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日本人が知らない独島10の真実


日本の主張 日本は17世紀半ばには独島の領有権を確立した。

江戸時代初期(1618年)、鳥取藩米子の住民大谷・村川両家は幕府から鬱陵島への渡海免許を受け、鬱陵島で独占的に漁業に携わり、あわびを幕府に献上した。独島は鬱陵島に行く道筋にあり、航行の目印や途中の船がかり、またアシカやあわびを捕獲するための良い漁場として自然に利用されるようになった。このように日本は遅くとも17世紀半ばには独島領有権を確立した。

日本の主張はこ嘘
幕府と鳥取藩は鬱陵島と独島を朝鮮領と認識


渡海免許は自国の島に渡るためには必要ない文書であり、これはむしろ日本が鬱陵島・独島を日本の領土と認識していなかったという事実を証拠立てるものである。
17世紀半ばの日本の文献である『隠州視聴合紀』(1667年)には、「日本の西北の境界を隠岐島とする」と記されている。これは当時日本が鬱陵島・独島を自国領と考えていなかったことを表わしている。
さらに、安龍福事件で朝鮮と日本両国間に領土問題が起こるや、江戸幕府は鳥取藩に 「竹島(鬱陵島)外に鳥取藩に属する島はあるか」と尋ねた。これに対し、鳥取藩は「竹島(鬱陵島)、松島(独島)はもちろんそのほかに鳥取藩に属する島はありません」と回答し 、鬱陵島と独島が鳥取藩に属さないことを明らかにした(資料6)。
このような調査結果を土台として、江戸幕府は1696年1月28日、日本人の鬱陵島方面への渡海禁止令を下した。つまり、日本政府の主張とは異なり、17世紀末、日本は鬱陵島と独島を朝鮮の領土と認めたものである。
資料 6. 江戸幕府の質問に対する鳥取藩の回答書(1695年)
江戸幕府の質問に対する鳥取藩の回答書(1695年)竹島(鬱陵島)は因幡・伯耆に属しません。伯耆国米子の町人大屋九右衛門と村川市兵衛という者が渡海して漁業を営むことを、松平新太郎が治めていた時に御奉書を通して許可を受けたと聞いています。それ以前にも渡海したことがあると聞いてはいますが、そのことについてはよく存じません。(中略)
竹島(鬱陵島)・松島(独島)、そのほか両国(因幡・伯耆)に属する島はございません。以上。
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