「誰に向かって話せばいいのか、天はわかってくれるだろうか」
キム・ボンイという名は、日本で日本軍「慰安婦」として生活していた時から帰国して光州に住んでいた時まで使用していた名前で、口述者はこの名前を使うことを希望した。
- 年度
- 年齢
- 内容
- 1927年
-
- 全羅北道高敞郡生まれ
- 1942年
- (16歳)
- 日本軍「慰安婦」として連行され、日本で日本軍「慰安婦」の生活
- 1945年
- (19歳)
- 帰国して光州に到着
- 1948年頃
- (22歳頃)
- ワン某と同居
- 1956年
- (30歳)
- 婚姻届
娘を出産
- 1970年頃
- (44歳頃)
- 夫と死別
- 1993年
- (67歳)
- 太平洋戦争犠牲者遺族会を通して日本軍「慰安婦」登録
- 2004年
- (78歳)
- 全羅北道高敞で一人で暮らしている
「私は元々頭が良くて、賢いって言われていたんだけど。私は生涯罪を犯したこともないのに、どうしてこんな人生になったんだろうか…あそこに行って来てからというもの、罪を犯した人間みたいに堂々としていられないんだ。
「ものすごく恥ずかしくても、あれなんだよ。私は全然知らなかったんだけど。結局わかっちゃうみたいなんだよ。人々が私を人間扱いしないで、見下げられるっていう、そんな気持ちがしちゃうんだよ、そんな気持ちが。
「私がある時には、私みたいな女はいないだろうって泣くと、周りの人たちが『あの時、あんたが行きたくて行ったわけじゃないじゃないか。あの時は、戦争で乱暴な時代だったから無理やり連れて行かれたんだよ。それに、あのときのことをいつまでもくよくよしててもどうにもならない。泣くな、泣くな』って言うんだよ。1人で行かなかったら…日本に行かなかったら、あいつらに…私がひどい目に遭わされないで、こんな風には生きてこなかっただろうに。
「本を出すことは理解するよ。なぜなら、たくさんの人がこのことを知って、日本のやつら、そいつらを棒で…だから、私は話してるんだよ、でも絶対に名前、姓は載せないで。
「後にでも子供たちや孫たちが知っては困るんだ。
「名前と姓と写真さえ載らなければ、本を出して日本に送ってしまえ。あの悪いやつらめ。
令状通知書
逃げ回って、隠れ回って、そうして長城 で捕まったんだよ。
「16歳で行ったんだろうか。春に行ったはずなんだけど。
「私がここから日本に行く前には、父さんと私と二人で一緒に暮らしてたんだよ。母さんは幼い頃に死んで、日本に行く頃は父さんと私と、下の兄と一緒に暮らしてたんだよ。 私に令状が来たんだよ、その時。
「日本に行けっていう令状通知書。通知書が出たんだけど、逃げ回って、隠れ回って、そうして長城で捕まったんだよ。正直言って、日本人よりは、日本人の手先をやってる朝鮮人、あいつらが本当に悪いやつでね。あいつらの方がもっと乱暴なんだよ、もっと。
「赤い札だったか、黄色い札だったかが出たんだよ。日本募集工場へって書いてあった。
「書いてあるのは、慰安婦供出って書いたら誰も行かないだろう。だから、やつらが言うのは、これこれだからこれが出た、すると、うわぁ、挺身隊の供出が出たって言ってね。それで、周りでも女たちを隠しておいたけど、何も言わずに全部捕まえて行ったんだ。
「その時のことを考えると、あぁ、体中の血が逆流するような感じがするよ。
「あぁ、そいつらが、どこかに隠れていたら探し回って、『ここにいる!』って言って連れて行って…だから、その前に大きな子供たちは、みんなこうして大きな甕の中に座らせて、その上に綿、綿を置いて…みんな隠れて、そうしてみんな無事に、みんな行かずに済んだっていうんだ、私も聞いた話なんだけどね。
「家でも隠れて過ごして、長城に薬を買いに行って、長城で捕まってしまったんだよ。父さんが体が良くなくて、父さんの薬を買いに行ったんだ。それで、薬を買いに行って、そこで捕まってしまって。
「兄さんがいたんだけど、その時、日本帝国の時の軍人たち、あの頃には軍人って言わなかったよ。あの時はヘイタイ。それに行かないように避けて家にいないから、私しかいないから、私が買いに行ったんだよ。
「全然知らない人に捕まって、その二人に連れて行かれたんだ。その捕まえて行くやつ、韓国人の手先たちだよ、連絡係。そばに人がいても関係ないんだ。人がいようがいまいが、連れて行くんだから。だしぬけに来て、ガバッと捕まえて行くんだから。
「あの頃は、誰かが止めに入ったりすると、その人も殴られるんだ。お前、どうして止めるんだって。だから、誰もがじっと見ているだけだ。制止する人はいないんだよ。
「一人だろうと二人だろうと、捕まえたら捕まえただけ乗せて行ったんだ。捕まって、引きずられて行って。うまく車に乗せられたら、車に乗って行って。
「こんな部屋みたいな所に人を集めて、私たちが行った時は、もう何人かいたんだよ。だいたい、3~4人、4~5人。そこに捕まえて入れておいて、出ることも入ることもできなくして、小便をしに行こうとしてもついて来るし…逃げることもできなくて、何もできなくて。そこで、そうして一晩寝て、その次の日に船に乗ったんだ。
