「風の吹くまま、波の打つままに過ぎていったんですよ、歳月が」
- 年度
- 年齢
- 内容
- 1928年
-
- 平安北道熙川(ヒチョン)生まれ(住民登録上の出生年度は1927年)
- 1940年
- (13歳)
- 満州のハルビンで日本軍「慰安婦」の生活
- 1941年
- (14歳)
- 性病にかかって帰国
- 1942年頃
- (15歳頃)
- 中国の石家荘で再び日本軍「慰安婦」として生活
- 1945年
- (18歳)
- 仁川に帰国
- 1948年頃
- (21歳頃)
- 忠清北道温陽で死別した男性と再婚
密造酒を造って生計を維持
- 1954年
- (27歳)
- 妻帯者のファン某と同居
富川で雑貨商、卸売などの商売
- 1958年
- (31歳)
- 養子を引き取る
- 1976年頃
- (49歳頃)
- 借金の保証人になってお金を返すことになり、生活が厳しくなる
ファン某と別れる
- 1998年
- (71歳)
- 日本軍「慰安婦」届出
- 2004年
- (77歳)
- 現在、政府の補助金で仁川の賃貸アパートで一人で暮らしている
「そういうことを全部忘れずに暮してたら、きっと生きてはいられなかっただろう。
「ある時は年をとったせいかもしれないけれど、一日中、朝ごはんを食べて寝て、昼ごはんを食べて寝て、晩ごはんを食べて寝たから、夜に眠れなくて、思い出してみようかと思っても、思っても、思い出せなくて、そしたら『あぁ、神様、ありがとうございます』、あんな恐ろしいことを私が全部思い出したなら、今日まで生きて来られなかったでしょう。そんな独り言を言って、一人で慰められて、そんなふうに生きているんですよ、今は。
「知らない人が幸せなんですよ。自分たちが直接経験してなくても、そんな目に会っているのを見ただけでも身震いするほどだったでしょうから。
「子供も産めないしまったく、この世の人たちがやることを何ひとつ経験することもできずに。
「普通の人が生きて行くように生きられず、誰かの言葉通り、風の吹くまま、波の打つままに過ぎていったんですよ、歳月が。
罰金
20ウォンのお金のために、私を買って行って、私の父さんを監獄から出してほしいって思って行ったんだと思う。
「私が生まれたのは平安北道なんだけど、まだ幼い頃に平壌市に出てきて、私の兄の布団の上に乗って川を渡ったことを覚えているんだ。それだけはかすかに思い出すから。たぶん、4~5歳だったか、5~6歳だったか。
「私たちは5人兄弟で、上に兄が二人、姉が一人、私、下に弟がいたんですよ。
「うちの父さんはお酒を飲み過ぎるっていうか。とにかく、よく外泊する人だったみたいで。…父さんがそうして歩き回っていたから。…そうして、間もなくして父さんが来たんだけど、一緒に暮らす間に古物屋をしてたんだよ。父さんと出会う前に母さんは、今で言えば魚屋、訪問商売して魚を売る、それをやってたのを覚えています。
「アム洞で古物屋をすることになったんだけど、その時には私を学校に行かせたようでね。それで学校に行って帰って来たら、ざわざわと大騒ぎになっていて、父さんが捕まって行ったって、古物屋をしていて。今もそうでしょう。盗んだ物を買ったら、買った人が捕まって行くじゃないですか。その時も、それで捕まって行ったんだと思うんです。
「学校も、家がそんなふうに破綻してしまったから、通えないでしょう。
「2年位だったかな?1年以上学校に通ったと思うけれど…兄さんたちも学校にあまり通えなかったんですよ。上の兄さんも、平安北道の熙川から平壌に来て、暮らしが厳しいものだから母さんを手伝って働いてばかりいて、勉強するのを見たことがなかったんですよ。
「古物屋をしていた父さんが監獄に入ったから、勉強なんかしてどうするんだって。…当時の私は、あまり考えないで行動してたんだね。だから、どうせ何か習いたいなら、巻番(日本帝国強占期の妓生たちの組合)に行って習ったほうがいい、習ってない人と習った人は違うからって、そこに入れられたみたいなんだよ、誰かに。
「昔は、ムチを打たれた妓生、ムチを打たれなかった妓生って言われてね。巻番に行って習った人、習ってない人って区別して、巻番を卒業した人はムチを打たれた妓生だって言われたんですよ。それで、平壌の妓生が有名だったんです。そこに行って、西島 を少し習ったんだけど、それも意味もわからなくてね。そこに何ヶ月か通っていたら、後で兄さんに見つかって叩かれましたよ。私は、見方によっては不良っていうんだろうか。13歳の子が何がわかってそんな所に通うと思いますか。
「その頃が12歳、13歳の初め頃。それくらいだったと思う。それで通っていたんだけど。右手の親指を痛めてから、チャングっていう太鼓も叩けなくなって、それで、その巻番にいた女の子と一緒に『私たち、お金を稼ぎに行こうか』って話になって、それで出てきて満州に行ったように思うんですよ。
「父さんの監獄の罰金が、その頃のお金で20ウォンだったか、いくらだったか、そんな話があったみたいで。そうしたら、私が稼いで払うって。
「友だちと一緒に…どうやって知ったのかはわからないんです。だから、たぶん分別もなく20ウォンあれば父さんが監獄から出られる、それだけを考えて、お金を稼げるって言うから、行こうって話になって、それで行ったんだと思うんです。
