• 慰安婦
  • 歴史を創る物語

「私の思い通りにできることは何もないよ」

zoom
  • 年度
  • 年齢
  • 内容
  • 1928年
  •  
  • 慶尚北道慶山市生まれ
  • 1943年
  • (16歳)
  • 家にいた時に就業詐欺で連行
    慶山-大邱紹介所-ソウル紹介所-ハルビン-内モンゴル-北京へと移動
  • 1944年
  • (17歳)
  • 北京、張家口で日本軍「慰安婦」の生活
  • 1946年頃
  • (19歳頃)
  • 鴨緑江を経て平壌に帰国
  • 1947年頃
  • (20歳頃)
  • ソウルで遊郭生活
  • 1948年頃
  • (21歳頃)
  • 群山、麗水などで料理屋生活
  • 1949年
  • (22歳)
  • 麗水で長男妊娠、故郷に戻った後に出産
  • 1953年
  • (26歳)
  • 東豆川などで米軍相手の売春、闇ドル商で生計を維持
  • 1957年頃
  • (30歳頃)
  • 次男を妊娠、出産
  • 1977年頃
  • (50歳頃)
  • 女中奉公、冷麺商売で生計を維持
  • 2001年
  • (74歳)
  • 日本軍「慰安婦」登録
  • 2004年
  • (77歳)
  • 慶尚北道慶山の永久賃貸アパートで1人暮らし
慶山→ソウル→ハルビン→内モンゴル→北京→張家口→ピョンヤン→ソウル
zoom
「私は誰かからプレゼントをもらうことが、一番の願い事だって言っただろう。花の一輪ももらったことがないんだ。私は元々花が好きなんだけど、もらったことがないんだよ。…花をプレゼントされる人はどれだけ嬉しいことだろうか。
「生花はとてもきれいに咲いていても、一週間くらい経つと枯れてしまうのを見ると、かわいそうだって気もして、見たくないんだ。だから、今はこれ(造花)を買って置いておくんだ。生涯見ていられるし。汚くなったらきれいな水で洗って、水をかけてああして挿しておいたら、本当の花みたいだし。

疑心暗鬼

病院は、病状を診ればわかるみたいだね、気持ちを落ち着かせてくださいって言われたんだよ。

「私が長くは生きたくないから、全部捨てて、全部捨てようとして、昔の物を。…弟がお酒を飲んで死んだから、私もお酒を飲んで死のうと思って、私はもっと飲んで死のうと思って、焼酎を飲んだんだよ、焼酎を一升瓶で。そうしたら、フンハルモニが引っ越して来たんだけど、[註 131] 心に響くものがあってね。…テレビを見てたら、あぁ、あんな人もみんな生きてるのに、私のことは誰が面倒を見てくれるんだろう。…どこにこんな話をすればいいんだろう。どうしたらいいんだい。
「この目、目を治療しに病院に行ったら、[註 132] 保護者を連れて来いって言われたんだけど、この世に保護者なんかいないんだ。それで3万ウォンをあげて、ここの知り合いを連れて行ったんだよ。
「病院は、病状を診ればわかるみたいだね。気持ちを落ち着かせてくださいって言われたんだよ。あ!そうだ。病院はわかるんだって思ったこと。いつも誰かが私を捕まえに来るような気がして、ここ(化粧台)にぶつかってもびっくりして。…そんな病気が限りなく自分の中に居座っているんだよ。うつ病と、何だ、疑心暗鬼とかってあるだろう。人でも何でも疑うやつ。物をこうして隅っこに置いておくことにしたら、きちんと置いておかなければ気がすまないんだ。それに靴下みたいなのも、一足脱いだらそれを洗ってしまわないと気持ちが落ち着かないし。
「気持ちが急いて、イライラしてばっかりで、私一人でそんな気持ちを長い期間持ってたんだ。心の中で罵りながら、こん畜生、出て行って酒でも一杯飲まなくちゃって思うと、ぐでんぐでんに酔っぱらうくらいに飲んで帰ってこないとならないんだ。そうすれば眠れて、お腹が空いていることも忘れて、お酒さえ飲めば、ただ気持ちが良くなって…そんな病気を私が持っていたんだよ。
「女の人や男の人や子供や、人に会いたくなかったから。人に会って、あれこれと話もした方がいいんだろうけど、通じる所がないから。私が話しても『あぁ、そうだったんだ、本当に苦労したんだね』って、そんな風に優しく話してくれる人がいないんだ。
「今はかなり良くなったよ。お酒を飲まずにはこんな話はしないんだから。

