深化学習:領土を守った隠れた功労者たち
1882年(高宗19年)、鬱陵島検察使に任命された李奎遠は、鬱陵島の経済的な価値について調査・報告すると共に、安龍福の活動以降、鬱陵島の往来が禁止されていた日本人が無断で鬱陵島と独島に侵入し、標木を立てて伐木しているという事実を報告した。
李奎遠の報告により、朝廷は直ちに日本に抗議の書簡を送り、すぐに鬱陵島開拓事業を始めるよう指示した。1883年、各道から16戸54人を鬱陵島に移住させた後、鬱陵島の住民は次第に増えていった。
1900年10月には大韓帝国「勅令第41号」を頒布し、鬱陵島を独立した郡として昇格させ、地方行政の長である郡守が鬱陵島と独島を管轄するようにした。李奎遠の検察報告により、鬱陵島で約400年間実施されていた刷還政策が解かれ、鬱陵島の管理政策が開始された。
鬱陵島の第二代郡守である沈興澤は、1906年3月に日本の地方官吏が鬱陵島を訪問して「独島は日本の領土」だと通知してくるとこの事実を朝廷に報告したが、今日の名前である「独島」が公式的に文書に初めて登場したのはまさにこの時からである。この報告書を受け取った朝廷では、日本人の主張を断固として否定し、独島の現状と日本人の行動についてもう一度調査することを指示したが、当時は外交権を剥奪された状況だったため、まともに対応することができなかった。
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主な内容のまとめ
1. 鬱陵島と独島が公式的に朝鮮半島と初めて関係ができたのは、新羅智証王13年の異斯夫将軍による于山国服属以降である。
2. 安龍福は二度も日本に渡り、朝鮮の海域における日本の漁夫たちの操業禁止を要求し、鬱陵島と独島が朝鮮の領土であるという確答を日本の官吏から得た。
3. 李奎遠は鬱陵島についての詳しい検察報告をし、鬱陵島に対して約400年間実施してきた刷還政策を中断し、鬱陵島の開拓事業を開始できるようにした。
4. 鬱陵島の第二代郡守である沈興澤は、日本による独島侵奪の試みを朝廷に報告する際、初めて独島という名称を使用した。
5. 朝鮮戦争直後の混乱期に、独島の義勇守備隊が日本の巡視船を撃退し、独島の実効的な支配を維持した。