「売られて行ったのか、それともただ、どうにかこうにかして行ったのかはわからないんだけど、とにかくはっきりと覚えているのは13歳だったってこと。13歳なのに満州に行ったんですよ、豆満江を渡って。
ヨコネの手術
15歳にならないうちに使い物にならなくなってしまったんですよ、体が。
「行く時は何人かで行ったんだけど、何人かで行っても、誰が誰なのかはわからなくて。
「そこは一切韓国人はいなくて、日本人も普通の人じゃなくて軍人たち、軍人ばかり行ったり来たりしていて、とても寒かったことだけ覚えてる、その寒かったことだけは覚えてますよ。
「これは、何も知らない子供には、言葉にできないくらいにつらいんですよ。初めて行って、つらかったってのは、言うまでもない当然の話で。たぶん、それが一番つらかったんですよ。元締めのハルモニが怖い人で。その人が見えたら、軍人を見て怖くて震える以上に、店のその人を見ると怖かったんですから。
「もともと幼い子供に無理だったからなのかもしれないけれど。
「そこに行って間もなくして、言ってみれば性病ですよ、ヨコネっていう、それにかかったんですよ。
「ヨコネって、これは韓国語でカレトッ ってやつ。腫れ物が(両側の股間を指差して)こうして両側にできて。
「高熱が出て、客の相手ができないようになるから、どれだけひどかったことか。
「それにかかったから、とうてい自分たちがこき使うことができないから、手術を受けさせられたんですよ。でも、その手術するのがとても残忍なんですよ、日本人たちが。自分の、自分の娘、自分の故郷の娘ならそんなことしなかったはずだよ。両方の手術をしながら、ラッパ管を塞いじゃったんだ。だから、それが漏れて漏れて漏れて、それで、20歳が過ぎると卵巣嚢腫っていう腫瘍が、(こぶしを握ってみせて)これ位の腫瘍が両側に、お腹の中にできたんですよ。
「だから、15歳にもならないうちに使い物にならなくなってしまったんですよ、体が。
「両方の脚の手術を受けたから、歩けないでしょう。悪いのが入ったのに治るわけないでしょう。治らなくて、自分たちが使えないから、そこの男の人、韓国人と一緒に韓国に送り帰されたんですよ。
「私がもう客の相手をできないから、元締めは大騒ぎしたでしょうよ。私を連れて来た人が、『無理やりに休むわけじゃなく、病気になってできないんだから仕方ないでしょう』って、私を助けようとして話してくれたんだと思いますよ。だから、怖いもの知らずのその人が家に送ってあげるって言うから、ついて来たんですよ。
「その人が軍人だったのかどうかはわからないけれど、一度も見たことがない人で、ただその人について来て、その人は私を送ってくれたんですよ。その頃は証明がないと、出入りができない所だったから、そこは。
「今で言えば、旅行証明書とか住民登録とか、その人を保障するものがなければならないでしょう。その頃にも、私が一人で自由に中国に行きたければ行って、満州に行きたければ行けるんじゃなくて、たぶんその頃にも、言ってみれば女、管理する女、元締めの女、その人が証明をこれこれしろって言ったからしたのか、そういう証明を準備して送り出してくれたからなのか、とにかくそんなふうに覚えているんです。
帰郷
もうそんな所には行かないで、ここでお金を稼ごうとして、それでその部隊に働きに行ったんだと思いますよ。
「母さんは、私が満州に行って来ても魚屋をしてたのを覚えてます。それから、私が満州に行って、病気になって家に帰ってから間もなくして姉さんがお嫁に行ったんです。
「何をしても、お米のご飯じゃなくて粟飯。麦飯ですらなく、粟飯。姉さんはお嫁に行っていないから、幼くても私がかまどに座って昼も夜も粟飯を炊いてたんですから。薪がないから、それも拾いに行って。
「うちの近くに日本人たちの銃を作ったりする部隊があったんですよ。家は貧しくて、厳しいから。
「もうそんな所には行かないで、ここでお金を稼ごうとして、それでその部隊に働きに行ったんだと思いますよ。
「朝、列に並んでいると、老人もいて、子供たちもいて、その日に働ける人数だけ、何人かを。そうして入ると、名前を呼ばれてベルトを一つくれるんだけど、それがないとどこにも出歩けないんですよ、銃弾を作って、磨いたりする所だから。
「巻番に一緒に通ってた友だちともそこでまた会ったんです。部隊から何時に出て来るっていうのを教えたら、友だちが街角で待ってて、自分たちの服を貸してくれたりもしながら、それぞれ営業するお店に行って歌を歌うんですよ。今はそれこそ女たちが言葉にできないくらい自由になったけれど、以前は巻番に通ってた人は、戸を開けて入る姿からしてもう違ってたから。だから、会っていろんな話をしているうちに、私たち、中国に行こうって話になって。…中国に行けば楽だから、お金をたくさん稼げるんだって話を聞いて、それでそうする方向に変えたんだと思いますよ。
「だから、もう二度とそんな所には行かないって思ってたのに、またもやそういう所に行くことになってしまって。
また中国に
2回目の時に知っていたとしたら、行くはずないだろう、知らないから行ったんだよ。