遊郭

汚れてしまった体のせいで、結婚もしてない女が、本当に。

「男と一度寝ても体が汚れるって言うのに、数十人をそうして相手にしたんだから、私の体がまともなわけないだろう。私はもう、汚れたんだよ。…最初、お金を稼ぎに行くつもりだったのが、とんでもない所に行ってしまってこうなったんだから、人生、間違ったってことだろう。
「私が解放後に、11月だったか12月だったか、ソウルに来て、一度も来たことがないソウルで、どうやって、どこに訪ねて行くんだい。知っている所もないし、どこに訪ねていく宛もないんだ。…ブルブルと震えていたら、しょいこで荷物を運搬する人が『誰かを待っているのかい』って声をかけてくれて、かわいそうに思ったのか、ご飯を食べさせてくれるって。ある食堂でご飯を食べさせてくれてね。…そうして、私をご飯が食べられる所に連れて行ってほしいってお願いしたら、ある大きな食堂に送ってくれて、それで食堂で働いて。
「食堂みたいな所で働いたら、ご飯とか食べさせてもらって、寝られるだけで、お金はもらえないんだ。
「例のしょいこで荷物を運搬する人が、大の大人が、そんな所にいないで、お金を稼ぎたいのだったら、体を売る女の人もいるんだって教えてくれてね。
「そうして体を売る所に行って、そういうことをして、そうしたらお金があっという間に貯まったんだ。服もきちんと着て、それなりに悟ることもあったんだ。そうして、故郷には何年も帰らなかったんだよ。
「どうせここまで来たんだから、お金貯めてから帰ろう。弟たちと母さんも、貧しくてつらい思いをして暮らしているから、その頃はお金さえ稼げば、1年や2年、私はお金さえ稼げば家に帰ろう、それだけ考えていたんだ。…お金のために、私がそうして出て行ったのに。生きて帰ってきただけでも、父さん、母さんは喜んだはずなのに。
「そんな遊郭を訪ねて行ったのも、私は汚れた体だから、処女じゃなくて、生娘じゃなかったからだよ。お金を稼ごうと思ったら、そういう所に行かなくちゃいけないんだって思って、紹介所に聞きながら訪ねて、そんな所に行ったのさ。
「韓国の女も遊郭にたくさんいたし。ものすごくきれいな人ばかりを選ぶんだ、痩せてて、美人で。私は新しい服を着て行ったから、たいしたもんだったよ。きれいだったさ、その頃は。…その頃は、私が6つの言葉ができたんだ、6ヶ国語を。タバコって言葉も知ってて、一言聞けば全部わかるんだ。タバコはシガレット、オーケイって言って。灰皿はアシュトレイ。
「もっとお金を稼ごうと思って、さっさと稼ごうと思って、全羅道に行って、それから群山に行ったんだ。群山に行って、また良い店で働いて、またそうしてお客さんの相手をして、お金を稼いで。それから、麗水に行ったんだ。
「21歳、22歳の頃に麗水に行って、今なら何て言うんだい。体を売らずに、お酒だけを売る店で働いたんだ、料理屋。お客さんがいっぱい来たら、お膳にご馳走を準備して、その席に行ってお酒を飲んで、その頃からお酒を飲んだんだよ。
「お酒を注いであげて、酒代の計算をして、お客さんが来たら案内して、そうしたらお得意のお客さんたちが団体で来るだろう。…その頃から、体を売るのは一切止めて。
「料理屋にいた頃には、お客さんたちがものすごく私を訪ねて来るんだよ、気に入ったって。よく話すし、お酒もよく飲むし、一緒に遊ぶには良かったんだよ、本当に。

