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水山里古墳
Title水山里古墳
LanguageJapanese
ReplayTime9m 26s

開放的な文化を志向する。水山里古墳壁画
1971年に北朝鮮で発掘された高句麗古墳一基に、学界の関心が集まった。水山里壁画古墳が、それである。古墳は全体的に大きく毀損されているものの、残された壁画を通して、高句麗時代の生活像が生き生きとその姿を現した.
水山里壁画古墳が築造された5世紀、高句麗は、名実共に北東アジアの中心国だった。高句麗がこのように中心国としての地位を築きえた理由は何だったのだろうか? よく知られているように、高句麗は強力な軍事力を備えていた。しかし、単に軍事力だけで、長い歳月にわたってその地位を維持できたのだろうか? 今から、水山里古墳壁画の原形を土台に復元された姿を通し、高句麗が北東アジアの中心に立つことのできたもう一つの理由を探ってみよう。
開放的な文化を志向する。水山里古墳壁画
水山里古墳は、平安南道南浦市江西区域水山里から西南方向に4km離れた、コジョン山の麓にある。 この古墳は、生活風俗図が描かれている石室封壁画土墳で、その内部は、羨道と玄室に分かれている。二人の守門将が守る羨道を通って玄室に入ると、墓の主人の生活を東西南北の四つの壁に描いた壁画に出会える。
壁画を残した高句麗人たちは、蓮の花をはじめとする華やかな文様で四つの壁を装飾し、柱と斗栱、大梁などを描き入れ、墓の内部があたかも木造建物のように見えるようにした
羨道
墓に入ると先ず、丸い輪の柄(つか)が付いた大きな刀を右手に持ち、旗の付いた長槍を左手に持った将帥が門を守っている。高句麗人たちは、槍と刀で武装した門衛を配することで、墓がいつまでも守られることを願ったのだろう。
北壁
墓の中に入ると先ず、大きく毀損された北壁に突き当たる。壁面全体の画面構成は、墓の主人夫妻の室内生活の様子を描いたものになっている。元々、北壁には、家屋の中央に置かれた平床の西側に、赤い服を着た墓の主人が正面を向いて座り、女主人は、東側に座って夫の方に顔を向けており、墓の主人の横には、扇を持った男の侍従3人が立っていた。現在は、主人公夫妻と男の侍従3人の絵は、毀損されて残っていない。
画面右側の侍女たちは、黒と赤の長いチョゴリとチュルムチマを身につけ、髪を結い上げている。左側には、頭に黒い頭巾を被った男の侍従たちが、主人の命を待つように、丁重な姿勢で立っている。 北壁の人物のうち、私たちの視線を釘付けにするのは、まさに、屋根を支えている力士像だ。西壁にも確認できるこの力士は、壁画の毀損によって顔や体が鮮明でなく、その姿を詳しく知ることはできない。他の高句麗古墳壁画に登場する力士像の異国的な姿とは多少違っているが、ぎらぎらした目と大きな鼻から、恐らく西域系の人物と思われる。高句麗とは遠く離れた西域の者が、どうやってこの墓に登場することになったのだろうか? これは、当時の高句麗文化が、遠く離れた西域とも幅広く交流するほど、開放的で国際的だったという事実を物語っている。
東壁
東壁は、菱形の連続模様からなる2本の長い帯で上下に仕切られており、上方には、互いに向かい合った二人の人物の姿が、下方には、太鼓と角笛を奏しながら行進する、鼓吹楽隊の姿が描かれている. 画面の上段には、二人の人物が、一人は立ち、もう一人は座った姿勢で、互いに向かい合う形で描かれているが、恐らくは、墓の主と推定される人物を出迎える場面だと思われる。面白いのは、二人の人物の大きさが違っていて、ひざまずいた人物が遥かに小さく表現されていることだ。これは、高句麗時代には、身分によって人物の大きさを変えて描いたことによる. 下段には、行列の先頭に立ってメルブクを打つ人々と、その後方に角笛を吹きながら付き従う人が見える。メルブクとは、「肩に背負う太鼓」という意味から付けられた名で、他の高句麗壁画にもしばしば見出される。現在の太鼓の形とは違った、風変わりな太鼓だ。
南壁
玄室の入口がある南壁には、黄色の服を着て、日差しをさえぎるように日傘を差した男たちが、あたかも墓の主を迎えるかのように、入口の両側に立っている。人物の周りには、華麗な雲の文様が見える。この雲の文様は、墓内部の随所に施されているが、墓の内部が、現実の空間ではなく、瑞祥の気運をもつ、来世の幻想的な世界だということを伝えている。
西壁
それでは、水山里壁画の中で高句麗の生活像を最もよく表わしている西壁を見てみよう。西壁は、 白と黒の四角形を交互に連続して描いた2本の長い帯で上下に仕切られており、墓の主人と見られる夫妻一行が曲芸を見物する行列の姿が描写されている。

墓の主人は、衿、前中心、裾、袖口など、衣服のへりに黒いラインを入れた、最近のトゥルマギのような袍を纏い、頭に黒い冠を被って威厳をつけている。女主人は、赤い紅をさして美しく化粧し、高級な絹織物に刺繍が施されたチョゴリのような襦を纏い、色とりどりの布をつなげた色動チマをはいており、高句麗の貴族女性の華麗で洗練された服飾趣向を示している。 侍従と侍女がかざす日傘を差した墓の主人夫妻の後ろには、華麗な服を着た男と女たちが付き従っている。 貴族とは違い、侍女の身なりはやや素朴な感じだ。このように、高句麗時代には、身分によって着ることのできる服装と装飾が違っていた。 行列の前方では、曲芸師たちが互いに才を競うかのように多彩な技芸を繰り広げている。これらの技芸は、西域を通して中央アジア地域からもたらされたものとして知られている。先に見た異国的風貌の力士像とともに、これは、当時の高句麗が東アジアはもとより、中央アジアの国とも交流しながら、自らの文化を豊かに育んでいたことを物語っている。
また、安岳3号墳、徳興里古墳に見られる服飾とは異なり、水山里壁画に登場する人物たちの洗練された服装と装飾は、高句麗の上流社会の特徴をはっきりと示しており、当時の高句麗の人々のハイレベルな文化生活の一面をよく表わしている。水山里古墳は、このような価値が認められ、2004年に、高句麗時代の他の古墳とともに、ユネスコ世界文化遺産に登録された。

日本の奈良県にある高松塚古墳。この古墳壁画に登場する女性も、色動チュルムチマをはいているが、水山里古墳壁画の女主人の服装と非常に酷似している。これは、高句麗の文化が周辺国に及ぼした影響の痕跡を示す貴重な事例と言うことができる。 高句麗古墳壁画は、文献記録とは違い、高句麗当時の生活像を視覚的に生き生きと伝えてくれる。壁画を通して、高句麗が、軍事力のみならず高い文化水準をもって北東アジアの中心国としての地位を築いていたことが確認できる。 現在復元された水山里古墳壁画は、まさに、現代を生きる私たちにその事実を証明している。

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