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独島(1) 朝鮮侵略の第一歩、独島強制編入

「独島は我が領土」という歌の歌詞の第5番目を見ると、次のような内容がある。
日露戦争の直後に持ち主のいない島だと、無茶な言いがかりをつけられたら困るよ。新羅の将軍異斯夫が地の下で笑うよ。‘独島は我が領土だ’。
 
その通りだ。日露戦争がきっかけとなり、軍事上の戦略拠点として日本は独島に目を付けた。このように日本の侵略的目的意識があって、その最初に侵奪されたのが我が独島である。
日本の朝鮮侵略は、1850年代に吉田松陰が最初に朝鮮奪取を唱えて以来、木戸孝允、西郷隆盛等の征韓論者[註 001]が、何かあると常に声高(こわだか)く唱えてきた。
日清戦争の戦闘経過図
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日本の朝鮮侵略が本格化したのは、1894年の日清戦争の頃からである。早くから朝鮮侵略を準備してきた日本は、1894年の東学農民蜂起を足がかりに軍隊を朝鮮に派遣して王宮を占領し、ソウル·釜山·仁川(インチョン)·元山(ウォンサン)等に軍隊を駐屯させた。軍隊は司訳院、掌楽院等の中央官庁の庁舎を兵舎として使用し、その上ソウル〜釜山、ソウル〜仁川など全国のいたるところで軍用電線を設置し、鉄道を敷設し、戦争に利用した。牙山(アサン)湾の楓島(プンド)の沖で始まった日本軍と清国軍との戦闘は平壌·西海へと拡大し、朝鮮の陸地と海は侵略戦争の舞台として踏みにじられた。
日清戦争で勝利した日本は朝鮮を手中に収め、清から遼東半島まで割譲させたが、ロシア·フランス·ドイツ等の3国干渉により諦めるしかなかった。特に日本としては、朝鮮へその影響力を拡大させようとするロシアが目の敵(かたき)であった。ロシアを排除しなければ朝鮮を併合する目的を達成できないと考えた日本は、目的達成のために手段と方法を選ぶことはなかった。朝鮮国内で親露勢力が拡大するのを恐れた日本は、ついに親露政策をとる明成皇后を殺害するに至った。
仁川に上陸し、市街地を行進する日本軍の木越旅団(1904)
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3国干渉により遼東半島を清国に返還し、チャンス到来を狙っていた日本は1904年2月8日、旅順港に停泊していたロシア軍艦2隻を奇襲攻撃したことから、日露戦争が勃発した。同日、日本軍は朝鮮政府の中立宣言を無視し、仁川(インチョン)·南陽(ナミャン)·群山(グンサン)·元山(ウォンサン)に上陸を開始した。日本陸軍の選抜隊である木越安綱旅団は9日ソウルに進駐し、引き続き井上光中将が率いる第12師団主力部隊がソウルに入った。日本は10年前、日清戦争で果たせなかった朝鮮併呑(併合)をより用意周到に推し進めた。
1904年2月23日、日本は軍隊を動員し王宮を包囲し、皇帝と政府を脅迫し「韓日議定書」[註 002]を強制的に締結した。日本はこの議定書を根拠に、軍隊駐屯はもちろん軍事戦略上必要な地点を占領し、収用できる権利は全て確保し、朝鮮侵略をより露骨に進めた。
韓日議定書第四条
第3国の侵害もしくは内乱のため、大韓帝国の安寧あるいは領土の保全が危険にある場合は、日本政府は迅速に必要な措置を取り、大韓帝国政府は日本政府の行動を容易ならしめるために十分な便宜を提供する。日本政府は前項の目的を達成するために、軍の戦略上必要な地点を臨機に収容できる。
 
1904年4月、日帝は朝鮮駐留軍司令部を設置し、軍隊を朝鮮の全域に拡大し、配置した。戦争が本格化した1904年7月、駐留軍司令部は何らの法的根拠もなしに咸鏡道(ハンギョンド)に軍制を実施し、1905年1月には日本軍の憲兵隊がソウルとその周辺地域の治安警察権まで掌握した。戦争のため軍用電線と鉄道を敷設し、その保護のために軍律を公布した。軍用電線や鉄道を破壊·破損したり、戦争遂行上妨げとなる人々は死刑に処した。
また永興(ヨンフン)港、鎮海(チンヘ)などに要塞を設置し軍律を公布し、要塞に指定された地域の土地を強制的に収容した。1905年7月、日本軍が軍用地として使用するために強制収容しようした土地は、龍山(ヨンサン)·平壌(ピョンヤン)·義州(ウィジュ)等で、975万坪にも上った。