「ああ、ぞっとするほどに屈辱を受けたんだ。誰にこんな話をすればいいんだい、天や地は知っているだろうか。はぁ、話すことができないよ、本当に。そうして行く途中で、どこかは知らないけれど。人を集めて、船で行く途中に、船で死ぬ人がいて、船で行く途中で死んだら、海の中にドボンと捨てて行くんだ。行く途中でも少しでも気に入らなければ袋叩きにされるんだよ。私も、銃床でここを殴られて、今は年をとったから、頭が痛くてつらいんだよ。ここを、(手で頭の右側の部位を指して)こっち、こっち側だよ。中途半端に裂けてしまってね、ここから血が流れてしまったのなら少しはましだったのに、血が流れないで青あざができてしまったから、ただ頭がちくちくと痛くて、めまいもするし、痛いし。
「私たちのことをどうして連れて行くのかって声を上げたんだよ。そしたら殴られたんだ。船でもじっとしてて、死人のようにおとなしくしていれば殴られなかったよ。
「はぁ、船でわめいた人は、水の中に叩き込まれたり、それで死んだら海に捨てられてしまうんだ。そうやって抵抗するから、お前たちが日本に行ったら、工場でお金を稼いで家にも送ってあげられるのに、どうして抵抗するんだって。行って、工場を見たら、ものすごくて驚くだろうって言うんだ。
「どこに行くのかは知らなかったさ、知らなかった。私は分別がつくのが遅かったんだよ。その、月経、それもまだだったんだ。日本に行ってもまだまだ来なかったんだよ。他の人はみんなあるのに、私は来なくて、それで私はどこかおかしいのかと思っていたら、それでも19歳になったら始まってね。それで、私は病気じゃないんだって思ったよ。
「私は姓をキムに変えてしまったんだよ。うちもそれなりに家柄のある家だから、みだらで汚いから。日本語で名前をキントキさんって言ったんだ。船の中で名前を言えって言われたんだ、姓と名前を。それで、その考えが浮かんだんだよ。キム・ボンイって言ったんだ。そうしたら、友だちの一人が同じ一家だって、自分と同じ姓だって、私のことを本当にかわいがってくれたんだ。
「犬や豚もそんなことはできないよ、犬や豚も。あぁ、むごたらしいやつらのことを私が全部見て過ごして、死なずに生きて帰って来たんだ。
馬小屋みたいな慰安所
順々に入れておいて、おかしなやつらが飛びついて来るんだ、変なやつらが。
「私は日本に行ったんだ。話し声を聞いたら、だいたいわかるから。話し声が、中国人は中国語で、ソ連はソ連の言葉で、日本のやつらは日本語を話すだろう。私のいた所は、日本語だけ使ってたよ。
「工場なんか全然なくて、垣根、鉄条網を垣根に張ってあって、長く部屋があって、部屋ごとに仕切ってあって。その中に女たちを順々に入れておいて、おかしなやつらが飛びついて来るんだ。変なやつらが。
「建物の名前はなかったよ。韓国の馬小屋、横に長くして建てるだろう。そんな風に横に長く建ててあったんだ。
「歩哨兵たちが扉の前に、韓国で言えば大門の外だ。銃を肩にかけて、みんなこうして立っていて、鉄条網が張られてあったよ。
「日本の女はいなかった。全部韓国人だよ。でも、死んだらすぐにどこかに連れて行くんだ。
「畳、それを一つずつ敷いておいて、そこに一人ずつ入れるんだよ、山すそに。そこで生活したんだけど、どこかに逃げようとしても逃げる所もないし、みんなこうして見張っているから。私たち女性の中の一人は、何とかして逃げ出したんだけど、どこに逃げたらいいのかわからないだろう。わからないさ、道が。わからないから、とにかく逃げたんだけど捕まって、もっとひどい所に連れて行かれたって聞いたよ。
「畳の広さがこの位(一人が横になれる程度)なんだけど、そこに畳が一枚入るようにして、そこで寝るようにして、そこでは履物も脱いで歩いて。
「藁を中に入れて、その上にむしろを1つ置いて、そうして縫ったもの、それが畳なんだよ。でも、こうして座ったら、冷たい感じはしなかったよ。だけど、冬には足が冷たくて、こうして足を曲げて抱いていたんだから。
「服も風呂敷に包んで、こうして置いて。(膝を指差して)この位の長さのスカート一枚。そうでなければ、モンペやそんなのを着て、上にはブラウス一枚着て。
「おかずはないんだ。おにぎりで、塩が少し入ったおにぎり。ハンゴウ(器)を持って行くと、犬飯みたいにくれるんだ。それでも死にたくはないから、お腹が空いて我慢できないから、そんなのでも食べるんだ。
「各部屋で1人で食べるんだ、何かの時は食堂に行って食べて。食堂に行くと、こうして机のようなお膳が長く、こうしてあるんだ。軍人たちが入って来て、食べる所なんだって。そのお膳だけ一つ置いて、そのままそこで立って食べるんだ。ご飯を食べながら話すこともできないし、何もできなくて。さっさと食べて、戻ってくるんだ。
「ある時には少し時間はあったよ。そんな時はじっと座っていたよ。行く所があるわけでもない。部屋にいて座っていたんだよ。外に出て、鉄条網の内側に、少し立っていて入ってきたり。
