• 東海の中の独島
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1877年、明治政府は鬱陵島と独島を朝鮮の領土であるとはっきりと再確認した。明治政府の地籍編纂事業と関連して、1876年10月に島根県から鬱陵島と独島を島根県に含めるのかという質問を受けた日本の内務省は、約5ヶ月に渡る検討の末、この件は1696年に終わった問題で、鬱陵島と独島は朝鮮の領土であり、「日本と関係なし」という結論を下した。
この「1696年に終わった問題」とは、安龍福事件の後に日本の江戸幕府が鬱陵島と独島が朝鮮の領土であると認めたことを意味する。安龍福事件とは、1693年に安龍福ら40人の朝鮮の漁夫が鬱陵島で違法操業していた日本の漁夫たちと 遭遇したことから、鬱陵島を巡って巻き起こった朝日間の領有権論争のことを言う。それを朝鮮の記録では「鬱陵島争界」といい、日本の記録では「竹島一件」という。安龍福は二度に渡って日本に渡って行ったが、厳格に区分すると1693年は安龍福が拉致された事件であり、1696年は安龍福が自ら渡日した事件である。
鬱陵島と独島をめぐり朝鮮と日本の間で2年以上に渡って行われた調査と論争の末、江戸幕府は1696年1月に鬱陵島と独島が朝鮮の領土であることを認め、日本の漁夫たちが鬱陵島に出入りすることを禁止するという文書を朝鮮に送ってきた。このような江戸幕府の決定は、鬱陵島を虎視眈々と窺っていた対馬島主が1693年から引き続き主張していた鬱陵島の領有権論争を終結させ、その当時も独島が鬱陵島に付属する島だと認識していたことを明らかにしたものである。
『粛宗実録』によると、1696年、安龍福が二度目に日本に渡った時、鬱陵島で遭遇した日本の漁民に「松島は子山島(独島)であり、朝鮮の領土だ」と主張し、日本に渡って行って日本人の独島侵犯について抗議したという。このような安龍福の陳述は、2005年に日本の隠岐島で発見された安龍福の渡日活動に関する日本側の調査報告書である『元禄九年丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』からもその手がかりが確認できる。
安龍福事件を契機として、朝鮮政府は鬱陵島捜討計画を打ち立て、1694年に鬱陵島の調査のために張漢相の一行を鬱陵島に派遣した。当時、張漢相らは独島の存在を確認し、その内容を『鬱陵島事蹟』(1694年)に記録した。その後、朝鮮政府は17世紀の後半から19世紀後半まで定期的に捜討官を送り、鬱陵島とその周辺の島を点検させた。鬱陵島に対する捜討政策は、深刻な凶作のために停止された場合もあったが、1894年12月まで定例化された。
独島が朝鮮の領土だという日本の認識は、1869年12月に外務省の官吏が朝鮮の事情を密かに調査して作成した報告書である 「朝鮮国 交際始末内探書」(1870年)の「竹島[鬱陵島]と松島[独島]が朝鮮の付属となった経緯」と、1877年3月29日の「竹島とその外一島に関する件は、本邦(日本)と関係なしと心得ること」という、いわゆる「太政官指令」からも確認できる。そして、日本の海軍省水路局が1876年、1887年に発刊した「朝鮮東海岸図」、1899年に発刊した『朝鮮水路誌』などでも独島を朝鮮の付属領として表記している。

 
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