このような状況であったため、日露戦争の戦略的要塞地である鬱陵島(ウルンド)と独島が、強制収容の対象から除外されるはずはなかった。日露戦争の初期から日本軍は鬱陵島と独島の戦略的価値をよく認識していた。鬱陵島と独島は、南下するロシアのウラジ才ストック艦隊と日本の連合艦隊が対峙する戦略的要衝地だった。ロシアのウラジオストックの艦隊が東海の海上権を脅かす中で、日本海軍は1904年5月15日を前後としたわずか数日間で、海軍戦力の3分の1を失った。
強制収容され、日本軍の望楼が設置された鬱陵島サドン村の望郷峰
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日本軍としては絶対絶命の危機的状況を突破するために、最善策を取る必要があった。新しい軍艦を建造するには、余りにも長い時間が要求された。そこで急を要する戦況を考慮して、今ある軍艦で作戦を遂行する方策を考えた。それは基地の確保と望楼を設置し、敵艦の動向をいち早く的確に掴む事であった。
鬱陵島と独島はこのような日本の作戦遂行のため、絶対的に必要な海域の島であった。1904年5月18日、日本は大韓帝国にロシアの鬱陵島での森林伐採権を取り返すように要求して、鬱陵島に対するロシアの基盤を戦略·戦術的に排除しようとした。そして9月1日に日本軍は鬱陵島の西と南に監視所をそれぞれ設置した。独島にも望楼設置のため、軍艦新高丸を派遣し、調査した。新高丸が独島の現地調査のため出発した日である9月24日は、中井養三郎が日本に独島の領土編入の請願書を提出する5日前の事であった。
中井養三郎は外国沿海に出て、潜水器漁業に従事した事業家で、独島に多く生息するアシカ[註 003]猟の独占的経営を計画していた。当初、彼は独島が韓国の領土であることを知り、日本政府を通して韓国に貸下請願書を提出しようと思っていたが、海軍省水路局長の肝付兼行(きもつきかねゆき)などの入れ知恵もあって、9月22日、独島を日本の領土に編入する請願書を日本政府に提出した。
当時中井が‘独島の日本領土への編入請願書’を提出した時、内務省の井上書記官は反対していた。
韓国の領土であるかもしれず、また不毛の岩礁を編入すれば、我々を注視している諸外国に日本が韓国を併呑(併合)しようとしているという疑いを抱かせる事になりかねない。
- 中井養三郎の独島事業経営概要,1906
 
内務省が請願を棄却する流れになると、中井は外務省の政務局長を訪れた。当外務省の政務局長であった山座円次郎は、日露戦争に全面的に関与していた人物で、日露戦争の宣戦布告の原文を起草したことで知られていた。彼の反応は内務省とは完全に異なっていた。
今こそ独島の日本編入が必要なのだ。独島に監視所を設置し、無線もしくは海底電線を設置すれば、敵艦の監視に最善ではないか
- 中井養三郎の独島事業経営概要,1906
 
日露戦争の戦闘経過図
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敵の艦隊を監視するための望楼と海底電線を設置すれば極めて良い、という外務省政務局長の発言がまさに具体的現実となったのである。1904年11月、日本海軍はまたもや軍艦対馬を独島に派遣し、監視と通信施設の設置がかなうかどうか、調査した。しかし、独島での望楼設置は冬の悪天候と作戦上の問題等から、先送りになった。
そうこうする内に、1905年1月1日、日本軍が旅順を陥落させると、日露戦争は新しい展開を迎える事になった。日本の連合艦隊の総司令官である東郷平八郎は、インド洋から回航するバルチック艦隊を撃破するために、全艦隊を大韓海峡に集結すべしと命令を下した。旅順が陥落したことから、ロシアのバルチック艦隊が大韓海峡を通過し、ウラジオストックに向かう事が明らかになったからである。
このような緊迫した状況で、日本の戦時内閣は独島侵奪の具体的な実行を計画した。1905年1月10日、内務大臣の芳川顕正(よしかわあきまさ)は総理大臣の桂太郎に‘無人島所属に関する件’という秘密公文を送り、独島編入のための閣議の開催を要請した。1月28日総理大臣と海軍大臣等の11名の閣僚が出席する中、独島の編入が決定された。
中井養三郎という者がこの島にて漁業に携わった事は、関係書類から明らかであるので、国際法上の占有事実があるとみなし、この島を日本に所属させ、島根県所属隠岐島司の所管にしても問題なし、と考えられるので、閣議決定が成立したものと認める。
- 日本内閣の独島編入決定文. 1905.1.28.