「他の人と話そうとしても、外に…余裕がある時、気分転換しに外に出たときに会ったら話をするか、それ以上はできないよ。昼も夜もするから みんな部屋に座って、外を見物することもできずに。
「小さい散歩ってのがあってね。時々、外に出て、君が代 を歌ったんだ。韓国で言えば、東海の海と白頭山が…、が国歌だろう。でも、あそこでは君が代なんだ。それを歌わなきゃならなくて、歌わなかったら、じっと立っていたら、また捕まるんだよ。
「外でみんな集まって国歌を歌ったら、それで戻るんだ。毎日じゃなくて、出る時だけ歌うんだ。順番に出るんだよ。韓国語で言えば、1小隊、4小隊、5小隊、こんな風に小隊があるんだよ、そこにも。
付属品
嫌だって言ったら、付属品として来たくせに、お前ら何だと思ってるんだって、日本語で言いながら叩くんだ。
「あぁ、その時。あぁ、本当に、だしぬけに。それで、私が精神病になってしまったんだよ。あの時、16歳の私を連れて行って、満で言えば15歳だろう。服を脱いで、性器をブラブラさせながら、『チンポください、オマンコください』 それで、とにかく怖くて、あら、あらって言いながらただこうして(両脚をくっつけてすくめて)こうしていたんだ。すると、バカヤロ!って言いながら、叩いたんだよ、問答無用で叩くんだから。その時、また裂けてしまって、血が出て、あぁ∼。
「無理矢理入れるんだ。服を脱がせる。引き裂いちゃうんだよ。脱がせたりもしないんだ。そうしていたら、やつらに言われたんだよ、後には、いっそのこと下着を着ないでスカートだけはいていろって。そうしたら、そいつらが来たら、スカートをまくり上げるだろうって。他の人にも聞いてみたら、みんなそうしてるって言うんだ。
「そいつらは、血が流れても関係ないんだよ。
「ただやるんだ。そうしながら、『今日死ぬか、明日死ぬのかもわからないのに、冷たいご飯、温かいご飯を選んでられるか』って言うんだ。
「韓国の軍人たちが言うには、あいつら(日本の軍人たち)は殺気立ってるって、だから情け容赦がないって。どうしてなのかって言ったら、戦争で今日死ぬのか明日死ぬのかわからないから、『俺たち、やってから死のう』って。だから、あいつらは情け容赦ないやつらだって、そう言ってたんだよ。
「若い人も、ある程度自由にしておかないと死んでしまうだろう。私はそれでも、精神がおかしくなってたから、他の人よりは少しは平気だったけど。女たちが、そうして赤ちゃんを産んだら、赤ちゃんも連れて行ってしまうんだ。
「本当に、軍人たちはひどいんだ。戦う人、軍人たちだから、どれだけ多かったと思うんだい。
「ひっきりなしに来るんだ。夜の10時まで、とにかく休む暇もないんだ。
「戦争中なんだから、軍人たちがたくさんいるだろう。あいつらが、あれさせようと企んで、女たちをあんなにたくさん連れて行ったんだろう。
「嫌だって言ったら、お前みたいなやつらが何だと思ってるんだって、俺たちの付属品って言ったんだっけ。付属品として来たくせに、お前ら、何だと思ってるんだって、日本語で言いながら叩くんだ。
「順番に入ってくるのか、どうなのか、とにかく勝手に入ってくるんだ。歩哨兵たちが見張っていて…外には鉄条網が張られていて。
「少ない時には7~8人ぐらいだったと思う。
「女たちはあちこちにいたんだ… どれだけの数がいたのか、それはわからない。部屋、この位の所に行って、一人で横になって寝て。ここに一人、あっちに一人、そんな風になってたんだ。
「私がいる部屋、その次の部屋にお姉さんがいて、あっちの部屋にいる女、妊娠して赤ちゃんを堕ろしてね。何があるんだい、あそこには子供を堕ろす所なんてないんだから。ただ、服で赤ちゃんを受けて、真っ赤なんだけど、そんなときでも、あれをやろうとするんだ。
「韓国人はやらないで出たら、殴られるんだって。時間があるんだよ、それも。その時間に合わせて出なければならないから、服を着たまま、こうしてボタンをはめる真似をして出て行ったんだ、銃を肩にかけて。韓国の軍人たちが、はるかにましだよ。韓国の軍人たちは、韓国の女性でなければ自分たちもやるけど、韓国から来た女性たちだからできないって言うんだよ。だから、そんな風にして真似だけして出て行くんだよ、韓国の軍人たちは。でも、韓国の軍人たちでも悪いやつはして行くしね。
「サック(コンドーム)をはめていても、外して捨ててしまうやつらがいるんだ、ひどいやつらめ、感じないからって。
「自分たちが持って来てはめるんだ。それも配給されるみたいなんだ、赤ちゃんができるからって。でも、あいつらはやってる途中で、感じないからって外してしまうんだよ。はめないといけないって言うと、バカヤロ!って言われるんだから。
「あの時は結局、間もなくしてりん病にかかって、膿が出たんだよ。りん病にかかったから、膿が出て痛くてね。
「それで、私がその時、軍人たち、山に韓国の軍人たちがいるだろう。その軍人たちに、淋疾草ってあるんだ。ここにもあったよ。それを少し採って来てほしいって頼んだんだ。採って来てもらって、それを煎じる所がないだろう。それを小川で洗って、川の水で煎じて、飲んだり洗ったりしたんだ。それで治ったんだ。
