単元7の参考資料
1 『隠州視聴合紀』
1667年(朝鮮顕宗8年)、日本の雲州地方の藩士であった齋藤豊宣が編纂したもので、独島に関する内容が収録された日本最初の文献である。日本の隠州を観察して聞いた内容を記録した報告書である。日本語の筆写本で、5巻1冊で構成されている。大きさは横16.2cm、縦23.6cmである。
『隠州視聴合紀』の内容の中で、日本と韓国が論争を続けている部分は「国代記」の解釈である。論議の焦点は「すなわち日本の北西の地は、この州をもって限りとする(然則日本之乾地以此州爲限矣)」という文章で、「この州(此州)」が鬱陵島を指しているのか、それとも隠州(現在の隠岐島)を指しているのかである。これは、独島に対する歴史的な根源が韓国と日本、どちらの国にあるのかを決める重要な資料の一つで、両国とも敏感に反応している。
原文は次の通りである。
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隱州在北海中故云隱岐島.按倭訓海中言遠幾故名歟(中略)自子至卯無可往地戍亥間行二日一夜有松島又一日程有竹島.俗言磯竹島多竹魚海鹿按神言所謂五十猛歟此二島無人之地見高麗如雲州望隱州然則日本之乾地以此州爲限矣.
ここで隠州に対する両国の解釈の差を調べてみよう。韓国側の翻訳は次の通りである。
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「隠州は北海の中にあるため、『隠岐の島』という。調べたところ、日本固有の言葉で「陸地から離れた海よ」を「おき[遠幾]」と言うようだが、そこから由来した名前だろうか?(中略)隠岐の島から北西に船で二日一夜行くと松島(独島)があり、松島から一日の距離に竹島(鬱陵島)があり、俗に磯竹島という。竹・魚・アシカが多い。思うに神書で言う五十猛ではないだろうか?この二島は無人の島で、この二島から高麗(朝鮮)を見るのは、まるで雲州から隠州を望むのと同じである。すなわち、日本の北西の境界はこの州(隠州)を限りとする」。
日本側の翻訳は、他の部分は韓国と大差はないが、「然則日本之乾地以此州爲限矣」の解釈に差がある。この文を「先に述べた二島(竹島と松島)で日本の北西の限りとする」と解釈している。そのため、日本政府は領土帰属論争を起こすたびに、この文章を提示してきた。このような日本側の解釈は、全体の文脈と『隠州視聴合紀』「国代記」全体の内容を無視した、歪曲した解釈である。
2 「朝鮮国交際始末内探書」
1868年に日本の明治政権が成立してから、1869年(朝鮮高宗6年)、明治政府の総理大臣と外務大臣は外務省の高官たちを朝鮮に送り、情勢をひそかに調べさせたが、その時の調査項目の中には「鬱陵島と独島が朝鮮の領土になっている事情」についての調査も含まれていた。その指示事項と調査復命書は、日本政府が発行した『日本外交文書』に収録されている。
3 太政官指令
日本の最高機関である太政官において、独島が朝鮮の領土であることを決定した文書で、B4サイズの複写本であり、太政官用紙に作成された「内務省質疑書および太政官指示文書」の指令文には、明治維新の最高指導者の一人である太政官右大臣、岩倉具視の印が押されている。太政官指令は島根県の質疑に答える指令文と付属地図で構成されているが、作成経緯は次の通りである。1876年(朝鮮高宗13年)、明治政府は日本の全国土についての精密な地図と地籍図を作成するために、全ての県に自県の地図と地籍図を調査・報告するように命令した。この時、島根県は東海の真ん中にある鬱陵島と独島を島根県の地図に含めるべきなのか、除外すべきなのかを決めてほしい、という質稟書を日本の内務省に提出した。日本の内務大臣は5ヶ月半の資料調査の末、鬱陵島と独島は朝鮮の領土であり、日本とは関係のない地であるとの結論を下した。総理大臣も資料を検討した後、鬱陵島と独島は朝鮮の領土であり、日本とは関係ない地であるという決論に達した。そこで、明治政府の最高機関である太政官は1877年3月29日付で「鬱陵島と独島は日本とは関係ない所で、朝鮮の領土である」という最終決定の指令文を再確認する公文書を内務省に送り、内務省はこれを官吏たちに周知させよという太政官の指令文を1877年4月9日付で島根県に送り、独島に対する領土決定の件を終えた。
当時の島根県の伺い書と太政官指令の内容は次の通りである。
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別紙:内務省からの伺い書「日本海内竹島外一島地籍編纂」の件ですが、これは元禄五年、朝鮮人が入島して以来、旧政府(江戸幕府)が朝鮮とやりとりした末、ついに本邦(日本)は関係がなくなったと聞いているという申し立てに関して、伺い書のおもむきをお聞きになり、下記のように御指令をくだされるよう、この段をお伺いいたします。
御指令案:伺い書のおもむき、書面「竹島外一島」の件は、本邦と関係ないと心得るべきこと。