「絶対に忘れてしまってはならない」
イム・ジョンジャ
- 年度
- 年齢
- 内容
- 1922年
-
- 慶尚南道晋州市生まれ
- 1926年
- (5歳)
- 釜山に移住
- 1938年
- (17歳)
- 釜山付近の地域から満州へ連行
8年間、台湾、香港、海林、大連、上海、ハルビンなどの地域で日本軍「慰安婦」として生活
- 1945年
- (24歳)
- 解放後、海林付近でキム某と約半年間同居
- 1946年
- (25歳)
- 平壌の避難所を経て釜山に到着、忠武に定着
- 1958年
- (37歳)
- 馬山に移住
- 1996年
- (75歳)
- 日本軍「慰安婦」登録
- 2004年
- (83歳)
- 慶尚南道馬山に居住
「良い音楽が流れてきたら自然に踊って、前はそういうのが流れる電蓄があったんだ。私、私はそれが楽しみだよ。友だちが来たら、電蓄をつけてみんなで踊ったり、歌を歌ったりして遊んでいって、今でも良い音楽が流れてくると、じっと横になって鑑賞するんだ。
「音楽が好きなんです。歌も、悲しいやつ、悲劇みたいなのが好きです。喜劇は好きじゃない。テレビの連続ドラマで、悲劇みたいなのをやると、どんなに嬉しがることか。嫁が出てきて、義母からひどい目にあう場面、結婚生活で、夫の実家に行っていじめられて、捨てられて、追い払われる、そんなのも好きだし、何故かそういう悲劇が好きでね。
「私が寂しいからなのか、花も好きなんだよ…花も好きで。
「私が、どうしてこんなに年老いたんだろうかと思う。年をとっても、気持ちは若いままだよ。私の体が、今は言うことをきかないけどね。年には勝てないんだよ。(ため息をついて)あぁ。
「とても心が切なくてね。昨年まではこんな風じゃなかったんだけど、今年はとても切ない気持ちがするんですよ。…気持ちがとても悲しい時が多くてね。誰かに言うこともできないし。
「私が死んだら、独身のお化けになるだろう。結婚もしないで、未婚のまま81歳まで年老いたんだから。私には恨みつらみが多いんです。私が、この話をしようと思ったら、(涙声で)涙が出そうになるからしなかったんだ。誰に話せばいいんだ。
泉
その一つを満たして水瓶を頭に乗せようと姿勢を取っていたら。
「卒業もできなかったよ。小学校4年生の時に中退したんだから。生活が厳しくて、食べていくために、生きるために。そうして私が学校を卒業できずに、ゴムの履物の工場に入って、就職したんだ。
「16歳で就職して、約1年は通ったんだ。1年通って…工場には行かないで、母さんを手伝うといって家に戻って。炊事はしなくても、水を汲んできたり、家の掃除をしたりしてたよ。
「私が17歳の時に連行されたんだ。17歳なら、まだ子供でしょう。ハルモニに甘えたりする時なのに、その時にそんなこと、何がわかりますか。天真爛漫で、あまりにも幼くて何も知らなかったんですから。
「あの当時は水道がなくて、泉の水を汲んで飲んでいたんだよ。忠武のその泉の上に、カトリック教の聖堂があったんですよ。そのすぐ下に(両腕を広げながら)このくらいの泉があったんです。あれは共同の泉だったのか、町内の人たちがみんなそこで水を汲んで飲んでたな。水はそんなにたくさんは出なくて、チョロチョロと流れ落ちる感じで。そうして、つるべで水を汲んで、少しずつ引き上げるんだ。 水瓶一つを満たすには、時間がかかるんだよ。その一つを満たして水瓶を頭に乗せようと姿勢を取っていたら、誰かが来て私を(面接者の脚を叩いて)パンって叩くんだよ。背中を叩くんだ。後ろを振り返ってみたら、軍人なんだ。
「日本の軍人なんだ。軍人がここ[肩に]星を付けて、刀を差して、帽子をかぶって。
「それで、私が『どちら様ですか』って聞いたら、『お嬢さん、ちょっと話しましょう』って言うんだ。その時、横にいた人は韓国人だった。『どうしてですか?』って聞いたら、『お嬢さん、韓国で苦労しないで、良い所に就職させてあげるから、俺たちについておいで』って言うんだ。
「良い所に就職させてくれるって言うんだよ。お嬢さんたちには悪くはしません。私たちが工場を、大きな工場を建てたんだけど、人を何人か探さなければならないって言いながら。
「服を作る工場だって言ってたよ。その、どんな仕事をするのかまで、正しく教えてくれるもんかい。それで、私は服を作れないって言ったら、行って習えばいいって言うんだ。最初はわからないから、教えてくれる人がいるって言うのさ。
「『だめです。私は泉に水を汲みに来て、このことを両親に話さないで行くことはできません』って言ったら、無理矢理にトラックに乗せるんだよ、トラックに。私に力なんかあるもんか、トラックに乗せられたんだよ。
「『ああ、だめですって。だめです。うちのお母さんに何も言わないで行ったら、叩かれます』怖がって泣いてそう言っても、泣いても聞いてくれないんだ。
「強制的に二人に捕まって行くんだけど、どうにもできないんだよ。お母さんに話をしてから来るって言っても、だめだっていうんだ。行って、手紙を送ればいいって言うんだから、どうしようもなくて。私が男に勝てるはずはないし。…運転してスッ-って行ってしまうんだから。もう行くしかないんだよ。
「そうして、行くんだけど、釜山まで行ったんだ。…釜山に行って、また他の女の子を二人連れて来たんだ。一人は慶州の女の子で、もう一人は固城 の女の子。
「釜山に行って、そこで一晩寝て、その次の日に列車に乗ったんだ。列車で行くんだけど、限りがないんだよ。
「汽車の中で…両側に男が座って、私が真ん中に座って。もしかして逃げるんじゃないかって、そうしたみたいだ。