「中国の北部に行く時には、鴨緑江を渡ったんだよ。
「私の友だちと二人で行くことになったようでね。いつ、何日に行くって話を聞いて、平壌駅に行ってみたら、とにかく人がものすごく多くて。
「みんな、私たちみたいな人たちで。
「私たちは巻番に一緒に通ってた人間だから、今で言えば飲み屋で歌を歌ったり、お酒を注いだりしに行くんだと思ってたんだ、まさかそんな所じゃないと思っていたんだよ。
「だから、私が少し鈍かったのか、愚かだったのか。
「私たちみたいに直接行った人も、そこに行き着く前には知らなかったのに、家ではわかるはずがないでしょう。そんな所じゃないと思ってたよ。二回目の時には、なおさら完全に知らずに行ったのはどうしてかって言うと、前回にそんな所でとてもつらかったから、二回目の時に知っていたとしたら、行くはずないだろう、知らないから行ったんだよ。
「満州に行った時には知らずに行ったけれど、一度帰って来てからはそこに行きたくないから、部隊にまで通いながら働いて、雑用をしたりしたのに、どうしてまた中国に行ってしまったんだろうか。
「でも、私が中国に行くってことを母さんは知ってた、それはわかってたんですよ。なぜなら、母さんが、私が旅立つ時に韓服のチマチョゴリ(韓服の上衣とスカートのような下衣)を、(だいだい色の布を指差して)この色、この色のチョゴリに、下には緑色のチマ、うん、絹織りのチマを新しく作ってくれて。それをどうして作ってくれたのかまでは思い出せないんですよ。たぶん歌を歌いに行くっていうから、チマチョゴリを一着作ってくれたんだろうか。
「その頃には、私にチマチョゴリを作ってくれるほど家に余裕がなかったし、父さんは監獄から出て間もない頃で、姉さんはお嫁に行って、何かをしてくれる余裕なんてなかったはずなのに。歌を歌いに行くっていうから、母さんが新しく作ってくれたのか。だから、南北が統一されたら、はぁ会えたら、そんなことでも聞きたいんだけど。もう60年以上経ってるから、私の母さんと父さんは亡くなったはずですよ。(しばし沈黙)
「私一人だけで行ったんじゃないんだよ。何人かが行って、そこがナマチャン なのか、石家荘 なのか、今は名前もよく思い出せないけれど、行って、トキワ
に入ったんじゃなくて、そこで一日だか過ごして、最初に何が食事として出てきたのかっていうと、お米のご飯にお味噌汁に牛肉を入れて煮てくれたのを覚えてますよ。
「何とまあお味噌汁にほうれん草が入ってて、肉もこう薄っぺらく切ってあるんじゃなくて、こうして大きくすぱすぱっと切ってあって、それで汁にして作ってくれたんだけど。
「どれだけおいしかったことか。それを食べたら、何故か涙があふれ出て。母さん、父さんが思い出されて。あぁ私はお米のご飯に牛肉の入った汁を食べてるのに、うちの家族たちはみんな何を食べてるんだろうか、粟飯ばかり食べてるんだろうなって。
「そうして、それが食べられなくて、車に長時間乗って行ってお腹が空いてたはずなのに、食べずに家のことを思い出して私が泣いているから、その部屋の中の人たちもみんな泣いてましたよ。
「それに、そんな所に行ったってことは、そこに行ってから知ったんですよ。だから、そこに最初に入って、そのほうれん草の味噌汁を作ってくれた家からそこに行く時には、私は行かないって言ったんだよ。そんな所には行かないって言った時に、その時はまだ韓国の男の人もいたんですよ。そうしたら、その男から、行かないなら、どんな方法ででもお金をたくさん払わなくちゃならないんだが、どうやって払うつもりなんだって、そう言われて。そうやって、その人が脅しをかけたんだ。だから仕方なく、『だったら、そこは歌う店なんですか、お酒を売る店なんですか、何をする店なんですか』ってやたらと質問するから、『お酒を売る所だ、どうしてこううるいんだ!』って叱られたんですよ。
トキワ
昼間でも人が押し寄せて来たら、そのときは仕方がない。
「行ってみたら、お酒は一杯も売らないで、人なんか全然いなくて、完全にどこもかしこも日本人。
「私がいた所はトキワっていう所でしたよ。
「逆らってばかりいるから、『お前は反抗できる立場だと思ってるのか』って元締めに嫌われてたと思う。
「自由なんてないでしょう。外出も全然できないんですから。昼間でも、人が押し寄せて来たら、仕方なく、それこそ、その人たちをただ。
「軍人たちは大概が朝じゃなくて、午後の時間から夕方までが多かったようだね。午後から夕方の時が多かったと思うのは、なぜなら、朝、少し寝坊して、お化粧をちょっとしていると、監視役の女たちが巡回しながら、今何時だと思って化粧してるんだって、そんな顔でお客さんの相手をするのかいって怒鳴っていたのを覚えてるんです。
「そうしてお化粧して、座らせるんですよ、ずらっと、こうして。
「今で言えば、ホールみたいにこうなっていて、端っこにぐるっとこうして椅子が置いてあって、そこに座っていたことを覚えているんだ。
「でも、そこの人がこうして、こう見て回る女がまたいるんですよ。その女が入って来て、その人たちがする行動を見れば、誰だってことがわかるんですよ。そうしたら、『誰々はあそこに行け』って言って、『誰』って名前を呼ばれたら、考えてすぐに自分の部屋に行かなくちゃならならいんですよ。
