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  • 正しく知る独島(高校生用)

1.史料に現れた独島

学習目標
韓国の史料に独島がどのように記述されているのか理解できる。
刷還政策や捜討政策が政府レベルでの管理政策であったことが説明できる。
 
思考を開く
独島は、鬱陵島と共に昔の記録や地図に記録されている。史料には鬱陵島から于山島(独島)が見えると記録されており、古くから我々の先祖が独島を認知していたことがわかる。それはいつからなのだろうか?
 

独島について一番最初に記録された史料

独島についての韓国初の記録は『三国史記』(1145年)である。これには、新羅の異斯夫が于山国を服属させた内容が記述されている。本来、三国時代以前に鬱陵島と独島は于山国と呼ばれていた。三国時代に于山国の人々が新羅の内陸までやって来て略奪行為を展開するや、新羅の 伊飡 異斯夫が于山国を征伐することになった。于山国の人々は、地形が険しいため、新羅が簡単には攻め込んで来られないだろうと信じていたが、異斯夫が計略を使って于山国の人々を服属させ、毎年土産物を捧げさせるようにした。
『三国史記』巻4 新羅本紀 4 智証麻立干13年(512年)6月の條に次のような内容が書かれている。
智証王13年の夏6月に、于山国が降伏し、毎年土産物を貢物として捧げた。于山国は 溟州の真東の海上にある島で、鬱陵島ともいう。土地は四方百里(日本の十里)である。于山国の人々が険難な地形に頼って服従しないことを知るや、伊飡異斯夫が 何瑟羅(ハスルラ)州の軍主になって曰く、「于山国の民は愚かで気性が荒く、威厳をもって服従させるのは難しいため、智恵を使って服従させよう」と言った。そうして、木で偽物の獅子をたくさん作って戦船に分けて載せ、于山国の海岸に達してから欺いて曰く、「万一、汝らが服従しないのであれば、この猛獣たちを解き放って踏み殺してやろうぞ」と言ったので、人々は恐れをなして即刻降伏した。
『三国史記』
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高麗時代の鬱陵島と独島

512年に新羅に服属した于山国は、918年に高麗が建国された後、高麗の支配を受けた。930年(太祖13年)に于山国は白吉と土豆という使臣を送って土産物を捧げ、高麗はこの者らに官職を与え、服属状態を維持した。
1018年(顕宗9年)には于山国が東北地方の女真族の侵入を受け、農業ができない状態に至ると、王が農機具や種子などを賜与した。そして、1032年(徳宗1年)にも羽陵島(鬱陵島)の城主が息子を送って土産物を捧げた。
その後、1157年(毅宗11年)に王は溟州道監倉の金柔立を派遣し、鬱陵島に住民を移住させることが可能かどうか調べさせた。金柔立は鬱陵島の面積と村落跡、遺跡、産物などを調査して戻り、王に、鬱陵島は岩が多いため、住民を移住させて住まわせることはできないと報告した。その後も、高麗の朝廷では鬱陵島に住民を移住させようと何度も試みたが、途中、風浪による水死者が多かったため中断させた。鬱陵島は住民が暮らすには厳しい環境であり、その上、倭人らの侵入も絶えなかったため、中央政府は鬱陵島に時折、 按撫使を派遣して島を管理した。
高麗時代の記録には、鬱陵島は鬱陵(島)・武陵(島)などと、独島が于山と表記されている。『高麗史』「地理志」(1451年)には于山(独島)と武陵(鬱陵島)は異なる島であると記録されている。
一云 于山武陵本二島 相距不遠 風日淸明 則可望見

ある者が言うには、于山(独島)と武陵(鬱陵島)は本来異なる島であり、互いの距離が遠く離れていないため、晴れていれば眺めることができるのだそうだ。
『高麗史』「地理志」
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朝鮮時代の鬱陵島と独島