「町内の老人たちが、私が幼い頃、6歳か7歳の頃に、それを採ってきて洗ってたんだよ。それで、『ハルモニ、それ何』って聞いたら、『淋疾草ってやつだ』…『性器から膿が出て少し痛かったりしたら、これを煎じて飲んだり、塗ったりするんだよ』って教えてくれたんだ。それを私が忘れてなかったんだな。自分が痛いから思い出したんだ。思い出して、それを採ってきてほしいって頼んで、それをこうして煎じては飲んだんだよ。洗うのを、一回洗ったら、2~3回は服用して。ほんと、小便をしようとしたら、ヒリヒリと痛くて、耐えられないもんなんだ。それで、それを飲んで治ったんだ。それで、今でも誰かが聞いたら、私が教えてあげるんだよ。
「男たちはみだらに遊ぶだろう。みだらに遊ぶから、そんなのにかかるんだよ。そして、男たち、りん病の男がいるだろう。そんな男とやったら、病気がうつるんだよ。
精神異常
言ってみれば、簡単な言葉で言うと、狂った、狂っちゃったんだよ。
「タバコでも吸わなきゃ、そうしなければ生きていられないんだ。(胸を手でなで下ろしながら)ここが苦しくてね、怒り、怒りで。私があいつらにやられたことを考えたら、言葉にならないよ…それが怒りになったんだと思う。
「おかしなことを言うだろう。友だちが、私が外に出られないように、私をつかんで、殺されるって、出ちゃだめだって私をつかまえたんだ。それでも、そのまま出ようとしたら、扉を閉じて、押し込んだんだ。全部、後で聞いたんだよ。口汚く罵ってたって。
「私が喚いてたっていうんだよ。あいつを撃ち殺せ、あそこに犬がいる、犬が。犬、犬、犬がいる、撃ち殺せ。犬、犬、あの犬、犬。そう言ってたんだって、日本のやつらを見たら。だから、私がまともだったら、そんなこと言うかい。言えないだろう。叩き殺されるのに。だけど、頭がおかしくなってたから言ったんだよ。だから、お姉さんが私を日本から連れて来るのに大変だったんだって、大変だった。
「私が精神的におかしくなったってどうしてわかるんだい。怨みになって、恨みになってるから、あいつらを見て畜生、犬畜生、叩き殺してやる、刀で刺して殺してやる、座ったままそんなことを言って、およよよよよ、犬を呼ぶんだって、およよよよよ、犬、犬が来る、犬およよよよ-。夜もそんなふうに座って、あいつらが来たら、火病が出て。この脚、今も私は、その根性の後遺症があるんだ。この脚を、これを(脚を×字型に組んで)こうして、ああ、脚が痛いからできないよ。
「私が最初にそうして拷問されてから、それでそんな風に精神異常者になってしまったんだ。どれだけ驚いたことか。あぁ、あいつらの話をしたら、とにかくうんざりするんだ。
「そんなことが、今も思い浮かぶと、『ああ、どうしよう。私、どうなっちゃったんだろう』って(胸に手を当てて)ここを掻きむしるんだよ。10年が過ぎて、20年が過ぎたのに、どうしてなんだろうって。
帰国
『帰って来た時は、死人みたいに真っ黒になって、そんな風に来たから私が洗ってあげたんだよ』
「行った時ははっきりと覚えているよ。船で行って、そして到着してから日本のやつに引き渡されたんだから。船に乗って行って、車に乗って行ったことははっきりと覚えているよ。車でどこかの町外れ、山並みが連なっている所に連れて行かれたんだ。でも、帰って来る時は私は覚えてないんだ、どうやって帰って来たのか。話し声を聞いただけで、他は何も覚えてないんだよ。
「連行されて3年で解放されたんだ。解放されたってことも、私たちは知らなかったよ、私たちは。あちこちでみんな話してる声が聞こえて、何故か来ないんだよ、軍人たちが。話している声が何て言ってるのかって耳をすますと、朝鮮が解放されたって言ってるんだよ。正気に戻ったから、その時に知ったんだよ。
「そうして、そこから出てきて、行けって言ってるって言うんだ。だから、そのお姉さんが私をつかんで、その時は列車もギュウギュウ詰めの満員で、その大勢の人が乗るから、屋根の上にも乗ってたって言ってたな。他の人たちがお姉さんに、私みたいな気狂いを連れて、どこに行くんだって、乗せられないって言って妨いだんだって。お姉さんが、同じ故郷から来た子で、私の妹なんだ、どうして私が置いて行けるのかって、連れて帰って治してあげなくちゃいけないだろう、私たち韓国人はそんな人間じゃないだろうって言ってくれて。それで、石炭倉庫、その中に座って来たんだ。ご飯を食べないと、途中で飢えて死ぬだろう、だから日本のやつらが帰途に使えって。それで、紙切れを一枚ずつくれて、それを持って来てご飯をもらったんだって。
「帰国してお姉さんの家に行ったら、そのお姉さんのお母さんが『あぁ、かわいそうに、死んだらどうするんだい』って部屋に自分の娘と私とを一緒にいさせてくれて…そのお姉さんのお母さんが、薬を買って毎日私に飲ませてくれたんだ。その時は、それを阿片って言っただろうか?それを3ヶ月間打ったんだそうだ、私が。3ヶ月間打ったら、頭が正気に戻ったんだって。正気になって、話もできるようになったら、量を減らしたんだって。その量を減らして、かわいそうに、中毒になったらだめだからって、少しずつ、少しずつ打って、そうして、一日おきに打って、二日おきに打って、そうやって、少しずつ減らしながら。
