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2.安龍福事件と日本の渡海禁止令

学習目標
朝鮮時代の独島領有権確立に大きく寄与した安龍福の活動について説明できる。
日本が下した「竹島渡海禁止令」には、鬱陵島だけでなく独島も含まれていたという事実を理解することができる。
 
思考を開く
安龍福は、平民として日本に二度も渡り、独島が朝鮮の領土であることを主張した人物である。安龍福が危険を顧みず日本に再び渡って行った理由は何だったのだろうか?
 

安龍福

安龍福は1693年と1696年の二度に渡って日本に行き、鬱陵島と独島が朝鮮の領土であることを主張した人物である。
安龍福の身の上についてはあまり知られていない。朝鮮時代後期の実学者である 李瀷(李瀷 :1681~1763年)が著述した『星湖僿説』によると、安龍福は東莱(現在の釜山市佐川洞)出身の船頭で、慶尚左水営の水軍に服務していた。この時、 倭館に出入りして日本語を身につけたという。日本の記録にはソウルに住む呉忠秋の私奴婢として釜山佐川里に住んでいたとある。
安龍福に対する呼び名は、安同知、安裨将、安邊将、安兵使などいくつか登場する。名前が用卜(ようぼく)とされている日本の記録もある。年齢についても1696年当時、43歳、33歳、36歳などとはっきりしていない。

安龍福事件

安龍福が1693年と1696年の二度に渡って日本に行き、鬱陵島と独島が朝鮮の領土であることを主張したことから、両国間の外交問題が発生したことを「安龍福事件」という。これを朝鮮の記録では「鬱陵島争界」といい、日本は「竹島一件」という。厳格に区別すれば、1693年の件は安龍福拉致事件であり、1696年の件は安龍福渡日事件である。

第一次安龍福拉致事件の顛末

1693年(粛宗19年)3月、安龍福は蔚山出身の漁夫約40人と鬱陵島で漁労作業をしていたところ、4月の中旬ごろ日本の漁夫らに 朴於屯と共に拉致され、日本の隠岐の島に捕らわれて行った。安龍福が隠岐の島の官吏に朝鮮人の漁労の正当性を主張すると、二人は再び 米子に送られた。米子でも安龍福は、鬱陵島と独島は朝鮮の領土だと主張し、自分たちを拉致した不当な行為に抗議した。
安龍福の第一次渡日経路(1693年)
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安龍福と朴於屯を拘禁した米子の官吏は、江戸にいた鳥取藩主を通し、安龍福の処理について幕府に問い合わせた。この時、鳥取藩は、朝鮮の漁民が鬱陵島に来られないようにしてほしいと江戸幕府に要請した。幕府は安龍福と朴於屯を長崎に送って調査した後、対馬を経て朝鮮に送り返すよう指示する一方、朝鮮人の出漁禁止を要請する 書契を朝鮮政府に送るよう命じた(1693.11)。
この時から両国の間で、鬱陵島と独島が自国の領土であると互いに主張する領有権争いが続いた(1694~1695年)。その間、江戸幕府は鬱陵島と独島が鳥取藩に属するのかどうか質問した。
結局、鬱陵島と独島を巡る2年以上に渡る調査と論争の結果、江戸幕府は鬱陵島と独島が朝鮮の領土であることを認めた。そして、日本の漁民が鬱陵島に行くことを禁止する「竹島(鬱陵島)渡海禁止令」を下した(1696.1)。
1693年6月末に長崎に到着した安龍福と朴於屯は、9月初頭に対馬に引き渡され、朝鮮の釜山倭館に送還された。この時、安龍福は対馬に50日ほど監禁され、釜山倭館に到着してからも40日ほど監禁されて、1693年12月に東莱府使に引き渡された。
先年、松平新太郎が因幡と伯耆を治めていた時、 老中伺いのあった伯耆国米子の町人、村川市兵衛・大屋甚吉が竹島へ渡海し、今に至るまで漁をしていたが、今後竹島へ渡海の件は禁制を申しつけるべき旨が将軍から仰せ付けられたとのこと。その趣旨を維持されるよう、謹んで申し上げる。
江戸幕府の「竹島渡海禁止令」(1696年)
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安龍福の第二次渡日