「どうしようもなく気持ちが不安でね。この人たちは、私に危害を加えようとして連れて行くんだろうか、そんな気もするし、行くのも迷うし、汽車から飛び降りようかって気持ちもあって、飛び降りたら死んでしまうじゃないか。死んだらどうするんだい、お父さん、お母さんにも会えずに。走って逃げ出そうとしても、逃げる場所がどこにあるんだい、汽車の中なんだから。あぁ。
「どこまで行ったのかっていうと、ずっとずっと連れて行かれて、満州まで行ったんだ。
「列車に乗って、2日、3日って行って、足がパンパンに腫れてね。一日中座っているから。その時は、何も食べずに、昼食も食べないでお腹が空いて死にそうだった。
畳部屋
ここが何をする所なのかって聞いたら、お客さんを接待する所だって言うんだ。
「列車に乗って、降りてから最初に台湾に行った。台湾って言ってたよ。…台湾が満州じゃないか。
「私を捕まえて行った人の姿も見えないし、…変な所に入れられてしまったんだ。
「韓国人のおばさんが日本人とグルだったみたいだ。互いにつるんでて、そうなったみたいなんだ。
「ここは何をする所なのかって聞いたら、そこにいる女の子たちが『ここにはどうして捕まって来たの』って聞くんだよ。泉に水を汲みに行って、日本のやつらに捕まって来た、って言ったら、『あぁかわいそうに。子供みたいなこの女の子を、どうしてこんな所に連れて来るんだ。あぁ、ここに、来ちゃいけない所に来てしまったんだよ』って、私にそう言うんだ。それで、ここが何をする所なのかって聞いたら、お客さんを接待する所なんだって言うんだ。『お客さんを接待するってどういうことですか』って聞いたら、日本の軍人たちが来たら、一緒に連れて寝る所だって、そう言うんだ。あぁ、どうしたらいいんだい。しゃがみ込んで泣いたよ。泣いても何の役にもたたないだろう。泣いて、声もかれて、元気もなくて。どうやって韓国に帰ればいいんだろうって思っても、帰る道もわからないし、どうしようもないんだよ。『ここに入って来たら、出られないんですよ』ってそこの女の子たちが。『私たちも捕まって来て、こうして苦労してるんです』って。
「そこに行ったら、女の子が二人いたんだ。また、一緒に行った女の子が、チャヤとモイェギと私の三人、それで、その家の女の子と合わせて5人でね。ぜんぶで5人でお客さんの接待をするんだよ。
「家が日本の家みたいだった。玄関があって、床も日本の床みたいで。畳部屋だったんだ。真ん中には庭園があって、真ん中の元締めの部屋の前に大きな庭園があって、池があって鯉もいて、花とかも育てていて。また、あっちの縁側の前に部屋が三部屋並んでいて、こっちに部屋が三部屋あって、また玄関に入って来るところにあるその部屋には、女の子たちがみんな座って、夕方、化粧して座っているんだ。
「畳の部屋に座っていたら、夜になると男たちが遊びに来るようだった。遊びに来て、女たちを、きれいな女だけを選んでいくんだ。きれいな女だけを選んで、『あの女がいいな』 って言ったら、自分が寝る部屋に連れて行くんだよ。
「こうして入ったら、左側の三番目、三番目なんだ、私の部屋は。 畳部屋がだいたい四畳半 くらいだったな。部屋は四角い部屋なんだけど、今の私のあの部屋くらいだったろうか。部屋には何もなくて、布団があるだけなんだ。所持品っていったら、小さな棚が一つ置いてあるだけなんだ。日本のやつらを相手に一晩寝るだけなのに、何で荷物を置いておくんだい。私たちの着ていた服みたいな所持品は元締めの部屋に置いておいて、寝る部屋には何も置かないんだよ。
「お客さんが来たら、夜中まで時間も関係なく接待をするんだ。そして、パーティーみたいなのがあれば、送別の宴なんかをする時は、私も着物を着て、人力車に乗って呼ばれて行くんだよ。そんな所から招待がたくさん来たな、私に。なぜか、他の女たちは呼ばないで、私ばっかり呼ばれるんだよ。
「他の女たちは日本語をまともに話せないけれど、私は日本語で話せたから。その頃は、顔もまあまあだったんだろうよ。化粧して、タカモリ
まで結って、大きな髪型。
「そうしたら、私が『どうぞ、おあがりください』って言いながらお酒を注いだり、歌を歌えって言われたら一曲歌ったり。日本の踊り
を踊れって言われると、(手を叩いて、歌を歌いながら)『オケイシャ-ドンナリ--』って、そういうのを歌ってやったり。私、歌が上手かったんだよ、日本の歌。だから、それが気に入ったのか、送別の宴が開かれるとハヤシサダコ
を呼べって連絡が来るんだ。私の名前がハヤシサダコなんだけど、そこで呼ぶ名前はレイちゃん、レイちゃんって呼ばれたんだ。
「人力車に乗って降りると、日本人たちがこうして円座に座っているんだ。正座して、こうお辞儀をするんだ。これがクセになって、正座して座っていても、足が痛くないんだ。私はいつもこうして正座して座るクセがついてしまって、今でもいつも正座して座ってるんです。膝にあざができたよ、今は。
「お酒を飲んでから、また私に気があれば、うちに来て夜寝るんだ。夜に寝ると、また花代をもらうから。花代をもらったら、どこに持っていくのかっていうと、元締めの部屋に持っていくんだ。夜のお客さんを受けたら、いくら他の人が来て時間を取って遊んで行こうとしても、出られないんだよ。一晩寝るまで、その部屋にいなくちゃならないんだ。小便や大便の用を足す時には出られるけど、それ以外には出られないんだよ。その人の気分に合わせるために。だから、その家でも、私がお客さんを集めて人気があって、上手くするから、他の所に送ろうとはしないんだよ、元締めが。