「そうしたら、椅子にまた座っている時もあるけれど、それはなかなかないことで、洗う前に人がまた入って来ることがあって。それぐらいつらかったんですよ。
「たぶん、入って来て軍人たちが票を買って入って来るのか、それを差し出してからそのまま入って来たんだと思う。
「私たちには、ただその票だけ持って来て、それを受け取ったら、私は票売場に持っていかなくちゃならないから。お金は一度ももらったことがないよ。
「でも、日本人が来るのも、お酒を飲まないで来る人はあまり怖くないんだけど、お酒を飲んで来た人は、どうしてあんなに怖かったのか。…お酒に酔った人の声が聞こえて、入って来たら…もう怖くて、あぁ、あの人の相手をするのが私でなければいいのに。…今もそうだよ。今も、お酒を飲んだ人は、とにかく怖いんですよ。
暴力
ウワッって上から叩きつけた人も、自分の欲を満たそうとした人も。
「とっとと終わらせないで人を困らせるのが、一番困ったんですよ。長い時間、人が死のうと死ぬまいと、自分の欲情を満たすためだけにあれするんだから、つらいんだよ。
「数もわからない。一人や二人がそうするなら、そんなにつらくはなかっただろうよ。ある時は、もう本当に、それこそ下を洗う時間もない程にたくさん来たから。血が出たり、本当に耐えられない程につらいから、少し逆らったりもするんですよ。そうしたら、また反抗するって叩かれて、そんなでしたよ。
「ただ、その人たちにそんな目に遭ったことを考えたら、むごたらしくて、どれだけつらかったことか、逆らったからあんなに叩かれたんだろうか。
「(頭頂部の部分の傷痕を見せながら)これは、日本軍の軍刀を抜かずに鞘で叩かれたから生きているけど、抜いてたら死んでただろうよ。今でも、こうして傷痕が大きく残っているんですから。服が血で濡れて、脱がせることができなくて、引き裂いたんだから。それを想像してみなさいよ。(涙を浮かべて)そうやって残忍に叩かれて、ここにこうして傷ついたってことが、こうして通りすがりの言葉のように言うから大したこともないように聞こえるかもしれないけれど、想像したら、私も人間だから、どうしてそんな人たちに恨みを持たないでいられますか、持つでしょう。だから、私は、あの人たちのことを思い出したくないんだよ。私は、はぁ忘れたいんですよ。
「もう、ある時は本当に、こんな目に遭わずに死んでしまいたいと思う時が何度もあったから。それこそ、一度ウワッ-って上から叩きつけた人も、粘り強く時間を引き延ばしながら、そうして人を困らせた人も、まあ。
「でも、未練があったんだと思う。逃げ出した人もいたし、捕まって叩かれて、そんなことも覚えてるんだけど。でも、私は逃げなければって思った記憶はないけれど、ただ『どうしたら故郷に帰れるだろうか』、『どうしたら元締めに気に入られて故郷に帰らせてもらえるだろうか』、そんな風にばかり考えていたようなんだ。
「もしも30人もいる所で一人が逃げたら、その29人はみんな半殺しの目にあうんですよ。一人が逃げたってなると、もう残っている人が逃げた人以上に苦痛を受けるんです。もっと自由がなくなって、言葉も一言もまともに話せなくなって。『起きろ』って言われれば起きなくちゃならないし、いくらつらくてもごまかすことはできないし、いつも逃げ出す人はいるから。はぁ今はこうして気楽に座って話しているから平気だけど、もうむごたらしかったんですよ。
「お客の中に、日本人でも一人の男は本当に優しかったんですよ。お金を払って入って来て、私がつらそうにしているのを見ると、ちょっかい出さずに、漬物、キムチ、『キムチはある』って、『それを作ってくれないか』って言ってくれて。そうしたら、白菜、まあ味付けとかまともにできたんだろうか。白菜と塩と、何とか塩辛、そんなのは全部なくて、ただニンニクやネギ、そんなのがあったら持って来てって言うと、その日本人が少しずつ持って来ると、それを、それでも幼い私が塩漬けしてあげると、元締めはそれもまた叱るんだよ、無駄なことをするって。隠れて作ってあげると、その人が毛布みたいなものも、軍人の毛布もくれて、歯磨き粉、歯ブラシみたいなのも、軍隊から配給されたものなんだろうね。そんな物も持って来てくれたりして、そんな人もいたんですよ。だから、この世の人は、韓国人も日本人も、朝鮮の人もアメリカ人も、同じなんですよ。みんなその中にまた、優しい人もいて、悪い人もいて、そういうものみたいですよ。
「その人の苗字が何だったのかって思い出そうとしても、思い出せないんだ。でも、私の名前は忘れてないんだよ、何故か。私の名前。私の名前はヨシモトハナコで、私の名前とトキワっていうのだけは覚えていて、それ以外は全然覚えてない。
コンクール大会
他の人たちに推薦されて、私がコンクール大会に出たんですよ。
「その頃は、声が本当にきれいだったんですよ。もしも、こうして座って歌を歌っていたら、そこに人々が必ず集まったっていう程に、声が良かったんです。
「他の人たちに推薦されて、私がコンクール大会に出たんですよ。何人もの人に推薦されないと出られないコンクールだったって記憶してるんだけど。
