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日本人が知らない独島10の真実


日本の主張 日本は古くから独島の存在を認識していた。

長久保赤水の『改正日本與地路程全図』(1846年版)等の日本の各種地図や文献を通して日本が独島の存在を承知していたという事実を確認できる。

日本の主張はこ嘘
日本は古くから独島を韓国の領土と認識


日本政府は1846年版『改正日本輿地路程全図』を日本が独島を自らの領土であると認識していたという根拠としてあげているが、1779年の初版をはじめとする正式版では鬱陵島と独島が日本の経緯度線の外に描かれている。さらに、日本の西北の境界は隠岐島という『隠州視聴合紀』(1667年)の文句が書き込まれている(資料1)。これは独島を日本の領土と認識していなかったということを意味している。
また、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』(1821年)をはじめとする日本の官撰古地図は、鬱陵島と独島を日本の領土として表してはいない。1876年、日本陸軍参謀局が発行した『朝鮮全図』も、鬱陵島と独島を朝鮮の領土に含めている。
日本政府の公式文書からも、1905年、日本が独島を不法に編入するまでは、独島を日本の領土と認識していなかったという事実が明白である。日本外務省の官吏が朝鮮の事情を調査した後提出した報告書『朝鮮国交際始末内探書』(1870年)には、「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」というタイトルで鬱陵島と独島に関する内容を記録している。これは独島を日本の領土ではなく朝鮮の領土であると認識していたことを表わしているのである(資料2)。
1877年、当時日本の最高権力機関であった太政官は、鬱陵島と独島を島根県の地籍に入れるべきかについての内務省の伺い書に対して、17世紀末に江戸幕府が下した鬱陵島渡海禁止措置等を根拠に、「竹島(鬱陵島)外一島(独島)が日本とは関係ないと心得るべきこと」という指令を下している。日本の一部の学者たちはこの指令に出てくる「一島」は独島ではないと主張するが、島根県が内務省に提出した「磯竹島略図」を見れば、この「一島」が松島すなわち独島であるという事実は明らかである。
資料 1. 『改正日本輿地路程全図』(1779年初版)
『改正日本輿地路程全図』(1779年初版)(鬱陵島で)高麗(朝鮮)を見るのは雲州(出雲)から隠州(隠岐)を望むのと同じである。
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資料 2.『朝鮮国交際始末内探書』(1870年)
『朝鮮国交際始末内探書』(1870年) 「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」
松島(独島)は竹島(鬱陵島)のそばにある島である。松島についてはこれまで記された記録もなく、竹島に関しては元禄年間の往復書簡にある。元禄年間以後暫くの間、朝鮮が人を派遣して居留させたが、今は以前のように無人島となった。竹と竹よりも太い葦が生えており、朝鮮人参も自生していて、そのほか魚も相応に獲れると聞いている。以上は朝鮮国の事情を現地で偵察した内容であり、その大略的なものは書面に記録したとおりである。一旦帰国し事案別に調査した書類、絵、図面等を添付して報告することとする。以上。
午(1870年)4月 外務省出仕 佐田白茅、森山茂、斉藤栄
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資料 3. 太政官指令と付属地図「磯竹島略図」(1877年)
太政官指令「言上の旨の竹島(鬱陵島)外一島(独島)の件につき、本邦は関係がないことを心得置くこと」 明治10年(1877年)3月29日
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磯竹島略図(鬱陵島)磯竹島(鬱陵島)から朝鮮を見ると西北にあたり、海上に約50里程度
松島(独島)から磯竹島(鬱陵島)まで西北に40里程度
隠岐、島後、福浦から松島(独島)まで西北に80里程度
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