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我が永遠の領土、独島(中学生用)


単元8の参考資料


1 『三国接壌之図』

△ 『三国接壌之図』
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1785年、日本人の林子平が制作した地図で、『三国通覧図説』に収録された附図5枚の中の1枚である。ここで三国とは、朝鮮、琉球(沖縄)、蝦夷国(アイヌ族の北海道以北の地域)を言う。この地図は、日本を中心とした周辺三国を別の色で描いているが、朝鮮と日本の間の海の真ん中に島を一つ描き、そのすぐ右側に小さな島を描いている。この島々は全て朝鮮と同じ色で塗られており、左側の大きな島には竹島と表記されており、その下に「朝鮮ノ持之(朝鮮のもの)」と「此島ヨリ隱州ヲ望又朝鮮ヲモ見ル(この島から隠州が見え、また朝鮮が見える)」と書かれている。この地図が制作された当時、日本人は鬱陵島を竹島、独島を松島と呼んでいた。そのため、この地図上の竹島は鬱陵島と見るべきであり、その右側に名前が書かれていない小さな島は独島と見るべきである。この小さな島を鬱陵島のそばにあるデッソム(竹島)だとする日本の主張とは異なり、地図の縮尺からデッソムがこの地図に表記されるはずはない。また、当時の日本では独島を「竹島の中にある松島(竹島之内松島)」、「竹島の近くにある小さい島(竹島近所之小島)」など、鬱陵島に付属する小さな島として把握していた。このような認識は、明治維新の後にも続いた。すなわち、この地図に示された2つの島は、鬱陵島と独島を描いたものと見るべきである。一方、この地図には迎日湾の前にまた別の島が描かれているが、これを別の附図である『朝鮮八道之図』と比べてみると、『朝鮮八道之図』に描かれている「鬱陵島-千山国」と一致する。したがって、『三国接壌之図』には鬱陵島と竹島を別個の島として描いており、これはこの海域に対する林の地理的な見識が正確ではなかったということを物語っている。このような地理的な認識は安龍福の活動により、17世紀末からこの海域への日本人の接近が禁止されたことに起因すると思われる。このような状況の中でも、隠岐の島の北西側の海の真ん中にある島々(鬱陵島と独島)は朝鮮の領土と表記したのである。林は当時、日本最高の地理学者であり経世家で、彼の地図は当時の日本の周辺国に対する地理的な認識と地図制作の水準を語る尺度となる。江戸幕府の後期、周辺国の情勢を意識する必要性が出てきた頃、日本最高の地理学者が制作したこの地図は、当時日本が独島を鬱陵島の付属島嶼として把握し、二つの島を朝鮮の領土として認識していたことを立証する資料である。

2 日本海軍省の『朝鮮東海岸図』

1854年にロシア海軍の艦艇が実測した資料をもとに、1857年にロシア海軍が作成した『朝鮮東海岸図』を、1876年に日本の海軍省水路部が翻訳して発行した地図である。この地図は、最初の精密実測を土台に作成されたロシアの地図をもとに制作されたもので、朝鮮半島の東海岸の入り江や海岸線、鬱陵島と独島など付属島嶼が詳しく描かれている。独島をそれぞれ違う距離と方向から見た3つの図は1861年に追加されたものである。この地図は、第三国のロシアが独島を韓国の領土として把握していたことと、日本もまたこれを修正することなく受け入れ、当時独島を韓国の領土として把握していたことを示している。

3 『日露戦争実記』の中の「韓国全図」

日本の大手出版社の一つである博文館は、1905年6月20日に『日露戦争実記』という膨大な日露戦争勝戦記録集を出版したが、その第76編の付録として1905年6月現在の「韓国全図」(34.5×48cm)を添付している。日本の閣議で独島を日本の領土に編入すると決定した後であるにもかかわらず、独島(竹島:リヤンコルド岩)を線外に描いてまで「韓国全図」に含めている。
これは、日本政府の閣僚と関係者を除き、日本人は日帝が韓国の領土である独島を侵奪した事実を知らなかったということを意味する。これは、日本国内においても島根県告示を知らなかったことを示すもので、島根県告示自体が無効であることを示す明らかな証拠である。
上の「韓国全図」は、同じ出版社(博文館)から1905年9月に発刊された『韓国新地理』(1905年9月、田淵)の最前面にも掲載されている。独島を日本の領土と判断していたのであれば、韓国の地理について語る本で、「リアンコルド岩」を無理に「韓国全図」に含める理由がなかったにもかかわらず、地図では独島を線外に表記してまで韓国の領土であることを明らかにしている。特に、この本の第3編処誌第5章「江原道」編では、鬱陵島を説明しながら次のように記述している。
本島より東南方約三十里我が隱岐島との胎んど中央に當り無人の一島あり。俗に之れをヤンコ島と稱す。(308p)
本島(鬱陵島)から南東の方向に約30里(約120㎞)の位置、我が隠岐島とのほぼ真ん中の地点に無人島が一つ存在し、世間ではこの島を「ヤンコ島」と言う。
 
このように、独島が鬱陵島付属の島であることを明らかにしており、隠岐の島には「我が」という表現を使って日本の領土であることをはっきりと示しているのとは対照的である。

4 『朝鮮国地理図』

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『朝鮮国地理図』は1592年に豊臣秀吉が朝鮮の侵略を準備していた際、水軍の武将だった九鬼嘉隆に指示して作らせた地図である。九鬼は『新増東国輿地勝覧』(1530年)に収録された『八道総図』をそのまま写し、彩色して描いた。現存する『朝鮮国地理図』は1872年に再模写されたものである。
鬱陵島と独島の位置と名称をそのまま使用し、『八道総図』と『江原道別図』に鬱陵島と独島の二つの島を含めることで、この二つの島が朝鮮の領域であることを明白にした。現在発見されている地図の中で、鬱陵島と独島を韓国式に表記した最初の地図である。

5 『大日本沿海輿地全図』

韓国には大東輿地図(1861年)を作った古山子金正浩がいるが、日本には伊能忠敬がいる。1745年に生まれ1818年に亡くなったため、1804年に生まれて1866年に亡くなった金正浩より二世代ほど早い。日本の測量家で、高橋至時の門下生として西洋の天文、暦法、測量について学んだ。1800年に北海道の南東沿岸を測量し、その後19年に渡って日本全域35,000㎞を歩いて測量した。その成果を1816年『大日本沿海輿地全図』および度数譜としてまとめた。伊能の『大日本沿海輿地全図』も非常に正確で、19世紀中期にヨーロッパの列強が日本を侵攻するために地図を制作しようとしたが、この地図を手に入れてからはこの地図をそのまま使用した。このような伊能の地図は一日にして作られたものではなく、日本幕府の莫大な支援と、西洋から導入した三角測量法によるものである。

 
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