安龍福の第二次渡日経路(1696年)
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許可なく越境した罪で2年間牢獄で過ごした安龍福は、無実を訴えて日本人の鬱陵島渡海を禁止させる目的で再び日本に渡った。
1696年(粛宗22年)春に蔚山出身の漁夫4人と両班1人、僧侶5人と共に再び鬱陵島へ渡った安龍福は、万全の準備をして日本の漁民を待った。安龍福は日本の漁民に会うや、むやみに鬱陵島に来た事実を彼らに問いただした。日本の漁民が子山島(独島)に逃げて隠岐の島へ行くと、そこまで追いかけて行った安龍福は、鬱陵島と子山島が朝鮮の島であることを主張し、これを伯耆の太守(鳥取藩主)に報告するよう要請した。安龍福は、太守から何の返答もないと判断するや、伯耆に入って直接抗議した。安龍福は、あらかじめ準備しておいた官服を着て「鬱陵子山両島監税将」と書かれた旗を持って伯耆へと向かった。また、「朝鮮八道地図」を持参して、独島が朝鮮の領土であることを主張した。
「元禄九年丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」 の中の
安龍福の口述調書の部分
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安龍福が抗議しに来たという事実は、すぐに鳥取藩を通して幕府に報告された。結局、安龍福一行は東海を渡って、江原道の襄陽に戻ってきた(1696.8)。
安龍福一行は許可なく越境した罪で 備邊司で調査を受けた後、死刑を宣告された。しかし、多くの大臣たちが安龍福が日本に渡り鬱陵島と独島が朝鮮の領土であることを主張した功績と、対馬のたくらみを明きらかにした功績を認め、流刑に減刑した(1697.3)。
資料
朝鮮と日本の間の外交窓口、対馬藩

朝鮮と日本の外交は、対馬藩を通して行われた。日本の江戸幕府が対馬藩を通して釜山倭館に使臣を送ると、朝鮮は礼曹(高麗時代から朝鮮時代にかけて、儀礼や祭事、外交などを司った行政機関)の官吏を東莱府に送り、外交問題を処理させた。
 

最近発見された日本の記録

「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」の中の口述調書の一部当時、日本は鬱陵島を竹島、独島(竹島)を松島と呼んでいたため、地図に書かれた松島(松嶋)とは独島を指している。
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日本はこれまで、安龍福のことを嘘つきだと批判してきた。ところが、安龍福が日本で取り調べを受けた内容が書かれた文書である「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が2005年5月、隠岐の島で発見された。安龍福は二度目に日本に行った時、「朝鮮八道地図」を準備して行っており、日本の官吏が地図を書き写した文書には「竹島(鬱陵島)」と「松島(独島)」が朝鮮の江原道の所属だと書かれている。
活動 1
「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」の中の「朝鮮の八道」江原道部分に書かれている二島の名称がどのように記録されているのか調べてみよう。
 
活動 2
越境した安龍福の罪の処罰について、当時の朝鮮朝廷ではどのような意見があったのか調べてみよう。
 

1696年、日本が「竹島渡海禁止」を決定

1693年から始まった両国間の鬱陵島・独島領有権論争は、2年以上もの間、文書をやり取りして論争したが江戸幕府が調査に着手した後、完全に解決した。江戸幕府は鳥取藩の領主に、二島が鳥取藩に属するのかどうか尋ね(1695.12)、鳥取藩は朝鮮から「松島」までは80~90、松島(独島)から「竹島(鬱陵島)」までは40里、そして日本の隠岐の島から松島(独島)までは80里であり、鬱陵島と独島の二島は鳥取藩に属する島ではないと答えた(1696.1.25)。
これを受けて、1696年1月28日、幕府は日本の漁民たちに鬱陵島と独島に行ってはならないと指示する渡海禁止令を鳥取藩に下した。日本は独島が朝鮮の領土であることを認めたのである。しかし、「竹島渡海禁止令」は鳥取藩にすぐには伝えられず、朝鮮にも10月になってから伝えられた。
活動 3
鳥取藩が調査した二島と朝鮮、日本との距離である。これを海里 → kmの順に換算してみよう。(1海里は1,852m、1里は0.4km)
• 松島(独島)から竹島(鬱陵島)までは40里 → 40海里 → 74.6㎞ → 約 190里
• 朝鮮から松島(独島)までは80~90里 → (  )海里 → (  )㎞ → 約(  )里
• 日本の隠岐の島から松島(独島)までは80里 → (  )海里 → (  )㎞ → 約(  )里
 
資料
「竹島(鬱陵島)渡海禁止令」には独島も含まれる。

日本の学者の中には、「竹島渡海禁止令」は鬱陵島だけで、独島は含まれないと主張する人がいる。しかし、日本の漁民が鬱陵島を除いて独島だけを目的として渡海する場合はなかった。したがって、「竹島渡海禁止令」が下されれば、自然に「松島(独島)」の渡海も禁止されるため、江戸幕府は独島を特別に言及しなかったのである。
 

安龍福事件以降の鬱陵島と独島

1693年4月に日本に拉致された安龍福が戻ってくると、朝鮮政府はその翌年の秋、三陟営将の張漢相を送り、鬱陵島とその周辺の島を調査させた。張漢相は調査後の報告書「蔚陵島事蹟」で次のように述べている。
雨が止み、雲が消えた日に山に入って中腹まで登ると、南と北の二つの峰が向かい合ってそびえているが、これが俗にいう三峰です。西側には畳々として波のごとく重なる大関嶺の姿が見え、東側の海を眺めると南東の方向に島が一つ幽かにあり、その大きさは鬱陵島の三分の一にもならず、距離は約300里に過ぎませんでした。
「蔚陵島事蹟」
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『東国文献備考』
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安龍福事件以降、朝鮮政府は鬱陵島だけでなく、独島についても詳しく知るようになり、それはその後の文献に反映された。
東国文献備考 』(1770年)は、『輿地志』曰く、「鬱陵と于山は共に于山国の地であり、于山は正に倭人たちが言うところの松島である」という内容を載せ、于山島=日本名の松島=独島であることを明らかにした。この内容は『萬機要覧 』(1808年)と『増補文献備考』(1908年)にもそのまま継承された。