「送りたくないんだけど、私に他の所につれて来いってやたらと連絡がくると、送らないわけにもいかないんだよ。
「『ハヤシサダコは他の場所、他の国に行かなければならない』って、そう言うんだ。一緒に行った女は連れていかないのに、私だけを連れて行くんだ。
「他の所から何度も来いって連絡が来るんだ。行けば、元締めにお金が入るんだよ。あの女を送れって。花代をくれるだろう。だから、私は行かないとだめなんだよ。私は元締めの命令に従って動く人間なんだから。良くても行き、嫌でも行き、元締めがしろっていう通りにするんだ。私の体なのに、私の思い通りにできないんだ。縛られた身になってしまって、私がそこに行ってしまったばかりに。
「ギブス」
相手の気分に合わせられないとな。女を袋叩きにしてしまうんだ。
「ヘルムに連れて行くんだ、ヘルムに。
「中国人も住んでいて、日本のやつらの部隊もあって、部隊が何ヶ所もあるんだって。
「そうして連れて行って、その『タカサコの家』 に行ったんだ。
「そこに入ったら、女の子がたくさんいたんだ。そうして行った日の夕方、私には2階の部屋をくれたんだ、ベッドの部屋だった。
「そこで寝て、元締めが作ってくれるご飯を食べて、朝起きると遅くまでお客さんの接待をするんだ。朝から晩まで、夜中までずっとするんだよ。中国人たちも来るんだ、軍属だから。軍属が来て、時間単位であれをして行くんだ。サッサとして行くんだ。そうしてお金をもらうと、そのお金を元締めに渡せば、軍票をくれるんだ。
「そうして、何号室、何号室の女の子がお金をいくら分もらってきたっていって票をくれて。それをきちんと集めておくんだよ。その票をきちんと集めておいても、私にはお金を1銭もくれないんだ。全部、元締めのものになるんだから。
「お風呂に行く時とか少しくれて、外出する時に何かを買うって言ったらその分少しくれて、それだけだよ。お金なんて稼げないんだよ、稼げない。
「あぁどれだけ悪辣なことをしてお金をもうけるんだか。そんなあぶく銭は全部、残らないよ。他人の身を売ってもうけたお金が、何が良いもんか。あのばあさん、あの女はもう死んでしまっただろう。あの時、あの女は40歳だったから、もう死んじまっただろうよ、生きてるはずがない。くたばっちまったはずだよ。
「日本の軍人たちは残酷だよ、ものすごく。女たちのことを考えるかい。自分の気分さえ満足すれば、それでいいんだから。自分の気分に合わせてくれないと。女を袋叩きにして、殴って、そうなんだよ。また、お酒を飲んで酔っ払って来たやつは、寝ている女を放り投げたり。そういうのを見ると、日本人は悪質だと思うよ。悪らつだよ、そういうのを見たら。私は、そうしてこの腕を悪くしたんだ。(右腕を左右に回しながら)この腕をこんなふうに回すと、今でも痛いんだ。
「ベッドにこうして横になって寝ていると、疲れて寝入ってるから、わからないんだよ、誰が入ってきても。扉にも錠をかけないで寝ていると、日本の将校が私の襟元をつかんで、2階なんだよ。下に放り投げたんだ。
「放り投げられて、私がKOされちゃって、腕の骨が折れちゃったんだよ。
「あぁ、痛い、痛い。こうして肩を押さえて下りてきて、『母さん、 日本の軍人が私を2階から放り投げたんですよ、痛くてたまりません』って言ったら、母さんが出てきて何だかんだって言うんだよ。『私が部隊に連絡して、お前を捕まえろって言ってやる』って言ったら、その将校もさすがに怯んで部隊に戻って行ったんだ。その後にもまた、お酒に酔ってやって来て、『あ、タカサコの家の女オデオニッポンジギダカナ?』って言って入って来たんだよ。日本語で、この家の女が、俺に投げられて腕が折れたそうだな。それで、母さんが出てきて、うちの子の腕を治してくれって言いながら、どうしてくれるつもりだって。そうして、病院に連れて行けって言って、お金をくれたんだそうだよ。
「夏だったんだけど、(右の肩を指差して)ここまでギブスをしたから、1ヶ月半でギブスしたのを外したら、肌がひどくて見られたもんじゃなかったよ。わぁ、あせもは出るわ、ただれてひどいわ、髪の毛もとかしてもらわないといけないし、ご飯も食べさせてもらわないといけないし、何もできないんだよ。部屋で何もできずに、こうして座っているだけなんだよ。お客さんの接待もできず、ただ座っているのがどれだけつらいことか。私一人、元締めの部屋に横になって、ご飯を持って来てくれて、それも食べさせてもらわないと食べさせてもらうご飯って腹も膨れなかったな。その頃は、たくさん食べる年頃じゃないか。お腹も空いて。
「今も、起きたらこの腕が痛いんです。昨日も病院の院長が私に、とてもつらい所はどこですかって聞くから、『この腕です』って答えたんだ。そんな話 はできないだろう。うっかり転んで、怪我をしたって言ったんだ。それで、薬をくれて、注射を打ってもらって落ち着いたけど、こうして何日かしたら、また痛いんですよ。
「見てくださいよ、(右側の肩を見せながら)この骨が違うでしょう?服が、こんなふうに下がるんだよ。それで、私が障害に、障害者になったんですよ。この事実を誰がわかってくれるのか。
「本当に神様が私を見守ってくださってね。生きているのが奇跡的だって思います。
ヨトフリモ
私の性器が全部裂けて、言葉には表現できないよ。17歳の子供じゃないか。
「そうして、幼い子にそんなことするんだから、裂けるのは当たり前だろう。606号も打たれたよ、病院に行って。その時は、その中国の病院みたいだった。そこに行って、治療を受けたんだ。
