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高句麗コレクション

高句麗は、鴨緑江中流で鉄器文化を土台として国家を形成した。紀元前3世紀以降、鴨緑江中流流域では鉄器が普及し始めたが、これを土台として、この地域にいくつかの那集団が登場した。那は川辺という意味で、現在の韓国語の「国」に通じる。「那」集団は小規模な国家であったといえる。
高句麗には本来、消奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部の五部族が存在した。本来、消奴部から王を出したが、徐々に衰弱し、後に桂婁部がこれに代わった。 (「三国志」巻30、東夷30高句麗)
 
紀元前1世紀半ばから、鴨緑江中流流域のいくつかの「那」集団は、沸流集団を中心に連盟体を形成した。しかし、朱蒙神話[註 001]から推測できるように、その後、連盟の主導権は桂樓集団に移った。上記「三国志」の記録で見ると、消奴部から桂婁部に王室が代わったとあるが、この内容は連盟を主導した集団が交替したことを示している。
高句麗の国家形成の過程は平坦ではなかった。揺動地域の漢の郡県が高句麗「那」集団の連盟に介入し、「那」集団間でも葛藤と対立が繰り返されていたからである。この過程で、高句麗の国都も卒本[註 002]から国内城[註 003]に移された。しかし、1世紀半ばの太祖大王(在位:53~146[註 004]以降、「那」集団の連盟はある程度まとまり始めた。多くの「那」集団が5つのより大きな集団に統合されたのである。上記「三国志」記録に見られる五部が、統合された5つのより大きな集団である。高句麗五部の支配層は「複数の加」つまり諸加であった​​。
大加の一部は、自ら使者・皁衣・先人を置いたが、その名簿はすべて王に報告された。[使者・皁衣・先人は]あたかも中国の卿・大夫の家臣のようであったが、会合の座席順において王家の使者・皁衣・先人のように班列に列することはできなかった。 (「三国志」巻30、東夷伝30高句麗)
 
「加」は、干・汗・干支などと通じる言葉であるが、韓国語にすると、王という意味である。モンゴル帝国チンギス・カン(汗、khan)も同じような意味である。「加」は、本来「那」集団、つまり小さな国の王を意味する。しかし、「那」集団が五部の連盟に統合され、高句麗王の臣僚となり、支配層の名称に変わった。
それにもかかわらず、3世紀半ばまで諸加はそれなりの独自勢力を持っていた。その勢力の大きさに応じて大加と小加に分けられたが、上記資料で見られるように、大加は自ら使者・皁衣・先人の役人を置いて、部を治めた。ただし、大加は麾下の官員名簿を王に報告したとされ、王の支配を受けた。つまり、大加は一定の地域を統治するのにそれなりの下位行政組織を整えたが、王の支配を受けるシステムであったいうことである。戦争や対外交渉も王を中心に行われた。王権の下に統合されていたのである。

 
[註 001]
「三国史紀」巻13 高句麗本紀1 始祖東明聖王 「三国史紀」巻13 高句麗本紀1 始祖東明聖王 「三国遺事」巻第1 紀異1 高句麗 「三国遺事」巻第1 紀異1 高句麗 韓国民族文化大百科事典 東明王神話 韓国民族文化大百科事典 東明王神話
[註 002]
韓国民族文化大百科事典 卒本城 韓国民族文化大百科事典 卒本城
[註 003]
韓国民族文化大百科事典 国内城 韓国民族文化大百科事典 国内城
[註 004]
「三国史紀」巻15 高句麗本紀3 太祖大王 「三国史紀」巻15 高句麗本紀3 太祖大王 韓国民族文化大百科事典 太祖王 韓国民族文化大百科事典 太祖王
[註 001]
「三国史紀」巻13 高句麗本紀1 始祖東明聖王 「三国史紀」巻13 高句麗本紀1 始祖東明聖王 「三国遺事」巻第1 紀異1 高句麗 「三国遺事」巻第1 紀異1 高句麗 韓国民族文化大百科事典 東明王神話 韓国民族文化大百科事典 東明王神話
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