「『お母さん、私が来た時はどんな風だったの?』って聞いたら、『帰って来た時は、死人みたいに真っ黒になって、そんな風にして来たから私が洗ってあげたんだよ』
「お姉さんのお母さんのことをお母さんって呼んだんだよ。お母さんが体を洗ってくれて、お姉さんとみんなで一緒にお風呂に入って、そして部屋に行ってお姉さんと一緒にいて。そうして治ったんだ。
「病気が完全に治ってから、ここ(故郷)に来たんだ。ここに来て、聞いて回ったんだよ。聞いて回ったら、生きているって言うんだよ、父さんと兄さんが、生きてるって。それで、そこがどこなのかって聞いて、訪ねて行ったら、『お前は誰だい』って言うんだよ。『お前はどうして俺に父さんって言うんだい』って言うんだ。それで、『父さん、私、死なないで生きて帰ってきたんだ』って、名前を言って。名前を言いながら、『死なないで生きて帰って来たんだよ。日本のやつらに連れて行かれて、やっと帰って来たんだ』って言ったら、そうしたら私をつかんで泣くんだよ。
「父さんは、生きて来たから、日本に行っていろんな目にあっただろうけど、生きて帰って来たから良かった、それだけ考えたんだって。何があったか思い出しても、お前の心が痛むだけなんだから、あの時に挺身隊の供出状が来たのは知っている、逃げて回ってたのも知っている、だから日本に行って、お前がいろんな目にあったとしても、生きて帰ってきて、顔を見たから良かったって、それで終わったんだよ。何も言われなかった。私の心がつらいだろうからって、何も言わないんだ。
「日本に行って、あいつらにやられた時、どうだったと思う。ひどいやつらだから、情け容赦もないし。あいつらにひどい目にあって、また精神病者になって、それでもどこかに行ってしまいはしなかったって言うんだ。それで、お姉さんのお陰で生きて帰って来れたんだから。3回、死にそうになったんだね。私が今、考えてみたらそうなんだ。どうやって私が生きて帰って来れたんだろう、親や兄弟がどこにいるのかもわからないし、死んだとばかり思っていたら、便りの一つも伝えられなくても、それでも私が生きて帰ってきて、兄さんの顔も見られて。
因縁
お互いにかわいそうな人間同士で暮らそうって、自分も親兄弟がいないって、そうして出会って、暮らしたんだよ。
「お姉さんの家から出て、住み込みで女中として働いて、そこの部屋を借りて、だけど、女中奉公もできないんだよ。少し働いたら、体の調子が悪くなって、つらいし、できないんだよ。それで、工場に行って働いたら、それも重たくてできなくて。
「しばらくは仕事をしなかったよ、できないんだよ、それが。こんな鉄のかたまりを持ち上げろって言うんだけど、重たくて持てないんだ。今のお金で一日に2千ウォンだよ、その頃のお金で200ウォン、300ウォンで、お米一升の値段にもならない。その頃は、それでも、そのお金でももらって生きていたんだ。
「でも、他の人たちに、仕事なんかしないで、むしろ男の人と一緒になりなさいって言われて、結婚したんだ。あの人も、日本に行って、軍人たちの弾、爆弾、銃弾、そんなのを背負って歩きながら配達したんだって。友だちと10人で行ったんだけど、それを背負って歩いていたら、大砲の音が聞こえて、岩の隙間にじっと隠れていたんだって。そうして出てみたら、一緒にいた人たちはみんな死んでしまって、自分一人だけ生き残ったんだって言うんだ。
「あの人は、あそこにいたってことを知っていたんだ。会った時に話したんだ。後で知ることになるより、きっぱりと全部話したんだよ。
「その時は、あの人も日本にそんなふうにして行って来たっていうし、それに私より10歳年上で。
「結婚式も挙げられずに、今のような結婚もできずに、こうして年老いてしまったよ。23歳か、22歳の時に会ったんだ。
「あの人の戸籍も開城(北朝鮮の都市)にあって、婚姻届もできずにいたんだ。ここの里長が何とかしてくれて、だからお金もあげたんだ。開城の戸籍が全部ソウルに来たんだって。ソウルに行って調べてみたらあったから、それをここに移して、婚姻届を出したんだよ。
「私がその時、30歳だったかで婚姻届を出したんだ。それに子供たちをみんな載せて、私の戸籍に、私の戸籍に載せたんだ。
「あの人は気持ちが優しくて、かわいそうな子供がいたら、連れてきちゃうんだよ。連れてきて、私に、かわいそうな子供だから、育ててうちの子供にしようって、そうやって連れて来るんだよ。その子たち、もし私が反対したら、正直言って、どこかでのたれ死にするしかないだろう。だから、私が育てて、赤ちゃんも育てて、それで私の戸籍には子供が多いんだよ。4人もいるんだ。
「他人の子供でも連れて来て育てたら、似てくるって言うんだ。私の、母乳の出ない乳房をよく吸ってたよ。みんな私が産んだんだと思っているんだよ。乳飲み子の時に、私の乳を吸わせたから、みんな私が産んだんだと思っているよ。不思議なことに後になったら、母乳が本当に出てきてね。