イム巡査

韓国人で少し好感を持ったんだ。

「ある巡査が私を良い子だって思ったのか、お得意さんの中で。…自分の仕事が休みの時に来ては、いろんな話をしたりもしてね。それで、韓国人で少し好感を持ったんだ。恋人みたいに思っていたんだけど。…それに、そこにいた友だちもみんな「あんたの恋人よ」って言いながら、「イム巡査が来た」って言って、そうして必ず私を呼んでくれたら、一人だけのお膳を準備して。そうして親しく付き合ううちに、そうして一緒に寝たんだよ。それも、まあ、寝るのはいいとしても、赤ちゃんを妊娠したとは思わなかったんだよ。
「生理が来ないから、そこの女の子たちと座って、『どうするのさ、(ささやくような小さな声で)あんた、巡査と寝たの?』って聞くんだ。
「『うん、寝たわよ』って答えたから、友だちが他の巡査に聞いてみたら、イム巡査がどこかに行ってしまったんだって。赤ちゃんを妊娠して、私一人でお金を少し稼いでから故郷に行こうとしていた時に、…麗水・順天事件が起こったんだ。だから、私がここにいちゃいけないと思って、赤ちゃんを妊娠したまま故郷に帰ったんだよ。あの人とは全然会えなくて、どうしたらいいんだい、妊娠したのに。22歳で妊娠したんだよ、言ってみれば。
「あの人と仲良くしてた期間は2年まではいかなくて、1年位だったと思う。
「妊娠する前に故郷に手紙で連絡したら、父さんが亡くなったって言うんだ。
「父さんは木を運搬する仕事をしていたから、大邱にいるのならって、私を探そうとしたみたいなんだけど。…母さんが言うには、『お前を探そうとして、父さんが何度か探し回ったんだけど見つけられなくて、誰かから話を聞いて、ソウルに上京したんだって。父さんがそう言ってたよ』って。父さんが、戦争が終わって解放されてから、私が家に帰る前に、毎日毎日私のせいで病気になって、田んぼの畦に座って、スンアクが帰って来るかもしれないって待って、待ち続けて、私がここ(故郷の家)に帰って来る前に、(泣き声になって)一週間前に亡くなったんだよ。
「最初の手紙に、就職して、お金を稼いでいるって書いて母さんに送ったら、生きていて良かったって。…父さんがそうしてお前が帰ってくることだけを待っていて亡くなったんだって返事をもらって、それで、父さんが亡くなってから行こうとしたら、母さんが来るなって、何回も手紙で連絡し合うだけだったんだ。
「そうして妊娠して故郷に帰ったら、『夫もいないのに妊娠して来るなんて、何てざまなんだ』ってことになって。母さんが、私みたいにそっけない人でね。だから、私が『夫はそのうち来るでしょう、きっと。まだ便りがないから仕方ないでしょう』って言って。
「ここに来てから出産して、3年ちょっといたのかな。
「母さんがいるから、私が出稼ぎにいくついでに、以前に知り合いだった人も探してみようってんで、東豆川に行ったんだ。
「私が旅に出て他郷を行き来するのに、どこか子供を預けられる所があると思うかい。そりゃ、実家しかないだろう?

商売

ヤンキーの小物商売をしたり、米軍相手の売春商売もしたりして。

「朴正熙大統領の時に、ヤンキーの小物商売をしたり、米軍相手の売春商売もしたりして。私がやってたこと、私たちが習ったのはそんなことだけだから、それしか習ったことがないんだもの。
「子供たちを食べさせて、勉強もさせないといけないだろう。子供が8歳の時に、東豆川に私が連れて来たんだ。そうして、ヤンキーの小物商売をしながら、東大門市場で闇ドル商もして。私は米軍相手の売春婦たちにドルを換金してあげて。そうしたら、またその売春婦はそれを知り合いのアメリカ人に渡すんだ。
「でも、ずっとやってたら、アメリカ人たちと一緒にお酒も飲んだり、話もしたりして…私が25、26歳、30歳に近い歳なのに、『ママさん』って訪ねて来たら、ご飯も食べさせてあげて。売春婦たちと仲良くして遊んでいたら、またアメリカ人と私が親しくなって。
「米軍部隊に入ってからは、そこもパス(許可証)がなければ入れなくて、知り合いの誰かが歩哨に立つ日になれば、私が『ちょっと入るから、大目に見てちょうだいね』って言うと、歩哨の米軍兵が『あ、オーケイ、オーケイ、ママさん』って喜んでね。そうして入って行ったんだよ。
「オーバーこれ、寒い時にはオーバーの懐にお皿みたいなものを一つずつ隠して持ち出して来たりもして。
「私は売春商売では、お金はあまり稼げなかったよ。
「自分の家がないから、部屋を借りてあげなくちゃならないだろう。…一軒全部借りることもできないから、あちこちに借りて。子供と私が住む部屋も必要だし。私は家賃も半分ずつにしたんだ。そうしてお金を均等に分けたから、2ウォンを儲けたら私が売春婦たちに1ウォンを渡すようなもんだから、たくさんは稼げなかったんだよ。
「女たちも、仕組みについて充分に習ったら、勝手に出て行ってしまうんだ。…自分で部屋を借りて、自分で勝手にやりたいっていうんだから、仕方ないだろう。ソウルの商売人に頼んで、学歴もなくて人脈もなくてどこにも就職できないそういう娘を連れてきて、充分に教えてあげたら、そしたら自分勝手に出て行ってしまうんだよ。
「私は学はないけれども、気持ちは私よりも恵まれない人を助けてあげたいし、傷つけたりいじめたりはしたくないんだよ、私は。
「3~4人を連れてるんだ。…そうして、アメリカの闇ドル商売を私が始めたんだよ。
「それでも、それをやってたから、私が何とか維持できたんだ。息子を学校に行かせ、食べてもいけた。そうでなければ、売春商売だけやってたら、売春婦たちの口にお金を投げ入れるようなものだった。…私が若かったら、自分でやった方がましだって、そんなことばかり考えていたよ。どうせ私は汚れた体だから関係ないけれど、子供のためにできなかったんだ。
「2番目の息子はその頃に生まれたんだ。その頃は、私が売春商売をやらないで、ヤンキーの小物の商売をしてた時。
「その時も、その子を産んで孤児院みたいな所に行ったんだ。うちの子も孤児院に預けたんだけど、行こうとしなくて、だから仕方なくご飯を食べさせて育てたんだ、ただそれだけ。
「東豆川、議政府、そこで10年以上住んでたから。長男が中学2年生くらいの時に、東豆川からソウルに部屋を借りて引っ越して、そこで暮らしたんだ。
「女中として行って、ラッキーグループのあるお金持ちの家では1年半しかいられなかったけど、あの、ある家では7~8年いて。
「女中奉公を15年以上やって、冷麺を売るお店もやったな、…子供たちを勉強させる間に。

