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2.日露戦争と日本の独島侵奪

学習目標
日本が独島を違法に編入した過程を説明することができる。
日本の固有領土論と、無主地先占論の矛盾を説明することができる。
 
思考を開く
日本は1877年、太政官指令で独島が日本の領土ではないことを明らかにしている。しかし、日本は1905年に独島を自国領として編入する措置を取った。その理由は何だろうか?
 

日露戦争と独島

1895年、日清戦争に勝利した日本は、台湾と遼東半島を占有するなど、極東の雄として登場するが、 三国干渉により遼東半島を返還せざるを得なかった。その後、日本とロシアは互いに韓国の内政に干渉しないことに合意したが、1900年に清国の 義和団事件をきっかけにロシアが事実上満州を占領して南下政策を推し進め、満州と朝鮮半島の主権を巡って競い合うようになった。このような状況の中、日本は1904年2月23日、強制的に 韓日議定書を調印させた後、韓国を兵站基地化し始めた。
1904年2月8日、日本艦隊が旅順港のロシア艦隊を奇襲したことから日露戦争が始まった。日本海軍はロシア側の艦隊の動向を監視するために、開戦前から済州島、巨文島、鬱陵島などと蔚山、竹邊湾などに望楼を建設した。鬱陵島にも1904年8月に望楼を2ヶ所設置した。
1905年5月27~28日の海戦で、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を壊滅させたことにより形勢が日本に傾き、この過程で独島の戦略的価値が浮上した。1905年7月に独島にも望楼が建設され、鬱陵島と独島を経て島根県の松江へとつながる軍用通信線体系が完成した。1905年9月5日、 ポーツマス条約(Treaty of Portsmouth)を締結した後、日本は韓国に対する優越権をロシアから認められ、韓国に対する侵略を本格化した。
活動 1
義和団事件と韓日議定書、ポーツマス条約などを年表にし、当時の日本の膨張政策について調べてみよう。
 

日本による独島不法編入の過程

日露戦争当時、鬱陵島と独島の軍事的価値に着目した日本は、既に何度も外国の無人島嶼を編入した経験があったため、それに基づき独島を編入する機会を狙っていた。独島の アシカ 事業が有望であることに注目した島根県の漁業家 中井養三郎(1864~1934年)は、朝鮮政府に独島利用独占権を要請する目論みで、その手続きについて日本の官僚に相談した。その過程で、独島の戦略的な位置に注目した日本海軍省の官吏は「独島は主人のいない土地であり、距離も日本の本土からの方が近い」と中井を説得して、1904年9月29日に内務省・外務省・農商務省の3大臣宛に「りやんこ島 領土編入並ニ貸下願」を提出させた。

19世紀中期の日本の島嶼編入順序

無主地発見
自国民の移住および経済活動
閣議決定
(地方)告示で編入
貸下
㋑ 日本内閣の独島編入決定文
㋺ 島根県告示第40号
㋑ 決定文の中に「他国がこの島を占有したと認められる形跡がない」とあるが、これは歴史的事実ではない。
㋺ 島根県の秋鹿村役場に掲示し、少数の地域住民にのみ公示した。
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この時、日本の内務省は「韓国領と見なされる独島を日本の領土として編入した場合、帝国主義的侵奪の野心を疑われる可能性がある」として請願書を却下した。しかし、外務省は「独島に望楼を建て、無線または海底電線を設置すれば敵艦を監視するのに好都合ではないか?」と主張し、領土への編入を主張した。
日本政府はこの請願書に基づき、1905年1月28日「無人島の所属に関する件」として閣議で編入を決定した後、2月22日に島根県告示第40号でこの事実を告示した。日本政府は大韓帝国に何らの問い合わせもせず、一方的に独島を日本の領土として編入する措置を取った。
活動 2
中井養三郎の申請に対する日本の内務省と外務省の論理について考えてみよう。
 