「今で言えば、のど自慢みたいなものだと思いますよ。そんな人たちばかり、こうしてたくさん集まって、看板がある家、私がいた所はトキワだからトキワだけど、もっと名前があるんですよ。
「のど自慢に出て、どの家から来た、どの家から来たって言うから初めて知って、その前にはそこにどんな家があるのかってことはわからないでしょう。ほとんどの営業している所は全部、名前のある営業している所は全部来て、参加したみたいですよ。
「トキワからは、私一人だけ出たみたいなんだ。私がいた所は大きかったんだけど、大きい所からでも、私一人だけが出たように思う。歌い手は、だいたい30~40人、50人くらいだったろうか。
「日本の歌なんだけど、今は最初の小節だけ少し覚えてますよ。春よ、乙女よ、乙女よ。
「見物に来た人たちは軍人たちですよ。軍隊の中なのか外なのかはわからないけど、普通の人たちじゃなかったですよ。全部、みんな服が軍服みたいな服だったし。
「たくさんの女の子が出てきて歌うから、女たちが多いってことを知って、何十人の中から一人が選ばれて来た、何十人の中から二人が来たって、そんなふうに話してたから、その近くに私たち、私みたいな朝鮮の女性が大勢いるんだってことを知ったわけで、それもそんな所に参加しなかったらわからなかったでしょうね。
官報
自分の親が亡くなったっていうのに、行きたくない人がどこにいますか。
「中国にいた頃は、家に手紙を送ってたみたいです。だから、父さんが亡くなったこと、手紙のやりとりができてたんでしょう。
「1944年だったか、その時に父さんが危篤だって手紙が来て、亡くなったっていう官報が来たんですよ。
「私の考えでは、そうなったら、話せば行かせてもらえるもんだと思ってたんですよ。だけど、元締めが目を大きく見開いて、何を言ってるんだ、出て行っていつ戻ってくるつもりなんだって。
「それで、全然何も言えずに、ただばかみたいに泣いたんです。武器は泣くことしかないから。自分の親が亡くなったっていうのに、行きたくない人がどこにいますか。
「いくら忙しくても、旅費さえくれれば帰りたいでしょう。それでも帰れないから、(表情をゆがめて)お金もないし、お金もくれないで帰らせてもくれないから、とてもとてもとても憎かったんですよ。そうしてその便りを聞いてからは、二度と家に手紙の一通も送れなかったんですよ。
「そうしているうちに、8月15日に終戦になったんだけど、解放されても嬉しくないし、死なないで済んだって思いもしないし。何もかもただ無意味で、あまりに虚しくて、けだるくて。
解放
少しでも稼いで帰ろうとしているうちに、北朝鮮への通行が遮られてしまったんですよ。
「終わってみたら、ざわざわしてましたよ。8月15日に終戦になっても、すぐに帰れるわけじゃないから、私たちも外には出られなかったんです。何とかして、ざわざわと騒がしい話を聞いてみたら、『何時に船がある』って言うから、さっそくその船に乗ろうとして何とか出て行って、そうして、仁川に着いたんだけど、すぐには陸地に降りられないのが、コレラとか腸チフスとか、また伝染病とかがあって、そのまま海の上で2週間はいたんだ。
「2週間、船に閉じ込められた後に降りたら、おにぎりだったか、ご飯をくれて、30ウォンだか、3千ウォンだか、300ウォンだかわからないけど、お金もくれたんですよ、この韓国の国が。そうして奨忠壇公園(ソウル市中区にある公園)に私たちを集めたんです。でも、その時は自由に、北朝鮮に行きたければ北朝鮮にも行けた時だったんですよ。
「ところで、一緒に戻ってきた女の人たち3人と話したのは、『私たちが手ぶらで帰っても喜ばれないでしょう、だから私たち、何ヶ月かお金を稼いでから帰ろうよ』って話になって、行ったのが天安なんですよ。
「3ヶ月位でも稼げばまあまあだろうって。一緒に戻ってきた友だちが3人位いたんだけど、何ヶ月もしないうちに(北朝鮮に行く道が)遮られてしまったから…二度と、それこそ行き来できないように遮られてしまったんですよ。
「天安に行って、今で言えば接待婦、営業するお店で歌を歌ったり、お酒を注いであげたり、お客さんが来たら順番に歌うんですよ。お金を稼ぐっていうから行ったんだけど、その頃はまだつらい時期だったから、友だちと劇場に見物に行っても、少しでも悲しい場面があった日には涙ぽろぽろ、その後には、どこでも営業しているお店に入って、中華料理の店なら白酒を注文して飲んでは、酔っぱらって排水溝のところに行って、そこで倒れて。そうしたら、友だちが連れて帰って、洗って、服も着替えさせてくれて-。
所帯
飲み屋さえ抜け出せばいいんだと思って、そうして抜け出して来たんだけど、そうじゃなかった。
「その後には、ずっと女の子を置いてお酒を売る飲み屋を回りながら、1ヶ月にいくらずつ月給をもらって働いてたんですよ。月給そのものは少なくない金額なんだ。でも、それ以外のことを考えてなくて、歌を歌おうと思えば服もたくさんないといけないし、化粧もしなければならないってことを全然考えもしてなくて、月給をもらってあれこれと少し使ったら、貯まらないんですよ。
「そんな所ばかりを回ってたから。温陽 の新昌里という所に行って、本当にヤクザの中のヤクザ、奥さんは死んで息子が一人いて、お母さんが中風になって7年になる、そんな家に、もうこんな生活はしたくないって思ったから入ったんですよ。