名前

スンオクなんだけど、幼い頃にそう呼ばれていたんだけど。

「スンオクなんだけど、幼い頃にそう呼ばれていたんだけど、父さんが文字を知らなくて無学だったせいなのか、韓国人の名を日本の名前に変えながら、私の名前の文字がそうなってしまったのか、その辺はわからないんだよ。出生届を少し遅く出したから、弟が生まれて出生届を出しに行った時は、私の歳がもう9歳か10歳だったとかって。…韓国の、何だ、住民登録だか、道民証だかをもらった時に見たら、キム・スンアク、『アク』っていう字になっていたんだ。
「長女。下に弟が二人。私のすぐ下の弟は死んだよ。50代で死んでしまったんだ。あまりにもみんな貧しかったから、お酒のせいで死んでしまって。もう一人の弟は、釜山で暮らしているんだけど、あの弟も鳴かず飛ばずって感じみたいだし。
「父さんが他人の農作業の作男だったから、言ってみれば他人の農作業をして、そうして小さな畑、石があるような、そんな所。
「少しばかりの農作業もするんだけど、ご飯を食べて、馬みたいに食べられる野菜とかを採って、牛にもやったり、こんな山里ではみんなそんな風に暮らしてたんだ。
「余裕のある家だったら、自分とこの娘をどこかに出稼ぎに行かせたり、工場に送られたりするそんな女の子がどこにいるっていうんだい。

ヤマダ工場

工場に糸を紡ぎに行くんだって行ったのが。

「私は、ものを忘れたりはしないんだ。あれは、ヤマダ工場に糸を紡ぎに行くんだって行ったのが、結局、身を汚して、こうして苦労ばかりして。
「ヤマダ工場っていうのがあったんだ。大邱のヤマダ工場、それしか知らないよ。
「ある爺さんの孫娘だったか、孫息子だったか、カイコを育てる、糸を紡ぐ工場で働くことになったって。その家の女の子といつも一緒に遊んで仲良くしてたから、親しいんだと思って、その家の爺さんが『その工場に行くことになった』って教えてくれて。それで、私は町内[註 133]から私一人で出て行って。面(市や郡より一つ下の行政単位)に行ったら、また何人かいたんだよ。そうして、大邱に行ったら、工場に行くんだって集まってきた人がたくさんいてね。人が十何人かはいたよ。…女の子たちを捕まえて行くんだって、みんなそう言ってたから、工場にでも行く方がましだから。工場で働いてたという人を見たこともあるし、気持ちが浮かれてたんだ。工場で働けるっていって、行くことは行ったんだよ。
「私はその頃、16歳だったんだ。集まった女の子たちはみんな、同じ年頃だったよ。
「母さんがこれ位の葉レタスを洗って、家で昼ごはんを食べて出て来たんだけど、母さんが涙を流して、(目頭を赤くして)手を取って泣いてね。
「以前から父さんは私を金持ちの家に嫁がせるって言ってたから、母さんは働きに行かせたくなかったんだ。その時のこと考えたら、母さんの手を離す時のことが、今も目に浮かぶようだよ。
「うちの父さんは、工場に行ったとばかりと思っててね。無学だから、何も知らなかったんだよ。
「今になって考えてみると、前にも思ったんだけど、あの爺さんは昔、妓生屋にいたんじゃないだろうかって思うんだ。
「妓生を集めるみたいにして、今で言えば紹介所みたいにして、四方から女の子たちを集める紹介所みたいな役割だったんだろうね。
「そうして昼ごはんを食べてから、南川面から生まれて初めて汽車に乗って大邱まで行ったんだ。生まれて初めて乗ったんだよ。
「その爺さんが大邱まで私を連れて行ってくれたんだ。
「大邱の紹介所に集められて…何日いたのかはわからないけれど、それから汽車に乗るんだってみんな出て行って、汽車に乗ってソウルに行って、またソウルで売られて行くみたいで。…そうしてソウルで集まったんだけど、20人位、30人が集まっていて、女の子たちがどこそこに行ったとかって言って。私たちは幼かったから許可が出ないとかって言いながら。…そんな風に、そんな風にして連れて行かれたんだ、そうして行ったんだよ。
「私を紹介所に連れて行って、ソウルで女たちを連れに来た人たち、女を買いに来る人たち、その人がお金を払って私たちを買っていくんだよ、言ってみれば。それで、私たちがソウルに何日かいたんだけど、私たちが売れないから、ド田舎から来たから売れないようで、私たちは服もぼろ着を着てたから、その紹介所が準備した新しい服を着せられて、業者がもっと高い金を受け取ったんだよ。私たちのことをそうして売り払ったようなんだよ。どこから連れて来たのか、どこに連れて行くのか、誰もわからないんだ。