「病気にかかりはしませんでしたよ。いつも健康でした。1週間に一回ずつ検査をするんだよ、病気があるか、ないか。でもそれが、本当に恥ずかしくて。男の人が検査するんだけど、横になって機械を入れて、広げて見るんだよ。まあ、梅毒があるのか、それを見るんだ。その、軍人たちに病気がうつったら困るから、たくさんの人を相手にするから病気にかかったら困るから、検査するんですよ、軍人たちのために。最初に、17歳のときに行って男の相手をして、性器に血が出て、裂けて。ヨトフリモ
を塗って、それを塗ったらよく治るんだけどね。606号もたくさん打たれて、病気にかからないようにって。そうして薬を塗って、痛くてもまた相手をしないといけないから、そのつらさといったら。すごく痛くて。あぁ、本当にひどいもんだよ。
「日本の軍人たちは病気がうつるんじゃないかって、とても心配するんだよ。
「だから、サック(コンドーム)、あれを使うんだよ。それをはめてやると、何も言わない男もいるし、あぁ嫌だって言う人もいる。嫌だって言われたら、はめないで相手をしたりするんだ。
「それをはめたら、女には良いんだって、漏れないから。その、ホルモンみたいのが出てくるから、それを外してトイレに、ゴミ箱に捨ててしまえばいいんだ。女にとってはきれいだから、病気もうつらないし。主に男に病気がうつるみたいだよ。女にはあまりうつらないで。そうして、梅毒にかかったり、りん病にかかったりもするんだって。私は、お客さんが来たら、毎回はめないといけないって言うんだ、はめないとあなたに病気がうつるって。(長いため息をついて)はぁ、もうこの話は聞かないで。つらいよ。話しても、みんな似たような話なんだから。
「妊娠した女は見たことがない。そうなったら、妊娠した女たちもいたはずだよ。私は、あんなにやられても、妊娠はしなかったな。おかしいといえばおかしいな。男との接触が激し過ぎて妊娠しなかったんだろうか。
「ま、妊娠したとしても、赤ちゃんを密かに堕ろしてしまったら、わからないから。妊娠して2ヶ月とか3ヶ月の人は、堕ろす人もいて。2ヶ月、3ヶ月のときに病院に行って、注射を打ってもらったら、赤ちゃんを堕ろすことができるみたいなんだ。その時だと、まだ、形になる前の血の塊みたいなもんだろ。あまりに大きくなったら、まただめで、約3ヶ月、4ヶ月なら注射を打って、堕ろすのは見たことがあるけど、最後まで産んだのは見たことがない。そこで産んでどうするんだい。その赤ちゃんを産んだらどうなるんだい。
「あぁ、そうなったら、子供ができたら産んで育てなきゃいけないのに、立場がそんな立場だから、産むこともできないし、お客さんの相手もできないから、罪をたくさん犯すことになるんだよ、だから。その赤ちゃんを産んだところで、父親が誰なのかもわからないだろ、たくさんの人を相手にしてるんだから。誰が父親なのかわからないだろう?
罪人扱い
罪人と同じようなもんだよ。罪人でもそこまではしないだろう。
「8年いたけれど、1ヶ所にいたわけじゃないんだ。 やたらとあっちに連れて行き、こっちに連れて行きってされたんだ。
「そうして、いろいろと違う所に連れて行くんだ。罪人みたいに連れて行かれるんだよ。
「海林からどこかに、また日本の軍人たちに連れて行かれたんだけど、ええと、天幕が張ってあってね。
「天幕がずっと張ってあって、天幕がとにかく長いんだ。約5メートル以上あったんじゃないかな。
「天幕が張ってあるんだけど、部屋ごとにベッドがあるんだ。一部屋、一部屋、一人が寝られるように全部置いてあるんだよ。ベッドが10台くらい置いてあった。そうして、その中に入れって言うんだ。それで、入ったさ。入らなかったらめちゃくちゃに殴られるんだから、どうするっていうんだ、怖くて。入ると、そこで夕飯を食べて座っていたら、化粧しろって言うんだ。化粧して座っていたら、日本のやつらが銃刀を差して入って来てさ。女たちが10人座ってるから、『あの女がいいな』って言いながら連れて行くんだ。ベッドに行くんだ。行ったら、その人が言う通りにしないといけないんだ。言うことをきかないと、殺されるかもしれないって怖くて、その頃はまだ幼かったよ、私が。あれこれ言われるままに、私の体を、肉体をもてあそぶだけもてあそんで、そうして出て行くんだ。
「言うことをきかないと、手が上がって、暴行を加えて出て行ってしまうんだ。叩かれたら、私が歯でがぶりと噛みつくんだ。そいつの脚に噛みついて、そうしたら『あ、痛い、痛い』って騒ぐんだ。そうしたら、手がまた上がって。力があるかい。だから歯で噛みつくんだ。だから、私は今、歯が使い物にならないみたいだ。私も成長してきたから、そんな勇気が出てきたんだ。あんなところにしばらくいたからね。
「昼も夜も、目が覚めたら軍人たちの相手なんだ。外にも出られないし。何年間もそうしてひどい目にあって暮らしたのに、どこに行けるっていうんですか。罪人と同じようなもんだよ。罪人でもそこまではしないだろう。
「両親に会いたくて、心配もたくさんして、たくさん泣いて、お酒を飲めないのにコーリャン酒も飲んでみて。コーリャン酒がどれだけ強いことか。コーリャン酒を一杯飲んだら、涙があふれて止まらないんだよ、故郷のことも思い出してね。他人に隠れてトイレに行って泣いたり、隅の方で泣いたりもして。本当に私がどうしてそんなところに連れていかれて苦労しているんだろうかと思ってね。私ほど苦労した人もいないと思うよ。