日本政府の閣議での独島編入決定文
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日露戦争でロシアのバルチック艦隊が撃沈されている場面(1905)
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日本政府は中井というひとりの漁民の請願を承認するという形式でもって、有無を言わさず独島の強制的編入を断行したのである。そして島根県知事は1905年2月22日、島根県告示第40号で独島が隠岐島司の所管になった事を告示した。このような島根県告示第40号が、現在日本が正当性があると主張する最も重要な文献となっている。
一方、ロシアのバルチック艦隊は、赤道を回航する7ヶ月という長い航海の末、1905年5月27日ついに大韓海峡に至ったが、艦隊の状態は最悪であった。兵士が疲れ切っていたバルチック艦隊は、万全の体制で臨む日本連合艦隊に次から次へと撃沈されていった。大韓海峡で負傷したバルチック艦隊の総司令官ロジェストウエンスキー提督は、鬱陵島近海で日本軍の捕虜となり、彼に代わって艦隊を指揮したネボカトフ提督も、夜を徹して逃げ延びようとしたが、5月28日の朝、独島近海で捕虜となった。バルチック艦隊が日本連合艦隊によって撃滅されたのである。
鬱陵島から眺めた独島
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鬱陵島のソッポ村に残っている日本軍望楼の跡
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世界最強艦隊としてその名を轟かしていたバルチック艦隊を鬱陵島と独島の近海で撃滅した日本軍は、二つの島の戦略的価値を再認識した。しかし未だに強力な軍事力を持っていたロシアと、いつまた戦闘を行うかわからない状況の下で、日本軍は鬱陵島の北部とそこから眺められる独島に望楼を1ヶ所追加する事になる。日本の海軍は同年6月橋立丸による再調査を経て、7月25日独島での望楼設置工事を始め8月19日に完成させ、海上監視を開始した。
しかし、長期戦となるだろうと予想していた戦争が、同年の9月5日ポーツマス講和条約[註 004]の締結で予想より早く終結すると、その役目を終えた独島監視所は10月24日に撤去された。
一方、日本軍は1905年10月8日鬱陵島と独島の間に海底電線を敷設し、また11月9日独島と日本の松江の間にも海底電線の敷設を完了させた。当時戦争が終わっていたにもかかわらず、日本軍は独島に海底電線を敷設し、朝鮮半島を併呑しようとする飽くなき意思を隠す事はなかった。
独島の写真を掲載し、日露戦争の戦勝記念の名所として紹介した日本の新聞(1906)
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日露戦争直後、独島は当時の日本のマスコミに大きな写真で戦勝記念名所として紹介された。帝国主義の日本における独島は、小さな岩の島なのではなく、朝鮮半島侵略の戦勝記念地であったのである。
日本は日露戦争が勃発した直後、強制的に締結した韓日議定書(1904·2)を皮切りに、第1次韓日協約(1904·8)、第2次韓日協約(乙巳勒約1905·11)、韓日新協約(1907·7)、韓日併合条約(1910·8)へと続き、狙い定めていた韓半島併合を完結させた。
つまるところ、帝国主義日本による韓半島の併合の第1歩が独島であったという事だ。

 
[註 001]
1870年代前後に日本の政界では、韓国を攻略しようとする征韓論が巻き起こった。明治維新の後、近代化を推し進めていた日本は、近代化推進勢力の官僚達と近代的な内政改革に反対する保守勢力の2大勢力が対立していた。その保守勢力の不平士族の不満を外征によって解消させようとする保守強硬派が中心となり、征韓論を声高に唱えた。