接待屋

行ってみたら、軍人、軍人の相手をする所だったんだ。

「ちゃんと売れるようにきれいな服を着せて、日本に送ったり、ハルビンにも送ったりして、どこかに送って、残った女たちは、ソウル市内に売られて行く人は売られて行って。…20人位だったよ、その時、私たちが行った時にも。
「稼ぎが良い所は、そうして売って儲けるってことだよ。私たちはそんなことは知らずに、ただついて行くんだよ。行ってみたら、軍人、軍人の相手をする所だったんだ。
「私たちは戦争が終わる頃に行ったんだ。
「私たちを引き連れて歩いているうちに女たちは全部いなくなって、また他の所から女たちを買い集めて、また人が多くなって。…1年位かな?どうして歩き回ったのかっていうと、軍人たちが撤収するから、そこに軍人がいなくなって、また違う所に移動し、また違う所に行って、それでも日本の軍人たちがやたらと後退するから、そうなったんだ。結局は、私たちが体を売るようになって、…借金をしたのを取り戻そうとするから、売られて行ったわけなんだ。…どれだけいじめられたことか、その人たちは私たちにご飯もまともにくれずに、連れて歩いたんだから。紹介所の元締めが、7人~8人くらいいるんだ、私たちが行った所。
「私たちは、あのモンゴルのどこかまで行ってきたんだから、ひどいもんだろう。
「夏をモンゴルで過ごして、何ヶ月が過ぎたのか、それはわからないよ。
「そこにずっといたんじゃなくて、そこでもあちこち行ったり来たりして、私たちはご飯食べて行ったり来たりして、軍人たちがいないから、ただ行ったり来たりして。
「だから、夏が過ぎて、また秋になろうとする頃に、また北京に行ったんだよ。…北京に行ったのさ、北京の市内。
「張家口 [註 134]って言ってたよ。…それが、中国語なのか日本語なのか、それはわからないけど、谷間に入ったら、そんな所に建物を建てて、日本人も住んでて、中国人が元々住んでいる所みたいで。やたらと家を建ててたんだけど、私たちは建ててあった所に入ったんだ。
「全部土だよ。谷間だし、どこでも空いている所に急に建てた家だから。
「畳二枚を敷いたみたいに小さいんだ。布団一組、(夏の布団を指差して)これ位に薄い布団を敷いて寝るんだよ。ちょうど、これ位[註 135] の部屋だから、一人が寝るようになっていて。ベッド位に高いんだよ、部屋そのものが。廊下に豆炭の火を入れて、壁も土レンガで建てた家だから、寒くないんだ。
「接待屋って書いてあるから、みんなやって来るんだよ。…看板があるから。そこで軍人の相手をしたんだよ。
「そんな家が、どこに何ヶ所あったのかはわからないけど、その村には私がいた家一軒だけで、そこの上の村に行ったら、何ヶ所かあったのかもしれないけど。山の下に行ったら、またそんな家があったんだろうか。
「韓国人が受け持って商売してたんだ、そこは。元締めは50~60歳は超えて見える人だった。
「その元締めが一切をやってくれて、管理して、私たちはお金儲けの道具だったわけだよ、言ってみれば。…元締めは夫婦なら夫婦でやって、兄弟なら兄弟でやって、そんな風だったよ。そこの家族の生業として、お金を稼ぐんだよ。