「どこかに逃げたくても、行く所もないし、逃げる道もわからないし、満州に行って、海林に行って、ここに着たのに、どうやって逃げられるんだい。本当に希望が見えなくてね。
「私の体があまりに疲れて。どうしてやれるっていうんだい。一晩でもなく、毎日毎日やるんだ、昼も夜も。機械ですら油を差さなけばならないのに、そんなこともせずにこき使ってばかりいるから、故障しないはずがないだろう。
「一日に10人の相手をしたら体がもつかい。(面接者を指差して)
お嬢さんだったら死んじゃうよ。私はそれだけ体に、元気があったんだ。山の上まで駆け上って駆け下りても、疲れなかったんだから。私は、かけっこしたら誰も私を捕まえられなかったくらいなんだ。今は体のあちこちが痛くてだめだけどね。私のタバコの器はどこにあるんだ。一服してからにしましょう。
「主よ。
「私に、鬱火病が出てきたみたいだ。気持ちが休まらないからね。タバコを止めたんだけど、また吸ってるんだ。タバコが私には良くないんだよ。気管支が良くないから。
「私の体が正常じゃないのに、タバコを吸っちゃだめだろう。怒りがこみ上げるからタバコを吸って、吸って、タバコが増えて、こうして止められなくなるんだ。病院に行ったら、医者は『タバコを吸ってはいけません』って言うけど、言葉は簡単だけど、私は恨みが私の中に燻ぶっていて、それを解放することもできないんだ。
ハタナカ中隊長
今でも、思い出すんだ、あの人のことを。
「そうして、将校たちが、日本の将校たちが、その部隊がそこから約10里もあるんだよ。部隊があってね。夜になると来るんだよ。私目当てに来る人はハタナカ中隊長っていう人だ。若い人で、24歳だった。
「ハタナカ中隊長が、本当に私の体のことを心配してくれるんだ。長い間戦場にいれば、女のことを考えて当たり前だろう。私のことをそれだけ心配してくれるんだよ。その人の家に妹がいて、妹のことを思い出すって。どうしてレイコさんはこんなところにいるんだって言って、来たら涙を流してくれるんだよ。そうして一緒に泣くと、『サダコ、泣くなよ。泣くなよ』その人も泣いて、私も泣いて。私を慰めてくれるんだ。可愛がってくれて、とても愛されたんだよ。
「私をゆっくり眠らせようと、努力してくれるんだよ。『眠りなさいよ。はい、サダコ。眠りなさいよ』 本当に苦労したなって言いながら、赤ちゃんを寝かすようにして私を眠らせるんだよ。私が明け方に横になって寝ていて、目が覚めて枕の上から見たら、灰皿の下に何かあるんだ。何だろうって見たら、お金を置いて行ったんだよ。花代だったんだ。そうして置いて行ったんだ。花代を置いていけば、私が元締めに渡せるから。私の部屋で寝たんだから。
「だから、もっと情が移るだろう。私の体を大切にしてくれて、考えてくれて。韓国から来て、苦労してるって言ってくれて、どうしてこんな所に連れて来られたんだって言ってくれてね。かわいそうだ、かわいそうだって。必ず、1週間に一回は来るんだよ。
「そうして、少し時間がある時には手紙が来るんだ。レイコさん、体が本当につらいでしょう、かわいそうな女だって、こんな所に連れて来られて、ひどい目にあうなんてって言いながら、韓国ではどの地に住んでいたんですかって聞いて。その手紙をもらって、本当にたくさん泣きました。
「そうして、約一年くらい過ぎたら、部隊で、あぁハタナカ中隊長が戦死したって聞いたんだ。私は、しゃがみ込んで泣いたよ。そうして元締めのおばさんに、面会に行けないか、ハタナカ中隊長に最後の別れの言葉をを伝えることはできないかって聞いたら、部隊の中には入れないんだって言うんだ。
「あぁハタナカ中隊長に、私はどこに行ったら会えるんだい。遠くからでも、立ってお祈りしてあげなさいって言うんだよ。
「そう、行けなかったよ。(涙を浮かべながら)遠くから、向こうに出て行くのだけは見たんだ。かわいそうに。日本の東京から来た人なんだ、ハタナカ中隊長が…名前も忘れてないし、階級も忘れてないよ。
「今はもう全部死んで、腐ってしまっただろうけど。
「今でも、思い出すんだ、あの人のことを。
出会い、そして別れ
約5ヶ月は暮らしたんだ。本当に楽しく暮らしたよ。
「私が横になって寝ていたら、銃声がパンパンパンパンって鳴るんだよ。起きてみたら誰もいなくて、元締めの女が一人だけいて。『母さん、みんなどこに行ったんですか?』って聞いたら、『みんな避難したよ。お前は何をぐずぐずしてるんだい。』私は少し動作が遅くてね。『母さん、どこに行ったらいいんですか。』って聞いたら、『仕方ない。あの海林の方に行かないといけない』って。そこに行って、どうするっていうんだ。どうやって暮らすんだい。
「避難して、日本のやつらに追われて海林に来たら、その町内のおばさんが良い所に再婚(結婚)しちゃいなさい、再婚して暮らしていれば、日本のやつらも二度と来ないって言うんだ。それで、そのおばさんの紹介で再婚してみたら、その人も朝鮮の人で、幼い頃、7歳で中国に来たっていうんだ。名前はキム某っていうんだ。 その男は優しくて、本当に良かったよ。戦争さえなければ、その男と中国で暮らしたかもしれない、中国人になって。
「そうして、約5ヶ月は暮らしたんだ。本当に楽しく暮らしたよ。その時はなんでもないことにも笑って、年が若いから、おならしても笑いこけて。『どうして笑うの』って私に言って。何がそんなにおかしかったのか。その人が私に向かって『たくさん笑いなさい。若い時はたくさん笑うものだ』って言って。
