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日本の明治産業遺産

歪曲される現場と隠蔽された真実

連合軍捕虜 チャーリー・ウェイブル | 1942年9月に福岡俘虜収容所に連行、八幡製鉄所で強制労働
アメリカ軍捕虜のチャーリー・ウェイブルさんは、1942年9月に福岡俘虜収容所に連行されました。収容所にはノミ、シラミ、南京虫がわいて眠れず、食料や医療品の不足などによる死者が増えました。八幡製鉄所では午前7時から午後6時まで働き、休日は月に3日でした。空襲の後には日本人による取り扱いが悪くなり、仕事中に何人かの捕虜が死亡しました。
- 「八幡製鉄所における強制連行・強制労働について」『第10回強制動員真相究明全国研究集会報告集』2017年
連合軍捕虜 E・K・ブリット | 1945年1月に福岡の俘虜収容所に連行、八幡製鉄所で強制労働
アメリカ軍捕虜のブリットさんは、1945年1月に福岡の俘虜収容所に連行されました。収容所には約1200人が収容され、建物は12棟ありました。責任者の米軍大佐が日本軍の少佐に収容所の屋根に赤十字を描くよう要請しましたが、何も描かない方が安全と対応されました。米軍捕虜将校100人のうち、24人が赤痢、脚気、肺炎などで死亡しました。
- 「八幡製鉄所における強制連行・強制労働について」『第10回強制動員真相究明全国研究集会報告集』2017年
連合軍捕虜 ドナルド・L・ヴァーソー | 1944年7月、福岡県の二瀬炭鉱に連行
アメリカ軍のドナルド・L・ヴァーソーさんは、フィリピンのコレヒドールで捕虜となり、カバナツアン収容所で死体埋葬などをさせられました。1944年7月、マニラ埠頭から日昌丸の船倉に押し込められ、日鉄二瀬炭鉱に連行されました。そこでは志願兵のように訓練され、平手打ちや殴打などの暴力によって労働を強いられました。炭鉱での労働から逃れるために自分の腕を折る者もいました。故郷と家族の元に帰る日を前向きに見据えて生き抜いたといいます。
- 「アメリカ元捕虜・家族との交流会」集会資料、2010年

 
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