切り開かれた魚みたいなもんだったよ、私たちは。

「日曜日は本当に軍人がいっぱいいて一列に並んで待っていて、入って来るんだよ。私 一人に軍人が一列に並んで待っていたら、トイレに行こうとしたらずらっと立って待ってるのが見えるだろう。一人ごとにそうして配置されるんだよ。…一日、日曜日、土曜日には30人ずつ、40人ずつ相手をするんだよ、軍人たちを。それこそ10分、5分、その位の時間だから、夫婦が同衾するときみたいに、服を脱いだりするかい。(腰のところを開けて)ここだけ開けばいいんだから。
「10分かかるのか、20分かかるのか、それもわからないんだよ。目をジッと閉じて、(両目を閉じて)切り開かれた魚のようなもんだよ、私たちは。(ライターを手にこすり付けながら)[註 136] だから、平日は客がちらほらいて、5~6人の相手をして、時には10人以上の相手をする時もあって。土曜日や日曜日には30人、40人ずつの相手をして、要領よく素早く相手をする人は50人ずつ、60人ずつ、そうやって相手をするんだって。
「私はそんな風にはできなくて、私は30人程度の相手をしたと思う。
「朝の9時頃に始まって、お客さんの相手をすると、夕方の6時までかな。そうして、また7時、8時からは将校たちが来て、将校たちが。…そういう人たちが来て、人を選んで、トクイ(お得意)がいたら、その人がお気に入りの女の子の部屋に入って、私たちは客がいなければ、いないなりに夜には寝て。
「軍隊から外出する時には、お前は何時間、お前は何時間、将校は将校なりに来て、兵卒は朝から来て、軍隊でサインして、決められた通りに出て来ないといけないんだ。早く出て来た人は早く戻らないといけないし。…休暇で出てきて、することがないから寝て行ったりとか、そんなことはないんだ。時間がないから。
「門から入って来て、劇場で票を売るみたいにして売るんだけど、票代としてお金を払うと、そこで元締めがはんこを押した紙切れをその人に渡すんだ。あれだよ、あれ、はめるやつ、サック。フゥ-それと、その紙切れと、そうして持たせるんだよ。それを軍人に持たせたら、その軍人は列に並んで待つんだよ。…私たちがちょっと、客を一人相手して、二人相手して、そして上手くいかなかったら、さっと出て行って洗う所があるんだ。
「性器の部分を洗う所があるんだよ。そこでさっさと洗浄して戻って来て、その間に戸が開いていて、一人がもう部屋に入って待っていたり、部屋にいて戸を開けておいても、人がいないから服(腰のあたりを指差して)それを開いている人もいて。そして、あまりに忙しい時には洗いに行かないで、言ってみれば[サック]それが裂けたりしなければ洗いに行かないけど、それが裂けたら気持ち悪くて、私たちはできないんだよ。
「洗いに行ったら、客の相手をしないでどこに行ったんだって、大声で叫んで大騒ぎするんだ。そこの管理する人が。
「短刀も差しているし、銃弾みたいなのも差してるから、そうしてるから。短刀を外さないでするから、私たちはそれが脇腹にも当たるし、お腹にも当たるし、体中に、胸にも当たるし、名札みたいなのが当たるし。
「私は、私が病気にかからないで、毎日軍人の相手をするようなものだから、言ってみれば。病気にかかったら、注射を打ってもらって、一週間でまた注射を打ってもらいに行って、客の相手をするなって言われるんだ。ご飯だけ食べて客の相手をしないから、元締めは機嫌が悪いんだ。
「また、ある人は妊娠して、赤ちゃんを堕ろしたら、何日か休んで。
「病院から戻って来ないと、『検診で落ちたんだって』って言って、私は落ちなかったから軍人の相手をして。
「裂けて、痛くて、洗い場に行って洗うとひどく痛くて、耐えられなかったんだよ。それで、痛いって言うと、消毒薬、それを使えって言われて、検診する所に行ってまた薬を塗って、血を抜いて、また注射したら検診で落ちないから、ず-っとやったんだよ。