「そうしてしばらくしたら、キム某が軍隊に捕まって行ったんだ、839部隊に捕まったんだ。839部隊に隣りの家のおばさんと一緒に訪ねて行ったら、そこには来てないって言うんだよ。教えてくれないんだ。死んだのか、生きているのか、知ることもできなくて。本当に会いたくてね、私が。とても男前なんだ、顔が大きくて。あぁ帰ってきてくれたら。『おい』って呼びながら帰ってきてくれたら。
「そうして一人で、その人の家にお金があるだろう。それで、一人でご飯を炊いて食べていたら、町内の少し離れたところに住んでいる知り合いのお姉さんから電話が来てね。優しいおばさんをお姉さんみたいに慕ってたんだけど、『うちに遊びにおいで。今日はおこわを炊いて一緒に食べながら遊びましょう。うちの夫が外出していないから』って言うんだよ。それで、そこに行ったんだ。そこに遊びに行った矢先に、戦争が始まって、家に戻ることもできずに、すぐにその家から飛び出して、そうして避難所に下りて行ったんだよ。
「銃声が聞こえて、殺せって聞こえて、大騒ぎだった。そうして避難したんだよ、そのまま、そのお姉さんと私と二人で。やみくもに走って行ったら、真っ黒い田んぼが出てきて、薄っぺらい履物をはいていたから、履物がぬかるみの穴にはまってどうすることもできないんだよ。それで、裸足で走ったんだ。山に登るのに、足にとげが刺さって血が出るし。あぁちょうど生理で出血するし下に当てるものはないし、服は普段着のままだし。それで、ここ、ここが(股の方)ただれて、痛くてたまらないんだ。水が飲みたければ、山でチョロチョロ流れている水を手で受けて飲んで、あるおばさんは子供の首を絞めて殺したんだ、自分が生き残るために。子供の泣き声が聞こえたら、あの839部隊が聞いて捕まえに来てしまうだろう。子供の泣き声が、夜中にはどんなにうるさく聞こえることか。そうして、山の中で1ヶ月間、あっちに隠れ、こっちに隠れして、ひどかったよ。…体も洗いたいし、つらくて死んでしまいたくもあったし。
「顔は今よりもひどかったよ。洗えないだろう。銃に撃たれないようにって。怖くて、怖くて。私は、中国っていうだけで嫌気がさすよ。…私、本当に苦労したんです。
「銃声が鳴って、それでどこに避難したかっていうと、海林の隣の、何とかって所。あぁ時間が経ったから、忘れてしまったよ。そこにいたら、ソ連軍が侵入して来たんだ、ロシア。背が大きくて、目が青くて、髪は黒くて。怖くて、また隠れていたんだ。でも、あの人たちは、女に悪いことはしないんだ。しないけど、あぁ私は怖かったよ。ソ連がそう遠くないようだったけど、ソ連まで避難したんだ、行く所がないから。
「夜通し咳をして、気管支も良くなくて。結局、気管支が悪くなったのは、あの満州で避難する時に気管支炎になったんだ。山の中で寝たから、寒いから。気管支炎になって放置したままだったから、今はよく治らないんだよ、治らない。困ったもんだよ。
「そうしてまた、南下してきて、平壌の避難所に着いたんだ。ナンキンムシがとにかく多かったよ、夏だから。
「避難民が約50人いたよ、女も男も。平壌の避難所に着いたらトウモロコシをくれて、たくさん食べたよ。臼で一回ひいたのを、量がちょうど(指三本くらいの量を表現しながら)この位にしかならない。その塊をくれるんだけど、一塊だけじゃ足りないだろう。それを食べてもお腹が空いてたまらないんだ。あぁ、このままじゃ死んでしまう、お母さんにも会えずに死んでしまうって。私は死ぬにしても、韓国(故郷)の土を踏んでから死ぬんだって思ってたのに、このままではどうしたらいいんだろう。平壌の避難所に3ヶ月くらいいたな。
「そうして、3ヶ月ぶりに韓国(釜山)に戻って来たんだ、おおきな軍艦が送られきてね。私たち、みんなその船にさえ乗れば、釜山に到着するって言われたんだ。私に何がわかるんだい。その人たちが行く通りについて行ったんだ。…船の中に入ったら、本当に大きいんだ、食堂もあるし、寝る所もあって。その船に乗って、1ヶ月で来るんだ。何ヶ月苦労したことか。
帰宅
母さんには話したんだ。父さんにはこんな話、できなくてね。
「私が17歳のときだっただろう?17、18、19、20、21、22、23、24、7年間。7年だよ。17歳のときに行ったから。
「考えてみたら、24歳の時に戻って来たから。17歳の時に行って。24歳の時だよ。
「そうして、釜山に到着して伯母さんの家に訪ねて行ったんだ。私は裏門から入って、変なボロボロの運動靴を拾ってはいて、服もまともじゃなくて。あの山で毎晩夜露を浴びながら、山の中の生活を2ヶ月もしたんだ。物乞いする乞食と同じような格好をして。そうして伯母さんの家に入ったら、ある女の人が水道の側で何かを洗っているんだ。
「『すいませんけど、伯母さんはいませんか。』、この家のハルモニが私の伯母さんにあたるんだって言ったら、
「『そうなんですか。』って言って、嫁が仕事の手を止めて駆け込んで行って、
「『お義母さん、お義母さん、物乞いの女の人で、乞食みたいなんですけど。お義母さんのことを訪ねて来ました』って。
「『誰だい。』って言いながら伯母さんが出てきて、私を見たんですよ。
「『お前、ジョンジャじゃないか。あぁ、お前、お前が物乞いみたいになって。どうしてこんな風になったんだい。本当に』、伯母さんは私が日本のやつらに捕まって行ったことは知らないから。そんな話は恥ずかしくて、できないよ。
「『私の母さん、父さんはどこに引っ越したんですか。住んでた家に真っ先に行ったら、誰もいなくて』