「娘を産んだ時はあの人も家にいなかったんだけど。お腹が痛いとも言わずに、一人でうめきながら、一人で産んだんだ。
「一人で産んだら、赤ちゃんがオギャア、オギャアって泣く声を聞いて、近くの老人が来てくれて、何てことだ、助けも求めずに一人で倒れていたのかって叱られて、その老人が、へその緒を切って、赤ちゃんを洗って、寝かせてくれたんだ。
「子どもができないから産めなかったのさ。妊娠できたのなら、産めるものなら、男の子がもう一人ほしかったな。
「でも、年配の方が言う話によるとね。男たちを何人も相手にすると、赤ちゃんが産めない体になるって言うんだよ。だから、一人だけを相手に、恋愛したらすぐに産むこともあるって言うんだよ。
「あの人が商売をしたいって言って、少し借金をしたらつぶれてしまって、それで、家を売って借金返して、どこにも行く所がなくて、寒い所で寝たこともあったよ。そうして、あの人は年をとったから仕事ができなくて、私が何でもして働いたんだよ。土方の仕事でレンガを背負って運んだり、鍬で土を耕したり、何でもやってそうして働いて暮らしたんだよ。
「食堂で働けりゃ、どこにでも行けるよ。部屋を借りるために歩き回ったんだ。一番最初に、○○里に住んでから、引っ越した家、そこに少しいてから、その後、行く所がなくて家の側にテントを張ってね。四隅に杭を打って、山に行って草木を集めてきて屋根を葺いて、かますを敷いて、そうしてそこで何ヶ月か過ごしたんだよ。そこで何ヶ月か過ごしたけど、気候が寒くなってくると、どうしてもそれ以上は過ごせなくてね。それで、あの人の友だちの家が、友だちが部屋が二つある家を借りて住んでたんだけど、そこであの人が一人でオンドルの焚口に近い方の部屋を使って、私たちは焚口から遠い方の部屋を使わせてもらい、その後、丘の天辺の方に家があってね、そこで小さな部屋を一つ借りて住んで、それから、孔子、孟子 そこに行ったんだ。そこに行って、そうして暮らしていたら、そこであの人が死んでしまって、あの人が死んでからも、そこで何年間か暮らしたんだ。何年間か暮らしてても、家賃も払わないでいたんだ、人が良くてね。
「あの人とは10年以上、一緒に暮らしたな。食堂で調理師だったんだ、一等調理師。長男がその時、13歳で国民学校を卒業する時にあの人が亡くなったんだ。涙なんか全然出なかったよ。子供たちを食べさせて、育てることを考えたら、目の前が真っ暗で。
「私の家族は、私が産んだんだって思ってるよ、みんな。みんな知らないんだ、私が産んだんだと思ってる。隠してしまっていたから、遺族会の会長にも、もしかしてそんなことを言うんじゃないかって、心配になって、絶対に言わないでって頼んだんだ。
「実の娘に嫁がよくしてくれるんだよ。夫が養子だってことを知らないから、よくしてくれるんだ。家族間で仲良くしてるよ。
「婿がお見合いをしに来た時、私が何もないから、何にも出してあげられなくて。それで、『私は、着て食べることには何も言わない。何も言わないけれど、二人がケンカをしないで、怒鳴り合ったりせず、仲良く暮らすこと、私はそれが一番の幸せだと思う』って言ったら、『はい、肝に銘じておきます』って言ってね。肝に銘じますって言ったから、腹が立っても、自分の嫁に何か言おうとしても、義母さんに前に言われた言葉が思い出されて、何も言えないって言うんだよ。二人はケンカしないから、一番良いよ。でも、うちの上の娘がとにかくケンカばっかりなんだ。
「長男はどうして嫁に暴力を振るうのか、私が見ていてつらいんだよ。私がつらくて。あの子は私には暴力振るわないって言うけど、私が行って3日もいられないんだ、3日で私が腹が立って、『お前は私と一緒にいたいのかもしれないけど。私はここに来て10日も一緒にはいられない、10日も一緒にはいられないから、私がこのままいて死んだら火葬してくれ』って言ったんだよ。
届出
絶対にしないって言ったんだ。そうしたら、膝をついてお願いするから、しないわけにはいかないだろう。
「最初にそのことを公開する時、確か10年か、12年たった頃だったと思うよ。ええと、畑で働いている時に、話が出たんだ。畑で一緒に働いていた人に『あいつらは本当にとんでもないやつらだ』って、『ボロボロに引き裂いて殺してやっても怒りが収まらない、そんなやつらだ』って、私が言ったんだ。そうしたら、遺族会の会長が、そういう人がいたら、申し込めって言うから、その人(畑で一緒に働いていた人)が、それを聞いてきて私に話してくれたんだ。でも、絶対にしないって言ったんだよ。
「その、日本に連れて行かれて戻って来た人を探すやつ…さっき若い人の写真があっただろう。 その人が来て、膝をついて座って、遺族会に入ってくださいって…いいえ、入りません…って、言ったら、膝をついて、若い人が頼むから、答えないわけにはいかないだろう。それで、何回も来てそうするから、仕方なく承諾したんだ、…その後には、経済的に食べていけない状態になったけど。政府からお金も、生活費も少しずつ出て、それで今こうして暮らしているのさ、そうしていなかったら、とっくに死んでたよ、餓死して。