帳簿整理

こんな箱があって、そこに入れてね。何人の相手をしたのかがわかるんだ。

「[名前を]日本式にサダコってつけてからテリコって呼ばれたりして。…テリコは、松の字に竹の字だったよ。(訳注: 遠い昔のことなのでテリコの漢字については認識に間違いがあるようです)
「朝夕に少し静かだったら、体を洗ったりして。食事の準備をしてくれる人がいたんだ。
「昼ごはんを食べる余裕なんかなかったな。塩の付いたおにぎりを作って、陶磁器の器みたいな平たいお皿に3~4個乗せてくれるんだ。留置場に差し入れて食べるみたいに。
「軍票は保管するんだよ。(小さな箱を持って)こんな箱があって、そこに入れてね。そうしたら何人の相手をしたのかがわかるんだ。私がそれを事務室に持って行ったら、数えてみて、自分たちが帳簿に書くんだよ。
「それに、何もわからない人は、あそこが裂けても洗わないで、ただお金さえたくさん稼げば良いんだと思って。お金を稼いでも、私たちは数えることもできないんだ。お金なんかくれないよ。
「着る服がない場合は、そのことを言って、元締めがこうしてお金をくれれば、買って着るんだよ。一着で、どうするのさ。日本の服を買うんだよ。安物みたいなの、そんなのを。
「私たちが、いくらずつ使うからお金をくださいって言うと、元締めがくれるんだけど、いくらでもってわけにはいかないんだ。…今で言えば、1万ウォン欲しい、2万ウォン欲しいって言うと、その金額をくれた後、『誰々がいくら使った』って、それを記録するんだ。給料なんてこれっぽっちももらえなかったけど、時々計算だけはするんだ。1ヶ月に一回ずつ。あいつはいくら稼いだ、こいつはいくら使った、そういうことを教えるのさ。
「ああ、息が苦しいよ。自分がこんな風になっちまったんだって、真っ先にそんな思いになったよ。
「女の子は成長したら結婚するっていうけど、これがそれなんだって思ったよ。17歳、18歳になったら、生理も始まったしな。
「16歳の時に行ったんだから、そういう行為についても知ってただろうとか言うけど、気分がどうとか、何がどうとか、私たちはそんなことは知らなかったんだ。男、女の相手がどうとかって、そんなことは知らない、知ってたのは、結婚すれば、男と女がそうして一緒に暮らすんだってことだけだ。
「親しい人がいないから。…今も他人の前でまともに顔を上げて歩けなくて、お酒ばかり飲んで過ごして来たから、その頃だって見慣れない女たちと会って。私の思い通りにできることは何もなかったんだよ。だから、その頃は物思いにふけってばかりいて…その人たちがやろうって言う通りにしないといけないし、食べろって言われたら食べて、寝ろって言われたら寝て、ここにいろって言われればそこにいて。何もかも、その頃の話はよくわからないよ。他の話、何、何を話せばいいのか。

避難民

私たちが中国から出てくる汽車に、荷物みたいに貨物列車に乗せられて来たんだけど。

「山の谷間に行って落ち着いて、元締めからすれば稼ぎはこれからだって頃に、戦争が終わって解放されたんだよ。
「解放されたってことを朝聞いて、私たちは出て来たんだよ。聞いてすぐに、荷物をまとめて。
「私たちが行った時はハルビンを経てモンゴルに行ったんだけど、帰って来る時にもハルビン駅を経て、汽車に乗って北京まで、みんな行くんだよ。避難民として追われて。…私たちが中国から出てくる汽車に、荷物みたいに貨物列車に乗せられて来たんだけど。
「何日もかけてそうして出て来たら、北京で、独立軍だっていう40~50、60歳位の人たちが太極旗(韓国の国旗)を劇場みたいな、そんな広場に掲げて、何千人なのか何百人なのかとても大勢の人がいて、私たちを集めておいて、人を選別するんだよ。中国人と韓国人。
「そうして人を分けておいて、独立軍の人たちが韓国人の私たちだけを引率して北京、天津と、船に乗って行くって所を調べてみたら、船がなくなった、なくなって乗っていけないって言うんだよ。
「汽車に乗ってどこまで来たのかもわからないよ、私が、中国のどこまで来たのかもわからないんだ。汽車も進まないし、人も進まない。平壌に行くには、まだ遠いのに。鴨緑江も越えないといけないし、なのに、まだ中国の地でさまよってたんだ。
「中国の地で昼も夜も歩いたんだよ。…8月15日から9月、1ヶ月歩いたんだ。歩いて、寝て、あるときは物置みたいな所で寝ると食べる物をくれたんだけど、ほうきにするキビ、それを煮て、水に砕いてくれるんだよ。お腹が空いて死にそうだから、それをしっかりと噛んで食べるんだ。水が口に入らないし。みんな、そうして生きたんだよ、本当に、生きて韓国に帰ろうって。
「私は、次の年に韓国に戻ったんだ。農業をしている家に、そんな所で1年、北朝鮮にいたんだよ。…解放されてから1年半、2年も過ぎてから韓国にたどり着いたんだ。
「解放されたから、国が逆さまになったのか、どうなったのか、何もわからなくて。…とにかく、今まで笑ってた人が死んでいくのもわからずに、どうしたのって思うだけで。そんな銃弾の中でも、死なずにこうして生き残って…そんなことを考えたら、どうやって生き残ったんだろうって思って、考えるだけでもすごいことだと思う。