「最初は、あの人と暮らせば、それでもケンカは強そうだから、食べることに困ることはないだろうと思って行ったんですよ。飲み屋でお酒を注ぐといっても、それもどれだけつらいものか。だから、そういう生活から逃れたいために、その人と暮らせばケンカが強いから、それでも誰かに見下されることはないだろうと思って。
「その頃が朝鮮戦争の前だから、私が23歳の時に朝鮮戦争が起きたから、21歳か22歳の時。
「夫は出かけて行ったら、10日も1ヶ月も帰ってこないんだけど、ただ帰って来るんじゃなくて、女も連れて来たり、借金も作ってきたりして、本当にいろんなことをするんですよ。
「その間、私は何とか生きていけないだろうかって、木を拾ってきて竈に火を燃やし、稲を搗く精米所に行ってゴミを拾ってきて燃やし、それでも3日もご飯を炊けなくなったんだから。
「お米一斗でお酒を醸したんだけど、中風のお義母さんが麹をどうしろとか、酒強飯をどういうふうに蒸すとかいうのを部屋の中から言葉で教えてくれたら、それをやってみるんですよ。そうして、お酒を作って売ったんだけど、豆もやしを何の味付けもしないで茹でて出しても、人々がよく食べるんですよ、お金もよく稼げて。
「5~6年過ぎたろうか。そうしてこの世を苦労して生きても、一向に良くならないから、仕方なく逃げ出して来て。結局はまた、そんな所(飲み屋)しか行く所がなくて。そんな所にいたら、あの人もひどく私を探し回ってね、富川まで探し回って。
子宮の手術
とにかく、あまりにも残忍にしぶといんだよ、私の命が。
「やたらとお腹が膨らんできて、分泌物は分泌物でものすごく出て、だから産婦人科に何回か行って診察を受けたら、腫瘍みたいだ、腫瘍があるって言われながらもそのまま過ごしていたんだけれど、後で基督病院に行ったら、このままじゃいけないって、これ以上このままじゃいけないって、手術しなくちゃいけないって言われて、手術をすることになったみたいなんだ。
「両側に腫瘍があるから、 ヨコネの手術を受けながら、ラッパ管を塞いでしまったから、ラッパ管からその卵子が出て来るもんなんだけど、それが出ないように塞いでしまったから、それが腫瘍になったんですよ。それで、(両手のこぶしを下腹部の両側に当てて)こうして、これ位、両側に、両方のラッパ管にあったんだから、それを取り除かなければならないって、そうしないといけないから。それが、たぶん、はぁ仁川の基督病院で手術したんだけど、それが28歳だったか、何歳だったか、その時に両側を取り除いたんだ。
「どれだけ寒い時に手術をしたことか、とにかく、あまりにも残忍にしぶといんだよ、私の命が。その時にも、病院の人たちが手術が終わった後に点滴を注射するんだけど、カチカチに凍ったのをそのまま刺すんですよ。だから、それがたったの1,000グラムも、100グラムも入らないうちに体中が死んだ人みたいに黒くなって震え始めたから、医者、担当の医者が入ってきて、自分は手術に成功したから、責任はお前たちにあるって叱って出て行くんですよ。叱って出て行ったからってどうするんだい。100グラム入ってそれが止まったのに、木の葉が震えるようにブルブル震えているのに死なないんですよ、死なない、ハハハハ。そうして、とにかくその注射は全部打たれないまま、点滴一本も打ってもらえないまま、1週間で退院したんだろうか、9日で退院したんだろうか、とにかく。
「何日かで退院して来てから、夜中に、4時頃になると、ものすごくお腹が空いて我慢できなくて、涙がボロボロ流れるんですよ。そうしたら、それを我慢して外に聞こえないようにしなくちゃいけないんだけど、家の大家さんが、私が部屋を借りて暮らしていたんだけど、大家さんが熱心に看護してくれたこともあって、夜中に女が泣いていたら、どれだけ気を病むことか。だから、それを表には出さないようにって思うんだけれど、それでもとてもお腹が空いて我慢しきれなくて、涙がとめどもなくあふれて、布団をかぶってシクシクすすり泣くんですよ。そうしてどれだけ過ぎたのか、するとお腹が空くのが段々となくなって。本当に、どうやって暮らしてきたことか。
同居
その人も私から巻き上げて、浮気するんですよ。
「その次には、梧柳洞、抱川でも飲み屋に通いながら、のどを売って暮らしてたんですよ。その時は体を売ったんじゃなくて、のどを売って暮らしたんだから。そうして、抱川で『私が稼いで暮らすんだから、罪にはならないだろう』って、男の子が3人女の子が一人いる男と一緒に暮らしたんだけど、とにかく私に福徳がないのか、その男は妻がいても飽き足らず、私から巻き上げて、それで浮気するんですよ。
「その頃は電気会社に通ってたんだけど、電気会社の月給っていくらもなくて、4人兄弟を勉強させないといけないし、それこそ6人家族がご飯食べて暮らさないといけないから、あげるお金はないし。でも、生活欲が私ほどないから、私は生活欲が強いから。
