探究学習2
連合国最高司令官指令(SCAPIN)第677号は、独島を日本の領土から除外した!
日本は1945年8月15日、無条件降伏を宣言し、日本政府は1945年9月2日、ポツダム宣言の内容を守ると公式に明かした。日本が降伏文書に調印した後、東京に連合国総司令部が設けられ、日本統治を担当することになった。
連合国総司令部はカイロ宣言とポツダム宣言の様々な規定を執行するために日本帝国の解体作業に取りかかり、1946年1月29日に8つの条項からなる「連合国最高司令官指令(SCAPIN)第677号」を発表した。
その内容を見ると、日本の統治範囲を4つの大きな島(本州、北海道、九州、四国)と約1千個の小さな隣接する島々と規定した。続いて第3項では、日本の領土から除かれる島々として、鬱陵島、独島、済州島を列挙した。この指令に添付された地図を見ると、鬱陵島と独島が韓国の領土であるということがはっきりと確認できる。
これは、連合国総司令部が独島を日本の領土からはっきりと除外したということである。その後、大韓民国政府が樹立され、アメリカ軍政が統治権を韓国に引き渡すまで、連合国総司令部は「連合国最高司令官指令(SCAPIN)第677号」を修正したことがないため、その内容はそのまま維持された。そして、大韓民国の政府は、アメリカ軍政から独島を含む大韓民国の領土を返還してもらったのである。
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1.上の地図から鬱陵島と独島を探し、英文名称を書き写してみよう。
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2.大韓民国勅令第41号と島根県告示第40号の意味を調べてみよう。
李承晩大統領は1952年に平和線を宣布した!
解放当時、韓国と日本の漁労技術の格差は非常に大きかった。そのため、日本の過度な漁労活動に対応できる迅速な措置が必要で、設定されたのがマッカーサーラインであった。マッカーサーは「連合国最高司令官指令(SCAPIN)第1033号」の第3項を通して、日本の船が独島の12海里以内に接近できないようにした。
その後、日本はマッカーサーラインの調整および撤回を主張し、この主張によって何度か調整された。このようにマッカーサーラインが何度も調整され、廃止される兆しまで見えるや、韓国政府は独自の対応方案を準備したが、それが平和線の宣布であった。
李承晩大統領は日本の漁労区域の拡張に反対する声明を発表し、韓国の国会でも1951年4月24日にマッカーサーラインの調整に反対する決議案を採択した。そうした中、1951年11月に連合国により対日平和条約が締結され、1952年4月、批准を目前にして、韓国政府は1952年1月18日に海岸から平均60マイルの距離に達する水域に平和線を宣布したのである。
そして、独島を基点とし8海里を領海とみなし、これを侵犯する日本の漁船を取り締まった。これに対して日本は、1952年1月28日、「隣接公海の漁業独占は世界的な趨勢に逆行するものであり、竹島に対する領有権の主張は認められない」と反論しながら、韓国の措置を非難したりもした。平和線は1965年の韓日漁業協定上の「共同規制水域」に変わった。