朝鮮時代にも鬱陵島と独島についての記録が多い。鬱陵島には既に古くから住民が暮らしていたため、朝鮮時代に入っても鬱陵島と周辺の島に関する報告が絶えることがなかった。しかし、政府としては住民らが鬱陵島に移って暮らすことを傍観するわけにはいかなかった。鬱陵島の住民は倭寇の略奪の対象になりやすく、一方では政府の税金を避けて鬱陵島に逃げていく場合もあったためだ。そのため、政府は鬱陵島に対して「刷還政策」を実施した。そのため、鬱陵島は一時的に無人島になったが、これは政府が鬱陵島とその周辺の島を管理するための政策であるだけで、島を放棄したわけではなかった。
一方、人々は政府の刷還政策にもかかわらず、絶えず鬱陵島に渡って行ったため、島が無人になったことはほとんどなかった。当時、島を調査するために政府から派遣された官吏の職責は「武陵等処按撫使」若しくは「于山武陵等処按撫使」であった。官職名に「于山」と「武陵」の2つの島名が共にあることからして、鬱陵島だけでなく、于山島も調査させたことがわかる。朝鮮時代の後期になると、政府は3年ごとに 捜討官を派遣した。 捜討政策を制度化した。
刷還政策や捜討政策は、空島政策とは区別される。これらの政策は、国家が統治体制を維持するための管理政策である。しかし、空島政策は「空島化」を島の放棄と結びつけるために主に日本が意図的に使用する用語である。

二つの島の距離関係を示した『世宗実録』「地理志」

朝鮮時代の初期、政府は国家の体制を整備するため、全国的な地理志の編纂作業に着手したが、『新撰八道地理志』(1432年)を補完して『世宗実録』「地理志」(1454年)として完成させた。ここに鬱陵島と于山島に関する内容が記載されている。
于山武陵 二島在縣正東海中 二島相去不遠 風日淸明 則可望見 新羅時稱于山國 一云鬱陵島

于山と武陵の二島は蔚珍県の真東の海上にある。二島は互いに距離が遠く離れていないため、晴れていれば眺めることができる。新羅の時には于山国と称したが、鬱陵島とも言う。
『世宗実録』「地理志」
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活動 1
『三国史記』に収録された「于山国」の「于山」が、『世宗実録』「地理志」で独島という名称になった理由を考えてみよう。
 

『世宗実録』「地理志」記述の重要性

『世宗実録』「地理志」に記録された内容を見ると、于山(独島)と武陵(鬱陵島)は別の島であると記されている。「二島は互いの距離が遠く離れていないため、晴れていれば眺めることができる」との記述は、二島間の距離が非常に近いというほどではないため、曇りの日には見えないという事実を暗示している。
鬱陵島地図
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鬱陵島周辺の付属島嶼の中に観音島と竹島という島がある。観音島は鬱陵島の端の部分(島の首)の近くにある島で、カッセ島とも呼ばれる。竹島は鬱陵島の北東に4km、船で約15分の距離にある島で、人が居住している。竹が多く「テッソム」とも呼ばれ、漢字では「竹島」と表記される。ところが、これらの島は晴れた日でなくとも、鬱陵島のどの方向からでもほとんどの場合よく見える。したがって、『世宗実録』「地理志」に二島が晴れた日にだけ見えるとある「于山島」は、観音島や竹島を指すのではないことがわかる。また、『世宗実録』「地理志」には『三国史記』と同様に、異斯夫が于山国を服属させた事実などが記述されており、鬱陵島と于山島が古くから重要な島だと認識されてきたことを物語っている。
鬱陵島周辺の島の首、観音島、竹島(テッソム)出典 : 韓亜文化研究所 ユ・ミリム
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活動 2
鬱陵島付近にはどのような島があるのか調べてみよう。そして、鬱陵島の近くにある竹島はどうして『世宗実録』「地理志」に出てくる二島のうちの一つに該当しないのかを説明してみよう。
 

『世宗実録』「地理志」以降の文献

『世宗実録』「地理志」に続いて『新増東国輿地勝覧』(1531年)が編纂されたが、これにも鬱陵島と独島に関する記録がある。小題目が「于山島、鬱陵島」となっていることからもわかるように、二つの島について言及している。
于山島 鬱陵島
一云武陵 一云羽陵 二島在縣正束海中 三峯嶪撑空 南峯梢卑 風日淸明 則峯頭樹木及山根沙渚 歷歷可見 風便則二日可到 一說于山鬱陵本一島地方百里

