島から独島が見える」ことは歴史的事実である。鬱陵島と独島の自然環境に大きな変化が起こらない限り、今後も続けて鬱陵島からは独島が見える。鬱陵島から独島が見えるという事実の証拠として『世宗実録』「地理志」(1454)、『鬱陵島事蹟』(1694) など、いくつかの文献とホン・ジェヒョン、ホン・スンチルなど鬱陵島住民たちの証言、[註 042]また、東北亜歴史財団などが撮影した写真[註 043]や動画、さらには数学公式も提示された。
しかし、日本では一頃 「鬱陵島から独島が見えない」とした。その理由は何だろうか?鬱陵島から独島を見た経験がないからだろうか?あるいは鬱陵島から独島が見えるという事実を認めたくないからだろうか?では、鬱陵島から独島が見えることと見えないことには、どのような違いがあるのだろうか?
1966年、日本外務省条約局の川上健三は彼の著書『独島の歴史地理学的研究』で鬱陵島からは独島を見ることができないと主張した。[註 044]もちろん、彼はそれなりに科学的な方法と鬱陵島の自然地理的な状況を踏まえて主張した。川上が本を書いて数年過ぎてから、ソウル大学校のイ・ハンギ教授は、彼の著書 『韓国の領土』(1969)で川上の主張に対して説得力のある批判を行った。川上は海岸の船の上にいる人が独島を観測することを想定して、独島を観測する人の目の高さを4mとして計算式を立てた。イ・ハンギ教授はその点を批判するとともに、約120mの山に登ると観測の高さを仮定すると、独島が見える計算式が示せるとした。[註 045]イ・ハンギ教授以後、数学的に鬱陵島から独島が見えることを証明した資料としては、2008年に嶺南大学校文化人類学科パク・ソンヨン教授が書いた 『独島・鬱陵島の人々の生活空間と社会組織の研究』、そして2008年12月にソウル龍山税務署長チョン・テマンさんが嶺南大学校独島研究所の学術論文集 『独島研究』に書いた 「独島問題の数学的アプローチ」などがある。特にパク・ソンヨン教授[註 046]とチョン・テマン氏[註 047]によれば、 二人の間に若干の差はあるが、鬱陵島海岸から約88m登ると独島が見え始め、約170mになると独島全体の約半分が見える。
東北亜歴史財団は、2008年7月以降2009年12月までの1年6ヶ月間 の「独島可視日数調査 」という名前で独島観測調査を行い、鬱陵島から独島が見えるという事実を確認した。その観測調査の結果は、韓国の日刊新聞[註 048]と2009年3月の国会展示会以後の巡回展示会で一般国民にも紹介された。東北亜歴史財団が調査したところによると、鬱陵島から独島を観測した最も低い位置は133m(鬱陵郡沙東里チョン・ボングォン、クォン・ギョンスンさん宅)である。そして、2010年7月30日、鬱陵島現地調査時に面談した地元住民イ・イェギュン(1948年生まれ)さんの証言によると、1980年代道東の海岸からも独島を何度か見たことがあるという。数式公式上では到底見ることができない位置だが、光の屈折やその他の自然現象によって独島を見ることができたのではないかと思う。
一方、川上は回りくどく説明はしたが、鬱陵島から独島が見えるということを数学的に否定しなかった。彼は鬱陵島で独島の一番高い部分を見るには130mほど登らなければならず、独島を認知するには200m以上登らなければならないとした。[註 049]しかし「昔は鬱陵島が密林におおわれていたので高所に登ること自体が非常に困難であったと考えられ、たとえ高所に登ることができたとしても、独島が見られるような視界が開けていたかも疑問 」とした。 [註 050]これに対してイ・ハンギ教授は 「鬱陵島がどんなに鬱蒼とした密林地帯であったとしても、120m程度の高地に登ることさえ不可能ではなく、同時にその程度の高地の視界の遮断で四海の展望が不可能であったとは考えられない」と指摘した。[註 051]川上の上記のような主張には、日本国内でも批判があった。梶村秀樹教授はイ・ハンギ教授の指摘を引用しながら、「視達可能地点は、地図を広げて見ると、鬱陵島には至るところにあることがわかる」とした。[註 052]また、彼は密林におおわれてどこからも見ることができないという川上の主張を次のように辛らつに批判した[註 053]
鬱陵島に数百年間定住して農耕を営みながら、独島の存在をまったく知らなかったと推論するのは、朝鮮の人々を愚かな人々と見る偏見があったからである。
 
東北亜歴史財団が独島の見えるところを調査したところ、鬱陵郡鬱陵邑沙洞里から北面天府里石浦村に至る鬱陵島の南東から北東の全地域で独島を見ることができた。鬱陵島全体の約3分の1に相当する地域である。これに関連して梶村秀樹教授は次のように述べた。[註 054]
実際、1438年に空島政策が最終的に施行されるまで、少なくとも公式に鬱陵島には多くの朝鮮人が定住していた。つまり、彼らは漁業だけでなく、農耕に従事していたと推定されるが、鬱陵島の場合、沿岸地域はたいてい急な傾斜をなしており、むしろ200〜300mの台地上に、比較的平坦な開墾適地が多く、現在もそのような土地に少なくない人々の家があり、農業をしている。特に昔の火田式農耕では、このような土地がまず開墾されたという可能性が高い。したがって、密林におおわれてどこからも見ることができなかったとは到底考えられない。
 
〈図 1〉鬱陵島沙洞沖から見た望郷峰
zoom
