深化学習:独島という名前はいつできたのだろうか?
鬱陵島と独島は元々、于山国に属していたが、異斯夫が于山国を征服してからは新羅の支配を受けるようになった。高麗時代には今の鬱陵島を鬱陵島、独島を于山島と呼んでいた。朝鮮時代の成宗(1457~1494)の時には独島を三峰島と呼ぶこともあった。粛宗(1661~1720)の時の安龍福は、子山島と呼び、正祖(1752~1800)の時には島にカジオが多く住むとしてカジ島と呼んだりもした。
19世紀末には鬱陵島の開拓が本格的に始まり、陸地から多くの人々が鬱陵島に移り住むようになった。彼らは、そのほとんどが石からできていることから、独島のことを方言でドク島と呼んだ。韓国語の「トル(石)」、「ドク」を漢字で表記する際、意味を活かす場合には石と書き、音の通りに表記する場合には独と書いた。そのため、石の島であるこの島を漢字で石島、または独島と表記するようになったのである。
では、西洋の人々は独島を何と呼んだのだろうか?西洋人が独島に初めて名前をつけたのは1849年であった。当時、フランス人は捕鯨船リアンクール号に乗っていた。彼らは自分たちがこの島を初めて発見したものと思い、船の名前にちなんでリアンクール岩と名付けた。彼らは1850年にフランスに帰ってから、海軍省に航海報告書を提出した。そうして、1851年に発刊された海図からは、正確な位置に「リアンクール岩(Rochers Liancourt)」と表記されるようになった。
日本では独島を何と呼んでいたのだろうか?1667年、日本の官吏である斎藤豊宣が隠岐の島を視察した後に作成し提出した報告書では、朝鮮の領土である独島を「松島」と呼んでいる。その後もこの名前を続けて使っていたが、公式的には1905年、閣議で決定した後から独島を「竹島」と呼んでおり、鬱陵島は「松島」と呼んでいる。
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主な内容のまとめ
1. 西島と東島という2つの大きな島および89個の小さな岩島からなる独島は、大韓民国の最も東の端にあり、東端の経度は東経131°52′22″である。
2. 独島は大韓民国の領土であり、この領土を基準に12海里の領海を持つ。また、200海里の排他的経済水域も保障される。ただし、日本の領土と近いため、両国が合意して独島と隠岐の島の間で排他的経済水域を決める。
3. 独島は慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里1~96番地に該当し、郵便番号は799-805である。総面積は187,554㎡である。
4. 独島は鬱陵島から南東に87.4㎞、日本の隠岐の島から北西に157.5㎞離れた位置にある。隠岐の島との距離よりも、鬱陵島との距離の方が70.1㎞も近い。
5. 独島は于山島、子山島、カジ島、石島、ドク島などと呼ばれ、西洋ではリアンクール岩、日本では松島、竹島などと呼ばれてきた。
- [註 017]
- 『増補文献備考』には于山島と書かれているが、于の字と子の字が間違って使われたものと思われる。
- [註 018]
- トドの一種であるアシカ。