「遊ぶためのお金をくれって言われてもあげないと、向かいの部屋に行ってガスの火をつけて死んでやるって、俺が死んだら俺だけ死ぬんじゃない、子供たちが黙っていると思うのかって、そうやって脅すんですよ。はぁ言葉にできませんよ。そこで経験したことは、言葉にするだけでも、はぁなんとまあ、あきれたことか。そういう目にあった原因はすべて何かっていうと、最近の人が自分の子供を産まないっていうのは情けないことなんですよ。私の考えでは、どうして子供が必要で、どうして兄弟、両親が必要なのか。一家親戚というものがなければ、垣根がなければ、いくらがんばっても意味がないんだから。友だちがいくら味方をしてくれても、友だちは友だちで、家族じゃないから、力が弱いんですよ。
「そうして歳月を、長い期間が過ぎて、子供を育てたらその人が二度とは来ないだろうと思って、子供をもらい受けて育てるようになった。
息子との出会い
神様、ありがとうございます。私みたいな無学の者に息子を与えてくださって。
「私が30歳になった頃だったと思いますよ。
「私の住んでる町内に事故が起きたり、誰かが亡くなったりすると、私が手伝ってあげてたんですよ、なんでもそういうふうにしゃしゃり出てたから。ある日、友だちが『今、三清病院で行き場のない人が赤ちゃんを産んだんだけど、医者がへその緒を切ってくれないんだって-行ってへその緒は切ってあげないといけないんじゃないの』って言うから、それでへその緒を切ってあげようと思って、毛布を持って行ったら、母親は壁を向いて横になっていて。ご飯を食べなさいって言ったら、汁は全然口をつけないで、しょう油をつけてご飯を一杯全部食べたんですよ。そうしたら、この人が赤ちゃんを誰かにあげるつもりだ、捨てるつもりだってことがわかったんですよ、そこにいた人たちが。
「友だちが私のところに来て、あんた、今回あの子を引き取って育てないと、あんたは死ぬまでこの家の幽霊みたいにして暮らすことになるって、そう言いながら、あの子を育ててみろって、そうすれば絶対に同居している男は来ないからって。あの子を育てればあの男は来ないだろうって言われたら、それもそうかなと思って、私が育てることにしたんですよ。
「でも、私には靴下の一足も買ってくれないのに、その子には銃のおもちゃも買ってあげて、乳母車も買ってあげて、あれこれしてあげて。戸籍に載せなければならないから、私の考えでは、この子をこの家の戸籍に載せて欲しいって頼もうって。その家の戸籍に載せたんですよ、その家に。ファン某って言って、姓がファンだから。
「家を売って、富川を離れようと思って、私が引き取った子だけ連れて行こうと思っていたんだけど、私は生活欲が強いから、金貸し業をしたんですよ、日済し貸しもしたり、闇ドル商もしたり。こっちに貸したお金が戻ってきて、何日にはお金が入ってくるから行こうかってなると、こっちに追われて、またこっちに貸したお金を受け取らないといけなくて。そうこうしているうちに、富川にいるまま歳月が過ぎたんですよ。それで、逃げることもできずに、ずっとそのまま暮らすうちに、借金の保証人になったせいで人の借金を背負うことになったから、今度は、ファンさんの方がもう巻き上げる金もないと思ったのか、たっぷりと手に入れようとして、住んでいた家を売りに出したんですよ。でも、売れるはずないでしょう。それこそ私が、家の権利書を渡すはずないでしょう。渡しませんよ。だから、中途金(契約金と残金の支払の間に払うお金)はもらえずに契約金だけ受け取ったわけですよ。
「そうしたら、そこの友だちが言うには、『あの人(ファンさん)に少し持たせて、上手く解決しなさいよ、どこに行っても、前に何でもなかった時も探して回ったのに、ただでは置かないでしょう。後で家を売ったって聞いたら、余計にただでは置かないだろうから、ファンさんに少しばかりお金をあげて、あんたはここで、物乞いするとしても知ってる人から物乞いしなさい』って言われて友だちに説得されて、そうして家を売ったんだけど。きっと、妾として暮らしてる男に慰謝料を払って別れてもらったって人は、韓国で私一人しかいないでしょうよ。
「そうして、借金を全部返してしまったら手元に何も残っていないから、その時からは道端に座って、店もなく道端に座って、ある時は、ポンデギ(蚕のさなぎを煮付けたもの)商売までしたんですよ、とうもろこしを茹でて売ったり、ゆで卵を売ったり。(泣き声になって)ポンデギ商売でもなんでも、やらないことはない位に何でもかんでもやりながら、子どもは勉強させないといけない、私は学ぶことができなかったけど、他人の子供をひきとって勉強させないわけにはいかないと思って、あの子を勉強させるために、本当にたったの1万ウォンで服の一着でも買って着ることなく、友だちが着ていたもの、くれるものをただでもらって着て、そうこうしながら暮らしてきたのが、それでも神様が、我らの神様、愛してやまない神様だから、祝福をくださって。
「息子に神学大学を卒業させ、大学院まで行かせることができたんですよ。そうして今は、ああして牧師になったんだけど。その授業料が準備できたときは、本当に気分が良くて、どうしてあんなに気分が良かったのか。
「私一人、誰もいない部屋を歩き回りながら、『神様、ありがとうございます。私みたいな無学の者に息子を与えてくださって、その息子をこうして学校に、それも大学に行かせるということは、どれだけ恵まれたことでしょうか』、ただただありがとうございますってお祈りしてね、部屋で一人。そうして過ごしたのがつい昨日のような気がするけど。