安龍福事件以降の朝鮮の対応

鬱陵島台霞里壬午銘刻石文1882年、鬱陵島の検察使であった李奎遠が高宗の命を受けて鬱陵島の踏査と実態把握のために滞在した時に刻んだものである。
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安龍福事件以降、朝鮮は武臣の張漢相を送って調査した後、3年に一度ずつ鬱陵島とその周辺の島に捜討官を派遣することを決めた。1697年に決められたこの捜討制度は1699年から施行され、1894年に廃止されるまで続いた。
捜討官は鬱陵島に行ってきた事実を証明するため、香木と赤い土、アシカの皮などの特産物を王に捧げ、鬱陵島に滞在した記念として岩に自分たちの名前を刻んだりもした。この捜討制は、凶作の年を除いて定期的に実施されたため、鬱陵島と周辺のその島々に対する知識と情報量が増え、文献と地図に反映された。
活動4
安龍福の渡日活動について調べ、私たちに示唆する意味は何なのかを考えてみよう。
 
活動5
次の年表は、独島に関する内容をまとめた韓国の史料一覧である。各文献に出てくる内容を探し、括弧の中を埋めてみよう。

年度史料名(著者)内容
512年『三国史記』新羅本紀智証麻立干智証王13年の夏の6月、于山国が降伏し、毎年土産物を貢物として捧げた。于山国は溟州の真東の海にある島で、鬱陵島ともいう。
1451年『高麗史』「地理志」于山と武陵は本来異なる島で、互いの距離が遠く離れていないため、晴れていれば眺めることができると書かれている。
1454年『世宗実録』「地理志」二島は距離が遠く離れていないため、晴れていれば眺めることができる。新羅時代には(  )と称した。
1531年『新増東国輿地勝覧』二島は県の真東の海にある。(中略) 晴れていれば峰の頂の樹木と山麓の砂浜をありありと見ることができ(後略)
1696年以降「鬱陵島」(朴世堂)(  )は地形が低く、とても晴れているか、最も高い所に登らなければ見えない。
1756年『疆界考』(申景濬)いくつかの図志を照らし合わせてみると二つの島だ。二つは倭が言うところの松島だとあるため、大体において二島は共に(  )である。
1770年『東国文献備考』『輿地志』曰く、「鬱陵と于山は共に于山国の地であり、(  )は正に倭人たちが言うところの松島である」と書かれている。
1808年『萬機要覧』(  )には「鬱陵と于山は共に于山国の地であるが、于山は正に倭人たちが言うところの(  )である」と書かれている。
1908年『増補文献備考』『輿地志』に「鬱陵と于山は共に于山国の地であるが、于山は倭人たちが言うところの松島である」と書かれている。
 

 
李瀷
朝鮮時代後期の実学者で、号は星湖。奴婢の解放と、両班(朝鮮時代の身分階級の最上位に位置した支配階級)も生業に従事すべきだと主張した。著書に『星湖僿説』などがある。
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倭館
朝鮮時代に日本との外交および通商のために設置された場所。東莱府の釜山倭館が代表的である。
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朴於屯
1693年3月に安龍福と共に日本に拉致され、11月に釜山の倭館へ送還された蔚山出身の漁夫
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米子
現在の鳥取県西部地域の都市名で、当時、伯耆国にあった大きな町である。
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書契
朝鮮と日本がやり取りした往来文書。入国査証と外交文書の機能を有していた。
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老中
日本の江戸幕府最高の高官
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鬱陵子山両島監税将
鬱陵島と子山島(独島)の二つの島の税金関連の監督官という意味だが、朝鮮にはない官職である。
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「元禄九年丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」
1696年の安龍福の第二次渡日の際、安龍福を取り調べた日本の官吏が報告した文書名
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備邊司
16世紀の初め、国防行政を管掌するために設置された機構。文禄の役と丙子胡乱以降、機能が強化され最高の政府機構となった。
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日本の1里は朝鮮の10里に当たるが、ここでは海の道、すなわち海里を意味する。1海里は1,852mである。40海里は約190里であるため、鬱陵島-独島間の距離は約220里(87.4km)に近い。
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東国文献備考
1770年に王命により編纂された文物・制度に関する百科全書で、13考、100巻で構成されている。後に改正作業を経て1908年に16考、250巻の『増補文献備考』として刊行された。
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萬機要覧
王が政事に参考にすることができるよう、財政と軍政に関する内容を集めて1808年に編纂された。
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