4. 明治政府の最高権力機関が、独島・鬱陵島は韓国の領土であると二度に渡り確認
明治時代(1868~1912)に入り、日本政府の三権を掌握していた最高権力機関である太政官は、江戸時代に江戸幕府が鬱陵島・独島を朝鮮の領土であるとした決定を二度に渡って再確認している。最初は1870年、太政官は外務省に「竹島(鬱陵島)と松島(独島)が朝鮮付属になった事情」について調査するよう命じた。ここで重要なのは、太政官が鬱陵島・独島を「朝鮮付属」と断定している点である。2回目は、1877年に島根県と内務省が鬱陵島と独島について「江戸時代に日本と関係のない地となったと聞いておりますが、この点をお伺いする」と太政官に質問していることから、再び確認されている。これに対し太政官は「竹島(鬱陵島)外一島の県は本邦と関係なしと心得るべし」という指令を内務省に下し、内務省はこれを外務省と島根県に知らせた。外一島は独島ではないと日本の学者は主張しているが、この指令文の別紙に外一島は次のように説明されている。〈次に一島ある。松島と呼ぶ。周囲約30町(約3.3km)、(隠岐島から船で行く時)竹島と同一航路上にあり、隠岐から約80里(海里で約148km、日本は昔から、正確ではなかったものの、それなりの海里概念を持っていた。実際の距離は157km)ある。木や竹は稀で、また魚や獣が獲れる。〉ここで言う松島は、その周囲や隠岐島からの距離、その他の特徴からして現在の独島であることは確かである。すなわち、日本政府は鬱陵島・独島を日本の領土外としており、朝鮮の領土であることを再確認しているのである。