実際の観測調査によると、家の庭先からも見え、道からも見え、畑からも見え、山の頂上からも独島を観測・撮影した。[註 055]鬱陵島には6世紀以前の于山国時代から人が住んでおり、[註 056]朝鮮初期まで人が住んでいた。もちろん、それ以後も人が住んでいなかったわけではない。また、鬱陵島は山の頂上がどこもかしこも木が生い茂っている島でもなく、海を眺めることができる場所であれば、独島を見ることができただろう。実際、独島展望台がある望郷峰の海岸側は海が見えないほどの木が生い茂っているわけではない(〈図 1〉参照)。これは、過去も同じであっただろう。
川上が鬱陵島から独島を見ることが困難だとあえて話した理由は何だろうか?彼の本に次のような内容がある。[註 057]
安龍福を除いては、その前後に韓国人が、今日の独島を認知していたといえる確かな証拠はない。韓国人が独島の存在を知ったと確実に推定できるのは、彼らが鬱陵島に定着するようになり、日本人に雇われて独島に出漁するようになってからである。また、日本人の指導により、鬱陵島近海で操業した後のことで、その時期は1904年、1905年以降と推定される。
 
川上は、安龍福の場合は独島を認知したと言っているが、虚偽の陳述をした信頼できない者とし、彼の独島認知自体さえも最終的に信頼できないと追いやっているようである。
いずれにせよ、川上は1905年に日本が独島を自国の領土に編入したその時点まで韓国人が独島を認知していなかったとしている。これは『世宗実録』「地理志」や 『高麗史』「地理志」の 「互いに距離が遠くなく、天気がよければ眺めることができる[相去不遠 風日清明 則可望見]」は、記録が鬱陵島と独島についてのものではなく、朝鮮半島本土から天気のよい日に鬱陵島を見た状況を指しているとした。[註 058]つまり、川上が意図したのは、鬱陵島から独島が見えないということと、これに関連する歴史文献の証拠を否定することで[註 059]日本の1905年のいわゆる独島編入措置の前まで 「韓国人は独島を認知していなかった」ことを証明しようとしたと考えられる。これは、鬱陵島と独島が歴史、地理的に関連しているという点を否定することによって、独島は鬱陵島の付属島ではないということと、最終的に独島は韓国の固有領土ではないことを主張するためである。川上が歴史、地理的に鬱陵島から独島が見えないと主張している理由がここにある。
では、鬱陵島から独島が見えるということが国際法上どのような意味を持つのだろうか?国際法では、領土を取得する方法として先占、時効、割譲、添付などがある。このうち「見える」という視覚的な要素と関連して議論することができる領土取得方法としては 「発見(discovery)」と 「地理的近接性(contiguity)」がある。
ここでは「鬱陵島から独島が見える」ことが国際法上の 「発見」及び「地理的近接性」とどのような関係があるのか、そして 「独島が見える 」ことが国際法上どのような意味を持っているかを確認したい。

 
[註 042]
鬱陵島再開拓民ホン・ジェヒョンの陳述[外務部政務局(1955)、 『独島問題概論』、36頁]; チェ・ギュジャン(1965)、 「独島守備隊秘史」、 『独島』、大韓公論社、314頁、ホン・スンチル(1996)、 『この土地が誰の土地なのか』、ヘアン、118〜124頁参照。
[註 043]
東北亜歴史財団(2009)、『鬱陵島から見た独島展』(写真目録) ; ハンサン(1996)、 『独島よ昨夜よく眠れたか』、チャンベク、20頁; 「昔の文献の独島記録は事実だった』中央日報(2008.7.21)
[註 044]
川上健三(1966、1996復刻)、「竹島の歴史地理学的研究」、東京:古今書院、274〜283頁。
[註 045]
イ・ハンギ(1969)、『韓国の領土』、ソウル大学校出版部、230 〜234頁。
[註 046]
パク・ソンヨン教授は、数学的計算によって海抜87.8m以上であれば、独島が見えるとした。パク・ソンヨン(2008)、『独島·鬱陵島の人々の生活空間と社会組織の研究』、京仁文化社、24〜46頁参照。
[註 047]
6チョン・テマン氏は、海抜86m以上に登ると独島が見え始めて496m以上では、独島をすべて見ることができるとした。チョン・テマン(2008)、 「独島問題の数学的アプローチ:独島はなぜ地理的、歴史的に私たちの土地になるしかないのか?」、 『独島研究』第5号、167〜199頁参照。
[註 048]
『鬱陵島の民家の屋根越しの鮮やかな独島』、中央日報(2009.3.25)
[註 049]
川上健三(1966)、前掲書、281頁。
[註 050]
川上健三(1966)、前掲書、282頁。
[註 051]
イ・ハンギ(1969)、前掲書、234頁
[註 052]
梶村秀樹(1978)、「竹島=独島問題と日本国家」、『朝鲜研究』第182号、11〜13頁。
[註 053]
梶村秀樹(1978、前掲文、13頁。
[註 054]
梶村秀樹(1978)、前掲文、12頁。
[註 055]
東北亜歴史財団(2009)、『鬱陵島から見た独島展』参照
[註 056]
関連する内容はキム・ユンゴン(1998)、 「于山国と新羅・高麗の関係」、 『鬱陵島・独島の総合的研究』、嶺南大学校民族文化研究所、23〜53頁;チェ・モンリョン他(1998)、『鬱陵島:考古学的調査研究』、ソウル大学校博物館/鬱陵文化院、国立中央博物館(2008)、 『鬱陵島』、オ・ガンウォン(2009)、 「考古学から見る三国〜統一新羅時代における鬱陵島の集落景観と域内外の交通網及び生業経済 」、東北亜歴史財団(2009)、『独島問題の学際的研究』、183〜241頁、オ・ガンウォン(2010)、『古代鬱陵島社会と集団に関する幾つかの問題』、東北亜歴史財団(2010)、 『独島・鬱陵島研究:歴史・考古学・地理学的考察』、169〜222頁;ノ・ヒョクジン他(2010)、『鬱陵島の古代遺跡と遺物』、東北亜歴史財団など参照。