欠点

うちの子に話すべきなんだろうか、どうしたらいいんだろう。

「うちの子に話すべきなんだろうか、どうしたらいいんだろう、そんなことを考えてたんだ。何故なら、これは自慢することじゃなくて、私たち韓国人にとっては欠点なんだから。
「とにかく私の良心としては、捨てたんだよ。汚れた体だっていうことさ。結婚しても、良いことは言われないし。
「私の貞操は消えてなくなって、これから私がどんな人と出会っても。
「あれをしたら、私のことを処女じゃないって誰もお嫁にもらってくれないだろう。そんな冷遇を受けて過ごすなんて。世の中は少しずつこうして良くなっているし、私の暮らしも段々と良くなっているし、今後も借家暮らしでも楽になるだろうけど。
「私はもう、男ってやつらは嫌なんだ。私の思い通りに生きてみよう、そんな度胸しかないんだよ。誰かが北朝鮮の方から来たって言って、一緒に暮らそうって人も何人かいたんだ。
「私も、文字も知らないし、何もわからないから、くやしい思いばかりで。それが恨みに、不満になってね。でも、あそこに行って体が汚れたって考えたら…、私の体はもう汚れてしまったんだよ。他の人、友だちらは、みんな両親に恵まれて、お嫁に行って、子供たちも産んで、幸せに暮らしてるのに。言ってみれば、ここみたいな田舎の人たちは、淫らな女だといって、そうやって蔑むんだよ。一人も、思いやりのある言葉を言ってくれる人は一人もいないよ。それで、ソウルの子ども[註 137]も、幼い頃にはハルモニ、ハルモニって慕ってたけど、今は成長して、こんなことまで知る必要はないってことさ。ハルモニが一人で暮らしているのは知っているけれど、これこれこういうことがあったから、なんてことは話す必要はないってことだよ。
「ハルモニ同士で話して、笑い話をして、花札で遊んで、そんなことしか知らないよ、私は。…花札も長い時間はしないし。2~3時間も遊んだら、腰が痛くて。
「もう少し、長生きしたいってことと。
「私よりも恵まれない人と比べるんだよ、以前から。
「(胸を指差して)この私の胸の中に入っているもの、このアパートの人たちは何も知らないから、掃除しろって言うんだ。嫌だって言えないだろう。白内障の手術をした目を片方、こうして隠して掃除しに行って。目が回って抜けそうになるよ。何か拾ったりするけど、目がよく見えないし、誰も私の気持ちなんかわからないのさ。どれだけつらいか。…人間として、どこにも頼る所がないし、寄る辺もないんだ、私の気持ちを察してくれる人は誰もいないんだ」

 
[註 131]
カンボジアに連行されて行き、1997年に発見されたフンハルモニが韓国の国籍を回復し、キム・スンアクが住んでいる慶尚北道慶山市のアパートに引っ越してくる光景を目撃した状況を説明している。
[註 132]
キム・スンアクは2001年に白内障の手術を受けた。
[註 133]
慶尚北道慶山市南川面金谷洞。
[註 134]
張家口は中国の河北省北西部にある都市。
[註 135]
一人用の布団程度の大きさを言っている。
[註 136]
キム・スンアクは軍人たちについて話す時、特に言葉が早くなり、手に持っていたライターを手と膝にこすり付けながら落ち付かない様子を見せた。
[註 137]
長男の一男一女の孫たちのこと。
[註 131]
カンボジアに連行されて行き、1997年に発見されたフンハルモニが韓国の国籍を回復し、キム・スンアクが住んでいる慶尚北道慶山市のアパートに引っ越してくる光景を目撃した状況を説明している。
닫기
[註 132]
キム・スンアクは2001年に白内障の手術を受けた。
닫기
[註 133]
慶尚北道慶山市南川面金谷洞。
닫기
[註 134]
張家口は中国の河北省北西部にある都市。
닫기
[註 135]
一人用の布団程度の大きさを言っている。
닫기
[註 136]
キム・スンアクは軍人たちについて話す時、特に言葉が早くなり、手に持っていたライターを手と膝にこすり付けながら落ち付かない様子を見せた。
닫기
[註 137]
長男の一男一女の孫たちのこと。
닫기
List Korean English Chinese Japanese Top
페이지 상단으로 이동하기