「あいつらがだ、この次にでも、子どもたちにでも補償するんじゃないかって、だから私たちがデモもしたりしてるんですから、ハルモニは行けないなら家にいても結構ですって、そうして、日本にデモに行ったりしたんだ。そして、私の家族も、兄さんも日本の炭鉱に行ったし、私のお姉さんの夫も炭鉱が崩れる事故に遭ったけど、何とか隅の方にいて、怪我しただけで、無事生き残ったんだ。兄さん、その息子が死んで、姉さんの夫も死んで、今では、みんな死んじゃったよ。私は4人兄弟なんだけど、みんな死んで、私一人が残ったんだ。長生きするって言われたんだ。早く死ねればいいのに、長生きする相なんだとさ。
「日本人たちが質問して、 聞いてどうするんだい、答えたくもないし。私一人でいて、日本人があそこに座っていたけど、みんな聞こえるように言ってやったんだよ。犬畜生って、犬畜生みたいなやつらめって言いながら。
「そうさ、わざと聞こえるように言ったのさ、もちろん。その人たちは何も言わないよ、何て言うのさ、自分たちが罪を犯したんだから。あいつらの先祖たちが罪を犯したんだから、何て言うんだい。
「日本のやつらめ、悪いやつらめ、むごたらしいやつらだって、バラバラに引き裂いて殺してやりたいって言ったんだ。私の手で4人ほど引き裂いて殺してやったら、怒りが少しは収まるだろうって言ったら、『ハルモニ、何てこと言ってるんですか』って、会長もそう言って。『私たちを助けてくれようとしてる人なのに、そんなことを言ったら困る』って言うんだよ。それで、あの人だけに向かって言ってるんじゃない、私たち韓国人たちも刀を持って、それを持って回りながら、乱暴して回ったことを考えたら、私たちを捕まえて行く時も、そいつらがもっとひどい悪口を言ってもっとひどかったんだって。だから、誰彼言うことなく、韓国人も日本人も同じ悪いやつらなんだって。どうして韓国人を連れ去っていったのかわからない。もっとも、自分の命が惜しけりゃ、あいつらの手先の役割をするしかなかったろうよ。私がまた、韓国人がその手先の役割をしていたって言うから、あ、横で言えないように止めるんだよ。私たちを助けてくれるために来た人たちなのに、裁判の時に私たちを助けようとして来た人たちなのに、そんな風に悪態をついたらいけないって、『ハルモニ、もうよしなさい、よしなさい』って。
「私がそれほどに、日本のやつらを仇に思ってるってことを、日本に行って伝えろって、私が言ったんだ。わざと、わざと言ったんだよ。
悪夢
時々、寝たら、あいつらが目の前にちらちらと…すると夢から覚めてから、はぁ、はぁって。
「夢のせいで、寝ていても起きるんだ。そうでなくても、小便のために何度も起きるのに、夢も良い夢じゃないから、寝ても深く眠れないんだよ。そんな時に、あいつらが部屋に入ってきたように、目の前にちらちら、ちらちらするんだ。顔もわからないし、何も見えないんだけど、そいつらがちらつくんだ。そうしたら、ガバッと目が覚めて、怖いんだよ。
「夢の中では、暴力を振るったりはしないんだ。軍服を着ているのか、何なのか、かすかに日本人だって感じるんだよ、ただ。そういう時は、自分が疲れてて、自分の仇に思っているから、だから、あいつらが仇にしろって来るんだって思ったよ。夢を見て。
「あいつらを、悪口が出るから、あいつらって言うけど、時々寝ると、あいつらが目にちらついて。…考えていなくても、時々夢から覚めては『はぁ、はぁ』って、それから座って、『うんざりするやつらめ』って独り言を言うんだ。
補償、そして今の私
お金は大切だけど、その前にあいつらが手を合わせて赦してくださいって、そう言ってくれなければいけない。
「胸が痛い、胸が痛いよ。やつらは、私たちを花のような年頃に連れて行って、人生をめちゃくちゃにしておいて、当然やつらが補償するべきだろう。補償して、申し訳ないって赦しを請うべきだろう。大統領を見なさいよ、自分の息子が過ちを犯したのに、申し訳ないって、息子をきちんと育てられなかった罪だって言いながら、赦してほしいって謝罪しないじゃないか。
「私は補償してもらったら、私が死んだら、私とあの人とが入る小さな墓を買って、うちの息子、私が死んだら葬式を挙げて祭祀もして、祭祀をしたらどうなるってこともないだろうけど、それでも祭祀をするということで少しお金をあげて、私も使って、私も少しは思い通りに金を使わなくちゃね。年寄りたちにも食事を振舞ってあげて。私はそうしたいんだけど。夢だよねえ。出るのか、出ないのかって言うけど、よく見たら、あまり可能性はないようだから。政府でお金をくれるって言わないのに、可能性もないのにくれるって言っても、後でどうするんだい。だめになったら、私たちがまた騒いで立ち上がっちゃうだろ。
「お金は、お金は大切だけど、その前にあいつらが手を合わせて、手を合わせて赦してくださいって、そう言ってくれなければいけない、そうして全部もらって、日本に住んでいる人たちから、お金を集めて、そんなお金は、さぞ、あさましいことだろうよ。この家はあばら家でも、政府から、韓国政府からお金が少し出て、それでこの家を買ったんだよ。建物は、土地は違うけど、建物だけでも買っておいたから、私の家だから気持ちが楽だよ。