日本の独島編入の国際法的違法性

日本の独島編入は、国際法上無効である。何故なら、1905年当時、独島は無主地ではなかったからである。日本は領土編入の根拠を、1905年当時、独島は主人のいない土地で、自国の漁民がこの島で漁業に従事していたことから、独島に対する名前と所属を確定する必要があるため、国際法に従い編入したのだという、いわゆる「無主地先占論」を主張した。
しかし、韓国は既に古くから独島を領土として認知しており、1900年に大韓帝国勅令第41号でこれを法的に再確認している。日本の無主地先占論は、日本が17世紀から独島を実効的に支配してきた固有の領土であったという、いわゆる「固有領土論」とも矛盾する。
また、日本の独島編入は、手続上にも問題がある。日本は、アメリカなど西欧国家に対しては事前通告や協議などの手続きを踏んだが、韓国に対しては何らの協議や通告もなく、一方的に独島編入を強行したからである。日本が自国の島嶼として編入したほとんどの島々とは異なり、独島は韓国と日本の間に位置し、鬱陵島と関連のある島である。その上、鬱陵島は17世紀に両国間における紛争の対象ともなった島である。にもかかわらず、日本は過去に鬱陵島の領有権を争った際、鬱陵島と共に取り上げていた独島を編入しながらも、相手国である韓国には知らせなかった。
活動 3
日本の主張する「無主地先占論」と「固有領土論」はどのような関係があるのか、説明してみよう。
 

独島に関する日本の記録

日本の軍艦新高の記録(1904.9.25)によると、「リアンクルド岩、韓人は独島と書き、本邦漁夫等は略してリアンコ島と称せり」と記されている。
これは、日本政府が独島を編入する4ヶ月前に、既に韓国人が「独島」という名称を使用している事実を知っていたことを意味する。

沈興澤 郡守、日本の独島編入事実を上部に報告

李明来報告書(右)と参政大臣の指令第3号(左)
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日本は独島を編入したが、これを官報に載せたり、関係国である大韓帝国には知らせなかった。このため、大韓帝国は独島が編入されてからの1年間、この事実を知らずにいたが、1906年3月末に鬱陵島を訪問した島根県官吏たちを通して知ることになった。45人で構成された視察団は、独島を視察して鬱陵島を訪問、鬱島郡守の沈興澤にこの事実を知らせ、これに驚いた沈興澤は3月29日、江原道観察使署理春川郡守の李明来にこの事実を報告した。李明来は再び参政大臣朴齊純にこの事実を報告し、朴齊純は指令第3号で「独島が日本の領土となった事実には全く根拠がないため、島の状況と日本人の行動をよく調べて報告せよ」と指令した(1906.5.20).

日本による独島の不法編入に対する大韓帝国の反応

1906年3月末、独島が日本に不法編入された事実を知った大韓帝国は、既に 乙巳条約により統監部が設置され、外交権が剥奪された状態だったため、日本に抗議することができなかった。しかし、『大韓毎日新報』(1906.5.1)と『皇城新聞』(1906.5.9) 、そして歴史学者である 黄玹(1855~1910年)は、この事実に抗議する文章を掲載した。
鬱島郡守の沈興澤が内府に報告するにあたり、
「日本の官員一行が本郡に来て本郡所在の独島を日本の属地と称し、地界の闊狹と戸口の結総を一つ一つ記録して行ったというが、内府からの指令では、遊覧の途次において地界と戸口を記録して行く程度は怪しむには当たらないが、独島を称して日本の属地と言ったことは、決してありえないことであるため、今回の報告は驚愕に値する」と言ったという。
『大韓毎日新報』 1906年5月1日付
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鬱島郡守の沈興澤が内府に報告するにあたり、
「本郡所属の独島は外洋100里余りの外にあるのだが、今月4日に日本の官人一行が官舎に来て直接言うには、『今や独島は日本の領地となったため視察を兼ねて来た』とのことでした。その一行とは、日本の島根県隠岐島司の東文輔と事務官の神西由太郎、財務監督局長の吉田坪五、分署長警部の影山岩八郎と巡査一名、会議一名、医師と技手各一名、その他随員約10名で、戸の総人口と土地の生産の多少、人員及び経費と諸般の事務を調査し記録して行きました」と言った。
『皇城新聞』1906年5月9日付
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独島不法編入後の日本の資源侵奪

独島はアシカの集団生息地であった。アシカは皮と食料、灯光用の油などに使えるため、収益性の高い種であった。独島におけるアシカ漁を独占したがっていた中井養三郎は、独島が日本の領土に編入されると、他の3人の漁業家と共に合資会社を設立し、アシカを乱獲した。
1903年からアシカを捕獲していた日本は、1905年から1910年まで、おおよそ年平均1,300頭のアシカを捕獲していった。このような乱獲により、独島のアシカは徐々にその数が減り、今日朝鮮半島では絶滅した。
また、日本は鬱陵島の ケヤキ(槻木)やイカ、アワビなどを採取するなど、本格的に資源を侵奪した。