[註 057]
川上健三(1966)、前掲書、275頁。
[註 058]
川上健三(1996)、前掲書、282頁。
[註 059]
川上健三(1996)、前掲書、282〜283頁参照。
[註 042]
鬱陵島再開拓民ホン・ジェヒョンの陳述[外務部政務局(1955)、 『独島問題概論』、36頁]; チェ・ギュジャン(1965)、 「独島守備隊秘史」、 『独島』、大韓公論社、314頁、ホン・スンチル(1996)、 『この土地が誰の土地なのか』、ヘアン、118〜124頁参照。
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[註 043]
東北亜歴史財団(2009)、『鬱陵島から見た独島展』(写真目録) ; ハンサン(1996)、 『独島よ昨夜よく眠れたか』、チャンベク、20頁; 「昔の文献の独島記録は事実だった』中央日報(2008.7.21)
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[註 044]
川上健三(1966、1996復刻)、「竹島の歴史地理学的研究」、東京:古今書院、274〜283頁。
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[註 045]
イ・ハンギ(1969)、『韓国の領土』、ソウル大学校出版部、230 〜234頁。
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[註 046]
パク・ソンヨン教授は、数学的計算によって海抜87.8m以上であれば、独島が見えるとした。パク・ソンヨン(2008)、『独島·鬱陵島の人々の生活空間と社会組織の研究』、京仁文化社、24〜46頁参照。
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[註 047]
6チョン・テマン氏は、海抜86m以上に登ると独島が見え始めて496m以上では、独島をすべて見ることができるとした。チョン・テマン(2008)、 「独島問題の数学的アプローチ:独島はなぜ地理的、歴史的に私たちの土地になるしかないのか?」、 『独島研究』第5号、167〜199頁参照。
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[註 048]
『鬱陵島の民家の屋根越しの鮮やかな独島』、中央日報(2009.3.25)
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[註 049]
川上健三(1966)、前掲書、281頁。
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[註 050]
川上健三(1966)、前掲書、282頁。
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[註 051]
イ・ハンギ(1969)、前掲書、234頁
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[註 052]
梶村秀樹(1978)、「竹島=独島問題と日本国家」、『朝鲜研究』第182号、11〜13頁。
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[註 053]
梶村秀樹(1978、前掲文、13頁。
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[註 054]
梶村秀樹(1978)、前掲文、12頁。
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[註 055]
東北亜歴史財団(2009)、『鬱陵島から見た独島展』参照
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[註 056]
関連する内容はキム・ユンゴン(1998)、 「于山国と新羅・高麗の関係」、 『鬱陵島・独島の総合的研究』、嶺南大学校民族文化研究所、23〜53頁;チェ・モンリョン他(1998)、『鬱陵島:考古学的調査研究』、ソウル大学校博物館/鬱陵文化院、国立中央博物館(2008)、 『鬱陵島』、オ・ガンウォン(2009)、 「考古学から見る三国〜統一新羅時代における鬱陵島の集落景観と域内外の交通網及び生業経済 」、東北亜歴史財団(2009)、『独島問題の学際的研究』、183〜241頁、オ・ガンウォン(2010)、『古代鬱陵島社会と集団に関する幾つかの問題』、東北亜歴史財団(2010)、 『独島・鬱陵島研究:歴史・考古学・地理学的考察』、169〜222頁;ノ・ヒョクジン他(2010)、『鬱陵島の古代遺跡と遺物』、東北亜歴史財団など参照。
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[註 057]
川上健三(1966)、前掲書、275頁。
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[註 058]
川上健三(1996)、前掲書、282頁。
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[註 059]
川上健三(1996)、前掲書、282〜283頁参照。
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