「私が昔は頭が良かったんだ。でも、私は日本に行って、馬鹿になってしまったよ。ここでこうして暮らしてても、いつか誰かが知ってしまうんじゃないかって怖くて、光州からここに来ても、誰かに知られやしないかって恐れながら、静かに暮らしてきて、そうして今まで、どこに行っても何も言えずに下を向いて、ただ馬鹿みたいにそうしていたんだけど、今はもう、みんな知ってしまったんだ。最初は、ただ部屋から外にも出られなくて、部屋にだけこうして閉じこもっているから、友だちが、あんたは行きたくて行ったんじゃないだろうって、それは、あの頃に強制的に連行されたんだから。出てきて、気分転換もして、話もしなさいって言ってくれたんだよ。それで、友だちの話も聞いて、外に出て気分転換もして、どこぞに行ったりもして、話も少しずつしたりしてるんだ。
「町内の友だちと頼母子講を始めたんだよ。そのお金で、遊びに行ったり、雪嶽山にも行って、それから揺れる岩(雪嶽山にある、押すと揺れる岩のこと)にも行って、また何とか展望台にも行って。望遠鏡でこうして眺めてみると、北朝鮮の人たちが家を建てているのまで全部見えてね、そこにも行って。私が目が見えている間は頼母子講をやってたんだ、目が見えなくなってからはしてないけど。今は、目が見えなくなってから、7年か、8年目か。どこにも行けないんだ、何とかして出るときもあるけどね。目が見えさえしたら、頼母子講でお金を集めて金剛山にだって行っただろうに。
「老人亭(老人たちが集まる場)の会長もしていたんだ。他の人たちがじっとしてると、私が盛り上げて、歌を歌えって言って盛り上げて、そしたら私は座ってしまうんだ。でも、今は目が見えないから、何もできないんだ。
「眼科に行ったら、目は、脳天から下りてきてるって言うんだよ。脳天から下りてきてるから手術もできなくて、こうして何年も生きているんだよ、今。そうして年をとったから、体が悪くなってね。やたらと痛くて、耐えられないんだ。だから、どこかに行くこともできないし、どうすることもできなくて、こうして部屋の中にだけ、じっ∼と座っていたり、横になったり起きたり、そういう毎日なんだ。
「昨年病院に行って来たからこの程度なんだ。何もできなくて、めまいがして倒れてしまって、それで病院に入院したんだ。今は良くなって、自分でご飯も炊けるけどね。前は何もできなかったんだよ、病院に行く前には。できれば病院を退院しようと思って、3回退院したんだ。そうして、また救急車で運ばれて行って。
「病院に行って、友だちが一人できたんだ。日曜日や、土曜日の昼に来て遊んでいって、ある日は夕方に来て遊んでいったりして。まだその人は還暦も過ぎていないんだけどね。まだ還暦も過ぎていないけど、お姉さんって言って慕ってくれて、訪ねて来るんだよ。お姉さんが他の人みたいに怒ってばかりいて、性格が悪かったら訪ねては来ないんだけど、お姉さんが今の性格のままで優しいから親しくするんだって言うんだよ。
「私は他の人に悪く言われたくないんだ。そういう性格なんだ。私が少しでも他人に優しくしてあげたら、他人から悪くは言われないんだから、他人から陰口を言われなければならないいわれはないよ。それに、私は絶対に人に嫌がられるようなことはしないんだ、他の人には。
「一番会いたい人。私は、私の母さんに一度、うん、私が幼い時に母さんが亡くなってしまって、私は母さんに、一度でも会ってから死ねたらと思うよ。それ以外はない。夢でもいいから一度会いたいと思う、母さんに会いたくて。…私が幼い頃に亡くなったから、母さんの顔もよく覚えてないし。一番、母さんに一度会いたくて、それが願い事だよ。…顔は思い出せない、思い出せないけど、母さんに一番会いたいよ。わからないさ、私が死んだら会えるのかな」
- [註 120]
- 全羅南道長城郡。
- [註 121]
- キム・ボンイの家族は両親、兄が二人、姉一人、弟一人だった。母親を幼い頃に亡くし、弟も幼くして死んだ。連行当時、長男は炭鉱に連行されて行き、姉は他の家で働いていた。
- [註 122]
- キム・ボンイは慰安所にいる当時、精神病のため移動経路や地名をほとんど記憶していない。彼女は二回目のインタビューで、日本へ行く時、トラックに乗ってソウルへ行き、日本に向かう船に乗ったと記憶していたが、4回目のインタビューでは釜山の方に行ったと語った。
- [註 123]
- キム・ボンイより3歳年上で、同じキムの姓だといって、日本軍「慰安婦」時代、キム・ボンイの面倒をみてあげ、一緒に帰国した。キム・ボンイがお姉さんと呼んでいた。
- [註 124]
- 軍人たちの相手をするから。
- [註 128]
- 家の近くにあった廟堂を指す。
- [註 129]
- 村の遺族会の会報に載っていた遺族会会長の写真のこと。
- [註 130]
- 2002年8月12日、太平洋戦争犠牲者遺族会が戦後の補償のための裁判を準備する中、遺族会の関係者と日本の弁護士たちがキム・ボンイの家を訪問した。