武陵とも言い、羽陵とも言う。二島は(蔚珍)県の真東の海にある。(鬱陵島の)3つの峰がそびえ立ち、空に届いているが、南の峰が多少低い。晴れていれば山頂の樹木と山麓の砂浜をありありと見ることができ、追い風であれば二日で行くことができる。一説によると、于山と鬱陵は本来一つの島で、土地は四方百里だという。
『新増東国輿地勝覧』
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この記録に「晴れていれば山頂の樹木と山麓の砂浜をありありと見ることができる」とあるのは、蔚珍から鬱陵島の樹木が見えるという事実を意味する。したがって、『世宗実録』「地理志」の「見える」という意味とは脈絡が違う。

「于山島」に関する具体的な言及に関する史料

于山島に関する具体的な記録が登場し始めたのは、「安龍福事件」の前後である。朝鮮時代の粛宗の文臣である 朴世堂(朴世堂 :1629~1703年)は「鬱陵島」において、「于山島」について次のように述べている。
おおよそ、二島はここ(平海)からさほど遠くなく、一度大きな風が吹けば達するほどである。于山島は地形が低く、とても晴れているか、最も高い所に登らなければ(鬱陵島から)見えない。鬱陵島の方が少し高いため、風浪が静まると(陸地から)容易に見ることができる。
「鬱陵島」
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つまり、于山島について、快晴の日か最も高い所に登ることでやっと見える島だとしているため、鬱陵島の近くにある竹島や観音島を指すのではなく、独島を指していることが分かる。
活動 3
朴世堂が言う二島は鬱陵島と于山島のことである。『世宗実録』「地理志」で島が互いに見えるとした内容と、朴世堂の「鬱陵島」の内容を関連付けて、于山島が鬱陵島から見える理由について考えてみよう。
 

『疆界考』の独島

朝鮮時代後期の学者である 申景濬(申景濬 :1712~1781年)が書いた『疆界考』(1756年)に、次のような文章がある。
按輿地志云 一說于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而盖二島俱是于山國也

私が調べたところによると、『輿地志』に「一説によると、于山と鬱陵は本来一つの島だと言うが、いくつかの図志を照らし合わせてみると二つの島だ。一つは倭が言うところの松島(独島)だ」とあるため、おおむね二島は共に于山国である。
『疆界考』
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上の記録は、于山島が日本が言うところの松島だとし、于山島が独島であることを明確にしている。また、二島が共に于山国に属するとしているのは、于山国が朝鮮の領土であるため、二島が共に朝鮮の領土であることを物語っているのである。
活動4
『三国史記』と『疆界考』の内容から推察して、于山国に于山島が含まれる理由を説明してみよう。
 

 
伊飡
新羅時代の官職名で、17等官階のうち二番目の官位に該当する。
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溟州
今の江陵地域、高麗時代には溟州道に属していた。
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何瑟羅(ハスルラ)州
新羅時代の地方行政区域で、今の江陵地域を指す。
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按撫使
高麗時代から朝鮮時代の初期にかけて民衆の苦しみと地方官の過ちを探るために、中央政府から臨時で派遣した官職
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刷還政策
陸地から遠く離れた島の住民を保護するため、島に暮らすことを禁止し、住民を陸地に連れ戻す政策
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捜討官
鬱陵島とその周辺の島嶼を捜索し、住民を見つけ出して陸地に連れ戻す官吏で、三陟と蔚珍の官吏が交互に派遣された。
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捜討政策
住民を刷還するために島を捜索し、住民を見つけ出す政策。刷還政策と同じ意味で使われるが、捜討官を派遣して島を管理したことを重視した用語である。
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島の首
鬱陵島の首の部分であるとして名付けられた。島の首を漢字で表した地名は「島項」という。
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朴世堂
朝鮮時代後期の文臣。安龍福事件に関係した南九萬が夫人の弟であったため、当人から安龍福と于山島(独島)に関する内容を聞いたものと推測される。
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申景濬
朝鮮時代の英祖期の学者。『東国文献備考』を編纂した当時、「輿地考」を担当した。『東国文献備考』の「于山島」部分は『疆界考』の内容を継承したものである。
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