高句麗の産業は多様であったが、重視されたのは農業であった。しかし、鴨緑江中流流域は農業生産力が高くなかった。農業に力を入れても食べるものに不足したという。このため、高句麗は農業だけでなく、狩猟と牧畜も行った。また、戦争と略奪によって不足物資を確保した。しかし、略奪は成功することもあったが、失敗することもあった。略奪のための戦争で負けることもあり、戦争で勝ったとしても奪う物資がないこともあった。略奪による物資の確保は、不安定な手段であったからである。このため、1世紀半ばの太祖大王代からは、周辺地域をむやみに略奪するのではなく、服属させて定期的に物資の供給を受けた。いわゆる朝貢の形である。
高句麗は、鴨緑江中流を中心に服属集団を広げていった。3世紀までに東海岸の沃沮と東濊、西方の梁貊、北方の粛慎を服属させた。高句麗は自治を認める代わりに、定期的に物資を納めさせた。農業生産物はもちろん、各種特産品を受け取った。沃沮の場合、魚・塩・各種海産物を納めた。このように周辺の服属集団が拡大し、膨大な物資が高句麗の国都国内城に集まった。そして、高句麗の支配層「諸加」は、より広い地域を服属させて経済的富を増やそうとした。征服戦争の欲求が大きくなったのである。
征服戦争を行うためには、国の体制を整備する必要があった。このため、高句麗は王を中心に政治体制を整備した。
上記資料のとおり、王の下には複数の官等があった。また「三国史記」に見られる大輔、左右輔、国相、中畏大夫などの官職を置いた。官等は、臣僚の等級であり、官職は臣僚の職責を意味する。王は、諸加をはじめとする支配層に官等と官職を与え、王権下の臣僚集団とした。そして、彼らから税金を取り立て、より安定的に統治した。さらに、これらの安定した統治システムを維持するために五部を改編した。
高句麗の五部は、固有の名称を持っていたが、2世紀後半の故国川王(在位:179~197代から、東部・西部・南部・北部のように方位の名称がついた部(方位名部)が新たに登場した。方位名部は国内城とその周辺地域に設置されたもので、中央の行政区域であった。五部の「諸加」は、3世紀が過ぎてから中央の方位名部に移住してきた。五部の支配層は初めて、中央の貴族に変貌したのである。これにより、高句麗の国家権力は中央に集中した。中央集権化が進んだのである。
中央では行政区域が整備され、地方でも城・谷・村などの行政単位が設置された。また、各行政単位ごとに宰・太守などの地方官が派遣された。高句麗の地方は、王が任命した地方官が直接統治したのである。まずは、国内城に通じる主な交通路を中心とした主要拠点に地方官を送った。そして、次第に沃沮や東濊のような服属地域にも地方官を派遣するようになった。こうして、4世紀以降の高句麗は、地方官が地方を治めるようになった。