「『あぁ、お前の父さんと母さんは忠武に引っ越したんだよ。明日、私が手紙を書いて、父さんが来るようにしてあげるから』、そうして父さんがやって来て。父さんが、伯母さんの家に来て…『あぁ、俺の娘よ。どこに行って、こんな姿になって来たんだ』って、父さんが驚いて、伯母さんの家で泣き叫んで、お葬式の家みたいに。
「母さんには話したんだ。父さんにはこんな話、できなくてね。妹も知らないし、誰にも話しませんでした、妹にはこんな話できませんよ。
「母さんに話したら、母さんがどれだけ泣いたことか、夜通し泣くんだよ。目がこうして腫れて。あぁ-、それからは水を汲みに遠くには絶対に行かせないんだよ。『そこには行かないで、近い所の泉に汲みに行きなさい』って。
「私の母さんも、私のせいで病気になって。娘が泉に水を汲みに行って、どこに連絡することもできないし、どこかに聞く手立てもないから。母さんは、私がいなくなってから病気になって、生前には、いつも胸がドキドキして動悸があったんだよ、私のせいで。子供が、目に入れても痛くないほど可愛くて仕方がない子供が突然いなくなったんだから、両親の気持ちは言葉にできないでしょう。
「そうして忠武に行ったら、他人の目が恥ずかしくてね。そうして急に私が現れたから、みんな噂が流れて、あの家の娘は、あのイム主事の娘じゃない、息子一人と娘一人しかいないのに、急にあんな大きな娘が現れたって、そんな噂が聞こえてくるんだ。そうして泉に水を汲みに行ったんだけど、『あなた、イム主事の娘じゃないでしょう。』って聞かれたんだ。私が母さんに『母さん、泉に水を汲みに行ったら、みんな母さんが産んだ娘じゃないって言うんだ』って言ったら、誰がそんなこと言うんだ、そいつを連れて来いって、大騒ぎになったんだよ、本当に。
未練
私は結婚式も挙げられなかった。それが残念でね。
「恋愛して…韓国に戻って来て、恋愛結婚して一緒に暮らしたんだ
「その人は日本の明治大学を出た人で、姓はホンだ。その人と私は24歳の時に出会って、37歳まで暮らしたんだ。
「忠武で、私の家に遊びに来てね。弟 の友だちで、よく遊びに来てね。そうして、好きになって恋仲になったんだ。
「私が2歳年上だったんだよ。愛は国境を越えるって言うでしょう?愛に国境はないって。
「私の体は、あそこで台無しになってしまったのに、まともに結婚できると思いますか。できないよ。私の良心からも、できないよ。体を、全身を台無しにしてきたのに、どうして私が処女だって他人をだまして結婚できるんですか。…だから私は結婚式も挙げられなかった。それが、残念でね。あの家の娘は遠い所から来たっていうことで、何か悪いことでもして来たんだと思ったのか、その男の家で私と結婚はさせられないって反対したんだ。そうして、私が知らないうちにお見合いして、釜山のどこかで結婚したようなんだ。後で見たら、結婚するって輿が入ってきたりしてたよ。そうはしても、愛情ってのは二つに分けられるもんじゃないみたいだよ。私のことを置いて結婚しても、その女のところには行かないんだよ、いつも私の家に来て。その女とは、結局別れたんだ。
「私の実家で一緒に暮らしたんだ。父さんも認めてくれて、よい婿だって言ってくれて、母さんも認めてくれて、みんな喜んだんだけど、あの人の実家では反対したんだ。
「そう、あの人に子供を一人産んだんだ、娘を。
「それも、私が産んだんじゃなくて、私が引き取って育てたんだよ。私の体があまりにもひどくて、知っての通り使い物にならないから、子供を産めなかったんだよ。子宮がどうにかなったんだろうよ。だから、子供が産めないんだよ。
「忠武にいた頃、うちの小さな部屋を間貸ししてたんだけど、若い女の子が住んでたんだ。その女の子が恋愛をして赤ちゃんを産んだんだよ。妊娠して、うちで産んだんだよ。だけど、その女の子は赤ちゃんを育てられないって言うんだ。そうして、赤ちゃんを産んで、私に預けて。そうして、引き取って私が育てたんだよ。
「(考えに浸りながら)撮っておいた写真もあるんだよ。かわいい娘なんだ。
「でも、その子は結局死んでしまったんだ。誕生日の前に病気になって、誕生日を過ぎて死んだんだよ。ヒョンジャっていう名前だったんだけど、その赤ちゃんが死んだら、私たち二人も別れたんだ。その赤ちゃんを見て暮らしてたんだろうね。その女の子が死んでから、その男は言葉もなく出て行って、家に帰って来なくなったんだ。
「あの時、その子が死なずにいたら、こんなに寂しくはなかっただろうに。
「いくら自信を持って生きていても、『どうして私は子供が産めないんだろう』、18歳で私の体がひどい目にあったから、だから、子供が産めない。私はそう思いますよ。
「私が37歳の時に、母さんと家族が馬山に引っ越して来たんですよ。
「私は私なりに、料亭の女性たちの洗濯をしてあげたり、会社に通う女の人の子供の面倒をみてあげたりしてお金を稼いで、そうして私の生計を立ててきたんだ。あの人(ホンさん)がいなくても、いくらでも暮らしていけるんだ。
「私が韓国に戻って来て、旅館に行って洗濯したり掃除もしたりして、苦労したよ。
「私は本当に生活力が強いんです。生きていくんだって一念でいろんなことをしたよ。
「馬山に母さんと来たら、その人(ホンさん)もついて来てね。
「そう、馬山の家に訪ねてきたんだよ。訪ねてきて。
「『結婚した女の人のところに行きなさいよ。何しにここに来たの』って言ったら。
「『えい、俺が好きで結婚したんじゃないよ。家族に押されて結婚しただけだ。それでも、俺の気持ちは、愛は君に向かっているのに、俺は君と離れては生きていけない』って言うんだ。死んでも私にくっ付いていようとするんだよ。