[註 002]
日露戦争に突入した日本が、韓国に対日協力を強要するため、強制的に締結した条約。大韓帝国政府は、日本帝国が必要とする便宜(べんぎ)を提供し、戦略上必要な地域をいつでも使用できるようにする、というのが主要な内容である。日本が韓国植民地化の第1段階として強制的に結ばせた条約であり、この文書に署名した李址鎔(イジヨン)の家に爆弾が投げ込まれるなど、激しい反発を買った。
[註 003]
オットセイと似ており、毛は短く足の爪が熊手のような水かきになっている。身長は2m程で群れを成して生息し、カタクチイワシ·イカ·サンマなどを食べる。かつて‘可支島(アシカ島)’と呼ばれるくらいアシカが独島に生息したが、アシカの皮に目をつけた日本人の乱獲で現在はあまり見られない。
*可支島のカジ(可支)はアシカ(カンチ)の漢字表記。
アシカ
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[註 004]
アメリカのニュ一ハンプシャー州の軍港都市であるポ一ツマスで、アメリカのT·ル一ズベルト大統領の仲介で、日露戦争を終結するための講和条約が開かれた。この会議で締結された条約によって、日本は韓国に対する指導、保護、管理権が承認された。また、中国の旅順、大連の租借権と長春より南の鉄道敷設権、北緯50度以南のサハリンを割譲され、東海とオホーツク海、ベ一リング海のロシア沿岸の漁業権を日本が保有する事になった。
[註 001] 征韓論者
1870年代前後に日本の政界では、韓国を攻略しようとする征韓論が巻き起こった。明治維新の後、近代化を推し進めていた日本は、近代化推進勢力の官僚達と近代的な内政改革に反対する保守勢力の2大勢力が対立していた。その保守勢力の不平士族の不満を外征によって解消させようとする保守強硬派が中心となり、征韓論を声高に唱えた。
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[註 002] 韓日議定書
日露戦争に突入した日本が、韓国に対日協力を強要するため、強制的に締結した条約。大韓帝国政府は、日本帝国が必要とする便宜(べんぎ)を提供し、戦略上必要な地域をいつでも使用できるようにする、というのが主要な内容である。日本が韓国植民地化の第1段階として強制的に結ばせた条約であり、この文書に署名した李址鎔(イジヨン)の家に爆弾が投げ込まれるなど、激しい反発を買った。
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[註 003] アシカ
オットセイと似ており、毛は短く足の爪が熊手のような水かきになっている。身長は2m程で群れを成して生息し、カタクチイワシ·イカ·サンマなどを食べる。かつて‘可支島(アシカ島)’と呼ばれるくらいアシカが独島に生息したが、アシカの皮に目をつけた日本人の乱獲で現在はあまり見られない。
*可支島のカジ(可支)はアシカ(カンチ)の漢字表記。
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[註 004] ポーツマス講和条約
アメリカのニュ一ハンプシャー州の軍港都市であるポ一ツマスで、アメリカのT·ル一ズベルト大統領の仲介で、日露戦争を終結するための講和条約が開かれた。この会議で締結された条約によって、日本は韓国に対する指導、保護、管理権が承認された。また、中国の旅順、大連の租借権と長春より南の鉄道敷設権、北緯50度以南のサハリンを割譲され、東海とオホーツク海、ベ一リング海のロシア沿岸の漁業権を日本が保有する事になった。
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