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我が永遠の領土、独島(中学生用)


単元3の参考資料


1 古文献の中の独島

独島が韓国の領土であるという根拠は、6世紀にさかのぼる。三国時代以前、鬱陵島は于山国と呼ばれる小規模な王国であった。当時、于山国の領土は鬱陵島とその周辺の島である独島などから構成されていた。于山国は平地が少なくて山が多く、ほとんどの人が畑農業をしたり、漁業をしながら生活していた。陸地に暮らしていた人々よりも文化水準が低かったが、新羅の人々と互いに言葉が通じ、往来も頻繁にあった。于山国の人々は陸地に帰属することを拒否して暮らしていたが、新羅の異斯夫将軍が何瑟羅州の軍主となって于山国を新羅に帰属させた。その後から于山国は新羅に朝貢を捧げるようになった。
高麗が建国されると、于山国は高麗にも朝貢を捧げた。高麗時代にも、鬱陵島の住民と領土を保全するため努力し続け、鬱陵島へ民衆を移住させる政策を試みたこともあった。高麗時代の歴史および文化をまとめた書物『高麗史』には、于山国が中国東北地方の女真国の侵略を受け、農機具と食糧を送ったという記録が残っており、毅宗11年(1157年)には鬱陵島に陸地の住民を移住させるため鬱陵島を詳しく調査したという記録が残っている。高麗時代末期には鬱陵島に住んでいる人々を対象に倭寇が略奪行為をしたこともあった。
朝鮮は建国初期から住民が鬱陵島に居住できないようにした。その理由は、島や海岸地域で略奪行為をする倭寇の侵入を防ぎ、各種の軍役や夫役(民衆に労役を課すこと)を避けて鬱陵島に逃げて行った住民を連れ戻すためであった。世宗20年には、島に逃げていった民衆約70人を全て捕まえて連れ戻し、島の住民はいなくなったという。
島の住民を連れ帰る政策は領土の放棄を意味するものではなく、島の住民の安全のためだったのである。これは、世宗14年(1432年)に独島と鬱陵島を江原島蔚珍県に属するものとし、管理監督のために地方官吏を派遣した事実を通して理解できる。その後、鬱陵島と独島に関する記録は『世宗実録』地理志(1454年)、『東国輿地勝覧』(1481年)、『新増東国輿地勝覧』(1531年)などの政府が制作した書物に続けて登場している。

2 『世宗実録』地理志の独島に関する内容

■江原道蔚珍県
于山国と武陵
二島は県の真東の海の中央にある。二島は互いに距離が遠くなく、晴れていれば十分に眺めることができる。……太祖の時、その島へ逃げていく民衆がとても多いということを聞き、再び三陟の金麟雨を按撫使(王命により特別に派遣された臨時の官職)として人々を 連れ戻し、その地を無人にしたが、金麟雨が「地が肥えていて竹の大きさが柱のようで、ネズミは大きさが猫のようであり、桃が枡のように大きい。全てがこうだ」と言った。

3 『新増東国輿地勝覧』の独島に関する内容

■江原道蔚珍県
于山国、鬱陵島
武陵とも言い、羽陵とも言う。二島は県の真東の海の中央にある。三つの峰がそびえ立ち、空に届いているが、南の峰が多少低い。晴れていれば峰の頂上の樹木や山麓の砂浜をありありと見ることができ、追い風であれば二日で行ける。……本朝の太宗の時にその島へ逃げて行った民衆がとても多いという言葉を聞き、再び三陟の金麟雨を按撫使として(人々を)連れ戻し、その地を無人にした。……成宗2年に別に三峰島があると知らせる者がいたため、朴宗元を送って探させたが、風浪により船を着けることができずに戻ってきた。一緒に行った船一隻が鬱陵島に停泊し、大きな竹と大きなフグを持って戻ってきて、「島の中に人はいない」と言った。

4 『東国文献備考』の独島に関する内容

鬱陵島は蔚珍から真東の海の真ん中にあり、日本の隠岐州と近く、三峰が空に高くそそり立っているが、南の峰が低い。晴れている時は峰の上にある樹木や山麓の砂浜までもがありありと見える。追い風であれば二日で行ける。面積は四方が百里(日本の十里)ほどで、ミシマサイコ、コウホン、シャクナゲ、フジクサ、各種の香木とアシが産出し、一抱えを越すような竹が多く、アシの実とホウセンカの種が大きいものは枡が作れるほどだ。ヤマネコが犬ほどに大きく、ネズミが猫ほどである。海の中に大きな獣がいるが、その姿は牛のようで目は赤く、角はない。群れをなして海岸に横になっていて、人が一人で来るのを見ると攻撃するが、大概は人に会うと逃げて水の中に入る。
本朝の太宗の時に遊民がこの島に多く移っていったという言葉を聞き、三陟の金麟雨を按撫使として任命し、二度も連れてきた。世宗20年に(蔚珍)県人である萬戸(朝鮮時代の各道の武官職)の南会が数百人を率いて行って逃亡者を捜索し、金丸など約70人を捕まえて皆を連れて来た後、この地には誰もいなくなった。成宗2年(1471年)に誰かが「三峰島という島が別にある」と言ったため朴宗元を送って調査したが、風浪のために到達できず、戻ってくる途中に一行のうち船一隻が鬱陵島に着いて大きな竹と大きなアワビだけを持ち帰り、「島には人が住んでいません」と報告した。『輿地志』には「鬱陵、于山は共に于山国の地であり、この于山を倭人たちは松島と呼ぶ」とある。光海君7年(1615年)に倭人が船二隻を送って「礒竹島の状況を探知する」と言い、また「島が慶尚道と江原道の間にある」と言った。

 
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