独島に対する西洋の呼称

「太平洋全図」
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ロシア海軍海図、「朝鮮東海岸図」、1857年初版、1882年改訂版1854年、ロシア艦隊が描いた独島の絵3点
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西洋では独島は「リアンクール・ロックス(Liancourt Rocks)」として知られている。1849年1月27日、フランスの捕鯨船リアンクール号が独島を初めて発見した後、船の名前をつけて報告したためである。1851年にフランス海軍が制作した「太平洋全図」(1851年)に、独島が「リアンクール岩(Rochers du Liancourt)」と記載されたことを機に、国際社会に知られるようになった。
その後、1854年にロシアの艦船オリブチャが独島を発見し、西島をオリブチャ、東島をメネライと命名し、1857年にロシア海軍が制作した海図「朝鮮東海岸図」にも独島の位置が正確に記載された。
1855年にはイギリスの艦船ホーネット(Hornet)号が独島を発見して位置を測定し、イギリス海軍省から発刊された海図にホーネット島(Hornet Is.)と記載された。このように、独島に対する西洋の呼称は、リアンクール・ロックス、オリブチャ・メネライ、ホーネット島などと多様である。

鬱陵島に対する西洋の呼称

『アメリカ艦隊の中国海・日本遠征口述記録(Narrative of The Expedition of an American Squardon to the China Seas and Japan)』(1856年)に収録された地図
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鬱陵島は独島より先に西洋人に知られていた。1787年、フランスのラペルズ艦隊が鬱陵島を初めて発見した。艦長のラペルズは、最初の目撃者であるダジュレー(Dagelet)の名前にちなんで、鬱陵島を「ダジュレー島」と名付けた。1791年にはイギリスのアルゴノート号が鬱陵島を発見し、「アルゴノート(Argonaut)島」と呼ばれたが、経緯度を誤って測定し、朝鮮半島と鬱陵島の間にある別の島として描かれた。
活動4
鬱陵島と独島に対する西洋の呼び名を書き込んでみよう。


フランスロシアイギリス
鬱陵島ダジュレー島
アルゴノート島
独島
東島 : メネライホーネット島(ホーネット・ロックス)

西島 : オリブチャ
 

 
三国干渉
1895年、日清戦争に勝利した日本に、下関条約によって清国から遼東半島と台湾などが割譲されると、ロシア、フランス、ドイツの三国が遼東を清国に返還するよう日本を圧迫した事件
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義和団事件
中国が帝国主義の列強の侵入と、キリスト教の拡散に反感を持っていた状況下で、1900年に結社体である義和団を中心に西洋人を殺害し、教会や鉄道などを破壊した事件。これに民衆が加担するや清国政府は列強に宣戦布告をしたが、連合国8ヶ国により鎮圧された。
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韓日議定書
ロシアと戦争を起こした日本が、韓国を日本の勢力圏に入れるために締結した外交協約。これにより、日本は韓国の戦略上必要な地点を任意に使用できる権利を確保した。
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ポーツマス条約(Treaty of Portsmouth)
アメリカの仲裁により、アメリカのポーツマスで日本とロシアが結んだ講和条約
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アシカ
アシカ科の一種で、独島に生息していた。
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中井養三郎
島根県出身の水産業者。1903年頃から独島のアシカに注目し、競争者を排除してアシカ漁を独占するために請願を行う過程で、独島が1905年に日本の領土として不法編入される要因を作った。
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りやんこ島
リアンクール・ロックス(Liancourt rocks)の日本式名称、「やんこ島」とも言う。
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沈興澤
1855年出生。1903年から約3年間、鬱島郡守として在職した。
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乙巳条約
1905年、日本の強圧により大韓帝国の外交権剥奪と統監部の設置などを骨子として締結された条約
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黄玹
朝鮮時代末期の愛国志士で、号は梅泉。『梅泉野録』や『梧下紀聞』などを著した。1910年に日本帝国に国を奪われると、絶命詩4首を残して自決した。
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ケヤキ(槻木)
ニレ科の広葉高木。鬱陵島のケヤキは材質が良いため日本人が乱伐して持って行った。
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アルゴノート(Argonaut)島
1791年、イギリス人のジェームス・コルネットが鬱陵島を発見し、船の名前にちなんでアルゴノートと名付けたが、後に位置が違うことが判明し、1860年代以降に海図から姿を消した。
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