• 東海の中の独島
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朝鮮はその建国の初期から、鬱陵島に住民が居住できないようにする刷還政策を実施した。その理由は、島や海岸地域で略奪行為を行う倭寇の侵入を防ぎ、各種の軍役や賦役を避けて鬱陵島に逃げて行った住民を連れ戻すためであった。朝鮮は刷還政策を実施して定期的に官吏を派遣し、巡察して治安を維持するなど統治権を行使したが、刷還政策はそれ自体がまさに領有権実現の行為であり、実効的な支配の一つの形であった。実際に、17世紀後半の日本人の鬱陵島への出漁と伐木が問題になるや、朝鮮政府は日本側に鬱陵島渡海禁止を要求し、約束を取り付けた。そして、鬱陵島捜討制度を実施し、定期的に鬱陵島に捜討官を派遣して日本人の侵犯の有無を監視することで、19世紀後半に至るまで鬱陵島と独島に対する統治権を行使してきた。
日本の文献である『隠州視聴合紀』(1667年)では、日本の北西の境界を隠岐島だとし、独島を日本の領土に含めていなかった。そして、17世紀末の安龍福事件により朝鮮と日本の両国間に領土問題が生じた時、江戸幕府は「竹島[鬱陵島]、松島[独島]はもちろん、その他に所属する島はない」という鳥取藩の答えを根拠に、1696年1月28日に日本人の鬱陵島方面への渡海を禁止する「竹島(鬱陵島 )渡海禁止令」を下すことにより、鬱陵島と独島の朝鮮領有権を認めた。
また、1870年に明治政府の外務省官吏が朝鮮の事情を調査して提出した報告書である『朝鮮国交際始末内探書』、1876年に日本の陸軍参謀局が発行した 「朝鮮全図」などにも鬱陵島と独島が朝鮮の領土に含まれており、1877年当時、日本の最高権力機関であった太政官もまた「竹島[鬱陵島]外一島(独島)の件は本邦と関係なしと心得るべし」という指令を下している。このように、1905年に日本が独島を違法編入する前まで、日本は独島を朝鮮の領土として認識してきた。

 
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