「既に結婚した人に、何の希望があるっていうんだい、私は避けたんだよ。それでも、情はあるのさ。今も、未練がまだ残っている。
「あぁ、このは忘れられません。今も会いたいし、未練があって、一度会いたいという気持ちがありますよ。どこに住んでるのかは知らない、この頃は連絡もないし。
「忠武の住んでた所に行けば、便りが聞けるだろうけどね。私はもう忠武に行くことなんてないよ、行かないから。もう遅いでしょう、こんなに年をとって今さら探してどうするんですか、そうでしょう。あの人も、良い人と会って暮らしてるでしょうよ。それでも、私にとってはそれが初恋なんだから、あの人が。たとえ私が中国に行ってきたにせよ。
恨
絶対に忘れてはいけない。この恨みを晴らして死ねればいいのだけど。
「年をとったから、体のあちこちが痛くて。病気になってね。
「あんな目にあったんだから、私の体がまともなわけないだろう。年をとったら、みんな病気だよ。この脚が、夜通しズキズキ痛むんだ。若い頃は知らなかったんだけど、年をとると、脚が痛んで、腕も痛くてたまらないんだよ。
「私は今も、道で日本人が日本語で話していると、後ろから刀で首を斬ってしまいたい気持ちに駆られるんだ、苦労したことを考えると。日本人だってみんながみんなそうじゃないとしても、とにかく仇みたいに思ってるんだ。…日本人に、私の弟も銃に撃たれて死んだし、 私も、こうして体をやられて、だから日本のやつらが仇なんです。
「本当に、私が母さん、父さんから生まれたこの清い肉体を、日本のやつらにこの体を捧げたんだって考えると、(長くため息をついて)はぁこの脚を自分で切ってしまいたいくらいの、そんな気持ちになるんです。それでも、死ぬこともできずに、これといったこともないのに、こうして生きていても、これ以上何をするんだって気にもなるし…うんざりするんだ。年をとると、こんなんだよ、若い頃はこんなじゃなかったんだけど。
「今日も、体があちこち痛いし。一人きりで、テレビをつけて、横になったり、座ったり、そうして毎日を過ごすんですよ。誰か、話す相手もいないし。母さんがいて、こんな話をするのかい、兄弟がいて、こんな話をするのかい。それでも、弟が 一人いて、それも男だから、男にこんな話はできないし。…良い話でもないのに、他人に話せるもんでもないし。私一人で苦心してるよ。
「私の話を聞いて行って、ぜひ訴えてくださいよ。
「絶対、忘れてはいけないって。この恨みを晴らして死ねればいいのだけど。
「(涙を流して)こんな話、私がどこに行って話しながら死ぬんだろうか。完全に、私一人だよ。ほかに誰がいるんだい
「私がもう少し年が若かったら、50歳くらい、60歳くらいだったら、ソウルに上京して、青瓦台(韓国の大統領府)に行って訴えれば、こんな気持ちに何度もなったよ。私が恥ずかしい、恥ずかしい思いをする代わりに訴えようと、こんなことまで考えてみて。大統領に会いに行かなければ、どこに言えばいいんですか。
「死んで、私が天国に行けばこんなことを言える所もあるだろう、そんなことも考えてね。
「私は良い人と結婚して、仲良く暮らしてみたい、それが願い事なんだ。他の人が生まれる時に私も一緒に生まれたのに、どうして私の運命だけがこうなってしまったんだろうかって思うし。
「人として生まれて、この世でしばし休んでいくだけなのに、結婚して夫に愛されて、そんな幸せな時間を生きられたら思い残すことはないよ。…それが恨みになって、次に生まれ変わったら、ぜひ女に生まれて男に愛されたいよ。そうして暮らしてる人を見るとうらやましくてね。私はそうして暮らせなかったから。」
- [註 069]
- イム・ジョンジャは連行地域が慶尚南道の忠武だったと記憶しているが、状況からして、連行地域は釜山付近の地域だと思われる。
- [註 071]
- 慶尚南道固城郡。
- [註 072]
- イム・ジョンジャは満州と台湾を同じ所だと考えていた。汽車で台湾に行くことは不可能であるため、最初に行った所は満州一帯であり、その後に台湾などの南部地域に移動したものと思われる。
- [註 073]
- 釜山から一緒に連行された二人の女の名前。
- [註 076]
-
着物を着る時の日本の伝統的な髪型を指す。
- [註 078]
- 芸者などの踊りのこと。
- [註 079]
- イム・ジョンジャはハヤシサダコという名前以外にも、レイコ、レイちゃんと呼ばれたという。
- [註 080]
- 中国黒龍江省海林市だと思われる。
- [註 081]
- 海林の慰安所の名前。
- [註 082]
- イム・ジョンジャは慰安所の元締めのことを母さんと呼んだという。
- [註 083]
- 将校のせいで怪我をした話。
- [註 084]
- 黄色い消毒薬。
- [註 085]
- イム・ジョンジャは連行された17歳の時から帰国前の24歳まで、台湾、海林、上海、香港、大連、ハルビンなどの地域を移動し、8年間日本軍「慰安婦」の生活をした。
- [註 087]
- イム・ジョンジャはキム何某と中国で一緒に生活したことを「再婚」と表現した。
- [註 088]
- イム・ジョンジャは男の兄弟4人、女姉妹3人のうちの長女であり、この弟は彼女の1歳下の弟である。
- [註 089]
- イム・ジョンジャが帰国した年(1945年)、抗日闘争をしていた弟(当時23歳)が、日本軍の銃に撃たれて死亡した。彼女は弟の臨終を見ることはできず、帰国した後にその事実を知ったのだという。
- [註 090]
- 7人兄弟のうち生存しているのはイム・ジョンジャと末の弟だけである。