• 東海の中の独島
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朝鮮は1897年に国の名前を大韓帝国へと変えた。1883年、朝鮮政府の「鬱陵島開拓令」により鬱陵島の開拓民が徐々に増え、鬱陵島に入ってくる日本人も増えてくると、これらを管理しなければならないという問題が発生した。特に、日本が1895年に清国との戦争に勝利してからは、より多くの日本人が入ってくるようになり、多くの弊害が発生した。このため、大韓帝国政府は日本政府に要求して共同調査団を構成し、鬱陵島の現況を調査させた(1900.5.31~6.5)。大韓帝国政府から派遣された禹用鼎は、日本人の速やかな撤収と船舶の購入、そして鬱陵島の官制改編を上部に提案した。
その結果、1900年10月25日に大韓帝国は「勅令第41号」により鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正した(1900年10月27日付「官報」(第1716号))。また、鬱島郡守が管轄する地域として「鬱陵全島、竹島、石島」を規定した。ここで言う「竹島」とは、鬱陵島のすぐそばにあるテッソムのことを指し、「石島」とは独島のことを指す。このように、大韓帝国は三国時代以来、長い期間に渡って持続してきた独島の領有権を、「勅令第41号」を通して近代法的に再確認したのである。

 
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