ばれる
嫁がその言葉を聞いて、お義母さん、それどういうことなんですかって。
「テレビを見ていたら、慰安婦の補償問題についてお金が少ないとか何とかって、その頃問題になってた時だったと思うんだけど。そんな気に入らない内容が出てきたから、私が『実際にお金を受け取るべき人たちは、そのことを隠して、恥ずかしく思って顔を上げることもできないのに、ああして関係ない人が騒いでるんだから』って言ったら、嫁がその言葉尻をとらえて、お義母さん、それどういうことなんですかってことになって。
「ものすごく涙を流したよ。息子は『(泣き声で)そんなに苦労して、今日まで生きてきたのは奇跡だって』、そう言いながら、本当に泣きに泣いて。その前には、いくら育ててあげたっていっても、別に孝行しようとはしなかったんだけど、その事実を知ってからは、孝行しようとしてくれてね。牧師(の息子)が来て、部屋も片付けてくれて、ご飯を食べたら皿洗いも牧師がしてくれて。
「ここの福祉館からもボランティアを送ってくれるっていうんだけど、まだ私が、それでも少しは動けるから、他の人を苦労させるのは良くないと思って、断って過ごしているんですよ。
願うこと
一言でも謝罪の言葉を、真心からの謝罪の言葉を聞くのが願いですよ。
「今もこうしていても、蜂が飛んで来て刺されたみたいに、こうしてズキズキするんですよ。
「こんな脚もそうだし、足もそうだし、こういう所もそうだし。ある時は、頭も痛くてズキズキするんです。言葉で表現しきれない、どれだけ痛いことか。それでも、誰も私を患者とは見ないんですよ。医者だけが、私を患者として見て、注意してくださいって。
「今は、医者の話では良くないものは全部持っているとかで。コレステロールもそうだし、糖も300に近いし、279だったか、そうなんですよ。それから、骨粗しょう症もあるし。骨粗しょう症があって当然なのは、どうしてかっていうと、幼い頃に、そうしている時に子宮全体を取り出してしまったから。
「だから、今は、女になければならない子宮全体は、もう30歳になる前に取り出してしまって。(お腹を指差して)大きな手術だけでも3回 しましたよ。
「(手術の跡を一つ一つ指差して)これは胆石。それは腸癒着っていうやつ。そして、これは胆のう炎。うん、胆のうを全部取り出したんだよ。これは、40代の半ばにしたんですよ。
「だから、こうしてどこもまともな所なんてないんだけど、(笑って)神の恵みだよ、他の人からは、絶対に病人には見えないんだから。
「あの頃は分別がなくて、『うちが貧しい、国がこんなだ、何がこんなだとかじゃなくて、私たちが貧しいから、こんな苦痛を受けるんだ』って、そう考えてたんですよ。でも、実はそうじゃないのに。貧しいって考えてみてくださいよ。どの親が、あんな所に子を売ってしまう人がいるのか。
「あの頃は分別もなくて何もわからないから、『あぁ、お金持ちの家に生まれてたら、こんなことはなかったのに』って、そんなことも考えたけれど、今、年とってから考えてみたら、今も韓国人たちはお金っていうと見境なく悪事を働く人がいるから、日本に同意して、ただ『どこにも逃げられない所に連れて行って、人々にあんな苦痛を与えたんだ』って思うんですよ。(ため息)
「本当だよ、国というのは絶対になければならない。国のない国民は生きているんじゃない、死んだようなものですよ。
「余生がいくらも残っていないから、その間にでも恨みを解くことができたら、一言でも謝罪の言葉を、真心からの謝罪の言葉を聞くことが願いですよ。
「あぁ、本当に、慰安婦経験者もすでにたくさん逝ってしまって、いくらも残っていない人たちだけでも、万分の一、千分の一でも、言葉一つで千両の借金を返すっていうんだから、謝罪して、『あなたたちは、それこそ我々のせいでこんな目に遭ってしまって、私たちを少しでも赦してください』って言ってくれたら、どれだけ良いだろうか。
「もう一つの願いは、挺対協でこうして力を尽くした末に、本当に韓国民族が力を尽くして、あの記念館が早く建てられたらいいと思いますよ。なぜなら、子供がいる人は、この世に生まれて名前を残して、子供によって名前を残して死ぬけれども、私たちみたいな人は、名前も姓もなくしてこの世に生まれて、このとんでもない苦労だけを経験して死んでいくんじゃないですか、名前も姓もないじゃない。でも、ここでこうして記念館を建ててくれるっていうから、そうすれば名前は残るから、いくら恥ずかしい名前でも名前は残るから。はぁ、これで、我らの神様が、多くの人たちの心を感動させて、早くそれこそ記念館が建てられて、そうして名前を残せたらと思いますよ。
「誰も私の名前を覚えていてくれる人がいない。それこそ、家族や親戚がいるわけでも、子供がいるわけでもない。
「この世に私一人ですよ。だから早く、それこそ記念館が建てられたらいいのにっていうのが私の願い、私は一人だから、私一人しかいないから、私が死んだら何も残らないから。
「私の姓をただ背負ったまま死んでしまうのが、とてもとても、それこそ口惜しくてならないんですよ。だから、そういうのが建てられて、名前を残してほしいっていうことですよ」